北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝−2…山形県の「ケルン(ケールン)?」と「天神山の石組遺構」についての備忘録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/18/054340

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝…「鍋被り」の風習の東北での実績は?」…

こちらを前項として、山形県での備忘録として二題寄り道をしておく。

理由は簡単である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…この様に、余市の石塁の源流を探すべく、中世城館を当り始め、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?」…修験道へ至っている訳で。

当然、信仰系での石積みも追わぬ訳にはいかない。

では…

 

①「ケルン?」とは?

実は「中世墓資料集成−東北編−」を検索している時に、たまたまこの「集石墓(ケルン状の石組)」という記述を見つけてしまった。

ケルン=ケールンといえば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/17/060823

余市の石積みの源流候補としての備忘録-7…北海道に散見される「ケールン」とはどんなもの?」…北海道で結構使われていた表現だ。

記述があるのは鶴岡市「神社口遺跡」13世紀で、添付資料は、

この写真一枚のみ。

「骨蔵器が出土、蓋は擂鉢を転用」との記述のみ、集石墓の本体への記述は無し。

と、言う訳で、同書の引用元である文献を入手した。

発掘の経緯と状況は地の方が、

「通称裏山に下刈を行っていたとき偶然に、石が一ヵ所におびただしく露呈していたところを見つけ、掘ったところ、地 表下1-1.3m より(筆者註∶写真の壷を)発見したものである。遺跡地は鶴岡市大字西目字神社口56の1。鶴岡の西方で俗に西山といわれる荒倉山を主峰とする西部丘陵の東側、平野に面している一支丘に存在する。 20数mの丘頂上にあり、東西幅約1.2mの内部には長径3cm程の河原石がぎっしりつまっているという。 出土品はここに紹介する蔵骨器としての中世陶器の遺物のみで〜後略」

鶴岡市大字西目字神社口出土の中世陶器」  酒井英一  『山形考古 第3巻 第1号』  山形考古学会  1977.11.10  より引用…

と、言う訳で、ケルンについての詳細は常軌しか記載ない。

地の方が作業中に見つけて掘ってしまったものなのでやむを得ずか。

で、意気消沈しここで終わったら「あきらめたらそこで試合終了ですよ」…と言われてしまいそうなので、「中世墓資料集成−東北編−」から類例を探してみた。

これがあるのが羽黒山への入口たる鶴岡市

鶴岡市「水沢経塚」12〜13世紀だそうだ。

同書より、

「積石塚。地表から1.4mの石室から出土。」

「経筒 (高さ26cm、径13cm、 銅板製、鋲留め) ・木製経筒・刀子5本。」

勿論、木製の箱に入った銅製経筒と骨蔵器では、塚内部のサイズは変わるだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421

「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…この様に、集石塚のカウント数は18と山形県はダントツ。

未発掘でまだ確認されてないものや破壊されてしまったものはありそうだ。

これならケールンと言っても納得である。

つまり、先の中世城館のデータに追加すれば、他地域との差は更に開いてくる。

何らか出羽三山信仰に関わると考えるのは容易だろう。

 

②「天神山の石組遺構」…

ここは以前SNSで石積みがあると話を教えて戴いていた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752

「秋田の中世城館の石積み、続報…特別ミッション、秋田の「蝦夷館」に石積みはあるか?」…この情報を下さった方が、山形での中世城館資料を探している時に教えて戴いてた。

が、その時は中世城館として登録されていない様で探す事が出来なかった経緯があるのだが、①で「ケルン?」の文献を入手したら「天神山の石組遺構」の発掘概報も記載があったと言う「瓢箪から駒」である。

たまにあるケース…

バッサリどんなものかと言えば…

こうなる。

山形市「天神山遺跡」は山頂に天神様を祀る祠があり、そこに繋がる尾根上のルート上に分布している。

昭和41年に第2地点でテストピットを掘り、土師器検出、昭和46年に第1地点(参道入口)、この報告が3度目の様だ。

石組遺構は第1地点,第3地点で検出されており、

・第1地点…

20~30cmの石英粗面岩の角礫で、内法45×90cm、深さ20cmの石組を構築、内部には焼土と木炭片があり石組内部も比熱痕あり。

・第3地点…

石組遺構は東にある径120cm×高さ130cm巨石の西側に接し、30~50cmの石英粗面岩角礫を配し、内法110×40cm,深さ35cm。

内部には焼土堆積、底部には多量の木炭片が検出。

配石状遺構は、巨石の南側に20~30cmの石英粗面岩角礫で260×40cm斜面にそって並べられている。

また石組遺構,配石状遺構に接して土壇状の焼土堆積があり、板状の工具で叩いて突き詰めた様な跡がある。

出土遺物は第1〜第3共に土師器、ほぼ同時代のものと推定、ほぼ実用的なものだとしている。

と、三枚の写真の最初が全体像の概図だが、参道になる南側尾根の逆、北側斜面が頂上に向かって三段の土壇状になり、それぞれの段は平滑された跡がある様で。

…あれ?、何処かでそんな構造を見掛けた事があるような…

もとい…

第3地点の発掘故、この部分についての考察があるが、

「第3地点では、石組遺構や土壌状遺構の下位か ほぼ正位の状態で土師器が検出されている。

巨石の東側にこれらの土器群をおいて火をたき、さらにその上に石組遺構や土壇状の遺構をして火をたいているという一連の状況を把握できる。 第1地点調査の段階では、遺構のあり方や遺跡の立地等から一種の祭祀的な性格をもつ遺跡であろうと予察されたが、第3地点では、遺構はいずれも巨石を依代として営まれており 、巨石の大きさなどからしても遺構に伴う付属的なものとは考えられず、石組遺構や土壇状遺構の下位より出土した土師器群はあたかも巨石に対し供献されたような状況を呈している。

このように遺構や遺物の出土状況等から巨石に 対する一種の祭祀遺跡であろうと思われる。遺跡における対象は種々のものがあるが自然物を 対象とするのは比較的多いようである。」

山形市天神遺跡調査概要−第3地点を中心にして−」  茨木光祐・横戸昭二  『山形考古 第3巻 第1号』  山形考古学会  1977.11.10  より引用…

と、言うように「祭祀遺跡」と推定している模様。

一連東北と北陸の墓制を見ているが、第1地点の石組遺構は墓で近似のものは見掛けるが、人骨片は見つかっていない様だ。

さて、「天神山遺跡」が後に再発掘されているか?らは、現時点で全く調べていない。

北側の構造が「古墳」っぽい気もするが、後の再発掘らは解らないし、中世城館登録されていなかったので古墳や寺社として認識されたんだろうとは予想出来るが。

後の経緯が解らないので備忘録。

巨石系の検出とすれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/03/202211

余市の石積みの源流候補としての備忘録−3…岩手県の中世城館の傾向はどうか?、更に「蝦夷館」考」…岩手県矢巾町の岩清水館,煙山館を思い出す。

「館神」と言う考え方を知ってしまえば、城館と寺社の差の敷居は低くなるので、本当はどちらか?は発掘しない限り解らないだろう。

土壇状遺構を伴う祭祀場(又は墳墓)は北陸にもあるので、これも有りと言えばあり。

勿論、修験系との関与を想定されるもの。

また、途中でゴニョゴニョ書いたが、土壇で思い浮かぶのは

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949

「時系列上の矛盾…瀬棚町「瀬田内チャシ」は江戸期の物、中世迄遡るのは難しいと報告されていた」…これだったりする。

ありがちな、防御性環壕集落→中世城館への作り替え…の様な「再利用」があったか。

まぁ邪推はここまで。

 

如何だろうか?

昨今、思うのだ。

全体を発掘し「これは◯◯である」と判明する場合は別として、途中過程にある遺構は本当はどちらなのだろうか?と。

勿論、それは施設共用されるので明確に分ける事は難しいのだが。

城館の専門家は「これは城」と言い、宗教の専門家は「これは寺社」と言い、筆者の様なド素人は「どっちやねん?」と考える。

「垣」と言う共通施設を持つから当然の疑問なのだが。

これもある意味「定義」の問題なのだろう。

まぁそこはそれぞれの系譜を追えば少しずつ理解出来て来るのだろう。

 

さて、なんでこんな事を書くか?

それは今迄本ブログを読んで戴いてきた方なら解るだろう。

「定義」の問題。

仮に「アイノ文化の源流に修験有り」が成立するならば、

中世城館と宗教施設の差は?

中世城館とチャシの差は?

なら、チャシと宗教施設の差は?

それを作った目的?と作った者は誰か?

その時点でそこに住む者は誰だったのか?

これら疑問も同様だからだ。

 

まぁこの項は寄り道。

とは言え、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

少なくとも、余市ではここでの「方形配石荼毘墓」と石塁の一致をみる。

駒が揃う事になる。

まぁ、ゆっくり学んでいくとする…

 

 

参考文献:

「中世墓資料集成−東北編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月

 

鶴岡市大字西目字神社口出土の中世陶器」  酒井英一  『山形考古 第3巻 第1号』  山形考古学会  1977.11.10

 

山形市天神遺跡調査概要−第3地点を中心にして−」  茨木光祐・横戸昭二  『山形考古 第3巻 第1号』  山形考古学会  1977.11.10

北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421

「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…前項はこちら。

では、前項に準じ、山形より南、北陸へその傾向を伸ばしてみよう。

抽出方法は前項同様。

まずはその傾向を見ていく事が最優先…深掘りの為の叩き台。

では抽出データより。

一つだけ注意点。

東北でガラス玉や水晶の検出があった。

ここ北陸ではそういう記載ではなく、ズバリ「数珠」と記載されたものが検出され、材質記載が無い。一応、数珠はガラス玉,水晶に上げていく。

 

A,新潟県

・遺跡総数

900

・土葬or火葬

土葬→11

火葬→14    

・特徴ある副葬

古銭→17

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→4

刀剣(刀子含む)→2

陶器,かわらけ→14

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→8

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→0

布→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

B,富山県

・遺跡総数

118

・土葬or火葬

土葬→11

火葬→16     

・特徴ある副葬

古銭→17

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→4

刀剣(刀子含む)→0

陶器,かわらけ→14

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→7

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→0

布→1

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→3

 

C,石川県

・遺跡総数

114

・土葬or火葬

土葬→25

火葬→48     

・特徴ある副葬

古銭→14

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→5

陶器,かわらけ→51

漆器→3

仏具(五輪塔,板碑含む)→36

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→1

布→0

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→3

 

D,福井県

・遺跡総数

44

・土葬or火葬

土葬→1

火葬→6     

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→1

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→0

陶器,かわらけ→4

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→2

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→1

布→0

石帯→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

以上である。

まずは、新潟と福井の総数とカウント数の差違だが、板碑や五輪塔として検出、

発掘調査を行っていない事例が多い為である。

逆に石川では、割と土葬,火葬も含めて発掘内容が記載されており、カウント数が自然と多くなる傾向はある。

この辺は資料を纏めるに当り、各県の埋文担当らに執筆依頼した様なので、東北編でもそのニュアンスは各県毎に違う。

その辺は予測出来たので、なるべく同じシリーズの資料集(統一された依頼内容)で比較したかったのはある。

では、考察していこう。

 

A,土葬or火葬…

北陸では、カウント数が多い石川の事例ではある程度ハッキリ火葬優位だが、他は割と同数位。

これは発掘数が増えてくれば変わってくる可能性はある。

添付された発掘調査報告らの資料で、明確に石を敷き詰められた遺構且つ人骨が伴わないものが増えカウント出来ないものが増えてくるからだ。

また、割と両方検出されるものが多いのは、近辺に寺社がありそれに付帯した墓地である事が多く、同時に存続期間が長く途中で変化するからだろう。

勿論土葬→火葬の傾向はある。

そう考えると、石川の事例傾向が実態に近いかも知れない。

また、土葬に於ける南北、東西の方向だが、やはり南北向きが多い様に見受けられるが、局部的にはこんな事例もある。

新潟県「柏崎町遺跡」、15~17世紀だが同書から引用してみる。

「重複が激しく発掘中に下部から新たな墓壙が検出されることも多かった。楕円形を呈するものが主体で、主軸はおおむね真北一真南を指向するものが多いが真東一真西を示すものも少なくなかった。」

白磁,肥前,青磁,土師器,珠洲, フイゴ羽口,銭貨,砥石」

楕円形の土壙墓ではあるが、東北同様に東北方向を向くものもある。

 

B,特徴ある副葬について… 

先述のハッキリ「数珠」と書かれた事例やA,で何気に引用した「柏崎町遺跡」にあるのが「フイゴ羽口」。

実は鉄滓の副葬の記載が他に二箇所。

これは何を意味するのだろうか?

鍛冶の墓だから?なかなか興味深い。

石川の事例である「漆器」だが、その内の一つは漆器椀ではなく「烏帽子」である。

以前の報告、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/08/065833

「「川連漆器」等の元祖は平安期?を考える為の備忘録…中世領主達が種を撒き、佐竹公が育てて刈り取る②」…この項で雄物川町歴史民俗資料館の「発掘された横手」特別展の話を紹介したが、実はこの特別展でも、

烏帽子の出土があった。

全国的にも珍しい様で、石川の事例は白山市「中村ゴウデン遺跡」12世紀の木棺で北頭位だそうだ。

平安末〜鎌倉期位であろうか。

とすると、地頭やそれに類する地位の人物になるのかも知れない。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

前項で触れた周溝墓だが、さすがに北陸では明確にこれだと言うものは1基のみ、且つ北向きではあるが、富山県高岡市「中保B遺跡」で検出している。

また同書本文から引用してみよう。13世紀と考えられる。

「木棺墓SZ03 (2.5m×1m×0.5) U字 形の周溝を持つSZ04(2.4m×1.5m ×0.5m)」

「SZ03(筆者註:木棺内検出):漆器椀1 皿3 三足盤、 SZ04(筆者註:周溝内検出): 鉄刀鞘・漆器皿2」

「古代からの船着き場の近辺に立地し、周辺に掘立柱建物がある。」

とある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/10/210140

「「阿光坊古墳群」に残される墓参と思われる痕跡…末期古墳を作った人々の断片と製鉄ルート」…ここで報告した様に、この手の「周溝を伴う木棺墓」が末期古墳の延長線上にあるとすれば、北海道〜北東北で検出されている周溝墓はより古い型を残している事になるのか?

同時にそうなら、周溝部分へ副葬された刀剣,漆器は墓参の存在を示す事に。

北東北から離れての検出ではあるが、「古代からの船着き場」…これで何となく納得出来てしまう気がする。

日本海ルート上の湊や船着き場なら、船乗りとして訪れる可能性が出てくるだろう。

 

D,集石塚について…

山形の事例らと比べて数が少なく、且つ富山と石川に限定される。

集石塚と言えば、この手の形を思い浮かべるだろう。

北陸にも土の塚はあるし、東北では見掛けない「3段位の土壇」、そして火葬施設としての敷石を伴う形に

変わっていく。

塚状に積み上げる訳ではなく、敷いている感じか。

では、昨日、たまたまSNS上で出た話に触れる。

相互フォロワーさんらとアイノ文化の定義の話に。

そこで出た話から、検索したところ、関連ワード「方形配石荼毘墓」が。

 

「筆者は、コシャマインの戦い以前、すなわち13 世紀から 15 世紀前半までの初期アイヌ文化にみられる方形配石荼毘墓、ワイヤー製装身具、小型のトンボ玉・メノウ玉、金属板象嵌技法は、いずれも大陸に由来すると考える。そして 15 世紀後半以降、アイヌ文化における大陸的要素は急速に希薄になると考える。」

「出土資料からみたアイヌ文化の特色」  関根達人  2012-03-31  より引用…

関根氏が初期アイノ文化の特徴として挙げた「方形配石荼毘墓」の事例は、「伊達市オヤコツ遺跡方形配石墓Ⅰ・Ⅱ号」と「余市町大川遺跡迂回路地点 P-41」の二箇所が該当し、これが、アムール川流域の「パクロフカ文化(アムール女真)」と共通点を持つと指摘する。

11世紀の遺跡らしい。

実はその時、筆者は正にこの項を書くべく「中世墓資料集成−北陸編−」と格闘していただが、これを…

・富山の南砺市「香城寺惣堂遺跡」13後〜14初世紀。

富山の「医王山信仰」に纏わるものと考えられる。

・石川の七尾市「上町マンダラ中世墳墓群」14〜16前世紀。

配石墓64基以上、火葬ピット14基以上、周辺の在地領主一族の集団墓で被葬者は200人以上推定。

・石川の「宮竹墓谷中世墳」13後〜15世紀。

三段状のテラス造成、石塔類を配し方形区画した配石墓群。

区画数の割に火葬骨と蔵骨器の出土数が少ないらしい。

筆者的には、この辺が本命なのではないかと考えたりする。

石川の白山市白山町「白山遺跡・白山町墳墓遺跡」13前,14後〜16前世紀で、中世白山宮に付随した社僧坊群敷地内の土葬墓と火葬墓の火葬墓側。

まだまだあるが、キリがない。

東北の出羽三山は石積塚を作るが、北陸ではこんな風に方形区画を設けた配石墓を作る様だ。

筆者は疑問である。

わざわざ二百年離れ、長い航海を必要とする大陸に起源を求めるのか?

同時代、それも「新羅之記録史観」での「武田信広」の出身地である北陸に起源を求めれば良いのではないか?似た墳墓群がボコボコにある。

ここで、北陸、こと富山と石川をクローズアップしてみよう。

まだ北陸の地方史書は入手していないのでウィキから。

富山…

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%BB%E7%8E%8B%E6%A8%A9%E7%8F%BE

医王山信仰。

「医王山は中世には白山・石動山と並んで北陸の修験道場の一大拠点として隆盛し、48寺・約3,000坊もあったと伝わる。医王山の伽藍諸坊は、文明13年(1481年)に瑞泉寺一向宗門徒との戦いに敗れ、全山が焼き払われてしまったという[1]。」

石川…

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%95%E5%B1%B1

石動山信仰…

鎌倉時代には真言系の修験道者によって伽藍堂宇が造営されて神仏習合の「石動寺」と称されるようになった[4]。

南北朝時代初頭の1335年、建武の乱が起こると朝廷側の越中国司中院定清をかくまったため、足利尊氏に呼応した同国守護普門俊清に焼き討ちされて一時衰退した(一度目の石動山合戦)[3][4][7]。その後、足利将軍家の支援で堂塔などが再建され、京都の真言宗勧修寺の末寺となったことで「天平寺」を称するようになった[4]。

天正10年(1582年)には越後国の上杉家に逃げ込んでいた能登の温井景隆らが石動山衆徒と組んで石動山から峰続きの荒山砦に籠城したが、織田信長の家臣である前田利家や佐久間盛政らにより陥落し再び焼き討ちに遭った(二度目の石動山合戦、荒山合戦)[3][4]。」

そして、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%BF%A1%E4%BB%B0

白山信仰

「白山修験は熊野修験に次ぐ勢力だったといい、特に南北朝時代北朝方の高師直が吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となった際には、吉野熊野三山間の入峯が途絶したため、白山修験が勢力を伸ばし、日本全国に白山信仰が広まった[7]。

源平盛衰記』や『平家物語』に記された白山衆徒(僧兵)が、対立した加賀国守を追放した安元事件に代表されるように、加賀国では白山修験は一向宗加賀一向一揆)と並んで強大な軍事力を有する教団勢力として恐れられた。しかし、戦国時代には一向宗門徒によって焼き討ちにされて加賀国では教団勢力は衰退したが、江戸時代になると加賀藩主前田家の支援により復興された。

白山修験の僧兵は山門(延暦寺)の僧兵と結びつき、特に霊応山平泉寺は最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝わる。」

これら修験の山には、開山や伝承に白山信仰を開いた「泰澄」が絡む様で。

上記引用は、各山の盛衰や戦乱に纏わる部分。

南北朝応仁の乱後の混乱や一向一揆の台頭や吉野,熊野の峰入中止らで勢力の増減があったと伝わる様だ。

つまり、敵対勢力から逃げる為、又は勢力拡大の為に一部又は大勢が移動する理由がある。

関根氏指摘のコシャマインの乱は、応仁の乱の後位。

それ以前から日本海の交易ルートを使用して北上をする事は有り得る事になる。

これ、関根氏指摘の初期アイノ文化の時期と被る。

途中には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…「立川町史」にある様に、出羽三山の霞が控える。

何せ鎌倉幕府に対してもエグい要求を突き付ける勢力。

受け入れられれば無事は保証されるだろうが、ダメなら?

更に北上するしかない。

仮に南北朝位、しかも比叡山系なら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214

津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観」…十三湊や南下仕立の男鹿半島で安東氏が受け入れたかも知れない。

それも叶わねば、再北上…

文献と遺物を組み合わせればこんな感じであろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…厚真でご教示戴いた「アイノ文化の源流に修験有り」…これと合致してくる。

なら、各地に残る「北海道中世墓の被葬者」は誰なのか?

前項にある様に、夷王山墳墓群は複数の墓制を持つ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…近現代でも墓制はごちゃ混ぜで同様の傾向。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…タダでなくても、中世遺跡が限定される中、墓制で区別可能なのだろうか?

まぁ身も蓋もないので、話しを元に戻す。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505

日本海交易拡大を計る戦国大名達…「朝倉義景公」「上杉謙信公」から「安東愛季公」への書状」…この様に、室町〜戦国段階で、越前の朝倉氏と秋田湊の湊(上国)安東氏は好を結び、桧山と湊統一後の安東愛季には、朝倉氏や越後の上杉氏が書状を送り、特に上杉は「船を回す」と記述している。

この段階では、商船ベースで武将間同士でも交渉ルートを持っていたと考えられる。

鎌倉期の得宗領の管理や「関東御免津軽船」の運用に安東氏が従事したであろう事、後に安東氏は北朝足利尊氏からその業務らを安堵されている事を鑑みれば、最低限で鎌倉以降戦国迄は安東氏運用で日本海海運ルートは通じていたであろうと言えるかと考える。

商船らでの北上は可能だろう。

一応、付け加える。

「方形配石荼毘墓」の移入ルートだが、大陸由来を否定するものではない。

修験道のベースは、神道山岳信仰,道教ら、そして仏教(密教)との神仏習合とするなれば、構成要素である密教は大陸からの移入になる。

直接北海道に入らずとも、ニつの事例のタイミングなら、修験の移動に伴い、大陸→北陸→北海道と言うルートの蓋然性が高くなるだろうと言う事だ。

仮に直接入るなら、もっと事例は多くなるのでは?

北陸以西はまだ調べてもいない。

「方形配石荼毘墓」が吉野や熊野でも検出されたらどうなるか?

まぁこの辺はまだ断片、少しずつ周りに広げていこうと思う。

また、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…箕島氏の見解では、中世の検出事例がなく、擦文→近世迄飛ぶと言うもの。

この辺も墓制確認らの拡大と共に追っていこうとは思っている。

 

E,十字型火葬墓について…

前項に於いて見つけた上ノ国夷王山墳墓群と秋田県沿岸北部を中心としたところに限定される「十字型火葬墓」だが、この資料集の事例の中には記載が無い。

つまり、北陸起源では無い可能性が高い。

宿題完結せずである。

そもそも祭祀遺跡とは何か?

少し、改めて学んでみようかと思う。

 

何度か書いているが、我々は知識「〇」からの開始。

そもそも基礎がないので、「絨毯爆撃」が基本。

片っ端から学ぶまで。

如何であろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…石積み,石塁、土塁,空堀らにして、墓制にして、行き着いた先には何故か修験系の話に。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

「実は「出羽三山」では金銀銅水銀、そして鉄が揃う…「月山鍛冶」の答え合わせ、そして技術や文化への宗教の関与は?」…それは元々、金銀銅ら貴金属や製鉄,鍛冶らでの関与を疑っていたからだけの事で、修験者を「技術,文化の伝播者」と捉えれば、極当然の事なのだろう。

上記はまだ断片の一つに過ぎず、まだ裏取りは必要。

宿題を片付けつつ、コツコツ地道に学んでいこうではないか。

まだ、先は長い…

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−北陸編−」 中

世墓資料集成研究会 2004.3月

 

「出土資料からみたアイヌ文化の特色」  関根達人  2012-03-31

北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝…「鍋被り」の風習の東北での実績は?

前項はこちら、「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421

であるが、ちょっと横道にそれてみる。

実は以前から宿題にしていた事があった。

「鍋被り」の墓制風習である。

相互フォロワーさんがSNS上で触れていたので、記載した文献が有ったハズ…と、言った割にその文献を失念してしまったと言う最悪のパターンである。

実はこの「鍋について学んでみる…その東北,関東における起源と変遷」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/12/185112

の項で参考にした、「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」 にも、鍋の使い方として少し触れられて触れられている。

なので、ここからどの様なものか?と、前項である東北の墓制資料から東北に於けるその風習の中世実績を報告しよう。

では、どの様ものか?から。

 

①「鍋被り」の墓制とは?…

北東北の博物館,資料館で似た様な風習(全く同じかは不明)の展示を見た方は居るかと思う。

墓の遺構で、被葬者の頭の上に逆さまに土器を副葬する葬送方式。

これ、中〜近世でもポツポツあちこちに見られる様だ。

で、「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」では、色々な鍋の使い方の民俗事例として紹介している。

「中世の墓のなかに、遺骸の頭部に「なべ」を被らせるものがある。その事例は、明治時代にも偶然発見され報告されている。東日本にみられる埋葬方法と言われているが、 関東地方をみていくと、中世・近世の時期で各県数例を確認できるが、その数は決して多くない。 群馬県では、中世のおわり頃の塚越遺跡 (桐生市)や、江戸時代の横瀬古墳群・宮崎裏町遺跡(富岡市)で、鍋被りの墓葬を確認し中 世末~近世にこの葬法が行われていた。

民俗伝承では、このような埋葬方法に対し、2つの解釈がなされている。①盆月(旧暦では7月)に死んだものを 埋葬する場合。盆月に亡った場合、盆で帰ってくる仏とは 逆に霊界へ向かうため、仏に頭をたたかれる。このため、鍋を被せるという。 ②ある種の病気で死んだ人を埋葬する場合。

聞き取り調査では、群馬町地方でも昭和の段階まで、鍋や擂鉢を被らせる風習があった。しかし、物資(鍋・鉢) の不足や火葬の場合は、紙に「鍋・鉢の絵」を書いて頭にのせることもあったという。」

「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」  より引用…

写真は茨城県ひたちなか市武田塙遺跡での実例。

上記の様に、群馬県の聞き取り調査でも複数の回答があり、明確に「この目的だ」とは解っていない様だ。

他にも「逆さまに埋める鍋」の事例として、浪岡城での「鎌ら鉄製品と縄を埋め、鉄鍋を逆さまに被せた」遺構の話も記事がある。

地鎮の祭祀ではないかと考えられている様だ。

 

②東北での中世墓資料からの実績…

「中世墓資料集成−東北編−」から拾った「鍋被り」墓制の結果は下記の通り。

青森県…4

秋田県…0

岩手県…0

山形県…0

宮城県…0

福島県…2

以上である。

最南の福島と最北の青森のみに検出されている様だ。

この際、実例を上げてみよう。

 

A,青森県

十和田市「洞内城」…16世紀

正式な発掘(明治19年出土)ではなく詳細不明。

内耳鉄鍋で「鍋被り」墓×1基。

副葬は鉄鍋の他、古銭、兜,甲冑、刀剣、馬具、鉄鏃、金襴。

八戸市「根城跡」…16末〜17初

東溝地区SK137。3基検出の内の1基が内耳鉄鍋の「鍋被り」。

北西頭位壮年女性の木棺墓。

副葬は鉄鍋の他、ムシロ状の編み物、古銭、陶器、火箸、鉄釘、締金具、不明鉄製品、漆器片。

人骨は調査され、ハンセン病痕がある模様。

八戸市「沢里」…17世紀初

正式な発掘(昭和53年発見)ではなく詳細不明。

熟年男性と思われる。

内耳鉄鍋で「鍋被り」墓×1基。

副葬は鉄鍋の他、太刀。

下北郡川内町「上野平遺跡」…14末〜15前

伏せた珠洲擂鉢(完形)の中に熟年男性(本州系)の頭蓋骨のみ。

首関節で乖離した頭蓋骨を二次埋葬(改葬)したと推定。

以上。

圧倒的に東部に限られる。

これは、土葬の検出が火葬を上回るせいもあるかも知れない。

根城を含む中世城館の検出や、武装やムシロ状編み物ら特徴ある副葬、頭蓋骨のみ改葬らなかなか興味深い。

 

B,福島県

・小野町「本飯豊遺跡」…15〜16世紀

3号土坑から人骨、鉄鍋、古銭を検出、鉄鍋が被れられていた。

福島市「仙台内前遺跡」…16後〜18

中〜近世の23基の内、中世と考えられるのが5号墓,23号墓の2基。

双方から鉄鍋が出土したが、この内、5号墓が「鍋被り」墓。

他の副葬は記述無し。

双方共、中通地域の北部と東部になるか。

以上である。

 

さて、この話題、https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1518883678067527682?t=7LWWYUW6zrPsH2_Awi7JfA&s=19

当初は続縄文土器を伴う遺跡に類似事例があったので、北海道固有じゃないか?みたいな話から始めたと記憶する。

「鍋について考える」の他にもう一冊、記述を見つけ、

・出土事例は青森〜岩手にかけてと、信州、相州、伝承なら九州にもあり…

・行う理由としては、ハンセン病や重度の感染症ら、疫病とされる者が亡くなった場合と、所謂、村八分になった者が亡くなった場合の2点の指摘…

だった。

天災で触れた事がある天然痘、又、我が国では結核らも猛威を振るう事があったのはあり、周囲や子孫へ災禍が及ばぬ様に気を封じる呪いか…こんな主旨を指摘した文は多いかと思う。

ハンセン病については、上記の様に人骨調査で事例があるので報道されている事もあるのので、

https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/468-leprosy-info.html

国立感染症研究所」の見解を貼っておく。

往古、世界中で隔離的な処置が行われていた様な話はある。

失念した文献を見つけた時や、墓制を学ぶ段階でまた「鍋被り」墓を見つけた時には、また触れてみたいと考える。

 

以上の様に、手持ち文献を読む限り、伝承だけでは明確な「鍋被り」を施した理由は解ってはいない様だ。

ただ、その墓制はポツリポツリと東日本中心に検出され北海道固有ではなく、それは土葬が残った近世迄継続されたり、火葬時に鍋や鉢の絵で祭祀を施したのは間違いないし、葬祭が絡むので民俗や宗教が絡むのも間違い無さそうだ。

地の長老なり仏僧なり宮司なり主権なりが指示しなければやりはしないだろう。

 

さて、東北の分布に戻る。

文献によれば信濃や北関東には事例があり、東北では福島と青森東部に限られる様だ。

先述の通り、根城にその墓制があるのは興味深い。

根城は、

「南部氏の後ろ楯、陸奥将軍府北畠顕家」とは?…東北史のお勉強タイム-4」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055

の項でも触れたが、南北朝期に陸奥将軍府に帯同した「南部師行」が入って後に「根城(八戸)南部氏」の居城として機能し、そしてそれは、江戸期に遠野へ移る迄続く。

南部氏は元々甲斐国南部荘。

こちら、「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659

にあるように、身延山との縁が深いし、吉野ともコンタクトがある。その辺がどう影響するか?だが。

今回の確認では岩手側には「鍋被り」墓は見つけられなかった。

この風習が南部氏が持ち込んだものならば、近世に岩手、特に遠野周辺に検出されたとしても時系列的には矛盾はない。

とは言え、邪推はここまで。

解った事が少な過ぎる。

 

まずは「鍋被り」としては第一段。

いずれまたこの風習に遭遇した時に、もう少し探ってみよう。

前項にある「十字型火葬跡」にして、特異性を持つ墓制はある様だ。

弾丸ツアー第四段で見た夷王山墳墓群でも土葬二種類、火葬二種類と、何らかの理由で墓制に多様性はある。

そしてそれは何故か…

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

近現代での北海道の墓制確認事例でも全く変わりはしなかったりする。

これがどんな意味を持つのか?、そして本州の墓制とどうなのか?

少しずつ学んでみようではないか。

 

 

参考文献:

「かみつけの里博物館第6回特別展『鍋について考える』展示解説図録」 かみつけの里博物館 2000.2.20

「中世墓資料集成−東北編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月

 

北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

前項をこちらに。

 

①要旨…

先の弾丸ツアー第四段で感じた勝山館の作りや夷王山墳墓群との位置関係ら違和感解消の為、東北での中世墓の大枠の傾向を確認しどの様に宗教が北上したか、それが北海道中世史にどんな影響を与え得るか?たたき台としてデータ化してみた。結果、東北での墓制は各県毎にそれぞれ固有の傾向を持ってるのではないかという事が見え始めた。

中世城館の構造、特に石積み,石塁らとの関係も合わせ見て、全体像の俯瞰に利用したいと考える。

 

②確認手段…

A,参考資料

中世墓資料集成研究会発行の「中世墓資料集成−東北編−」による。

B,抽出手段

同書の報告事例から、

・土葬or火葬…

・特徴ある副葬品を検出した遺跡数…

・特徴ある墓制を検出した遺跡数…

らをカウントし、比較していく。

C,注意点

・同書にピックアップされた遺跡は、平安末〜近世位迄に及び、その中の中世墓と思われる部分への記述からカウントするので時代的幅は出来る(各県毎の時系列変遷は別途)。

また、遺跡総数について、大規模遺跡の場合、発掘回数毎に分けてピックアップされている事があるが、それは元データに準じた。

・土葬or火葬が両方混雑する場合は両方にカウントする。

又、墓制が解らない墓単体や経塚の可能性が高く発掘していない遺跡は数から除外した。

以上より、遺跡総数とカウント数は合致はしない。

 

③結果…

 

A,青森県

・遺跡総数

58

・土葬or火葬

土葬→36

火葬→14     

※→内混雑は3

・特徴ある副葬

古銭→24

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→0

鉄鍋→3

鉄釘→8

刀剣(刀子含む)→5

陶器,かわらけ→14

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→4

馬具→1

甲冑→1

骨骨器→1

硯→0

・特徴ある墓制

周溝を伴う→2

鍋被り墓→4

集石塚→0

 

B,秋田県

・遺跡総数

56

・土葬or火葬

土葬→20

火葬→22

※→内混雑は6

・特徴ある副葬

古銭→7

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→2

鉄鍋→0

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→2

陶器,かわらけ→16

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→3

馬具→1

甲冑→0

骨骨器→1

硯→0

・特徴ある墓制

周溝を伴う→8

鍋被り墓→0

集石塚→7

(大館,横手,山内,南外,雄勝,協和,雄物川各1)

 

C,岩手県

・遺跡総数

41

・土葬or火葬

土葬→32

火葬→8

※→内混雑は2

・特徴ある副葬

古銭→32

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→1

鉄鍋→4

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→8

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→0

馬具→1

甲冑→0

骨骨器→0

硯→1

・特徴ある墓制

周溝を伴う→3

鍋被り墓→0

集石塚→0

 

D,山形県

・遺跡総数

82 

・土葬or火葬

土葬→31

火葬→27

※→内混雑は4

・特徴ある副葬

古銭→15

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→3

鉄鍋→0

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→3

陶器,かわらけ→22

漆器→7

仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→19

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→1

木製品→11

・特徴ある墓制

周溝を伴う→0

鍋被り墓→0

集石塚→18

(尾花沢,藤島,櫛引,長井,余目,遊佐各1、平田2、鶴岡9)

 

E,宮城県

・遺跡総数

35

・土葬or火葬

土葬→10

火葬→16

※→内混雑は3

・特徴ある副葬

古銭→16

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→2

陶器,かわらけ→8

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→8

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→0

・特徴ある墓制

周溝を伴う→2

鍋被り墓→0

集石塚→1

(名取1)

 

F,宮城県

・遺跡総数

31

・土葬or火葬

土葬→9

火葬→15

※→内混雑は0

・特徴ある副葬

古銭→5

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→2

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→2

陶器,かわらけ→10

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑,経石含む)→3

馬具→0

甲冑→0

骨骨器→0

硯→1

・特徴ある墓制

周溝を伴う→0

鍋被り墓→2

集石塚→2

(相馬,会津各1)

以上…

 

④考察…

A,土葬or火葬…

青森,岩手は土葬>火葬

秋田,山形は土葬=火葬

宮城,福島は土葬<火葬…

の傾向はありそうだ。

青森の場合、

十三湊遺跡→火葬比率が高まる

根城跡→土葬比率が高まる

傾向が見えそうだ。

他県の結果と接続すれば、より日本海ルートで中央と接続されたであろう湊町や街道らで直接直結したであろう南東北では火葬比率が上がりそうである。

その辺は仏具系遺物や石塔系,卒塔婆,笹塔婆らが山形〜宮城ライン上迄で顕著な事は伺えるので、仏教系、又修験系でも仏教色が濃いであろう事は推測可能。

岩手や青森東部はより古来の風習を残したのではないだろうか。

また、土葬の頭囲は概ね全地域で北向きな傾向はあるのだが、北海道同様の東向きが無い訳ではない。

骨の残存が無いので断定は出来ないが、北海道への玄関口である十三湊では明確に東西方向を向く土壙墓が幾つも存在する。

この辺は行き来の中で決まるとは考えられるが、全く東向きが北海道固有とは言えないのだろう。

実は山形県北村山郡大石田町の次年子(じねご)1号塚(中世~近世墓)の被葬者が北海道系骨格を持つのではないかとの指摘がある。

真逆に、飛鳥では夷狄と伝承された人々が、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/15/191851

全く現本州人系だとの分析結果が得られた事例もある。

つまり、中~近世に至る過程で局部的にでも血統的混雑をしている可能性はあるのだろう。

我々は物証を旨とするので、必然遺物からの文化区分が主にし、あまり血統的区分には触れない事にしている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

結局、何を持って北海道系住民の内のアイノ文化系と定義付けるかが決まっていない以上、漠然と血統的区分に触れても意味はないのではないのだろうか?

単に土葬or火葬の指標で見ても、この様に文化グラデーションはある程度ハッキリ出てくる。

仮に中世北海道系住民が土葬と言うなれば、

余市上ノ国ら西蝦夷地→日本海ルートでの津軽,秋田からの影響…

・日高ら東蝦夷地側→下北半島,糠部,岩手側の影響…

で、特に後者の下北半島,糠部,岩手側をグラデーション地域として広がりが見えると言えるであろう。

これは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

前時代の須恵器ら交易ルート上の伝播と、蕨手刀ら宗教,精神的主柱伝播の差に於ける下北半島,糠部側の影響が色濃く出ている事に合致してくるのではないだろうか。

なら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

昨今の道内に居たとされる口蝦夷集団の「宗教的源流に修験道あり」との北海道での指摘も、ある程度納得であろう。

要は、修験道の中でも古神道系が強いか?後の仏教系が強いか?でのグラデーションで見れば良いと考える。

 

B,特徴ある副葬について…

確認し、鏡の副葬がもっと多いと考えていたが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/27/210830 

思っていた程では無い。

但し、確認手段にあるように、明らかに経塚であろうものはカウントしていないし、鎌倉期位から経塚に収められたのは概報。

羽黒山鏡ヶ池の事例から見れば、修験系の道具の中で、神の写し身的な意味合いから、自らの写し身的な使い方をし始めたのかも知れないと考える。

特に板碑や経塚の場合、死者の鎮魂だけではなく生前に死後極楽に行ける様に願いを込め造営する事がある様だからである。

鏡ヶ池の事例はそうだろう。

むしろ、東北の仏教系の強化の影響は有り得るものと考える。

特に火葬が多くなる宮城,福島、そして出羽三山のお膝元である山形で五輪塔卒塔婆,笹塔婆らの検出が顕著な事や、南に下る程副葬が少なくなる傾向はありそうなので、北海道側をより古い形態、陸奥側での南東北をより新しい形態としてグラデーションが掛かると考えれば、ある程度納得戴けるのではないだろうか?

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

実は…

十三湊遺跡

根城跡

津軽,糠部側の両拠点においても、周溝を伴う墳墓は検出される。

秋田の事例で数が突出するのは、火葬場所の周辺を方形周溝で囲う事例も含まれる為である。

よって、周溝を伴う事も北海道固有とは言えないのであろう。

今後、北海道の中世墓との比較も行っていくつもりだが、忘れてはいけない3点…

・北海道では中世遺跡、特に居住遺跡が激減する事

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

・上記事例は、丁度、擦文文化→アイノ文化への変遷を指摘されている時代を網羅している事

そして、

・北海道では、続縄文文化期が屈葬であったが、擦文文化期に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815

末期古墳群の登場以後、伸展葬化が始まり、恵庭の古墳群では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

その両方が見える事や、宗教具についても本州の影響が江戸初期迄は見える事、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

である。

前時代がこうであれば、その過渡期に於いて東北、特に上記より糠部周辺の影響は見ない訳にはいかないであろう。

また、夷王山墳墓群の火葬跡である。

見ての通り、円形又は不規則形と明らかに十字型のものが二種類ある。

この被葬者が何者であるか?は別として、火葬方式として捉えた場合、特異性がありそうだと考えるのは容易である。

では、東北の事例を確認してみよう。

これは秋田の大館市山王岱遺跡(14~15世紀)の事例、集石遺構を持つ餌釣遺構と一部と考えられる様だ。

他に十字型の記事がある、または山王岱遺跡の様に事例紹介中に十字型の火葬痕を持つ遺跡は、

琴丘町の金仏遺跡(13世紀代?)

琴丘町の盤若台遺跡(12~13世紀)

鷹巣のからむし岱Ⅰ遺跡(9~10世紀)

現状見つけられたのはこの4箇所のみ。

秋田、それも米代川流域と八郎潟東岸北部にある程度限定され、それ以外の東北にはこの十字型の火葬方式を持つ中世墓は無い様だ。

なら、この十字型の火葬方式は何処からどの様に伝わったのか?

こうなると、北関東や北陸らの事例と比較が必要だろう。

ここだけ見ても、日本海ルート上からの文化流入は予想可能だろう。

無視出来ようハズは無いと、同時に、後の桧山安東氏の勢力圏と重なるのが興味深い。

勿論、桧山(下国)安東氏が桧山に入るのは、1454年の安東政季が蝦夷地から移るのを待つ必要があり、それ以前は比内浅利氏や出羽葛西氏らの勢力圏と伝えられるのを付記しておく。

 

D,集石塚について…

改めて上記をピックアップすると…

青森県…0

秋田県…7

岩手県…0

山形県…18

宮城県…1

福島県…2

である。

北関東での中世城館での、石積み,石塁,石垣の傾向はこれである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

勿論、中世城館内の館神を祀る寺社もデータに含むので、類似の傾向は示してくるであろうが、山形県鶴岡を中心に、庄内,秋田沿岸南部~旧街道~秋田内陸南部へ広がり、飛んで米代川周辺へのライン上で検出を見る。

この米代川周辺と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752

後に峰浜の蝦夷館で実績を確認しているので、例外ではない。

また、中世城館の確認をしていない福島に関しては、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

相馬の日光院が羽黒修験の有力な末寺であり、古くから関連が深いであろうと予想可能。

ここで改めて…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

これらを合わせると、古い出羽三山信仰らの関与を想起させる。

宮城,福島でこれらが薄いのも、火葬の比率や仏具の検出らを重ねると、より仏教色が強い為で説明が出来るのではないだろか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612

出羽三山を単なる宗教集団としてだけではなく、技術,文化の伝播も行っていたと考えると、より色濃い所で石工の活動痕跡と見る事は可能なのではないだろうか。

ここまである程度はっきりした傾向が出るのであれば、可能性の無視は出来ないであろう。

余市茂入山や周辺、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/27/212200

勝山館の館神八幡神社や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

飛鳥館岩の石塁、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526

これらを出羽三山信仰と関与を考慮すれば、それぞれ説明も可能になってくるであろうし、年代特定らも他地域の実績と合わせて仮説化出来てくるのではないだろうか。

今迄、北方由来の考察ばかりが横行してきたが、眼の前に出羽三山があるのだから、もっと着目すべきだろう。

 

⑤まとめとして…

要旨にあるように、たたき台や傾向を掴む為、敢えてデータまま時代範囲や各県毎に集計する等してみたが、より古い形態〜仏教色の強い地域らでは文化グラデーションや、特に集石塚ら出羽三山信仰の伝播ルートを想起させるラインが見えてくるのではないだろうか。

これらを俯瞰する限り地の宗教色は、墓制を見る限りでは先行する地の民衆や土豪の独自色が強いのではないかと想像する。

時代変遷を見る必要はあるが、

・多様である…

・地の土豪は独自に館神を祀る…

らを考慮すると、御家人や地頭,守護ら後発で派遣された施政者が自分の宗教を強要する事はなく、寺社勧進で推奨程度であったのではないだろうか。

故に奨励した宗派が浸透していっても、既存の民衆単位の宗派の痕跡が民間信仰や技術の面で残ったものと考える。

そしてそれらは、経済活動の中でルート上に痕跡として残ったのではないかと考える。

今後、同一資料らで、北海道側や北陸,関東との伝播傾向を見ると共に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/27/210830

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716

鏡や御幣信仰ら、日本中にある信仰,信仰具との関連を探って行きたいと考える。

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−東北編−」  中

世墓資料集成研究会  2004.3月

北海道弾丸ツアー第四段、「知内編」…採金は何時から?そして偽典とされる「大野土佐日記」とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/200207

さて、弾丸ツアー第四段、次の報告は「知内編」にしよう。

今回はメインの訪問先が「勝山館」であり、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

一発目で中世城館を見て回ると舵を切り直した事で、附帯した訪問先も中世が中心に考えたのも事実。

元々、時間があれば寄りたいと思っていた場所は一箇所あったので、寄る事に。

それが「知内」。

隣は福島町にある「大千軒岳」を源とする「知内川」は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/26/125931

一連の「ゴールドラッシュとキリシタン」シリーズでは、金掘衆の行き着いた先の一つでもある。

知内町郷土資料館」の常設展示より…

採金は後代迄続いたので(未だイベントらで採金する)、その道具も新たな物なら残されるが、さすがに古い物は無い様だ。

ならば、これらが何時まで遡れるのか?…館員さん曰く、正確なのは江戸期だそうで。

我々的には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/192546

こんな話が出ていた訳で、何処まで遡れるのかは、以前からのテーマの一つ。

中世には「脇本館」と言われる道南十二館に数えられる城館も。

周囲には、

関連すると思われる中世遺物も検出する。

で、添付にあるようにここでは、

「大野土佐日記」についての展示もあるので、少し取り上げてみよう。

予め書いておく。

この「大野土佐日記」は史学的には偽典扱いである事は先の項で書いている。

館員さんにズバリ聞けば「こんな古文と伝承がある」と言う意味合いで展示しているとの事。

先の通り、この古文があるから中世期迄採金が遡れるとは考えてはいない。

知内町史でもその辺は書いており、

・これが伝わる大野家の初代了徳院の出身地「甲斐国庵原郡八幡」に比定出来る町村が見当たらない。

・了徳院が122歳迄生きたと言うのも俄には信じ難い。

・文中の採金の責任者「荒木大学」に採金を命じた(1205年)二代将軍「源頼家」は1204年に暗殺されている。

松前藩祖「松前慶広」を、その子「安広」と誤記。

・そもそも官職である「大学」「外記」らを名乗る事が可能か(かなり高官位)?

等々、矛盾が多く、大野家十七代為将の創作だろうとしている。

一応、館員さん曰く。

時代が下り、この日記が書かれたとされる時期に近づくと、誤記や抜けはあるものの割と詳細且つ正確に記述される部分もあるそうで、古文が少ない北海道に於いては貴重な物だとの事。

ではその一節、読み下し部分を引用…

 

元久二年の年筑前の舟が漂流し、唯神力に委せ漂よっていたところ、遙か北に一つの島を見い出し、舟中大いに悦び彼の島に近づき、水夫二人、炊一人が陸地に上って聴いたところ、ここは知り内の浜であることが分った。炊の者が飲み水を得んとしたところ滝の水を発見し、この水を酌まんとしたところ滝の下に光るものがあり、これを取り上げて見ると、石のようでありながら石でない石を発見し、よく見ると丸かせ(金塊)のようなので水桶の中に隠し船の中に持ち帰った。同年四月船は順風を得て筑前に帰り、炊は暇を取って生国の甲斐に帰り領主の荒木大学に献上した。大学は非常に喜び、これを時の将軍源頼家公に献上したところ、将軍も満足され、この夷が千島の金山見立を命じられ、多くの知行を賜わった。

大学は郷里に帰り、掘子のもの八百人や家中のものを併せ千人余で蝦夷地へ渡る準備をし、炊も荒木外記と名乗り一門に任じ、家老山本多作、鷲尾吉右衛門を惣支配人 とし、また金山祭のため修験者として大野家の始祖大野了徳院も同行することとなったが、了徳院は甲斐国いばら郡八幡の別当であったといわれる。

一行は元久二年六月二十日出帆し、七月二十三日矢越岬にさしかかり、武運長久を祈って矢二筋を差し上げ、海岸伝いに通って脇本に着いた。海岸には女夷一人いたので大学が尋ねたところ、この女夷はイノコという名で、この近くの山に住んでおり、その場所は蛇の鼻並びにイノコ泊の陰の山であると答えた。大学は今回の金山見立の使命をイノコに話したところ、その場所は私が十分承知している。その場所はこのイノコ泊の上に沼があり、千草の根にも金が鈴の如くに付いている。またその金の元なるゆえに涌元という名前が付いたという。

大学はじめ家中、掘子は残らず上陸し、毛なし嶽を居城としたが、今の荒神堂の岱がその場所である。この毛なし嶽で凡そ一三年建保五(一二一七)年まで金掘を行い、それより出石丸山の裾野、赤淵の岱、左は大川、右は深沢で、飛鳥も登れないような所を見立て築城し、ここに荒木外記を残したのでその場所を古来から外記の山と称している。大学は家老鷲尾吉衛門に掘子を付して碁盤坂方面を掘らせた。碁盤坂の地名は五月雨が降り続き作業が出来ず、掘子が碁を打って日を送ったことからその名が付された。また目付として多作が来ていたので、よし掘のことを多作の掘といっている。

大学は出石丸山の城の近くに菩提寺を建立し諸木万草を庭に置き四季を楽しんだが、とりわけ方数十間、径一丈、九尺、六尺等の藤の大木があり、藤の花は紫の雲の如く華麗で人々を驚かせ、寺名を真藤寺と名付けた。その跡や藤の木の名残りを今も留めている。また不思議なことはこの真藤寺の近くでときに鐘の声を聴き諸人は大いに驚いた。また土蔵のような形のものがよく見えたという。この寺の場所はチリチリ川と真藤寺山のところにあり、また大学の城郭跡は、一党が大学の山と呼んだ所の西の方に当り、今もその跡が残されている。ここは昔から松の大木等が伐り出された所であるが、今小松の茂る物淋しい霊山になっている。

大学が城郭を構えてから三年余を経た頃、山々震揺したので、大学は一つには天下太平、二つには当所安全のため二社を建立、寛元二 (一二四四)年六月二十日大野了徳院をして賀茂の両社の祭礼を行わせた。今は一社にて惣号雷公神社であるが、これによって震動も止み掘子共は安堵した。

この雷(公)堂の近くには家々千軒もあり、その近くの高山を千軒山と名付けるようになった。さらに雷堂より下から馬橋まで三百軒の鍛冶町があったが、今もその跡には金屑が沢山残っている。志り内温泉の由来を尋ねると、ある堀子の一人が沢辺をかけ廻っていると湯煙りの立ちこめているのを発見し、大学に申し上げ、宝治元 (一二四七)年七月二十五日薬師堂お取立てになった。建長六(一二五四)年の頃からの夷乱が続き諸人固唾を呑んでいたが、そのころ雷堂近くに男女各一人の夷人が住んでいたが男夷はホマカイ、女夷はただめのこしと名乗っていた。ホマカイと了徳院とは昵懇で住居の場所をホマカイ堀と称し、めのこしの住居をめのこし掘と称していた。このホマカイは了徳院に夷乱が起きつつあるので油断のないよう注意した。歴仁元(一二三八)年には了徳院は齢百歳となっていたが、その後六、七を経て夷乱が起きた。当時千軒もあった家々は夷のために亡び、荒木大学殿を始め掘子兵は皆土となった。

了徳院一家はホマカイに助けられ、雷公神社より北々東の切明の沢の中にホマカイが造っておいた三間四方の穴に隠れていた。

文応元(一二六〇年三月から数か月この穴に隠れた徳院一家は、この乱を将軍に訴えんと、ホマカイの倅ホンセカチにその意を含め鎌倉に向かわせた。将軍は大いに驚き手兵を向けたところ、南下した千島の夷人六、七千人と合戦となり、夷軍敗れ滅亡した。注進したホンセカチは御褒美を賜わり、津軽のうてつ (三厩村) 所有領を拝領し、子孫は四郎三郎という名で続いている。

了徳院は文応元年三月二十四日行年百五歳で死亡、その妻もほど無く百十六歳で亡くなった。了徳院を葬った場所は頃内沢より右の方山伏流といわれる所で、そこには塚石があり、日照り続き のときにはこの石を水中に埋め一心に祈れば雨を降らすことができると言い伝えられてきたし、乳はれによく効くともいわれる。また荒神堂はいたこ流れにあり、その場所の印として杉の大木が残っているが、この杉は両方に乳の形があり、もし乳不足の人が 願えば出るとなっている。いずれも妙なりとしている。

大野家は二代も了徳院を名乗り、以後三代金剛坊、四代安全坊、 五代千歳坊、六代自剛坊、七代寿千坊と続いた。右七代の内は畑作をしながら神を守ること二百年、知内に居住していたが、康応年中(一三八九)までは零落同然であった。しかし、このころからはどうにか武を張り、文を学ぶ地となった。」

知内町史」 知内町役場  昭和61.6.20  より引用…

 

以上である。

妙に詳細な部分と大雑把な部分がある様な気もするが、神威を示す寺社縁起や統治の正当性を示す武家家系図と同様なものと考えれば、真偽の程は別として在りがちなものと思う気もする。

何故、この別当家がこの地でそれを務める事になったのか?を記述した部分であろう。

武家家系図の中には、出自や事件や合戦内容を盛るものがあるのは知られているのだから、研究対象として、ここは正確,ここは創作…ら史料批判をしていけば、まるまる否定する事もないとは思うのだが。

何せ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440

龍が空飛ぶ訳ではなく、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

宗家に記載無き人物が中興の祖だったり、有ったか無かったか解らぬ合戦が通説となる古文もあるのだ。

ある意味、似た様なものであると思うのは筆者だけだろうか?

いずれにしても、我々グループ的には、元々現物重視で組み立てる事を旨としているので、これを物証とするのではなくここをヒントにして物証に繋げていく様に掘り進めるなら有りだと考える。

知内川流域の採金が「何時まで遡れるか?」のきっかけを投げ掛ける古文である…こう考えるなら、貴重な問題提起をしてくれているのではないだろうか?

…以上…

 

と、ここで終わってしまったら、何の為に紹介したか?…と言う話になってしまう。

少し話を膨らませてみよう。

 

知内町の見解は?

「この元久二年より二百年後の応永十一 (一四〇四)年には湯の里温泉薬師堂が建立されていたことが次の本に出ている。すなわち最上徳内天明五 (一七八五)年に著わした 「東蝦夷地道中記』で「施 主荒木大学 湯主徳藏、応永十一年」という棟札を発見したとある。 また市立函館図書館所蔵の『松前落穂集』には正長元(一四二八) 年五月蝦夷の蜂起に破れた荒木大学が討死したことを記している。これらの史料から荒木大学は元久二 (一二〇五)年の鎌倉時代に知内に来たのではなく、それより約二百年後の室町時代中期の、いわゆる和人渡島初期に蝦夷地に入った武将の一人であると見るのが正しいであろう。室町末期から近世初期へかけての知内川流域一帯の砂金採取を経て、やがて住民の定着、村の創業へと本町は発展して いったものと考えられる。 」

知内町史」 知内町役場  昭和61.6.20  より引用…

 

これが知内町としての見解の様だ。

最上徳内が記す薬師堂の棟札や別の古文記述より、1200年代は無理だが、1400年代はありと考えている模様。

確かに上記「脇本館」関連としている遺物らは、珠洲焼や和鏡らは中世を示す様なので、最上徳内が記した棟札とは合致してきそうだ。

因みにこの棟札、今は失われている様だ。

この辺、最上徳内菅江真澄らが記述を残してくれていたりする。

 

②では1200年代はないか?

実はメンバー間では話ていた事なのだが…

春丘牛歩様のHP…

https://gyuuho.com/page0006.html#link041

この方々は、北海道と静岡,山梨側でディスカッションしつつ、この大野土佐日記の可能性を探っているようだ。

これによると、大野土佐日記の信憑性に疑いが持たれる理由の一つ、「甲斐国庵原郡八幡」…

鎌倉初期に御家人である「安田義定」が統治した短期間のみ、駿河国から割譲される形で甲斐国編入されたであろう事が吾妻鏡に記述されると。

後に安田義定は誅殺され、所領らは駿河国に戻されたので、古書記録にしか残らない様だ。

詳細は食い違いがあるかも知れないが、逆に捉えればその期間限定で、鎌倉へ報告したり、その命で家臣団が動いた可能性が出てくる様だ。

記述通り、吾妻鏡が一般の者の目に触れる事が無いものとすれば「何故大野家の人々がそれを知るのか?」は確かに納得ではある。

こんな風に一つ一つ検証を行い、事実として有り得るか確認するスタンスには、尊敬しかない。

何より、北海道と本州の有志が連携しつつ謎を解き明かす…

これは、我々も当初目指した所。

これを持って決定打とはならないだろうが、知内でそれを示す遺物が出れば有力な証拠とはなるだろう。

その後を期待したくなる。

 

③その他…

折角なので、状況証拠となり得るか?見てみよう。

 

A,庵原郡の修験は?…

庵原郡で古い神社を検索して出てくるのは「豊由氣神社」か。

ウィキ程度だが「木花之佐久夜毘売」、別称「浅間大明神」…つまり富士権現。

富士信仰は平安期で既に記録があり、1300年代には村山修験の活動が古書記載される。

これは戦国期の話であるが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

富士山南方こそ、甲斐の隠し金山の一角であり、南部氏の出身地であり、毛無山ら同じ呼名を持つ山々が…

浅間…千軒…まぁ、戯言ではあるが…

ただ、後代とは言え、甲斐の隠し金山の場所はハッキリ解るハズもない。

富士山南方の金山の話を、北海道に居た者が示唆出来るのも微妙ではある。

安田義定と富士修験の関係が紐解ければ、或いは…

 

B,筑前の船…

金塊を見つけた船員は、筑前の船主に隠してそれを生国である甲斐へ持ち込んだと記載される。

仮に「安田義定」が庵原郡を治めた頃、筑前に居た御家人は?多分この人物か?…「武藤資頼」…

安田氏が義光流甲斐源氏の流れを組むのに対して、武藤氏は武蔵の藤原北家の流れ。

安田義定が鎌倉殿や執権に目をつけられ憂き目を見るのに対して、武藤資頼はかなり優遇され後に北九州に君臨する「少弐氏」の祖となる。

随分待遇に差がある。

筑前と言えば、博多津がある海運要衝なので「筑前の船」は有り得る話。

さて、武藤氏…

実はブログで取り上げた事がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

鎌倉御家人として庄内に入るのが「武藤氏平」。

実はこの武藤氏平は武藤資頼の弟で、出羽大泉荘に入ったので「大泉氏平」を名乗る。

ブログで紹介した…

「1209(承元3)年、鎌倉幕府から任命されていた地頭の大泉氏平に羽黒山領を横妨された折に、羽黒山衆徒から訴訟を起こされた。

実は羽黒山、初代将軍源頼朝から「地頭支配に属さず、地頭の山中追補権を停止する」御書が出されていた。

幕府裁定は?

大泉氏平の手出し口出し等関与禁止と横領しょうとした領土の返還。」

出羽三山に手を出した地頭とは、この武藤(大泉)氏平の事。

また、後裔は大泉氏から「大宝寺氏」へ名乗り直し戦国大名化していく…と、言う訳だ。

庄内には元々国衙「出羽柵」が置かれ、加茂や酒田が船の玄関だろう。

酒田を後に抑えた「酒田三十六人衆」は、

奥州藤原氏の「徳尼公」を守り、出羽三山を頼りつつ酒田へ土着の伝承。

この辺で妙に北海道と繋がりを持ちそうな人物達が登場してくると。

兄弟として、また地頭として、お互いに日本海ルートの海運要衝に勢力を持つ。

筑前の船が難破し、知内方面へ漂流した…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

これもおかしな話では全くない。

背景的には有り得る話ではないだろうか?

まぁそれが仮に、知内町史にあるように、百〜二百年下ろうとも既に1217年北条義時陸奥守となり津軽周辺を得宗領化して、安東太に蝦夷沙汰を任せ「関東御免津軽船」を運用させる時期が、案外重なる。

なら、二代将軍頼家以外にも、採金指令を出しそうな施政者はまだ居る事になる。

北条義時

後鳥羽上皇

ら。

武藤氏平は大泉荘や海辺荘が採金地である事を知っている。

後鳥羽上皇以下、砂金が皇室や朝廷に上納されているのを知っているからだ。

武藤氏平が得宗家に取り入る為に、採金地を手中に収めようとしたなら?

…まぁ想像は尽きないがこの辺にしておこう。

仮にこの「大野土佐日記」が採金や日本海ルート上の事と関連して紐解ければ、漠然としか解っていない中世での交易ルートの解明に一気に繋がるのかも知れない。

と、それは従来の「新羅之記録史観」では困難だろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

何せ、中世城館の伝承には、南北朝南朝方の落人が館を築いたとされる物がある。

採金も…

安倍,清原,藤原氏と交渉を持つ者

→北条得宗

南朝

→安東氏vs南部氏

と、その勢力争いの元で変遷していく可能性はある。

道内の酋長がどの勢力に組みしたか?…

そんな考え方は必要になってくる。

その延長上に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

道内での中世遺跡の喪失や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/200207

擦文文化期が無いとされる道南への中世遺跡の出現らの答えがあるだろう。

我々が見ているのは、単なる北海道史などと言う話ではない。

北海道〜東北の関係史を紐解き、日本史における北海道と東北史の位置づけがこれで良いのか?だ。

上記の通り、他地域とも微妙な繋がりはある。

地方史同士を接続し海運ら物流ルート上で繋げていけば、その位置づけも変わってくるのでは?

そんな意味合いで覗いてみると、この「大野土佐日記」は面白いヒントをくれているのではないだろうか?

新羅之記録史観」のみに囚われるべきではないと「偽典扱いの古書」が教えてくれている気もするのだが…

勿論、物証が無ければヒントとして使えるだけ。

まぁゆっくり学んでいこうではないか。

今回の弾丸ツアーは、まるでパンドラの箱のようだ。

 

 

参考文献:

知内町史」 知内町役場  昭和61.6.20

北海道弾丸ツアー第四段、「擦文文化編」…擦文遺跡が無い!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

では弾丸ツアー第四段報告を続ける。

つか、同行者にレクチャーを受けてはいたが、ここまでとは…

と、言うのも、道南には擦文文化期の遺跡が無い、厳密に言えば極薄い。

縄文、続縄文期の土器ら遺物はあるが、擦文土器らの展示が無いので館員さんに確認すると、やはり無いと即答。

そこから、中世城館らの遺跡へ飛ぶ…との事。

これが道南の特徴である…以上。

 

…と、これで終わってしまえば、何の為にこの項を書いてるのか、意味がなくなる。

ここは考察してみよう。

 

①近隣は?

奥尻島には青苗遺跡。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

10世紀位をピークに、その後衰退、遺跡の撹乱や1300年代からの伝承を考慮すれば、中世を迎える前に天災により廃絶か。

明確ではないが、10世紀と言えば白頭山の噴火もある。

交易拠点が秋田城独占から秋田〜青森の各土豪に分散変化し、集約拠点としての機能を失ったとしたら、衰退の方向に行くことは考えられるかも知れない。

では、対岸は?

野辺地の状況。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

ここはむしろ10世紀以降の十和田噴火らの後に遺跡が出来始め、防御性環壕集落の時代には、対岸側との交易で栄える様子が遺跡から見える。

ここで…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

津軽海峡は主に海流が日本海→太平洋で流れる様だ。

野辺地ら陸奥湾内から渡道するなら8の字海流で函館ら周辺に到着出来るが、乗せられないと東へ流され胆振,日高方面へ辿り着く。

この辺はむしろ10世紀以降位から擦文の居住遺跡らが増えるので、取引に有効と言えば有効。

 

②仮定として、道南に本当に空白となった場合…

現状、見つかっていないのだからまずはこの前提で、遺跡がなく人が殆ど居ない場合はどうだろう?

考えられるとすれば、やはり天災らで住民が移動したケース。

ただ、海岸線が磯場で魚介類が豊富な津軽海峡から他の地域に人が流れるとしたら、余程の事だろう。

後に宇賀の昆布ら、古書記載もある。

中世の奥尻島の様に季節漁を行う為に通い、それ以外は対岸や胆振,日高や後志,道央に居住した…こんな事は考えられるとは思うのだが。

概ね、擦文の大規模居住遺跡は、3期程度に分かれる。

百軒の竪穴住居が有っても同時期での居住は1/3程度らしい。

それでも、道央や道東の大規模居住遺跡は近隣に数箇所分散しある様だ。

交易が盛んになり都会?への人口集約が成された場合は、そんな事も考えられるかも知れないが。

この件、同行者とずーっと話したが、食糧調達の観点からすれば、簡単に道南を離れるのもどうか?との事。

もう一つ、スッキリした答えにならない。

 

③仮定として、まだ遺跡が見つかっていないとしたら…

同行者はこちらの考え。

では、そのパターンなら?

いや、実はそんな発掘事例は既にあったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

現状、道南十二館比定地は既に擦文文化期の防御性環壕集落跡だった…こんな事例はある。

新羅之記録上、十二館とされたのはそれ以前に書かれたであろう安倍氏の「十二館」の模倣ではないだろうか?

海産物を交易品とした場合、中世城館としたらその間隔が狭すぎる気はする。

この多くが擦文の防御性環壕集落跡だと考えれば、それがそのまま居住区となるだろう。

勿論、中にはそれから中世城館へ転用されたケースもあるかとは考える。

前項で取り上げた「勝山館」は骨角器らも出土しているが、郭の上下に施された2〜3条の空堀がむしろ防御性環壕集落跡に近いのでは?と思うからだ。

構造的にも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535

ここに記載した向田(35)遺跡の様に、テラス状に住居配置したり、中央に主道を設けたりするのは10世紀中庸位には事例がある。

元々、勝山館は10世紀前後の防御性環壕集落跡を中世に作り直し居住区とした…これが文献を読む以前の現在の筆者の考えである。

 

因みに、「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」 にある解説図。

中央に主道を、周辺に墓域らを配置するのが道南の中世城館の特徴とあるのだが、それ実は秋田にもあるのだ。

それこそ、主城檜山城に嫡男を置き、自ら元々の山城を改装し安東愛季が入った「脇本城」がそうだ。

この城、築城時期が不明だが、現在の形にしたのは安東愛季と言われている。

断崖絶壁の生鼻崎の脇を通る「天下道」を登れば、山頂の内館らはその両脇に配置され、天下道は浦がの馬出らの郭へ抜ける。

山頂は、

土塁や切岸で複数の郭に分けられ、ぶっちゃけ志苔館跡が4〜5位並べられてるイメージをすれば良いのではないだろうか。

大殿たる安東愛季の城はこんなものなのだ。

蠣崎氏ら、配下の奉行級と大殿の城作り動員数の差はこの程度はあり、それがまんま兵力差に繋がる。

動乱あれど、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230

大殿が一度動くとピタリと収まるのは、その兵力差を家臣団が知っているからだろう。

主城檜山城は、もっと戦う山城だ。

登城すれば、その規模の違いは悟れる。

道内勢力間の揉め事なぞ、大殿や南部氏内の揉め事に比べれば些細なのかも知れない。

で、安東vs南部の衝突に、蠣崎氏らは動員されているのだ。

それでも後の奥州仕置軍の規模の前では、その装備にしろ何の意味も持たないレベルであろうが。

 

話を元に戻そう。

先の通り、十二館比定地の幾つかが擦文文化期の居住区だとすれば、中世城館の間隔が狭い事や擦文文化期の遺跡が少ない事へのアンチテーゼにはなるだろうし、その幾つかは中世城館として再生されたなら、勝山館の骨角器らの遺物の出処も解る。

テラス状段々を作り直す段階で廃棄されたであろう事は予想可能。

勿論、全体として人口が薄くなる傾向は、続縄文迄の遺跡数と擦文文化期の遺跡数から否めないであろうが。

やはりシックリくるのはこちらではないだろうか?

 

まぁこれもまた、文献を読み込みする前の仮定。

専門家がどんな見解か?はこれからだ。

ただ、有るものは有り、無いものは無いという矛盾については、ある程度説明は出来ているのではないだろうか。

対岸の実績との整合も含めれば、この程度の説明は出来そうだが。

まぁ北海道に居た時点で発注した文献も到着、道内で入手した文献と合わせてゆっくり読み進めていこうではないか。

 

 

参考文献:

「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」 弘前大学人物学部文化財論研究室 2021.5.10

北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/08/110448

実は筆者は四度目の「北海道弾丸ツアー」を敢行した。

とは言え、今回は二人旅、相互フォロワーさんと同行させて戴いた。

当初、同行者に道南での用事があり、それに合わせてお互いに気になる一致箇所があったので、二人で攻めてみるか…こんな感じ。

まずは一致箇所に行き、そこから先は状況に応じて回ってみるか…である。

その一致箇所こそ、上ノ国の「勝山館&夷王山墳墓群」。

筆者としては、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/23/142810

弾丸ツアー第二段の本来の目的地で、ずーっと現地確認したかった場所である。

結果としては、勝山館で二人揃って「資料と実際が違い過ぎる!」に行き着き、予定見直しをその場で行い、この際道南の「中世城館を回れるだけ回る」方向へ舵を切り直した…これが経緯。

では、報告しよう。

 

①勝山館とは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

ここにもあるように、

脇本城、十三湊、余市らと共通で膨大な中世陶磁器ら(遺物計10万点)が出土する遺跡。

遺跡の「上方」に設置された「ガイダンス施設」のパネルがこれ。

よく話としては、安東氏方や本州系とアイノ系の共存が見られるとか、最古級のイクパスィが出土したとかで有名。

筆者としては、勝山館と夷王山墳墓群の位置関係を中心に知りたいと考えていた。

で、上ノ国には勝山館を含めて三箇所の中世城館があるとされる。

・花沢館…

新羅之記録」に登場する城館で、コシャマインの乱の折には「蠣崎季繁」が館主で、「茂別館」と共に落城を免れたとされる。

・洲崎館…

コシャマインの乱を鎮めたとされる「武田信広」が入ったとされる城館。

この段階で武田信広蠣崎季繁の婿養子となり、ここから「松前氏」に至ると新羅之記録にはある。

勝山館とこれら二館と位置的、時間的関係は「かみのくに文化財ガイドブック」によるとこうなる。

洲崎館と勝山館は一時運用が重なり、勝山館が1600年前後迄運用されたなら蠣崎氏が松前大館へ移動した後も運用継続し、安東氏からの独立後位に廃絶された事になるか。

尚、勝山館内にある館神八幡神社は江戸期に一度再建されており、信仰の場としての機能は一部残っていたとも考えられる。

 

②勝山館は本当に中世城館か?

では、実地での報告に至る。

ガイダンス施設での展示は先に紹介したガイドブックらと共通の位置付けで、

・勝山館と夷王山墳墓群のレプリカ

・安東氏と蠣崎氏の関係

上ノ国三館の位置付けと主な遺物

・夷王山墳墓群の発掘レプリカ

らが展示される。

が、10万点の遺物にしては少ない。

実は大方の遺物は別の場所で保存され、平日に申請し一部見る事が可能となっている様だ。

基本的には資料らと共通故に細かい所は割愛する。

概略の構造は最初の写真通りなのだが、他の施設との関係はこの写真の通り。

「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」より…

比高の高低は最初の写真とは逆になり、手前が丘の上(高い)、上が海側(低い)と考えて戴きたい。

ガイダンス施設は黄色で囲った辺りになる。

同行者と二人で、ガイダンス施設見学後に遺跡を夷王山→墳墓群→勝山館と回ったのだが、この段階で二人共「あれ?おかしくないか?」と違和感を感じた。

夷王山からの天ノ川河口。

周囲一望可能。

で、違和感の元はこれ。

右側が丘の上、左側が海側で低い。

墓域は紫枠の辺り、ガイダンス施設付近から始まり左側へ広がる。

勝山館は水色←の通り、もっと低い場所に広がる。

高い方から並べると、

・夷王山…

・ガイダンス施設…

・墳墓群…

それを下ると、勝山館の入口…

空堀

・勝山館の「郭」内…

館神八幡神社を最上階にして、

居住区域

馬屋,客殿ら

で、下から見上げる

空堀

そして、海側へ向かう…

そう、ここ勝山館は、平滑された「郭」も、主郭にあるべき城主居館も無い。

伝侍屋敷とされる場所は墓域から尾根を挟んだ先。

つまり、館神八幡神社上の柵列と空堀の上側に防塁は全く無く、背中がガラ空きなのだ。

これ、上から丸太や岩を落とすだけでダメージを与えられるだろうし、侍屋敷からの救援は直ぐにこれない。

郭内が段々畑の如くなので、それなりの人数の侍を集合されるのもムリ。

下からの攻撃も、空堀と柵列、入口の城代の屋敷?のみしか侍を配置していない。

馬屋は2〜3頭しか入らないだろう、つまり駅逓用だろう。

で、郭内の主道は真っ直ぐ中央を貫く。

下から騎馬で攻めれれば止められるのか?

また、沢を使い左右分離はしているが、郭部分と左右の高さは同程度なので、柵列のみが防塁となろうから、幾らでも周囲に攻め手を伏せられるし、左右脇には自生ヒバ林。

あっさり、近距離から包囲可能。

大体、「尾根や山頂を平滑して郭を作る」とか、「舌状台地に切岸を作り郭を作る」なんて構造には端からなってはいない。

まして城主居館無し…

誰を?どの様に守るのだ?

同行者とオッサン二人で「はぁ?これ本当に城館なのか?」と絶叫連発。

郭内の建物も、中央の主道を挟み、左右対照に2軒並び且つ一段毎に区画整理する。

まるで「十三湊遺跡」を山腹に斜めに貼り付けた様な構造。

むしろ、最上階の館神八幡神社を中心にした門前町や客殿利用で取引する商人町と言う雰囲気。

郭内に鍛冶,金属加工の職人が居た形跡もある。

まんま、津軽十三湊、秋田洲崎(湯川湊比定地)や広島草戸千軒と言う雰囲気なのだ。

資料らで見るより、傾斜と段々畑状の形態はキツい。

防御で馬を使える様な形でもない。

百聞は一見にしかず…

同行者は笑い、筆者は頭を抱えた。

で、湧く疑問…

「勝山館は中世城館ではないのでは?」…そして、「何故誰も疑問に思わないのか?」…だ。

ここで翌日を含めた見学予定を変更する事に。

なら、「他の同時代の中世城館は?」…

と、言う訳で、最東の道南十二館と言われる「志苔館跡」や戻りしな北斗市で「矢不来館跡」「茂別館跡」ら、近隣資料館で遺物を見ようと言う事になった。

 

③他の中世城館は?

○志苔館跡…

こんな謂れ。

で、

入口は空堀で区切り、主郭四方を土塁で囲む構造。

山城に在りがちな形。

遺物は「市立函館博物館」で展示。

ここは大量の古銭とそれを入れた龜が有名。

ここ、所謂コシャマインの乱で落城した伝承だが、火災痕ら戦乱を裏付ける遺構はないらしい。

 

○矢不来館跡…

ナビで近辺迄行ったが、場所が解らずギブアップ。

北斗市郷土資料館に、レプリカと多少の遺物展示が。

前日の内に発掘調査報告書は発注、別途取り上げる予定。

 

○茂別館跡…

新羅之記録でのコシャマインの乱上ノ国の花沢館と同様に落ちなかったとされる城館。

現在、大館側とされる郭には矢不来天満宮が鎮座する。

大館側とされる周囲には、空堀→土塁が施される。

と、言った感じ。

なんとか、道南十二館で中世を確認可能な2つの城館の片鱗を確認出来た。

 

④構造比較とここは?…

一応、時間の都合登城しなかったので、ガイドブックより。

これが花沢館。

そしてこちらは洲崎館。

お気付きだろうか?

山城らをどう定義付けるかにもよるとは思うが、確認出来た中世城館では、

・平滑された単郭又は複郭を持ち、それを断崖,堀,土塁らの防塁で守る構造…

これを持つのだが、勝山館「のみ平滑された郭」を持っていないのだ。

所謂「チャシ」においても、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

・山頂又は尾根のスペースを平滑し郭を作る

・舌状台地の根本に空堀を作り、分離した上で台地上を平滑

こんな構造。

当然、より高い所に主郭と城主居館を置き、視認性や防御性を考ええるのは言うまでもない。

この辺は、東北含めた中世城館や山城、チャシらの共通項。

仮に尾根に段々を作るとしてもそれは、「複数の郭を段々配置する」だ。

これは当然で、より高い所に主郭があれば、上からの攻撃は避けられ、登り口に郭と防塁を設置すれば下からの攻撃に守備力を特化すれば良い。

それとて、鵯越えの様により高い断崖からの奇襲はある。

敵が都合良く攻めてくれるなんて事は有り得ない。

どう、よりリクスを下げられるのか?の世界。

で、勝山館のみ、これらリクスを下げる事を考慮していない…これが同行者と筆者に共通した違和感。

一つ間違ってはいけない事…

「何故城館が必要だったか?」だ。

新羅之記録史観」なら、勝山館が築かれた時期は、動乱が収まっていない時期ではないのか?

それで背後ガラ空き、平滑された郭も無く、敵から視認出来る場所…こんな城を築くだろうか?

他の中世城館,チャシには無い、勝山館固有の特徴だ。

むしろ、勝山館内の人々を隔離,監視している様でもあるのでは?と、勘繰ってしまう。

ここで芽生えた疑念だが、ここは中世城館ではないのではないか?だ。

・夷王山(むしろ医王山か)や館神八幡神社を中心に宿坊を備える宗教施設…

・膨大な貿易陶磁器から、商人が集まる交易施設…

・又はそれらの複合施設

現状は、こんな見え方。

まぁ今回の弾丸ツアーに当たっては予習が出来てはいなかったので、出たとこ勝負の印象重視。

この第一印象を考慮し、少し中世城館へも学びを展開したいと考える次第。

 

⑤その他考察…

A,仮に中世城館ではない場合…

新羅之記録史観では、武田信広は花沢館の蠣崎季繁の娘(安東政季の娘→蠣崎季繁の養女)婿となり、蠣崎氏を継ぐ…だ。

だが、安東氏内での蠣崎氏の身分は明確ではない。

それが明確になるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230

1514年の準一門への格上げと代官職の任命から。

特に中興の祖武田信広自体が客人扱い。

在りがちな幽閉や人質は、寺社預りになる事はある。

仮に勝山館が宗教施設であれば、特定の人物を匿うには好都合ではある。

勿論、大殿から身分が明確に設定される迄。

中興の祖が匿われた場所なら、後代に城として記載されてもおかしくはないのではないか…と言う考え方だ。

若しくは新羅之記録史観ではなく、南部側の史料からならどうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623

中身はなかなか眉唾ものではあるが、「蠣崎蔵人の乱」により南部氏は糠部〜下北半島一円を掌握に成功する。

南部氏側の史料では、蠣崎氏は蠣崎蔵人の後衛だと言う事になっている。

この場合、武田信広→蠣崎蔵人で置き換えて見れば?

蠣崎蔵人が元々安東方か?南部方か?明確ではないが、逃れた蠣崎蔵人を匿うにはある意味うってつけの場所ではある。

上ノ国下北半島の逆になる。

匿う又は幽閉する事で、何らかの利用価値を見い出せばそうするのではないか。

身分が明確になるまで幽閉…なら、新羅之記録史観の武田信広と同じ立場で解釈可能。

なら、このどちらが蓋然性が高いのか?

新羅之記録にある道南十二館、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

今迄も報告の通り、上記中世城館以外は明確ではないし、コシャマインの乱自体があったか?無かったか?解ってはいない。

瀬田内チャシですら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949

この通り。

確か志苔館跡でも、落城の形跡は無かったかと思うし。

対して、蠣崎蔵人の乱の場合は恩賞が発給される。

勿論これの史料批判は別だが、結果的には南部氏が糠部〜下北半島掌握と言う事実には至る訳だ。

新羅之記録には蠣崎季繁以前の蠣崎氏についての記述はほぼ無く、蠣崎氏が何者なのか?明確ではない。

ここまで書けば、中世城館の状況を俯瞰すれば、実際に起こったのはコシャマインの乱ではなく蠣崎蔵人の乱で、勝山館は蠣崎蔵人の幽閉の地ではないか?の方が蓋然性が高いと感じるのは筆者だけだろうか?

筆者には不思議だと思う事がある。

新羅之記録は史料批判され、明確ではない部分があるのはずーっと指摘されている。

なのに、肯定的な方も否定的な方も、何かといえば必ず「コシャマインの乱が〜」と、ここだけは肯定するのだ。

少なくとも我々グループでは、ある場合ない場合、両面捉える事にしている。

どちらにしても武家家系図や古文は盛られるのが常。

ない場合は蠣崎蔵人の乱で解釈してみると、遺物との整合は取れそうなのだが。

起こったの事実は一つしかない。

 

B,夷王山墳墓群やアイノ系遺物…

今回の弾丸ツアーで最も興味を持っていたのは先述の通り、勝山館と夷王山墳墓群の位置関係。

夷王山墳墓群は事前より、本州系とアイノ系の共存の象徴の様に語られる事が多いので、城館との意味合いを見るにどうか?と考えていた。

また、実は筆者は夷王山墳墓群の初期の発掘調査報告書を持っており、その中にアイノ系と思われるものが無かったのも疑問を持ったのもある。

位置関係は上記の通り、勝山館より高い位置、夷王山側にポコポコ小型の土饅頭が見える様な感じ。

ではアイノ系は?

これが墓域。

650基程の墳墓が検出されてるそうで、遺物を見る限り、中〜近世迄存続した模様。

土葬(屈葬)や火葬墓らが混雑する。

ではアイノ系墳墓は?

一応、頭位が東、伸展葬、刀剣や耳環、ガラス玉を指標としている様だが、

実はこのアイノ系墳墓とされるものは…良い写真が無いのでガイドブックからお借りしよう。

実は、Ⅰ地区の外れに数基あるのみ。

数割とか、そんなレベルではない。

これでどの程度共存していたの言えるのだろうか?

また、本州系墳墓にも漆器らの副葬がされたものはある。

割と短絡的に墓相で判断している様だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

近現代限定、かなり口伝がしっかりしている墓域の発掘調査報告がこれ。

火葬も屈葬も伸展葬もごちゃ混ぜ。

なら本当はどうなのか?

現状知る限り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/23/121204

発掘点数が少なく、墓相で決定出来る内容は少ない様だ。

一度、墓相についても通史的に整理する必要があるのではないだろうか?

更に、ここでは同じく共存の証として、最古級のイクパスィの出土も有名…ではどうなのか?

これが出土位置。

勝山館の郭から外れ、旧笹浪家住宅との境目辺り。

実際には1640年のKo-d、駒ケ岳噴火の火山灰直下での検出。

筆者の「あれ?中世じゃないの?」に対して、同行者は「割と新しいよ(笑)」とニヤリ。

江戸初期と判断されている。

つまり、中世遺物ではない。

勝山館からはキセルの出土を見る。

煙草は、西洋人により持ち込まれる。

1550年以降でなければ辻褄が合わないのだ。

勝山館の存続が江戸初期迄とされているはこの辺もあるのだろう。

つまり、勝山館出土と言っても中世だけを示すとは限らない。

これは夷王山墳墓群も同様。

むしろ、アイノ系と思われるものは、全体の運用時期の中では新しい物なのだろう。

ちょっとイメージとは違うのではないだろうか?

ついでに。

イクパスィの写真には「材質:ヒバ」とある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

これと同様。

近世の柳らで切掛を…そんなものではない。

我々はこんな事も捉えている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/18/180921

「木帳面」「錦木」の事例。

ガイダンス施設のジオラマには、丁寧に「ヒバ自生林」の表示が。

元々、ヒバ(アスナロ)やスギはブラキストン線に阻まれ、北海道に生えてはいなかったのは報告済み。

道南周辺は植林され、後、江戸初期から材木として出荷されだしたのは言うまでもない。

なら、このイクパスィ比定のものは、イクパスィ…木帳面or錦木…どちら?

そういえば、上ノ国惣乙名ハウカセは津軽出身だとか…

 

C,石積み…

同行者曰く、勝山館で検索したときに石垣でヒットした…と。

で、これは館神八幡神社の土台部分。

で、近寄ると…

確かに、石垣を施す。

ただ、館神八幡神社は江戸期に再建されている。

これが中世のものか?はまだ確認出来てはいない。

さて、石垣と言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

つまり、勝山館の石垣が中世のものと確認出来れば、丁度秋田と余市を繋ぐライン上に事例が増える事になる。

秋田北部と津軽の空白を、日本海ルートで飛び越える事が可能になってくる。

それは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005

出羽三山信仰との関与がどうか?

確かに「和鏡」の検出はあるようで。

これは気の長い宿題となりそうだ。

 

如何だろうか?

まずは入口。

先述の通り、筆者は予習をしていない。

これからあれこれ文献や発掘調査報告書で、研究者がどう考えているか?と、自分で見たものの整合をしていく必要がある。

上記は入口、叩き台に過ぎない。

収穫と宿題はてんこ盛りである。

ここで、今回の弾丸ツアーにあたり、協力してくれた方や対応してくれた方、同行者には感謝しかない。

ありがとうございました🙇

 

今回の感想…

「百聞は一見にしかず」

これに尽きる。

来なければ解らなかった。

やはり、文献だけでは解らない。

 

 

 

参考文献:

「かみのくに文化財ガイドブック」  上ノ国町教育委員会  2023.6.29

 

「北海道渡島半島における戦国城館跡の研究−北斗市矢不来館跡の発掘調査報告−」  弘前大学人物学部文化財論研究室  2021.5.10