北海道弾丸ツアー第三段、「様似篇」…観音山に石垣はあるか?、金鉱山の痕跡は?、秋田県民との意外な繋がり?、そして伝説の「キリシタナイ」は何処か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

さて、サクサク報告を続けよう。

三つの主テーマの中で、最も興味があった場所…それが「様似町」だ。

余市に続き、ずーっと行ってみたかった場所だった。

これはエンルム岬中腹より…

故に今回の最終目的地は、様似だったのだ。

では、題目にある4点の順に報告しよう。

 

①観音山に石垣はあるか?

観音山とはこんなとこ。

様似自体は火山系岩石が海の侵食らで残り、海側に奇岩がポコポコあるのだが、浜側にある小高い丘で、展望台からの眺めは海の奇岩を一望出来る。

元は「円山」と呼ばれたらしいが、明治に三官寺等澍院の住職が三十三観音を建ててから観音山と呼ばれる様になった。

そこから奥には「カムイチャシ跡」の石碑があり、十勝との抗争に纏わる話が…筆者的にはそちらには興味無し。

この辺迄はググると出てくる。

元が岩山なので、あちこちに岩はあるのだが、斜面は木や草で石垣は見えない…

なんてので終わりはしない。

カムイチャシ跡碑の右奥の崖から見えた。

不動明王と○○之命?

左の真ん中辺り、字は読めず。

右端、やはり字は読めず。

他に一箇所、溝状に開いてるが、石碑は見えず。

崖の途中のスペースと斜面を使い、石碑が数基ある。

掲示板に無いし、お供えらも無いので、あまり知られてないのだろう。

風化の具合を見ると、多分明治に作られた三十三観音像よりは古そうだが、石碑が倒れてるので踏んづけそうで近くには寄れなかった。

推定4基の石碑。

最初の写真を見る限りでは神仏習合の祠になるか?

よく見ると、石碑を石塁で取囲み「垣」を作ってる様だ…それもC型に。

まさか、これでカムイチャシ?

まぁ半月状の空堀を石塁で代替すればこんな風になるか。

よく解らない。

いずれ、我々の中世城館の定義では、石碑が新しいのはアウトだが、石塁と言う観念ではセーフになる。

忘れられた神仏習合の石碑…これは後から確認するしかない。

 

②金鉱山の痕跡…

これはズバリである。

「様似郷土館」の常設展示より。

東金山金鉱跡の石臼の模様。

様似町史より。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849

これが正に、キリシタナイ中心とした様似の黄金伝説を支えた金鉱山跡。

添付にある様に、様似周辺は、川の上流だけではなく、浜側の小川らでも砂金が採れたらしい。

確かに、新冠→静内→三石→浦河と割と海岸沿いの国道を走ると、断崖絶壁と海辺の間を抜けて行くのだが、様似、特に本町を抜けてからの山側が小川又は小川の跡?みたいな地形が妙に目に入り、それまでと地形が違うなと思わされていた。

これも砂金を採った跡なのだろうか?

先のエンルム岬も含めて、この一帯は同じ岩質で、薄いなりだが鉱脈が一箇所あれば、他にもある可能性があるだろう。

石臼はあれど、金山跡そのものの発掘らはしていない様だ。

石臼を見て感動する筆者を見て学芸員さんは驚いていたが、往古の北海道の金がどの程度のインパクトを持っていたか?…これが解れば見え方が変わるハズ、と言ったら、行ってみたいとの事。

大凡の場所までは調べてはいる模様。

発掘されれば、多くの情報が手に入るハズなのだが…

 

③等澍院と秋田県民との不思議な繋がり?

等澍院は三官寺。

当然ながら、和尚の日記や過去帳らは残され、他の三官寺、有珠善光寺、厚岸国泰寺同様に重文となっている。

さて、展示パネル。

「等澍院古文書・金子本 (複写 )

等澍院の古文書(住職記)を最初に解読したのが金子綱友という人であったことからこの解読書を金子本と呼んでいます。

昭和11年(1936)の暮、一人の浮浪者風の男が等澍院を訪れ、等澍院文書の閲覧をこうた。この旅人こそ金子綱友氏でした。

彼は3ヶ月かけ全13巻に及ぶ等澍院文書の解読を手掛け、翌12年春に完了しています。

当時の住職大久保智行師によると、「彼は、金山を探して歩く山師で、秋田の男鹿半島から来たという」。 解読については、ほとんど間違いがなく、 もともとその道の学識経験の豊かな人であったのでは······。 なんとも不思議な人でした。

後の調査で分かったことですが、金子氏は明治27年(1894) 秋田県で 生まれ、大正時代「樺太日々新聞」の記者を経て、趣味の古文書研究に 打ち込み、特に蝦夷三官寺に興味を持ち、有珠(伊達市)の善光寺に70 日間滞在しています。 その後、等澍院文書の解読に当たり、戦後は砂金にのめり込み、大樹町の山奥で笹小屋を建て自給自足の仙人生活を送 っていたという。」

人物で、有珠善光寺にも関与した模様。

秋田で金子家といえば、久保田城下の大町の豪商(大町は、佐竹氏入部の折に秋田湊の商人を移住させて整備された)の一族や寺内地区(古代城柵「秋田城」がある地域)と、現土崎に北陸からの移住者が住み着く前から居る一族では?

なかなか興味深い話だ。

とは言え、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847

本件は明治だが、江戸期の加賀伝蔵の如く、江戸期から秋田出身者はポツポツ見受けられる。

厚真で聞いた話…

学芸員さんは奥尻島着任経験があったそうだが、秋田出身者が多いとの事。

別に、北海道の歴史は明治から始まった訳ではない。

 

④キリシタナイは何処か?…

では、キリシタナイは何処か?

海辺川は観音山の西側で、河口付近だとある。

展示パネルでは、

親子岩の付近とある。

下の写真で、赤○が親子岩、紫線は海辺川の川筋。

整合される場所は、黄色いマーキングの周辺、つまり現「西町」付近にあった事になる。

遺跡の話は、時間都合で出来なかった。

また宿題になったか。

 

その他…

この日高周辺を車で移動してみて、砂浜は偶にあるが、狭い。

昆布を乾かす風景をあちこち見かけた。

で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

製塩は厳しいかも知れない。

野辺地で製塩し北海道へ送ったというのは、車で走った限りでは理解出来る。

勿論、塩田より古い古代製塩だろうが、製塩土器が検出される野辺地や六ケ所,十二湖周辺の砂浜のダダッ広さとは、まるで違う。

 

さて、如何であろうか?

等澍院や住吉神社ら寺社にも寄ってみたが、ご不在らであちこちで話を伺う事は出来なかった。

奇岩浮かぶ美しい景色、またゆっくり回ってみたい場所である。

付記すれば、様似会所付近から陸側周辺含めて、割と古い町並みは残ると思う。

会所や運上所が有る=江戸期から人が住み活動している事になる。

極当然だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327

少なくとも北前船就航後…いやその前から、北海道の日常を動かしたのは「民」…民間だし、開拓、開拓と言ったって、世俗化やら屯田兵,移住政策をとっていたのは明治政府の前、幕藩体制下の江戸期から。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/22/053602

経済や宗教に着目すれば、そんなもん解ると思うが。

開拓使以前の状況を一次文書から学べば、全然違う見方になると思うが…不思議なんだよね、それを引用しないから。

 

と、言う訳で、次へ飛ぶ…