余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

さて…前項の通り、どうも石積み,石塁の文化が妙に出羽三山信仰の濃い部分に多い傾向はありそうだ。

では、この信仰圏とは?、北海道はどうか?

思い切り「出羽三山信仰の圏の構造」と題する著書があるので学んでみよう。

とは言え、ちょっと先行し前提を二点。

第一点…

出羽三山の一つ、羽黒山は蜂子皇子の開山伝承を持つ…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631

これは以前に報告済み。

出羽一宮大物忌神社で月山が合祀される記載ある平安期には信仰が始まっていて、羽黒山鏡ヶ池の和鏡が平安末迄物証として遡る事は可能。

実際古書での羽黒山の縁起は、「羽黒山縁起」は永治元(1141)年成立の原本を寛永21(1644)年に中興の祖天宥別当が筆写したもの。これを始めとして後代に書き写されたものが存在するそうで、これらの特徴が「蜂子皇子」の開山と一貫している事。

ただ、この件、皇室諸系図において蜂子皇子の詳しい伝記が不明瞭で、明確に朝廷らに認められるのは明治になってから。

現実として修験道開祖「役行者」より古い方な上、他の縁起にも自宗派の祖が開山に絡むと記載されるものも有り不明瞭。

種々縁起の中には、役行者に至っては月山山頂手前の行者戻を越えられず、蜂子皇子に祈りを捧げた処、その導きで登頂出来たとされる伝承があるのが面白い。

いずれ他宗派開祖が開山関与と記載がある→かなり古くから信仰の山であったのは間違いないのだろう。

第二点…

江戸期に幕府の政策として、各地の修験諸派は「本山派」又は「当山派」に所属する様に通達される。

・本山派…

熊野三山を拠点とする「熊野修験」を統括する熊野別当院政期に滋賀の「園城寺(三井寺)」の門跡の下に置かれたが、中世末頃にはその末寺の聖護院門跡がそれを掌握…つまり、比叡山(天台宗)系になる様だ。

ちょっと興味深いのが、園城寺(三井寺)。今迄も登場している「源新羅三郎義光」が元服し、松前氏が「新羅之記録」を奉納したとされる「新羅神社」があるのがここ園城寺

・当山派…

当山派は高野山(真言宗)系で、京都の醍醐三宝院の門跡が別当として統括した。醍醐寺の座主はこの醍醐三宝院らから選ばれ兼務していた様で。

明治になり当山派の諸修験寺院は真言宗醍醐派へ包摂された様だ。

どうも、江戸幕府得意の2勢力に競わせて統制を掛ける政策だった様で。

この政策で出羽三山はどうなったか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

それまでの戦国乱世で荒廃していたのは概報。

中興の祖天宥が師と仰ぐ「天海」の助力で本山派の協力で復興し江戸期の隆盛を見るのだが、この段階で出羽三山統括で本山派に属する様に天宥は動いたが、開祖が弘法大師湯殿山の諸寺院はこれに服さず当山派に…と分かれていた様だ。

近世以降の信仰圏や時代変遷の中で、出羽三山のどれを主山とするかは変わった様で、こと石碑でも「出羽三山」と彫ったもの、月山を中央に置くもの、湯殿山を中央に置くもの、それぞれを彫ったもの…色々ある。

それどころか、出羽三山の概念も、月山・羽黒山鳥海山→月山・羽黒山・葉山→月山・羽黒山湯殿山と変容した形跡もあるらしい。

明確に湯殿山出羽三山にカウントされ、信仰圏拡大したのは江戸期の途中の様だ。

江戸幕府による二曲化がなければ独自性が高かったであろうから、中央の京vs南都みたいな構図の影響は薄かったのかも知れないが。

いずれにしても、戦乱らでの荒廃や改宗、江戸幕府の二曲化、そして明治の廃仏毀釈らで混乱したり、力を失ったりは繰り返されているだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

男鹿半島での改宗の話もそれらの影響らもあるのかも知れない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

安東氏の宗教観も複雑だが、主家と庶流の宗教観が同じとは限らず、主家と国衆が同じとも限らない。

ついでに、その時代の勢力圏図により改宗らもあるとすれば、同じ一族が庶流も含め全時代同じ宗教であったと考えるのもナンセンスなのかも知れない。

南部氏の菩提寺も、根城南部氏は法華宗だが、三戸南部氏は禅宗…なのだし。

 

さて、本題へ…

では、北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏は?

同書にある石碑の分布。

中世迄は寺領ら荘園収入が中心であったが、近世には宗教集落(旦那場)からの収益に頼らざるを得なくなる。

故に、寺社の維持の為に圏の保持と拡大は必須になる。

江戸期に入り庶民も過去・現在・未来を辿り生き返りを願う出羽三山詣でが広まり、あちこちに石碑が建てられる様になったのだが、北海道〜東北〜関東,甲信越迄現状も石碑が残る事から、如何にその信仰圏が拡大していたかが想像出来る。

これは、明治初期の末寺の分布でもやはり同じ様な範囲で広まりを持っていた事からも解るという。

僧房ら一次信仰圏のみならず、二次信仰圏,三次信仰圏もあったらしい。

では、古書らに残る北海道〜北東北での信仰拡大は?

 

1.北海道…

いきなり本命。

「北海道には、三山信仰の伝搬はあまりみられず、月山神社が一か所(図7)、それに松前に鉄門海の石碑が存在することは前述したが、それ以外では、天文十年(一五四一)に蠣崎義広が松前城下の徳山湯殿沢に羽黒権現社を創建したとされ(14)、また明治十六年に大日坊の伝燈大阿闍梨精周が江刺地方に巡錫して、その後、明治二十ニ年に信者たちが大日坊末寺の密霊山曼荼羅寺を建立し、現在に至るという(15)。」

出羽三山信仰の圏の構造」 岩鼻通明  岩田書院  2003.10  より引用…

これの元になるのは「松前町史」である。

「また、天満天神社を造営したその翌年、徳山湯殿沢に羽黒権現社をも創建した(和田本『福山秘府』)。この羽黒権現は、出羽三山のひとつである羽黒山を核に教勢を拡張した修験道である。この羽黒信仰は中世期、東北地方に広く流布していた(3)。こうした宗教背景をもつ文化伝搬の波が天文十年(筆者註:1541年)、松前の地にも及び、徳山湯殿沢の羽黒権現社の建立となったのである。」

松前町史 通説編第一巻上」 松前町史編集室 1984.8.1  より引用…

1500年代前半から、蠣崎光広,義広親子は、

熊野権現社(これは相原忠広中心)

弁財天堂(別当菩提寺法源寺)

八幡宮(新羅神社,諏訪神社含む)

法華寺,専念寺

山王権現社(茂辺地の阿吽寺再興)

地蔵堂

・天満天神社

ら、寺社造営を図っている様だ。

新羅之記録や福山秘府によれば、各地で反乱が起こっていた時期とされるこの時期。

蠣崎義広の嫡男が蠣崎季広、その子が後に松前を名乗る慶広になる。

因みにこれらの時期は、概ね⑤~⑬、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230


○永正十(1513)年
「安東尋季」松前に出陣。蠣崎光広を幕下とし争乱者の討伐を指揮し鎮圧。


○永正十一(1514)年
「安東尋季」は蠣崎光広、義広親子を檜山に遺し、秋田の檜山へ戻る。守護職代官を命じ、かつ準一門待遇へ格上げ。
ここで蠣崎から上ノ国松前へ移動願い、安東了承。

この辺から顕著になる。

つまり、蠣崎氏の安東氏内の身分が概ね確定した頃と合致するのではないだろうか。

後に蠣崎季広,慶広の代での安東愛季広との関係は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600

この通り、同時代文書が残される。

蝦夷の蜂起の側面が強調されるが、大殿たる安東氏の南部氏との抗争から波及した安東家臣団内での権力闘争と見えなくもない。

当然、争いが起これば兵力として駆り出されるのは?…地の民衆だろう。

先に進む。

1541年段階で羽黒権現社を建立…同時代文書ではないが、記録上の羽黒修験の北海道入はここになる様だ。

いずれにしても、これら寺社進出は武家主導のものと松前町史では考えている様だ。

2.青森県

青森県における出羽三山信仰は、民俗事例の分布をみると、南東部に偏在している。八戸藩の藩日記によれば、寛文九年(一六六九)以降、出羽三山参詣の記録がみられるという(18)。一方、津軽藩では、他領への参詣を厳しく制限していたために、出羽三山信仰をはじめとする他領に存在する山岳信仰は希薄であり、それとは対照的に岩木山津軽藩領内で篤く信仰された。」

出羽三山信仰の圏の構造」 岩鼻通明  岩田書院  2003.10  より引用…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/13/062230

これなら、中世に熊野修験が先行し、津軽藩の政策により他領信仰をシャットアウト、後に羽黒権現が入り込む…こんな図式で説明出来るだろう。

まして、中世津軽は安東氏の領域。山王坊らからの伝搬なら納得である。

3.秋田県

秋田県では、出羽三山信仰の民俗事例はあまりみられない。」

出羽三山信仰の圏の構造」 岩鼻通明  岩田書院  2003.10  より引用…

一言で終了…

とはいえ、羽黒講は岩城〜由利本荘〜にかほ周辺で女性の集まりとして行われ、女性の羽黒詣でが中心になる特徴があるそうだ。

何せ秋田では、男鹿半島、太平山、鳥海山らもあり、男性の参詣講としてはこれらと競合したか?と著者は予測している。

4.岩手県

岩手県では出羽三山参詣を最上「最上参り」と称するが、これは出羽三山鳥海山の双方に登拝する形態であり、石碑も、出羽三山講と鳥海山講が並んで建てられている場合が多い。これは他地域にはみられない特徴である。岩手県は、羽黒山の中世以来の霞場であり、羽黒派の末派修験も数多く存在した。」

出羽三山信仰の圏の構造」 岩鼻通明  岩田書院  2003.10  より引用…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

住田町や遠野市に残る羽黒修験の痕跡まんまである。

 

山形については出羽三山の地であり、敢えて書く事もないだろう。

それでも、最上,村山地区は蔵王も近い為に熊野修験の影響も強い為に、ごちゃ混ぜになるであろうが。

以上を考えると、

①北海道においては、武家主導で寺社建立されているが、何分民衆の記録が希薄なので、民間の信仰は物証なりを追う必要があるだろう。

津軽,秋田の旧安東領周辺は羽黒修験は希薄である。

岩手県には羽黒修験の痕跡が数多く残され、後の講らも濃い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

分布で考えれば、何となく合致しそうな感じではないだろうか?

そういえば、イタコやオナカマらの神降ろしやオトモサマ、カマド神らの民間信仰は、山形〜岩手〜下北半島の恐山へと伸びる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/04/192707

民間信仰の色濃さとこれらも合致しそうだ。

更に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

信仰系なら似たようなものはある。

イナゥは借用語と考えられているのでは?

この際、折角だから、同書に面白い事例があるので紹介しよう。

三戸である。

出羽三山へお山参りに行った人たちが八日党といって、六月八日、十二月八日に講を開く。~中略〜おこもりに行く人は、前日から風呂に入って身を清め、精進をして七日夕方に米などを持って集まる。一晩中、お神酒あげをして神様を拝み雑談する。八日夕方に解散した。導師は仲間うちから出て、朝昼晩と祭文をあげて拝む(17)。」

出羽三山信仰の圏の構造」 岩鼻通明  岩田書院  2003.10  より引用…

これ、出羽三山の講の一つの様だ。

これ…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939

謎の念仏集団…

有珠善光寺の中興伝承の一部である。

往古は毎月八日に行われたものが、年2回に減ったと言う。

この辺を重ね合わせると…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

須恵器ら物質的な北上ルートは日本海ルート、精神的,人的な北上ルートは太平洋ルート…

これもこれらと一致しそうだが。

「糠部」の人々…

 

どうだろう?

断片を捉えて、羽黒修験ら信仰と合わせていけば、あまりストレス無く北海道迄辿り着ける。

上記、有珠善光寺の中興伝承迄これらと考えれば、丁度なのだ…

胆振〜日高の一部、シュムクル集団には、本州からの移住伝承があったのでは?

糠部から移った話は新羅之記録にもある。

問題はそのタイミングだけ。

これが中世後期なら?

江戸初期の火山灰降直前と合致するが。

 

まぁまだまだ断片に過ぎない。

ぼちぼちと学んで行こうではないか。本州人が忘れてしまっている断片もあるのだから。

だが、これで解って貰えたと思う、筆者が北海道へ行った時にやたらと北海道の文化は特別なものと強調されたが、筆者にすればそんな事もなかった事を。

今こうして学び直して、見えるのはむしろ共通点なのだ。

そう、口蝦夷と言われた人々と、北東北の共通点。

そんなに東北人は嫌いかねぇ…?

 

 

 

 

参考文献:

 

出羽三山信仰の圏の構造」 岩鼻通明  岩田書院  2003.10

 

修験道小事典」 宮家準  法蔵館  2015.1.20

 

松前町史 通説編第一巻上」 松前町史編集室 1984.8.1