略年表の拡大…「有珠善光寺」付近の状況を並べてみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/13/082543
前項に引き続き、少々胆振~十勝の略年表を増強してみよう。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
有珠善光寺である。
実は「北海道キリシタン史資料」には、「織部燈籠」への記載がある。
記事中の説明では道内には五本、
札幌…八窓庵庭園
松前松前墓所×2、他×1
そして有珠善光寺の参道
有珠善光寺のものは、松前氏が寛永年間に有珠善光寺再興時に安置し、長年月を経て竿石のみになったと寺伝にあるとの事。
織部燈籠」はキリシタンとの関連を示唆する論、否定する論と真っ二つに分かれる。
竿石が十字に見える事、竿石に菩薩らが彫られる事等、古田織部小堀遠州キリシタン大名と繋がりが深い事らが主な理由。
どちらなのか決め手は無い様で、カトリック史研究は肯定的、歴史研究では否定的と言うところか。
有珠善光寺の物は、竿石上部にクリスモン(十字架らとギリシャ文字の複合文字)があるようだが、筆者としては未確認。
だが、これもその燈籠単品で捉えず、周囲との関連性を含め、歴史的事象と並べてみようかと考える訳だ。


ところで「北海道キリシタン史資料」には、「謎の念仏集団」の一説の現文が引用されているので、ますはそこから。
松前より五日程東宇諏(筆者註:有珠)の入江と云う所は佳景の地たり。遠に山限に至り入江数(々)あり。其中、島山多くして日域の松嶋の佳景に劣らず、爰に往古人間数百家住みし時、善光寺如来の御堂の旧跡有り。時々称名の声鉦鼓の音夷聞く事有りて、奇異の思を為すと云う。同十七年冬、夢を告を蒙るに依て、同十八年五月一日、船に乗り彼の所に詣で、再興して如来の御堂を建立せしむなり。(新北海道史 第七巻史料一)」

「北海道キリシタン史資料」 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10 より引用…

疑問に思う事…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
有珠善光寺付近には畑があり、往古は数百軒の家があった…これは一致。
だが、その中に「夷」の人々の痕跡は無い。
つまりそのまま考えたら、ここに「夷」の人々が共生していなければ、降灰タイミングと再興時期の辻褄が合わなくなるのだ。
まぁその辺の謎も明らかにする意味もある訳で…


では、前頃の略年表の一部に組み合わせてみよう。
有珠善光寺に絡む部分の先頭には「」で括る。


・1613年
①コンスタンツォがキリシタン医師を松前へ派遣(松前公の要請)。
江戸幕府、改めて禁教令発布
松前慶広公、如来堂を再興し「善光寺」再興」

1616年
松前慶広公没(慶広公は鉱山開発に消極的)
②金山開山へ軌道修正し、福島,松前両町で砂金採掘開始

・1618~1622年
アンジェリス&カルバリオ神父がそれぞれ二度訪道

・1621年
①知内川沿い開山
②仙台出身金師の喜介の元、厚沢部,檜山,上ノ国周辺を開山

・1623年
アンジェリス神父殉教

・1624年
カルバリオ神父殉教
②アダミ,ポルロ両神父の訪道の話あり
寛永年間開始(~1643)、この何処かで「織部燈籠」設置の伝承」

・1625年
アンジェリス神父の「蝦夷国報告」が印刷、全ヨーロッパへ配布

・1628年
大千軒岳開山

・1629年
モレホン神父が「松前カルバリオ神父から洗礼を受けた者6名が米沢藩で火刑」と報告

・1630年
アダミ,ポルロ両神父が津軽に赴き蝦夷渡航企ての話

・1631年
キリシタンの児玉喜左ヱ門、松前藩金山小吏となる。

・1633年
沙流ケノマイ,シブチャリ開山

・1635年
南部藩の宗門改めで「松前に「伊勢嘉右衛門」と言うキリシタン(司教?水方?)が居ると発覚」
②様似(運別),国縫,夕張開山

・1637年
「福山館火災。種々記録が焼失。」

・1638年
「家老下国宮内尉慶季が鰐口を奉納」

・1639年
大千軒岳の大弾圧及び殉教

・1640年
駒ヶ岳Ko-d降灰、8mの津波伴う
(様似の東金山落盤?)

・1644年
仙台藩の転び人の白状により、様似で児玉喜左ヱ門捕らえられる(キリシタナイとの伝承)

・1646年
松前景広により、系図史書を兼ねたが近江国園城寺三井寺)境内の新羅神社に奉納される…新羅之記録成立」

・1648年
シブチャリのカモクタイン(シャクシャイン)とハエの鬼菱が抗争開始

・1649年
松前藩、初めて幕府へキリシタン宗門簿を提出。

・1653年
鬼菱がカモクタインを討つ

・1655年
鬼菱とシャクシャイン、福山で和睦

・1662年
鬼菱とシャクシャイン再び抗争開始

・1663年
有珠山us-b降灰
「家屋が埋没し消失。5名の死者。」

・1666年
円空が有珠来訪、円空仏奉納」

・1667年
樽前山Ta-b降灰
※「有珠4遺跡ら周辺の遺跡より畑跡が消え、廃絶される」

・1668年
鬼菱がシャクシャインに討たれ、争乱拡大

・1669年
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)勃発
同年、シャクシャイン一党和睦、酒宴の席で処刑。
また、シャクシャインに与した庄太夫を火刑に処す

・1670年
ハウカセら西蝦夷の乙名らが不穏として余市にへ進軍、服従の誓詞を取る

・1671年
松前藩の「宗門制度」完成
②改めて東蝦夷地へ進軍、白老で服従の誓詞を取り、同年中で全乙名より誓詞を取る。

・1673年
松前藩キリシタン宗門を厳禁と触れを出し、幕府へ「古切支丹類族帳」提出。
松前では、キリシタン本人より上二代、下五代を「非人扱い」とする

・1682年
改めて禁教高札。
訴え者への報償金制度確立。

・1687年
松前藩キリシタン調査状況を幕府へ報告。
因みに類族死亡時は塩漬けにし、宗門改方の指示を仰ぐ指示を出す。
②生類憐れみ令(鷹狩猟にダメージあれど無くならず)

・1691年
宗門改時、名主と五人組は寺判を示す様に通達。

・1692年
幕府へ「古切支丹類族帳」提出。
この年の家老松前広時の日記の約一割はキリシタン関係だったと松前町史にあり。

・1694年
駒ヶ岳Ko-C2降灰

・1697年
宗門改が年一度十月に行われる事になる

・1704年
越前国の正光空念が大乗妙典法華経一部を奉納(元録納経記より)」

・1716年
松前町史ではこの年から1735年(享保年間)に松前ではキリシタン消滅とあり

・1716年
津軽本覚寺住職の貞伝が、善光寺阿弥陀如来像を奉納」

1717年
「火災が発生、本堂のみ残る」

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる

・1753年
「飛騨屋久兵衛、半鐘寄進」

・1804年
「等澍院、国泰寺と共に三官寺に設定」
有珠善光寺で夷人のキリシタン吟味の記録」


一応、主だった有珠善光寺の記述を三官寺設定まで抜粋し重ねた。
寺伝によると、
f:id:tekkenoyaji:20210630052539p:plain
1663年のUs-b降灰後、右下の「地蔵堂」の位置から左上の現在有珠善光寺がある位置へ移動されている。
1717年に本堂以外は火山焼失しているので、菅江真澄が訪れた時の描写はその本堂と修復された付随施設になるのだろう。
ご覧の通り、寛永年間に設置されたとすれば…
有珠善光寺は、地蔵堂の周辺にあった
有珠山爆発で埋没し、現在の位置へ移設
③この時に竿石のみ持ち出された
となり、特にキリシタン弾圧に絡めずとも、爆発の地震により倒壊して移動されたでも説明は可能となる。
むしろ織部燈籠は茶室に設置される特性を持つので、地蔵堂位置時代には、風光明媚な有珠湾を望む事が可能な茶室を持った形式の寺であった可能性まである。
現在迄地蔵堂周辺は発掘をしていないようなので、「有珠善光寺遺跡」に古有珠善光寺跡が見つかるハズも無いし、無くて当然なのだろう。
ましてや有珠善光寺山号は「大臼山」。
大臼山神社が地蔵堂と同じ丘にある事を考えれば、そちらが古有珠善光寺の本命と考えるのが合理的なのだろう。
そして寛永年間であらば、もはやゴールドラッシュは開始されており、キリシタンである人物が持ち込む可能性もある。
ここでも、どちらでも説明はついてしまう訳だ。
有珠善光寺の姿が見えない以上、決め手は無いと言う事になる。

さて…
先述の疑問である。
もう一度見て戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
新羅之記録は1646年成立とされる。
この段階で、有珠周辺の遺跡には畑跡が検出され「夷」の人々の痕跡は無い。
何せ蝦夷衆が農耕をしないと書いているのはそれら古書記述によるし、実際後世に遺跡にある規模での農耕はやっていなかっただろう。
まさに「往古の姿」は新羅之記録成立時点で広がっており、1640年の駒ヶ岳爆発,降灰,地震,津波でさえ乗り越えた形跡があるし、1638年に鰐口奉納。
ここでは遺跡の状況と一致しているのは寺伝の方。
新羅之記録は、それより後の時代にそれらを見ている事になる。
とすれば、松前公の功績を盛る為に後世の写本段階で書き替えられた…こう考えるのが妥当ではないか?。
考えられるのは、
①夜な夜な聞こえる念仏集団の話は、ずっと後世の事で、再興の話と絡めくっ付けた
②その話自体が嘘
松前氏自身が有珠周辺の状況を知らなかった
と、なってくる。
③を除けは、東蝦夷地とされてはいるが、降灰前迄はちゃんと松前氏が行き来出来る場所であり、そこには農耕をし有珠善光寺を信仰しながら暮らす姿が浮かび上がると思われるのだが、如何であろうか?
つまり、この有珠湾周辺に於いては「中世アイノ」は幻想になるか、若しくは普通に共生していなければおかしくなる。
新羅之記録の方が辻褄が合わぬのだ。

この様に地域毎に丁寧に、事実として動かせぬ事(例えば降灰や考古学的遺構,遺物)を基点に事象を並べ、おかしな部分を排除し更新していけば、自ずと「真北海道史」に近付いていく。
既成概念なぞ排除。
事実のみ追い掛け、組み立て直してから比較すれば良い「だけ」である。



参考文献:

「北海道キリシタン史資料」 泉隆 山音文学会 昭和49・3 10