https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/10/30/193258
「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/05/174710
「「熊送り場」はどんなものなのか?…文化遺跡を見てみよう①」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/10/203035
「「現代の送り場」はどんなものなのか?…近代,現代アイノ文化遺跡を見てみよう②」…
実は失念した論文を探していたら「熊送り場」の論文が出てきたので報告しておこう。
著者である「畠山三郎太」氏を含めた知床岬調査隊5名が1961年に知床岬の尖端付近調査中に「ワシ岩湾」で見つけたもので、
1963年当時報告はされたがこの遺構は僅かに報告されたに留まったとして改めて『河野広道博士没後二十年記念論文集』に寄稿したとしている。
丸太で組んだ木組が「イオマンテ」を彷彿とさせるが調べていくと…
因みに、この遺構は前項①の宇田川氏の論文には記載がされていない。
調査が行われたのは知床岬尖端部で、番屋に居た老漁師に話を聞いたところ、「ワシ岩湾」の海成段丘中腹に骨塚らしいものがあり、漁師は気持ち悪がり近付かないとの事で行ってみた…これが経緯だ。
この「ワシ岩」の入り江左側の大きな岩が突き出した下に木枠が組まれた遺構があり、獣の骨が祀られるていると言うもの。
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「「送り場」とはどんなものなのか?…概念を理解する上での備忘録」…
での宇田川氏の形式分類によれば、
(1)御神木となる太い木の根元に位置する例。
(2)岩や並べた石の付近に存在する例。石積,集石の例も含めておく。
(3)石蘺を有する特殊な例。
(4)竪穴住居址等の窪地を聖地として利用する例。
(5)貝塚、貝層を形成している例。骨塚と言われるものも含む。
(6)岩陰を利用する。
(7)その他平坦地等に何らの施設も有していない例。
この中の(6)に相当しそうだ。
「遺構は、イチイ(Taxus Cuspidata Sieb. et Zucc.)の丸太の樹皮を剝ぎとって加工した、 ほぼ長方形に近い枠ぐみで、まず、直径14cmの丸太の小口を半割りにしたものを、長さ120 cmばかりに切って、曲面を下に、平面を上にむけて、海の方にむけて2本、ほぼ平行に置き、その上に、井げたを組むように、長さ91cmほどの丸太を、前端と後端とに2本、直交するようにのせます。さらにその上に、長さ129cmの丸太を2本のせるという様に、2段に組んでありました。丸太の組み手は、鉄のこで深さ3cmから4cmほどに垂直の切れ目を入れてから、 鉈のような、よく切れる金属製の刃物で、丸太の曲面がよくなじむように削り取ってありました(Fig. 2のb参照)。しかし、2段目の前方の北西の方角にあたる隅の組手だけは、他の組手の作り方とは異なっていて、鋸目を入れることなく、半円形のカーブに刃物でえぐり取ってあ りました(Fig.2のbのA材左端)。つまり、鋸目を入れて削り取った組手の部分は、押しても 動かないように、はまり込んでいますが、この2段目の北西の隅だけは、少し大きめの半円形 にえぐってありますので、その凹曲面の中の丸太は、押せば少しだけ転がるのです。しかし、転がりおちることはないのです。
海のむいた長い方の丸太の鼻先は、心もち天にそりかえるような形になって突き出ていました(Fig.2のc)。このイチイの丸太枠の上には、火山岩の大きな塊がおおいかぶさっていて、 シェルターの役目をしていました。その高さは、遺構の築かれた地面から1.3mでした。岩の天井は、奥の方にだんだん低くなっていて、その傾斜角は、およそ平均50度でした (Fig. 3)。雨や風をさけるようにして設けられた遺構の中には、ヒグマの成獣1頭分の全身骨格が、ていねいに葬られてあり、骨は体構の順につみ重ねてありました。その一番上に頭骨がのせてありましたが、調査隊がしらべた時には、下顎骨はみつからず、頭骨の上顎にも、本来は存在するはずの歯牙は1本も残っていませんでした。」
頭骨は、左上顎,口蓋骨,左頭骨の大部分を欠き、歯牙は全て脱落、頭骨全体は3分割の状態で、残存部は接合可能。
成獣のヒグマとの事。
それをオンコの木枠内に並べた様だ。
で、著者の畠山氏は河野広道博士へイオマンテに関連するものか?と問い合わせしたところ、下記の返事がきたとの事。
「「エペレセツの構造は、足がないという点で樺太アイヌのイソチェイ(イソ=熊、チェイ= 家、イソチェイは熊のおり)に似ています。イチイは、通称オンコ Taxus Cuspidata Sieb. et Zucc. で木質部は水につよく、腐りにくい木です。それで残ったのでしょう。幣場なしで熊檻の 中に熊の遺体を送るという例は、アイヌの場合聞いたことがありません。しかし、あの場所は、終戦頃まで斜里からオンネナイにかけてのアイヌの出稼ぎ場所、あるいは夏の狩猟場でしたか ら、やはりアイヌの残したものでしょう。但し、アイヌの古式によるものではなし、便宜的に 熊の遺骸を檻の中に入れたのではないでしょうか。それとも、イナウを供えて送る価値を認められないほど、何か悪いことをした熊(たとえば人を傷けるなど)で、罰の意味で檻の中にとじこめたのかもしれません。(ただし、私はそんな例を聞いたことはありませんが)いずれにしても、私のまだ知らない例に属するもので、稀らしいことだと思います。
尚、終戦直後、あの地方には樺太アイヌも行っていたはずですから、樺太アイヌの残したものか、斜里アイヌの残したものか、しらべて見る必要があるようです。御手紙によると檻が腐っ ていないというのですから、ことによると終戦直後ごろのものかもしれません。明治・大正という説は、ちょっと信用できません。檻の材と骨の腐蝕の状態から年代を御判断下さい。(私は実物を見ませんので判断することができませんが、明治・大正説をそのまま信用せずに、よく御検討下さい) 八月二二日」(原文のまま)」…
・本道アイノでは前例が無いパターン…
・樺太のものに近いか…
・古いものではないだろう…
こんな印象が回答された事から、畠山氏はたまたま自分の住む集団住宅に樺太にいたというギリヤークのシャーマン(呪術師)だった中村千代氏へ木組の様子を話し尋ねたところ、ギリヤークの「熊神の骨倉」だと教えてくれ、なんとこの熊であろう熊肉を食べたそうだ。
1941(昭和16)年に樺太から知床岬へ来たのは25〜28歳の3名で、鉄砲での海獣漁に来た折に、熊を仕留めて送ったという。
本来、熊肉には女性が食べてはならぬ部位があるそうだが、中村氏は呪術を唱え食べちゃった…と。
この3名の内、2名は網走に来た事があり、「ギリヤーク」の著者である服部健氏とも知り合いらしく、服部氏からも裏取りした様だ。
因みにこの2名、1965(昭和20)年の終戦時にソ連軍に拉致されて服部氏もその後の行方を知らないらしい。
本来、樺太のギリヤークの骨倉は頭部を納める「頭倉」とそれ以外を納める「骨倉」に分かれるそうだが、ここでは頭部迄納めてしまったと言う差は出ている。
この時「頭倉」には他の骨は一片たりとも入れてはならず地上から1m程の高さに組み屋根付きで弊と供物を添え、「骨倉」は地上に組み屋根は無いそうだ。
頭部を特別に神聖化する特徴があるらしい。
少なくとも、ここ知床岬の「骨倉」は地上より10mは高い位置に建てられ、若者故に簡便化したものだったのでは?と畠山氏は考察している。
さて、如何であろうか?
樺太と言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/18/201824
「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる③「樺太編」※1追記あり」…
熊の檻らしきものの所見は北樺太だった。
で、渡辺モデルが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742
「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる…」
これである。
宇田川氏の見解では岩陰の送り場出現は20世紀以降に本道に出現…
で、知床岬のこれは昭和16年のギリヤークのもので概ね決まり。
これの意味するものは?
まぁ時系列で並べてみれば、そんなところだろうなと。
※追記…
SNSで気になる事を教えて戴いた。
@studying_Ainuシ・シャモ様より。
先述の熊頭骨の写真だが…
https://x.com/studying_Ainu/status/1857666371506811314?t=pD9V56cm7onjq2J7feOEHA&s=19
紫◯の部分は、本著では「左頭骨の大部分を欠く」と表現されているが、後の研究では「左頭骨に穴があけられている」と判断されている様だ。
ここで「内モンゴル興隆溝遺跡」ら、大陸系の遺跡では「頭骨に穴を開ける」事例がある様だ。
この千歳市「美笛岩陰遺跡」の事例では…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/05/174710
「「熊送り場」はどんなものなのか?…文化遺跡を見てみよう①」…
頭骨に穴、又は頭骨に幣が突き刺してあり、木枠も検出される為に本項のギリヤークの事例に近い事になる訳だ。
宇田川氏の指摘を改めて…
「主体的な熊送り場の出現は19世紀後葉以降」だ。
改めて…
これが意味する事は?…だ。
参考文献:
「知床岬のクマ送り場遺構について」 畠山三郎太 『河野広道博士没後二十年記念論文集』河野広道博士没後二十年記念論文集刊行会 昭和59年7月12日
「アイヌ文化期の送り場遺構」 宇田川洋 『考古学雑誌 第70巻第4号』 日本考古学会 昭和60.3月