https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/21/070725
「北海道弾丸ツアー第五段、「道東編」…行ける東端「納沙布岬」へ行ったれ!、そして「チャシ」を見てみよう」…
さて、前項に「樽前山」の写真を貼ったが、道東から向かった先は「噴火湾岸」。
つか、ぶっちゃけ今回の弾丸ツアーの目的は二つ。
・道東でチャシの年代観をどう現地で見ているか?
そして、
・有珠善光寺に修験の痕跡があるか?
だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/174555
「北海道弾丸ツアー第三段、「様似篇」…観音山に石垣はあるか?、金鉱山の痕跡は?、秋田県民との意外な繋がり?、そして伝説の「キリシタナイ」は何処か?」…
第三段、様似編で「等澍院」は見てきた。
前項で「国泰寺」を見てるので、有珠善光寺でコンプリート…いや、既に済んでる。
有珠善光寺を観るのは二度目。
中学の修学旅行で立ち寄った。
だが、記憶なぞ無い。
と言う訳で、いきなり本命である。
①有珠善光寺…
これが「織部灯篭」だが、
作り直した物で、昔のものは保管してるとか。
茅葺き屋根が美しい。
ただ、北海道の茅は長くならないとかで、この茅は青森の五所川原のものだそうだ。
ん?
長くならならない?…だから段々…
もとい。
・古の有珠善光寺は何処に?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/04/110421
「時系列上の矛盾&ゴールデンロード③…ヒントはまず伊達市「有珠善光寺2遺跡」出土の「坩形土器」から」…
現状の有珠善光寺は三官寺設定段階でここに来ていて、史跡整備に伴う発掘でも検出去れたのは擦文の竪穴住居ら。
古の有珠善光寺はここには無い。
なら?
聞く前に答えを戴いた。
「有珠山七合目」付近にあったと伝承されてるそうだ。
右の丘の奥に「昭和新山」がある。
絶好のビューポイントで停める時間が無かったが、樽前山同様、かなり近く感じた。
現状位置よりずっと高い位置にあった可能性が高い事に。
・有珠善光寺と信州の関係…
実は三官寺以降、有珠善光寺は浄土宗、知恩院の末寺と宝物館の古書にはハッキリ記述がある。
同じ南無阿弥陀仏に重きを置く共通点はあるのだが…って、お聞きした話では善光寺会派では有珠善光寺を現状「北の善光寺」と位置付けているとの事。
そんな経緯もあり、レクチャー下さった方も「慈覚大師円仁開基となってはいるが、その弟子らが慈覚大師の名を借り開基した」と考えている様だ。
現実、慈覚大師の生涯と有珠善光寺の寺伝も微妙に整合はとれてはいない。
なので、羽黒修験との関連や和鏡を使う儀式らを質問した。
A,羽黒山との関係…
謂れは解らないが、羽黒修験の特定の信者さんが祭祀に合わせて毎度参拝に来るそうで、鏡は神棚へ飾る物位しか思いつかない様だ。
この際ぶちまけようと、
https://x.com/tekkenoyaji/status/1795745220489044118?t=U-VloNqd4VVC2GgMh_l0tQ&s=19
善光寺と羽黒修験は八宗共学だと言う共通点を持ち、信州に羽黒修験の霞がある事…
10世紀なら羽黒修験が北上したと思われる事…
千歳らに錫杖、その他和鏡の出土がある事…
北海道の中世を唯一記述するとされる
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
「負けじと三度「諏訪大明神画詞」を見てみよう…実は「諏訪大明神書詞」とは?」…
諏訪大明神絵詞を成立させるには、情報源と媒介者が必要で、有珠善光寺と羽黒修験が揃えば可能かもと…
ここで「あ!」と。
二世住職鸞洲の時、幕府に対して「有珠善光寺には一切経が必要なので揃えて欲しい」と嘆願している。
幕府は滋賀の善應寺にある事を調べて譲る様に指示、金の問題ではないと嘆く寺側を他所に「一切経」を有珠善光寺に奉納させたそうで。
使った金子は百両、その「一切経」は現存するとの事で、何故そんな高額な金額を幕府が出したのか?、何故「一切経」を所望したのか?引っ掛かっていたとの事。
二世鸞洲は、赴任以前からあれこれ北海道や有珠善光寺について調べていた様だとの事なので、元々有珠善光寺が「八宗共学の寺院」だったなら納得だし、羽黒山関係者が訪れるのも納得だと仰っていた。
この二代目住職の逸話はまだある。
B,版木とかな文字…
宝物館の版木を見ながらの話。
これは「だて歴史文化ミュージアム」の常設展の版木。
これ、アイノへの布教の為に、二世〜三世の住職が彫って刷り、念仏を唱えられる様に渡した物だそうで。
後に仏教概念を簡単な絵にしたものも作ったとされるが、それ「曼荼羅では?」と尋ねたら「そう言えばそうなるかも」と。
折角なので、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
松浦武四郎の東蝦夷日記にある「近藤重蔵の新道開削と「かな文字」」の一件を伝えた。
すると「あ!」と。
実は、二世鸞洲は先述の通りあれこれ調べて赴任しているが、北海道の状況をレクチャーの為に行った先が「近藤重蔵」なのだそうだ。
仮に近藤重蔵が「かな文字を使うのでお経を読める様になるのでは?」と教示していたなら、突然版木を作り出した理由として、納得だと仰っていた。
時系列的には、近藤レクチャー→赴任→版木製作…つまり矛盾は無い。
東蝦夷日記はお持ちの様なので、再度確認をお勧めした。
宝物館には釈迦如来立像が保管される。
文化庁の方からは「恐らく鎌倉期、作者不明だが京都清涼寺の釈迦如来立像の模倣で似た物は10〜20体位たるのでは?」と聞いていたらしい。
一応、一世〜三世の頃に霊山寺住職秀海が寄進したというが、どんな縁があるかと気になる仏像なので、ご自分でも調べて見た事があるのは4体だとの事。
3体は京都の嵯峨野周辺に、1体だけ全然飛び離れた場所で見つけたそうで。
北九州の「宗像」…
たまたま宗像に御縁ある方なので、何故宗像?何故有珠善光寺?と。
当然、時代背景や贈られた経緯に本当に縁があるか解らないが…
・ざっとした時代背景と「前九年合戦」、安倍宗任が流刑されたのが宗像でお墓があり、そこから辿れば山口、故安倍晋三首相に至る…
・一方、処刑された安部貞任の子供が生き延びて津軽に逃れ、そこからの家系が安倍姓安東氏で蝦夷管領や日本海海運を担った一族であり、その船は尾道に達する…
・松前(蠣崎)氏は元々、安東氏の代官に過ぎず、織豊期の奥州仕置前に前田利家らの力を借りて独立した…
この辺をペラペラと。
元を辿れば同じ一族で、海運や海賊行為で繋がりを持つ可能性があるので、そちらのお寺に古くからあるなら、安倍宗任の関係を確認してみては?と話しておいた。
あまり「大殿」安東氏の事はあまり知らなかった模様で、妙にご納得戴き、調べてみようかな…とこ事。
なんかヒントになった模様で有り難い。
ピタリ一致とはならないが、有珠善光寺の寺伝や日記にヒントがありそうなのは解ってきた。
事前に話していたせいか、資料を戴けれた(いや、託すと)ので、もっと学ばねば。
仮に情報源→有珠善光寺、媒介者→羽黒修験…これが成立出来れば、見え方はガラッと変わる。
理由は簡単で、仏教が伝わっていた事が立証される。
北海道では有珠善光寺が中世以前開基とはカウントされてはいない。
が、それを仮説すれば「諏訪大明神絵詞」の謎迄解けてしまうのだ。
②北海道〜東北の縄文遺跡群…
近場にあるので、この際縄文遺跡群もと「入江・高砂貝塚」「北黄金貝塚」それぞれとガイダンスセンターへ短時間訪問。
これで構成要素の内12/17箇所見学した事になる。
それぞれ特徴があり興味深い。
筆者にとっては縄文遺跡はクールダウンの場故に、詳細は割愛する。
むしろ、大好物の地層の剥ぎ取りがあったのでそちらを紹介しよう。
これ。
表土の下の白っぽい所がよく登場する「江戸初期の火山灰」だ。
ここではUs-b(1663年の有珠山火山灰)と言う事だか、確か発掘ではその上にTa-bらが乗っているハズ。
その直下がよく書くⅢ層の黒色土層だが、左側が見易いが白っぽいゴロゴロがある部分まで目測20cmより足りない位だろうか…とすれば、火山灰層はざっと50~60cmはあるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/16/185453
「時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々は、生き延びる事が出来たのか?」…
この辺から疑問視してきた火山灰層とはこれ。
・ところにより1m程にもなる。
・重機で掘り上げる。
・遺物や生活痕がほぼ出ない。
・地方によりKo-c2とTa-aの間に黒0層が薄く検出する地域があるが稀。
で、生き延びる事が出来たのか?
と、書いているところだ。
記録が残る1800年代(要は三官寺設定後)は、5~10年は長万部や八雲へ退避したと記録されるが、それらより大規模な1600年代の降灰では生活痕が無い=帰還迄にもっと時間が掛かる事になる。
ましてや三官寺、幕府も費用負担したであろう。
皆さんはどう考えるか?…ほぼその間に触れる文献は無いのだが。
生き延びる事が出来たのか?
③「方形配石火葬墓」や「畠の畝」の地元評価…
これにも触れねばなるまい。
・「方形配石火葬墓」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331
「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…
・「畠の畝」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…
この辺が地元でどの様に評価されているか?だ。
その辺は「だて歴史文化ミュージアム」に展示がある。
常設展より…
まずは「オヤコツ遺跡の方形配石火葬墓」
こちらは、発掘調査報告書らと同様の評価で、大陸に起源を求めている。
勿論、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…
発掘調査報告書の冒頭に「類を見ない」と書いてある位なので、わざわざこんなふうに全国の中世墓を確認していないであろう事は想像出来る。
そんな事を言ったら、割と形態の定義や用語の使い方が地域毎にマチマチな事に気が付いているのだろうか?
これ、土器の「☓☓式」と言う名称でも感じる事なのだが…
広域で同じ分類で確認すれば、地域間交流の指標になるのだろう。
中世墓でそれを感じたので、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/23/210550
「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?」…
こんな手間の掛かる事をやったりしてみた訳だ。
単位の定義と統一化は必要なのでは?
酷くぶっちゃければ、長さの単位を㍍表示するか?㌅表示するか?尺表示するか?…まさかこの業界、やられていないって事はないよね?
余計な疑義から戻ろう。
まぁ想像通りだ。
では、噴火湾一帯にTa-bやUs-b降灰前に広がっていた「畠の畝」は?
評価はこんな感じ。
さて、この評価だと局所的にも矛盾が生じてしまうのだが…
・矛盾①
幕末段階で農業はしていないし根菜らも食べない、これは古書から…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/23/194247
「「最上徳内」は北海道をどう描いたか?…「蝦夷草紙」を読んでみる」…
また明治時点での現実から、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
「この時点での公式見解-38…旧旭川市史にある「第一~三次近文コタン土地問題」が、民族問題の火付け役」…
農業をやろうとしなかった事でも解る。
土地問題が大きく発生していない平取周辺は早いが、食わないものを栽培する必要も無い。
・矛盾②
鍬先らが火山灰層下では検出しているが、火山灰層上では木の枝らを使った女性の仕事。
こんな大規模な畝を作る様な話が合ったか?
仮にあったなら、この地域の特性として描くべきだしパネルにもある様に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/01/143147
「北海道で農耕は何時から?…「近世蝦夷地能作物地名別集成」で確認してみる」…
わざわざ本州から行かずとも既に農地は広がっていたのでは?
更に、仮に鍬先らが「寛文九年蝦夷乱」らの刀狩りらで取り上げられた…こうするなれば、独自に「チャシ」を築くのは困難になる…道具が無い。
生活パターンを組み合わせれば、漁猟や農耕の合間、晴れの日限定で、雪が降り積もる前に作業を終了させる必要がある。
木の枝と帆立貝殻、それもムラ単位と言うより家族単位の小集団でそれを行う…これが可能か?だ。
・矛盾③…
上記ママ、火山灰層だ。
畠の畝はTa-bで放棄される。
その地で生き延びる事が出来たのか?
どう答えるのだろうか?。
一応…我々は既に想定している。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
別の集団が居て、それが農耕をやっていたから…だ。
パネルでは本州系とアイノ系の二択で検討しているが、何故そんな零:百思考にする必要があるのだ?
わざわざ松前藩は、以前共存、後に住む場所が分けられたと幕府に報告しているのに。
当時にふらっと訪道出来たのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
「日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…
北海道に残らずとも、秋田には同時代文書で残る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/26/205243
「この時点での、公式見解-44…「余市町史」に見る寛文九年蝦夷乱での余市の動向と「八郎右衛門」」…
行き来があるのだから津軽にして南部にして秋田にして、縁者が居てもおかしくはない。
むしろ、「共存」していた事も考えるべきではないだろうか?
④「タテシロシ」…
これはヒントとしての備忘録。
同じく「だて歴史文化のミュージアム」の特別展より。
伊達氏の家臣団の旗印である。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
「この時点での公式見解-29…ムックリの理由と「シロシ(家紋)に見る移動の痕跡」、そして伊達氏の影」…
「旭川市史 第一巻」にはこうある。
「この第一型は十勝に多い。ウタサ紋の由来としては(イ)熊皮を広げた形、(ロ)天地四方を示す、(ハ)結縄の抽象化、(ニ)浜益では伊達家の旗印(タテシロシ)といわれている。」…
確かに幕末東北諸藩統治期に、白老に元陣屋を設置して十勝を治めたのは「伊達藩」だ。
で、伊達政宗家臣団と亘理伊達氏の伊達成実家臣団の旗印がこれ。
そりゃ伊達市に移住したのは亘理伊達氏だから正確だろう。
では、ウタサ紋と思われる「☓印」の旗印はあるのか?
見る限り一つだけある…「常磐氏」だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/02/193254
「亘理続報3…「黒川仲庵」処刑のその後と、「伊達藩」の隠れた能力」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/07/093154
「亘理続報2…「田村氏」だけではなく「伊達公」も洗礼を受けていた」…
亘理伊達氏はキリシタン関連で扱っており、こんな話もあったので…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/20/112451
「開拓使が問題視した「洋教一件」…キリスト教布教と旧伊達藩士の関係」…
キリシタン関連と行きたいところではあるが、ドーマンの「十字」は魔除けとして我が国でも使われているので、直結はムリ。
それより、こんな話が魅力的である。
@IbDA0FvzcUmF0lF 7@北海道様からの情報。
https://x.com/IbDA0FvzcUmF0lF/status/1784712247086067807?s=19
伊達成実は伊達政宗家臣団の中で「草」つまり忍者や情報に関わっていた?と言う話。
仮にそうなら、家老である常磐氏も関連する何かに関わっていた可能性がある。
後代、戊辰戦争の折だが、
https://x.com/tekkenoyaji/status/1279719970386046978?s=19
奥羽列藩同盟から脱退した相馬藩とは先鋒として対峙していた伊達邦成は、伊達藩主慶邦公から相談受けた時、「奥羽列藩同盟は帝に反抗する」趣旨の建白書を提出。
相馬藩を含む官軍との戦闘の最前線は亘理伊達や白石片倉ら。
駒ヶ嶺や旗巻峠での敗戦らで、いち早く講和の動きをしたのが伊達邦成と常磐新九郎。
特に常磐新九郎は元々相馬藩の田村氏の支流、田村氏側と接触すると同時に伊達藩内の尊皇派と共に講和への藩内調整を行い、その結果は伊達藩主慶邦の降伏受入の決断迄至る。
どうやら、亘理伊達氏は戦闘と講和の両面のキーマンとして動いていた事になる。
で、更に同時に北海道入植の情報を取り、1年足らずで北海道へ…
これ、行き当たりばったりの様な話でこんな風に進むと思うか?
かなり事前情報を掴み、最小限の戦闘で収め被害を食い止め、幾つかの戦術の中から北海道入植も事前準備して亘理伊達氏内を纏めておかないとこんなにスムーズに事が進まないのでは?
「草」ら情報扱う役割を担っていたとしたら納得である。
有能なNo.2、No.3を持つ組織は強い。
結果として伊達藩は会津の様に藩内を焼かれる事はなく、家の存続を果たす。
むしろキリシタンの件より、実働を指揮したであろう常磐新九郎=田村顕允の実務能力に脱帽である。
勿論、旗印が直結かは未知数、伊達藩直轄時の亘理伊達氏の関与が不明や岩出山や白石でも☓の旗印はあり得るが、今の所の事前情報処理能力を鑑みると、道内情報の収集やコネクションの設定らの動きを行っていたとしても何ら疑問も出て来ない。
一度は所領にした地。
戊辰戦争が勃発しなければ、守りを固める為に引き上げる事は無かったのでは?
なら、所領時代から内部工作位実施するだろう。
何しろ、遡りゴールドラッシュ時に松前の金山開発には伊達藩の金堀が関与している。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
「元々「北海道開拓は江戸幕府の方針」…秋田県史に見る幕末情勢」…
領地として欲しいと幕府に願い出てたのは伊達藩の様で。
実は、「だて歴史文化ミュージアム」はこんな風に、
https://hokkaido-michinoeki.jp/michinoeki/2253/
「道の駅だて歴史の杜」に併設され、城門,石垣がある公園や観光物産館と共に道の駅の目玉施設の一つになっていた。
道の駅はなかなか盛況だった。
幕末の実務能力がなければ、こんな風にはなってはいないだろう。
帰りの飛行機の時間の問題で質問らは無し、足早に半日駆け抜けた感だった。
考えや意見の相違は予測済み、まずは現物を見て現地の風を感じる事が遠征の最優先事項。
色々な意味で多くを学べた。
今回はもう一項UPしよう。
折角、ほぼ北海道を横断したのだ。
こんな経験はなかなか無い。
その辺を報告しよう。