この際、本家本元を見てみよう…「信州善光寺」での見たまま感じたままの備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/23/185652

「北海道弾丸ツアー第五段、「噴火湾岸編」…三官寺コンプリート!、火山灰層の厚さ、「方形配石火葬墓」や「畠の畝」の地元評価、そして「タテシロシ」」…

北海道弾丸ツアー第五段で蝦夷地三官寺をコンプリート、そのトリは「有珠善光寺」だった。

で、仕事都合でまた連休が取れそうに…

さて、何処へ?

あれこれ検索してみると…

北陸は富山で500㌔を超え、石川となればそこから更に。

何気に冗談で信州は?、善光寺迄約450㌔…へ?近い?

「一生に一度は参れ、善光寺」…

こうなると、本家本元を拝んでみたいと言う気が起こる。

行っちゃいました、「信州善光寺」。

目的は2点。

有珠善光寺との関連があるものはないか?

②ティアドロップ型のヒントになる物はないか?

である。

では、報告しよう。

 

有珠善光寺との関連があるものはないか?

予め結論を書けば、宗教施設であり文化財であり観光地でもある善光寺、史料館,宝物館はそれぞれ一箇所あるとは言え、当日の拝観者混雑らでは質問どころではないし、簡単な寺伝らと文献販売も探したが宝物館の図録は高価で当日の財布ではムリ。

そんな意味では収穫のしようもなかったのでざっと見たままを報告する。

信州善光寺とは?

寺伝では642年開山、本尊は「一光三尊阿弥陀如来」でパンフによれば、欽明天皇十三年、百済からもたらされた日本最古の仏像でそれを「本田善光」がこの地に祀った事から始まる。

内々陣左側の瑠璃壇に安置、絶対秘仏とされ、瑠璃壇は法要時に開帳される。

また、内々陣下部の回廊は「お戒壇めぐり」と言って、瑠璃壇と結縁する「極楽の錠前」に触れる事で本尊に触れることが出来ると言う修行で、中はほぼ光が通らず真っ暗だが、筆者は触れる事が出来た。

この本尊が「善光寺如来」として信仰を集め、善光寺如来の分身とされる前立如来が7年に一度ご開帳される。

各地の善光寺の「善光寺如来」はこの前立如来を模しているんだろう。

この信州善光寺に宗派は無い。

最古の仏像を本尊とし、比叡山,高野山より前に開山される為。

よって、全宗派,老若男女全てに開かれている。

というのも、善光寺の運営は山内の天台宗系「大勧進」25坊と山内の浄土宗系「大本願」14坊とが共同で支えているそうだ。

この大本願が尼寺で、代々公家出身者が務める。

天皇、皇室や貴族との繋がりが深くあちこちに菊の御紋が施され、庶民から女性にも等しく開かれている。

実は寺院ではここ善光寺比叡山にあるという「しずく守」、

これにも菊の御紋付き。

サラサラと美しい鈴の音がするこの「しずく守」は後程…

山門にも入れるが、

この二階は弘法大師空海の像があり、四国八十八ヶ所霊場を模している。

経蔵には、

伝教大師最澄と慈覚大師円仁の像、輪蔵と呼ばれる書庫があり、この書庫に「一切経」が収められる。

この輪蔵は数人で回す事が出来て、一回転回す事で一切経全て読んだ功徳が得られるとされる。

功徳は別としてどの位なのか?回してみたが、たまたま女性ばかりだったので回し始めはかなりの力で押す必要があった。

全重量が数㌧あるとか。

と言うより、書庫そのものより中の一切経が重いのだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/27/145331

「北海道弾丸ツアー第五段あとがき&北海道には文字がある、続報8…仮説として成立するか?検証してみよう」…

輪蔵回しに参加してみてふと悟った様なの気がする。

有珠善光寺二世住職「鸞洲」が何故、一切経を欲したのか?

それは「善光寺」だから。

老若男女、貴族と庶民、出家だろうが在家だろうが、どの宗門に属しようが関係なく欲する全ての人に「八宗兼学」の教えを施す寺院であるから。

故に、全国から崇拝を集め、全国に「善光寺」と称する寺院がある。

確か大勧進の宝物館のパネルでは、40余りの「善光寺」が各地にあったとか。

中世その中に、有珠善光寺があったか?はたずねる事は出来なかったが、少しずつ文献でも当たってみようではないか。

明治の「廃仏毀釈」までは我が国では「神仏習合」。

広義では神道と仏教の境目なぞ有って無きが如し。

どちらかの痕跡あらば、両方あって然るべし。

我々は「在家の修行者」として修験者,山聖,行者,山伏と言われた人々の痕跡を追っているだけであり、どちらの要素も持っていて不思議なぞないのだ。

まして、大勧進護摩堂の護摩壇の直ぐ奥には「鏡」が備えられ、その奥には智証大師円珍作とされる不動明王が祀られる。

何故、版木で経や曼荼羅を刷ったか?

全ての人へ門を開く「善光寺」であるから。

 

②ティアドロップ型のヒントになる物はないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/23/205737

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−3…螺旋状垂飾の年代特定は?、そして用途は?」

平たく言えば、実は螺旋状と言うより、ティアドロップ型の「垂飾」そのものに意味があるのではないか?と言う考え方だ。

これが古の仏具の中にあれば、蓋然性が上がる。

で、先の「しずく守」、これは境内内の大勧進のお守りを売っている店で見つけた。

丁度、善光寺史料館へ向かう途中だった。

善光寺史料館は「日本忠霊殿」に併設される。

戊辰戦争先の大戦までの英霊を祀る祭殿で、この中に安置される阿弥陀如来像も本尊一光三尊阿弥陀如来像の分身仏。

史料館内には元々本堂内に安置されていた仏像や、庶民信仰として奉納された絵馬らが展示される。

仏像を観察してみて気が付いた。

首周りの装飾品には「垂飾」がついている。

これ、如来には無く、菩薩、火や竃神とされる「三宝荒神」、仁王らにはある。

即「菩薩 装身具」で検索すると…

「瓔珞(ようらく)」…

幾つか読んだ限りでは密教系の装飾らしいが、要は「菩薩以下の神仏が着ける首飾り」の事。

お釈迦様にして、悟りを開いた「如来」は出家しているので装飾そのものを着けない。

菩薩以下はまだ悟り迄到達してはおらず出家前の修行中の身で、それが古代インドの貴族の姿を模している様だ。

それで装飾品を帯びる…だそうで。

瓔珞は端から首飾りで、北方に伝わる「腰帯」と違い副葬箇所が違うと言う矛盾が発生しない。

この考え方を当て嵌めてみよう。

瓔珞を着けるのは出家前→修験は出家せず在家のまま修行する修行僧、当然巫女も在家のまま。

ここにも矛盾は無い。

だとすれば、厚真町「上幌内2遺跡」5号墓の女性は、在家修行の巫女であり、周囲の人々の尊敬を集める様な人物だったと考えるが、如何であろうか?

例えば、人助けや周りの面倒を見る事や土豪の本妻として周囲を纏め、同時に巫女として相談を受けたり祈祷を行った徳の高い人物。

これは「北海道には仏教は伝わっていない」…たったこれだけを棄却すれば成り立ってくるのでは?

この辺は関根氏も「つながるアイヌ考古学」で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

仏教は受容せずとしているが、神仏習合の「経塚」を作った集団が密教要素を受け入れていないとでも言うのだろうか?

それより前時代、千歳市「末広遺跡」の錫杖はなんであるのか?

どう考えてもそれは無いだろう。

しかも、本来であれば出家させ比丘尼として葬るところを敢えて在家のまま葬らざるを得ないのも、周囲に院号法名を授けられる阿闍梨ら高位の僧侶が居なかった為…これで説明がつくのでは?

厚真から有珠善光寺迄は約125㌔、様似等澍院迄は約115㌔…

仮に、平安から有珠善光寺や等澍院が存在したとしても、流石に簡単にアクセス出来る距離ではない。

しましてや、被葬者が周囲の宗教的頂点として崇拝を受ける人物なら、その本人に院号を授けられらる者はいなかったとも考えられるだろう。

むしろ、他の地域では違ったとしても、「中世厚真だからこそ」仏教,修験の要素を考えるべきでは?

 

如何であろうか?

まずは、見たまま、感じたままを報告した。

これもある意味、北海道(有珠善光寺)と本州(信州善光寺)との事例比較の延長上ではある。

端から北海道と本州の事例比較が甘いのだから、やってみれば良いだけの事。

割と従来指摘された事を「修験に置き換える」と、矛盾は消えたりする。

まだまだ、事例比較を始めたばかり。

立証迄は遠い学びの先、ゆっくり紐解けば良い事。

これから、これから。

先は長い…まずは、忘れぬ様に備忘録。