北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

 

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

こちら。

ある意味、今回が本命。

何せ、首都「京」がある京都を始め、滋賀、「南都と金峯山寺」の奈良、大阪、高野山と熊野の和歌山、兵庫と我が国中世の文化的な中心を要する地域。

では見てみよう。

 

滋賀県

・遺跡総数

114

・土葬or火葬

土葬→39

火葬→31  

・特徴ある副葬

古銭→5

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→3

鉄鍋→2

鉄釘→16

刀剣(刀子含む)→5

陶器,かわらけ→64

漆器→3

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→7

 

京都府

・遺跡総数

334

・土葬or火葬

土葬→76

火葬→62  

・特徴ある副葬

古銭→25

ガラス玉(水晶,土玉含む)→8

鏡→8

鉄鍋→5

鉄釘→25

刀剣(刀子含む)→25

陶器,かわらけ→96

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→18

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→7

 

奈良県

・遺跡総数

268

・土葬or火葬

土葬→40

火葬→72 

・特徴ある副葬

古銭→12

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→5

鉄鍋→17

鉄釘→14

刀剣(刀子含む)→20

陶器,かわらけ→70

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→29

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→1

 

大阪府

・遺跡総数

430

・土葬or火葬

土葬→85

火葬→54  

・特徴ある副葬

古銭→11

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→5

鉄鍋→10

鉄釘→26

刀剣(刀子含む)→26

陶器,かわらけ→107

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→19

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→1

 

和歌山県

・遺跡総数

79

・土葬or火葬

土葬→22

火葬→21

・特徴ある副葬

古銭→4

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→4

鉄鍋→3

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→8

陶器,かわらけ→38

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→4

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

兵庫県

・遺跡総数

550

・土葬or火葬

土葬→82

火葬→78

・特徴ある副葬

古銭→9

ガラス玉(水晶,土玉含む)→5

鏡→7

鉄鍋→5

鉄釘→20

刀剣(刀子含む)→30

陶器,かわらけ→122

漆器→4

仏具(五輪塔,板碑含む)→12

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→5

 

以上である。

では、またテーマ毎に見てみよう。

 

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

滋賀…ほぼ50:50

京都…55:45

奈良…35;64

大阪…60;40

和歌山…ほぼ50:50

兵庫…ほぼ50:50

となる。

概ねイーブン、奈良が火葬が、大阪は土葬が強く見えるが、発掘箇所による偏りはあるかも知れない。

この地域は石塔らがそのまま残される事が多く、そこは発掘されておらず火葬か土葬か解らない事が多い。

総数に対し土葬,火葬の数が少ないのはそんな理由である。

全体像を見るなら、個別の墓を時期毎に地図にプロットする必要があるが、今回は全国的な傾向比較が目的なのでそこまではしていない。

ただ感触的には、奈良が特徴的に感じた。

火葬は仏教に伴い伝来…それが維持さ)たであろう高野山周辺は殆ど火葬のようだ。

それも、火葬施設は見えず、蔵骨器(瓦質羽釜状)に火葬骨を納め土坑に埋めた形。なので往古からの土葬(古墳)文化から火葬が強くなり、古墳が多い大阪はその逆…案外そんな考え方もありなのかも知れない。

遺跡数…というより発掘数という指数で捉えれば現状そんな風には見える。

 

B,特徴ある副葬について…

こんな「似た様な物がある」…は如何であろうか?

①墓制とセットされた似た様なもの…

兵庫県三木市「宿原寺ノ下遺跡」12世紀後半…

「標高55メートル前後の志染川による氾濫原・川岸丘陵段丘上の平坦部に位置する」

「木棺墓SX205、残存長さ1.7cm幅0.6 cm深さ0.2cm木棺の残存1.4cm内法幅 0.4cm棺側板厚0.6cmを測る上面に長軸に沿って板石を並べ内側に石を詰める」

「和鏡1面・鉄製毛抜き1点・須恵器椀 1点・須恵器小皿1点・鉄製刀子1点・子皿状の漆椀1点・鉄釘片3点, 銭貸片1点を出土」

揃っているものを敢えてピックアップしてみた。

近畿編では、結構東西方向に掘り込まれた墓は有ったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

北枕は案外ステレオタイプで、土地利用の仕方で割と平気で東西方向にしたりしていて、この遺構も東西方向、残念ながら頭位迄明確では無さそうだが思い切りの木棺墓である。

12世紀後半で、和鏡、古銭、刀子、須恵器(系と言う事だろう)、漆器、そして毛抜形金属製品迄、副葬が揃っていたりする。

和鏡の副葬位置を考えれば、東頭位の可能性が高いのではないだろうか?

実は筆者、本書確認とこの項を書いている最中に、実は忌中だったりする。

葬儀らの合間に気晴らしも含めてやっていた訳だが身内を納棺するに当たり、副葬しつつ傍と関連項を思い出した。

納棺時、花や関連した物を入れる際無意識に、顔の側や足元のスペース、又はお気に入りの服らは胸の上に乗せていた。

周りを見ていても、花は無意識に顔の側に飾りつけている、全く申し合わせもせずに。

仮に杖ら「長いもの」ならば、足元へ添わせる様に入れただろう。

スペース的なものもあるだろうが、あの世に着いた時に、ふと使い易そうな場所に何気にやってる自分や身内を見ながら「無意識にこんな風にやったのか…」とふと思ったり、案外そんなものなのかも知れない。

もとい…

毛抜型鉄器も数列見受けられた。

擦文期の副葬で結構目立つものだが、ここは「兵庫県」、似た様な墓制だが何の関係があるのか?

忘れて貰っては困るのだ。

「前略〜鎌倉幕府が全国を統一すると、その勢力は、奥州はもちろんその北辺と関係を持っていた北海道南海にも及んだと思われる。吾妻鏡卷二十二建保四(一二二六)年間六月の条に、その年の二月京都の東寺の宝蔵に入り宝物を盗み捕らえられた賊徒ほか強盗海賊五十余人を奥州につかわすべき由沙汰あり、夷島に放ったとの記録があり、さらに文暦二(一二三五)年七月の条に夜討強盗の枝葉は関東に送り、夷島につかわすべしとの命令が六波羅に下された由がみえている。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道      昭和45.3.20  より引用…

ピックアップされているのは2件だが、鎌倉幕府により北海道が流刑地とされていた話は知れた事。

そして、その監理らも含めて「蝦夷沙汰」を行使するのが、得宗家代官としての「安倍姓安東氏」の職務だろう。

畿内と近い墓制がここで伝わっていても、全くもって不思議でも何でもない。

11〜13世紀位で明確に地の人か本州の人か?明確に解る遺跡があるのだろうか?

中世遺跡が薄い北海道、むしろ場所により数%何割か「混ざる」可能性はあるだろう。

それら罪人達がどうなったか?

あまり記される文献は見ないのだが。

案外、東北や関東より東西方向に掘り込まれた墓は近畿に多く見受けられる様な気もする。

関連項にある様に、限られた面積を有効に使う為、実際あまり拘りはなかったとすれば、人口密集地である近畿はそんな考え方が当てはまる気もするが…どうなのだろうか?

いずれにしても、北海道の特徴とされる墓制と言われるものが、他地方よりむしろ近畿でポツポツ見られるのは興味深いところ。

 

②茄子形垂飾…

京都府京丹後市弥栄町「御殿口古墓」  9~10世紀

竹野川中流の左岸丘陵先端に位置する。」

「地山面を幅約3m・深さ1.8m掘り込 んだ墓壙で、底部に木炭層が残る。火葬墓か。」

「瑞花双鳳紋八稜鏡1面、茄子形装飾品2 品2点(東京国立博物館蔵)、石帯 7点、鉄剣・須恵器甕(所在不明) が出土している。」

「地方官人層の墓と推定される。」

東博所蔵とあり、是非見たいものだ。

「地方官人」は、石帯からだろうか?

和鏡と共伴も興味深く、年代は和鏡によるものだろうか?

と、言うか…

似てないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

ここにある「美々4遺跡」の鉄製螺旋状垂飾がこれ。

15世紀中〜1667年と比定されており、時代背景は合ってはいない。

だが、この様な形状の「垂飾」は、少なくとも9〜10世紀には京や丹後国に出回っていた事は解る。

古い発掘且つ材質,構造の詳細記述がないのでどんなものか?は解らないが、仮にこんな「茄子形垂飾」を模して作ろうとすれば、針金や銅線を「螺旋状」に巻いた上で上下方向に潰せばこんな形には出来るだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?…螺旋形状をした事例の備忘録」…

一連の「コイル状」「螺旋状」の鉄製品も、その「構造」から追跡しての話。

「形状」から追うなれば、こんな「垂飾」の事例と用途らからの追跡も必要になるかも知れない。

そして上記①より、これが「畿内である」事は大きいかも知れない。

何しろ、「墓の副葬」である事を考慮するならば。

「垂飾」については別途確認したいと思う。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

幾つか周溝を伴う物、集石塚としてカウントしているが、

・周溝…方形周溝

・集石塚…むしろ方形配石墓

に限定されていた。

周溝を伴うものとして、

京都府長岡京市長岡京右京区第130次  西陣町遺跡」 11世紀後〜鎌倉期…

「火葬塚1基:周溝を持つ」

「土師器48点、凝灰岩製相輪部、銅製品」

との事。

明確か蔵骨器らへの記述は無いが、周溝中央部に塚状の盛土が元々はあり、火葬だったと想定している様だ。

では、方形配石の事例は、かなりガチ系をピックアップする。

京都市山科区醍醐寺三宝院院 重要文化財宝篋印塔」 室町期

「西に開ける谷の奥に醍醐寺に関係する墓域が存在する。」

「重文宝篋印塔は二重基壇上に位置し、下部の一辺は4.78mと大規模である。宝篋印塔のの下部に2基、各辺に3基、土壇の周囲にも10基、合わせて25基の土壙があり、その多く には甕が据えられていた。」

常滑甕・壺、・備前甕、土釜など蔵骨器に使われ、瓦質の焼成品や石で蓋をされる。瓦質筒型容器や土師器皿も数点出土する。中心部の容器は常滑の小型甕であった。」

醍醐寺第65世座主賢俊 (1357年没)に関係して造立された、と伝えられてきた。」

醍醐寺三宝院である。

中世では座主の賢俊が足利尊氏の庇護を受けた様で、後に高野山(真言宗)や吉野を中心とした「当山派修験」の本山となった寺院。

単なる方形配石のみならず、二重の基壇となる大規模なもの。

さすが本山級となれば立派なもの。

引用文に「釜」とあるが、実はこんな形の様で、

瓦器の羽釜状で、奈良周辺で特に副葬の「鍋」がカウントされてるのは、この手が検出されている事だ。

特に「高野山」周辺の火葬骨を納める蔵骨器は本書で見る限りではこのタイプが殆どの特徴。

項目の先頭にも書いたが、これら周溝を伴う物、方形配石を伴う物は、火葬を行った感じではなく、他所にある火葬施設で火葬した後に収骨し、蔵骨器に納めた上でこれら火葬墓に葬った様だ。

この辺を鑑みると、今のところ方形配石で火葬迄行っているのは北陸周辺に限定されている様な感じである。

何せ、我が国の仏教の先駆地域である近畿がこうなので、北陸へ伝播した段階か運用過程で火葬迄行う様になった…現状はこの可能性が高そうだが。

とすれば、 北海道の余市町「大川遺跡」や伊達市オヤコツ遺跡」のルーツと考えられるのは、同時代以前〜同時代にも運用されていた北陸、それも白山,石動山そして医王山らの修験系の墓…これらの蓋然性が高いと思うが如何であろうか?

 

また、面白いものを見つけた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

関東は鎌倉周辺で、一つの大型墓壙に複数の遺体が葬られた事例は概報だが、これはむしろ意図して合葬した火葬事例ではないだろうか?

兵庫県淡路市「北浦遺跡」 14〜16世紀…

「瀬戸内へ向い、北西方向に延びる丘陵端」

「長方形の列石区画内に2つの石囲区画(1号墓・2号墓)、1号墓は2×1.2 m、一部2段の石積みがある長方形区画  埋葬施設は2箇所(土師質壺蔵骨器・備前焼壺蔵骨器)2号墓は小規模石積み埋葬施設2箇所(備前焼壺蔵骨器2基)

「土師質1、備前燒表3(以上藏骨器)、須恵器鉢2、一石五輪塔6、五輪塔空風輪2、五輪塔火輪2、不明石造品(笠塔婆か)」

「2基ともに蔵骨器の埋納坑は認められない  各蔵骨器は底部穿孔・火葬骨と白玉砂利 をいれる

1号墓備前焼壺1個体には少なくとも男女1体分づつの火葬骨が入れられている  須恵器鉢2個体は蓋身の関係であった可能性があり、それ以外にも蔵骨器が存在していた可能性が高い」

「確認調査においても蔵骨器一土師質壺・備前焼壺片が出土している  通称『荒神山』 近世にも使用され土饅頭状 に盛土されてい る」

以上の通り、方形配石した区画内に蔵骨器を納めたタイプで、方形配石内で火葬したか?は不明だが、1号墓では余市町「大川遺跡」同様に「合葬」している様だ。

時は14〜16世紀とあるので、北陸一帯の方形配石火葬墓より時代は下る様だが、鎌倉周辺の事例と違いここでは意図して同じ蔵骨器に「合葬」されている。

関連項の通り、大川遺跡の事例たった一つを文化代表例の如く語るなら、この事例をもってして「合葬した火葬事例は本州にもある」…これが成り立ってきてしまうのだが。

この辺は本来、慎重にやる必要があると思うが。

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら正確に十字型を成すものは見当たらない。

だが、C,Dで述べた「長岡京右京区 西陣町遺跡」に、関連項にある「キ型火葬墓」がある。

「焼土壙」と記述され、人骨片,鉄釘30数本,土師器皿5点,瓦器椀1点を検出、焼場、つまり火葬施設と推定されている。

推定用途は、上ノ国「夷王山墳墓群」の十字型火葬墓と同様になる。

形状がピタリとはいかないが、比定される時代も11世紀後〜鎌倉期位と秋田での事例と重ねても割としっくりくる時代背景ではある。

今の処は類似事例はここのみで、他の地域では見つけられておらず、一箇所ではあるが、ルーツの可能性を考えてみるのも有りなのではないだろうか?。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず、実は北ルーツが南下したのだろうか?

 

以上である。

筆者の薄学故に始めた、国内での墓制の特徴把握の為の俯瞰であるが、これで、

・北海道

・東北

・関東

・北陸

・中部,東海

・近畿

・四国

迄、ザッと見てきた。

印象を一言で書けば、「墓制の伝播は、地域間の繋がりの中で行われた」という極当然の結果なのではないか?だ。

例えば火葬施設。

京付近に多く見受けられる「円形,楕円,不定形の浅い穴」と事後に石を敷き詰める形…①

これは北陸や東北日本海側、道南へ伝播している。

対して、奈良(勿論、先の円形らのものもあるが)周辺の「小型長方形又は隅丸方形,長楕円の土壙」…②

そしてそれが後に通気孔が施され…③

近畿〜東海の「I型」になる

そして中部,関東へ到達段階で「T型」に変わり…④

それが陸路で南東北迄達する。

他の形と共通する部分で重複はするが、ザッとイメージ的には、

赤マークが①が優勢…

黄マークが②,③…

青マークが④…

こんな感じに出現している様だ。

これ、単に「火葬墓,火葬施設」と話してしまえば、この火葬施設圏を跨げばイメージする形が違う様な気もする。

勿論、筆者が見ているのは先に述べた通り代数的に全体像からのイメージ。

個別の墓をプロットし直せば、結果は変わる場合があるのはご了承願いたい。

その場合、一箇所に大量にその形の墓がある様な大規模遺跡にデータが引っ張られる危険性があるので、こんな手段にしている。

また、大阪らに見られる横穴式古墳の再利用とも思えるものは、一部は兵庫,京都日本海側と北陸迄、もう一方で海路?で中部らを飛び越え鎌倉〜南房総の「やぐら」として昇華するように見えなくもない。

円錐形に石で塚を作るのは出羽周辺、「方形配石」を行い敢えてそこで火葬を行うのも北陸周辺…こんな特異点も見え、これらは前時代からの信仰と習合され独自性を産んだ?とも思える。

何となくだが、広域で見比べると「文化伝播の当然の結果」で、全くの固有性は無いと思えるのだ。

それは北海道も一緒で、あまり明確な独自性は見えないと思える…少なくとも、墓や住居ら生活痕を見る限り。

地方から見えるものと全体像から見えるものは見え方が違う。

全体像から見える自地域の位置付け…こんな視点は忘れてはいけないのではないだろうか?

 

まぁまだ道半ば。

まずは列島の中世墓制の全体像を掴むのが優先。

細かく見るのはその後だ。

残るは中国地方、そして九州,沖縄地方…

この手の文化に突然の「メタモルフォーゼ」は無いだろう。

従来から人が住むと説明するなれば尚更の事。

あるとするなら、人の移動,移住やそれに伴う宗教の伝播や新文化の受容しかないだろう。

なら、北海道は…?

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−関東編(1)−」 中世墓資料集成研究会 2006.6月

 

「中世墓資料集成−近畿編(2)−」 中

世墓資料集成研究会 2006.6月

 

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道      昭和45.3.20 

 

「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構 2001.6.2