山形の中世城館の石積み、続報…月山側の石塁と山形城の石垣を確認してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738

これは山形編の続編になる。

月山側の西川町で「吉川館」と「山形城」を確認してみた。

水色マークした主郭北側に石塁があるという。

山形城については、石垣が昔からあるものなのか?

西川町は本音…庄内町側は何度か行っているが、月山麓側がどうか町並みを見てみたいと言うのもあった。

関連項として、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/29/181855

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033

石塁のある中世城館周辺には飛島や秋田の矢島,にかほ等、庄内町立谷沢川沿いも前項通り、治水や土台、田畑の整地らで石積みを使っているのがやたら目立つのだ。

なので月山方面はどうか?興味があったのが最大の理由である。

 

結論から先に書けば、やはり家屋の土台らの石積みが目立つ。

では、「吉川館」を。

登り口で既に多段の曲輪で作られているのが解る。

多段曲輪の他、構造は割と単純だが、傾斜はかなりキツい。

主郭には「妙見神社」が祀られる。

そして、石塁は、この妙見神社を囲う様に施されていた。

主郭内には石の小祠も有るが、

どうもこちらも石積みの土台か石で囲うかしていた様な感じ…であった。

西川町歴史文化資料館の展示、山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集 (村山地域)、わたしたちのふるさと〜西川町の物語〜らによれば、源頼朝の側近「大江広元」が出羽国寒河江庄を受領した時に代官としてここに赴任したのが「多田仁綱」で、吉川館を築く。

承久の乱の時に、京都守護職だった広元の嫡男「大江親広」は後鳥羽上皇側について敗れる。その後の親広の消息は吾妻鑑に記載ない様だが「安中坊系譜」によればこの吉川に逃れ出家、安中坊と名乗りこの地で過ごしたとされ、一緒に逃れた家臣団の末裔が今も周辺に住むそうだ。

因みに承久の乱で父広元は幕府側につき、朝廷との戦いにビビる御家人衆を鼓舞したとされる人物。

親子相克となった為に、惣領は次男の時広に変える。

で、この大江時広が出羽寒河江庄と長井庄を所領としたので、後に後裔が下向し長井氏を名乗る。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

この長井氏を滅ぼし、台頭の足掛としたのが、みんな大好き「伊達氏」。

と、時広の弟の季光は相模国毛利庄を相続、これが長州「毛利氏」の祖になると。

なかなか後のキーパーソン達が犇めく話ではあるが…

話を戻す。

ここ吉川館の現在の遺構は戦国期位に修築されたとされ、資料館でも石塁は後代のものでは?とは聞いていた。

大江親広が阿弥陀堂を建てた伝承があるので、妙見神社は修築後なのかも知れないが関わりは現在解らない。

中世城館としたら、立派な曲輪なのだが、竪堀らが無く単純な気も…

それより、「わたしたちのふるさと〜西川町の物語〜」より…

近辺の神社…見事な石塁ではないか?

コピーを戴いたが、月山鍛冶の鍛冶場を調査した時の写真の様だ。

はっきり鍛冶場は解っていないとか。

だが、こちらも石塁。

勿論、中世の物とは解らないが、先述の通り、かなり生活の中に石積み文化が浸透している感じが…

と、とりあえず西川町はここまで。

 

では山形城。

山形城は、南北朝の折に北朝方として入部した羽州探題斯波兼頼」より続く「最上(斯波)氏」の主城。

最大領になったのは「最上義光」の時代。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

山形以北、最上,庄内,由利本荘の一部位迄に及び、城も三の丸まで増築されるが、最上騒動により最上,改易後は、鳥居忠政や保科正之ら幕閣の城とされていた内は良いのだが、度々城主が変わる内に石高も減少し何故かまるで左遷の地の様な様相に…

最終では山形城主の石高は五万石程度で、幕末には石垣や櫓らの補修すら出来ない状況だったとか。

現在改めて発掘や復元を行っている。

但し、これら石垣は主に最上氏改易後に作られたものらしい。

ならば、石垣は何処まで遡る事が出来るのか?

割とアッサリ答えが書いていた。

最上氏時代は石垣は無かった様だ。

復元は江戸期に書かれた絵図と発掘より行われているようだが、発掘で絵図に記載無い石垣も一部ある様だが、最上氏、いや斯波氏時代どうか?の可能性は低く、今後の発掘でそれが覆されるか…と言う感じか。

今迄報告したが、弘前城、九戸城、三戸城、盛岡城ら主城クラスの石垣は概ね近世の物。

現状の主旨を考えて、カウントすべきでは無いような気もしてきた。

この辺は、どう検討にフィルターを掛けるか?による。

 

と言う感じで、また山形路を回ってみた。

ふと思う。

石垣とは、何であろうか?

ちょっと学び直す必要もあるか。

まぁ端から難題なのだ。

ゆっくりいこうではないか…

 

 

 

参考文献:

 

山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集 (村山地域)」 山形県教育委員会 平成8.3月  

 

「わたしたちのふるさと〜西川町の物語〜」 西川町・西川町教育委員会  平成29.12月