蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/22/203708

「秀麗無比なる鳥海山よ」…

秋田県民歌の出出しである。

ウィキより…

「石井歓作曲の吹奏楽混声合唱による『大いなる秋田』の第3楽章【躍進】では1、2番が混声4部合唱として挿入されている。」

これの練習で「大いなる秋田」で覚える県民もいるのではないだろうか?

そんな表現をされた有名なバテレン書翰がある。

北海道と秋田の関係を記すものとして、北海道でも秋田でもほぼほぼ史書資料編には登場する文。

このブログでも何度か断片は紹介しているが、「中世蝦夷史料」にも当然の如く載っているので、この際引用しておこう。

 

そのバテレン書翰とは?

1565(永禄8)年のルイス・フロイス書翰。

ルイス・フロイスは言うまでもなく、イエズス会の宣教師で「日本史」を書いた人物。

織豊期の史料として信長や秀吉らと直接話した逸話だけでなく、周りの武将らのと関係を示す一級品。

では、その書翰を引用してみよう。

 

「日本国の北方殆ど北極の直下に蕃人の大なる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり、飲まんと欲する時は棒を以て其髭を上ぐ。甚だ酒を好み、戦闘に勇猛にして、日本人は之を恐る。戦闘中傷を受くる時は他に薬を用ひず、塩水を以て之を洗ふ。鏡を胸に懸け、頭に剣を縛し、其先端は肩に達す。法律なく、天の外礼拝する物なし。国は甚大にして都より三百レグワあり。彼等の中にゲワの国の大なるアキタと称する日本の地に来り、交易をなす者多し。日本人彼地に到る者あれど、彼等の為め殺さるゝが故に其数は少し。此種の事にして記すべきもの多しと云へども、本書翰は既に長くなりたれば及ぶ丈省略すべし。」

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫 三一書房 1983.5.31 より引用…

 

本音、この文章の前の部分を読んでみたいが、まだそこには至らず。

又、この後ろに書かれるハズだった内容は何だろう?

気になるところ。

 

さて、時代背景を。

1556年…

秋田湊を押さえていたのは当然ながら安東氏。

東公嶋渡りの「安東舜季」が1553年没なので、この時の秋田を押さえていたのは「安東愛季」になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/05/192830

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/30/170600

今迄も幾つか紹介したが、檜山と湊の両安東氏を統一して周辺を領地拡大すべく南部氏と抗争していた戦国大名

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

この辺の貿易に関わりを持つ人物の一人(愛季は脇本城にも入っていた)。

勿論、蠣崎(後の松前)氏を率いた大殿で、蠣崎慶広を可愛がっていた。

では中央史では?

ルイス・フロイスは将軍足利義輝に謁見したり、永禄の変で将軍が討たれた事も記す。

前後して織田信長朝倉義景上杉謙信らと書状をやり取りしていたのも、中央の動乱が影響していたのも考えられるだろう。

嗜みの鷹狩の鷹だけではなく、蝦夷衆と直接やり取り→鞍の皮らの調達が可能。

北天の斗星も伊達ではなかったか。

 

 

参考文献:

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫 三一書房 1983.5.31 

「ainomoxori」の初見は?…それを記事したのは「イグナシオ・モレーラ」 ※追記有り

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/134039

せっかく初めて北海道へ渡った西洋人を取り上げたので、この際、初めて「アイノ」に類する言葉を使った人物にも触れよう。

アンジェリス神父が書いた地図にも記載があるが、最初にそれを記事したのは別の人物。

「イグナシオ・モレーラ(又はモレイラ)」。

どんな人物なのか?

歴史地理学会に寄稿された「日本地図の変遷とイエズス会報告」三好唯義(当時、神戸市立博物館の学芸員〉によると、

 

「彼の経歴としては,ヴァリニャーノの「日本諸事 要録補遺」の中でポルトガル人と書かれており1538年か1539年にリスボンで生まれたものと考えられている。史料の上からモレイラの姿が判明するのは1588年11月25日付のヴァリニャーノからローマのイエズス会々長への手紙の中である。そこでヴァリニャーノはモレイラのことを「聡明な知識のもち主で,地理学,地理学的研究にも適度に精通してい る人物」として,イエズス会に迎えるようにと述べてる。」

 

「日本地図の変遷とイエズス会報告」三好唯義  より引用…

 

との事。

ポルトガル人の地理学者で、イエズス会のヴァリニャーノに同行して来日し、滞在した二年間に鹿児島〜京の緯度計測や日蝕観測をした様だ。

ヴァリニャーノの信頼が厚く、上記の様にイエズス会へ入会させるべきと提案されている。

その後どうなったかは判然としないのだが、彼が残した地図(原図は失われている様だ)が、その後の西洋人が描いた日本地図やイエズス会の世界観に大きく影響したと考えられている。

ではまた海保嶺夫氏の「中世蝦夷史料」からその部分を引用してみよう。

 

「ここに附する島の部分は、これを日本人が蝦夷〔の島〕といい土着人がアイノモショリと称している。その住民からきくところによると、彼らはまた西方にある他の島々ばかりでなく、蝦夷の島の北方にある他の島々にもたびたび行っている。これはレブンクールと言われているが、朝鮮と連なっていると朝鮮人も言っている。この蝦夷の民族は、全く文明や礼儀に欠け、体格はよく、非常に力が強い。身に獣の皮をまとい、日本人より短い弓をもち、刀を頸から懸け、またその他のことでも日本人よりむしろ韃靼人をまねている。この〔韃靼人の地〕には、この地図にみえるように、非常に近いからである。これらのことを日本人からも、またインド副王の使節が都へ着いたとき、関白殿のもとへ遣わされたその島のある住民からも聞きとったのである。」

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31  より引用…

 

掲載の後ろに注釈し、イグナシオ・モレーラが文禄ニ(1693)年に秀吉に謁見した松前慶広一行に会って聞き取ったものと考えられている、としている。

松前慶広自身かまた同行者と話す機会があったと考えていた様だ。

それまでの日本地図は、ものにより大陸とくっついたものもあり、詳しくは解っていなかった様だ。

それでアンジェリス神父らも「島?大陸の岬(半島)?本当は?」となったのかも知れない。

で、これが「ainomoxori」の初見になる。

 

さてでは、我々的に考察してみよう。

①これは、あくまでも「聞き取り」によるもので、どう発音されていたかは未知数。

②この文脈なら「ainomoxori」は地理的な「物」を指して使われている。

③当時のイエズス会らの世界観はアンジェリス&カルバリオ神父らの話を絡めると、「東は北米大陸、西は韃靼、南は津軽、北は未知の領域に達し、近辺の幾つかの島を含む巨大な島の総称」だろう。

よって本道だけを指し示している訳ではない。

④引用文の通り、細かい説明はこの中には無く、意味合いはハッキリ書かれてはおらず、どんな質問に対してこの答えが回答されたか文脈も解らない。

⑤少なくとも「ainomoxori(アイノモショリ)」であって、「アイヌモショリ」ではない。

この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111

後の世でも同じ傾向。

途中の絵図でも「アイノ」であり初見以後一貫している。

つまり「アイヌ」はジョン・パチェラーの造語。

 

こんなところか。

勿論、その後、数多研究者が侃々諤々なのはよく知っているが、スタート時点はこんな風に割と曖昧なのだ。

で、アンジェリス神父にしても、地図への書入記事としてイグナシオ・モレーラの記述を引用した訳だ。

因みに、アンジェリス&カルバリオ神父は、「引用」以外「ainomoxori(アイノモショリ)」は使ってはいない。

「北方探検記」にある原版からチースリク氏が抜粋しているのは、

蝦夷→Yezo

蝦夷国→Yezo cuni

蝦夷人→Yezojin

と、聞いたまま記載しており、アンジェリス&カルバリオ神父が聞き取りをした中に「ainomoxori(アイノモショリ)」が登場した節は見つけられない。

あくまでも松前慶広又は家臣からイグナシオ・モレーラが聞いたもの「のみ」しか現状は見つけてはいない。

 

真相は如何に?

また、何処かで見つけたら報告しよう。

 

※追記…

一応、時間軸を改めて。

イグナシオ・モレーラが地図の原図を描いたのは1590年前後。

アンジェリス神父らが報告を行ったのは1620年前後。

タイムラグは約30年。

イグナシオ・モレーラが先になる。

また、直接話を聞いたアンジェリス神父は、途中はいざ知らず天塩,。ミナシと具体的地名を聞き出している様だ。

 

 

参考文献:

 

「日本地図の変遷とイエズス会報告」三好唯義 

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31 

「アイノ文化の献酒方法」?、実は…蒲生レオン氏郷から酒を給されたのは誰か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/05/134926

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

ちょっと南部氏絡み?

中世南部氏の居城「聖寿寺館」の工房跡にアイノ文化に通づるらしい痕跡があるのは概報。

工房では中柄やシロシではないかと言われる「+」が底にある陶器が出土している。

解っているのはここまでだった。

 

さて、話は北海道へ飛ぶ。

いきなり引用…

「古文書にあらわれたアイヌの献酒作法について、杉山寿栄男氏と河野広道寿の文献と、古文書を参照して第Ⅰ表に要約した。古い時代のアイヌの献主作法をみると、(1)戦国時代の蒲生氏郷記には、「氏郷の前に召して酒を給はりければ、盃の上に箸を一前のせて酒を受け、其箸を持ち立、色々の舞をまい箸にて髭をかいげてぞ呑みける。」〜後略」

 

「有翼酒箸の諸形式と地域性」 名取武光  『河野広道博士没後20年記念論文集』 河野広道博士没後20年記念論文集刊行会 昭和59.7.12  より引用…

 

これで興味を持ったのはある。

たまたま河野広道博士没後論文集に有った論文。

同書では献酒作法として、

蒲生氏郷記…戦国時代

蝦夷筆談記…1709年

北海随筆…1739年

にそれらの記事があると示す。

優先順位を下げつつ、その内に…と思って概要だけ調べていた。

・この記事は「蒲生氏郷記」ではなく「氏郷記」の様だ

・氏郷記の記載者や年代は詳細がハッキリ解らない様だが、蒲生レオン氏郷についての軍記を後の世で書き直している様だ。

・この一節は、蒲生レオン氏郷が「九戸政実の乱」で蝦夷衆の謁見を受け、酒を勧めた際の事らしい。

ここまで。

暫くして、たまたま昨今にバテレン南蛮人の記録漁りをしている中で、たまたま持っていた文献の中にそれを見つけたので、一人ほくそ笑んだ次第。

探して買う手間と財布の紐が助かった。

この辺が、パズルのピースが勝手に集まると言う事例。

さて、蒲生レオン氏郷に謁見した人物は?

名取博士はアイノとして紹介している。

確かに新北海道史ら史書、氏郷記、奥羽永慶軍記らでも、この九戸政実の乱へは松前慶広が蝦夷衆を従え従軍したのは記載があり、奥羽永慶軍記では300人の蝦夷衆に毒矢を持たせたとある。なので、この内の何人かが謁見したか?と思っていたので、原文を探していた訳だ。

では引用…

「同九月中旬マテハ城を拘へて見ケレトモ次第ニ兵糧モツキ矢種玉薬モ尽ケレハ遂二九戸降参ヲ乞テ命を被助候ハ、城ヲ明渡サン由申ケリ(略)又夷人二人ヲ毒矢ヲ射サセン為ニ城中ニ籠ラセケルカ此者トモ鉄炮ヲ恐レテ出サリシカハ城ノ矢倉ヨリ左アリ気ナル男進ミ出大音声ニテ申ケルハ此城ニ夷人二人籠城イタシ候ヲ出シ度候カ鉄炮ヲ恐レテ出兼候此口ノ御鉄炮ヲ被止給候へカシト申ケレハ其手の鉄炮を被止ケリ其時二人ナカラ城ヨリ出ケルニ氏郷ノ前ニ召シテ酒ヲ給リケレハ盃ノ上ニ箸ヲ一前ノセテ酒ヲ受其箸ヲ持テ立色々ノ舞ヲマヒ箸ニテ髭ヲカキ上テソ呑ケル其後二人トモニ暇ヲ給テヒ遣ケリ」

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31  より引用…

 

と言う訳で、海保嶺夫氏が北海道に絡んだ史料を集めた中にあった。

これを読む限りだと、九戸政実が籠城戦の末の降伏の際に、仕置軍の鉄砲にビビり出て来れなくなった二人の夷人、鉄砲を止めて出て来たところを蒲生レオン氏郷の前に出され酒を勧めたところ、盃に箸を乗せて受けて舞ってから呑んだ。

その後二人は開放された…

こんな感じである。

待て待て…

それなら九戸軍側になるのでは?

では、(略)とある中略された部分は?

ここからはググッて戴ければ、原文が有ったりする。

一応著作権らがどうなっているか解らぬので掲載は控える。

九戸政実の乱の結末は割と知られた話だと思う。

降伏勧告を飲んだ九戸政実は、籠城していた者達を勧告通り二の丸に移し、重臣と共に白装束で城から出て後に斬首。

二の丸に移された者達は皆殺し…である。

二の丸発掘では女性らの骨が出土し、凄惨を極めたこの話はある程度立証されている。

(略)の部分に記載されたのは、九戸政実らの処置と妻や子を処刑した場面。

この引用文の後に続くのは二の丸での惨劇の部分。

つまり、夷人二人は、数少ない生き残り…か。

キリシタン大名蒲生レオン氏郷に慈悲無し…なのか?

まぁこの仕置軍は連合軍で、その処置は蒲生一人でどうなるものでもない。

夷人を開放しただけ慈悲深いのか?

 

関連項も含めて、発掘調査らから蝦夷衆と思われる痕跡は南部氏方、糠部周辺の城舘に出てきてはいる。

が、南部氏の古書には余り登場しない様だ。

蝦夷衆をそう記載している主な文書は、松前や蒲生らには残るのだが。

と、すると、安東氏や南部氏はそれらの人々を「夷狄」と認識していたのか?という素朴な疑問が沸く。

実は中柄は、浪岡城でも少ないながら二点出土していて、同じ堀から馬の骨も出土していたかと。

食べたのではないかと考えられる話もある。

つまり、これらの人々は「夷狄」などではなく、普通に味方の一員として認識していたので、敢えて書く必要がなかったのでは?

普通にいて、普通に付き合っていた…

 

まぁ古文は苦手なので、この先あれこれ文献を読み漁る内にその辺も少しずつ読み解けて来るだろう。

中世はまだ入口。

 

さて… 

九戸軍に従軍していたとしたら、それをアイノ文化の人々と呼べるのか?

そうなれば少なくとも、九戸政実の配下であろう事は確かになる。

 

再び…

我々は言っている。

蝦夷=アイノ、ではない。

蝦夷にアイノは含まれる…と。

北海道と東北は古代から繋がっており、それが切れた事はない。

 

実は、蝦夷人(エゾニアン)を「普通の人」だと認識し全く区別していなかったのは、東北の「民」だけだったのではないのか?

 

但し、この献酒作法やイクパスィ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/134039

アンジェリス&カルバリオ神父は全く触れては居ないのだ。

なら、これが「口蝦夷」の作法?

 

真相は如何に… 

 

 

 

参考文献:

 

「有翼酒箸の諸形式と地域性」 名取武光  『河野広道博士没後20年記念論文集』 河野広道博士没後20年記念論文集刊行会 昭和59.7.12  

 

「中世蝦夷史料」 海保嶺夫  三一書房  1983.5.31  

この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる、あとがき…時空を並べ直してみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/20/202558

さて、3通の書簡を取り上げてみた。

3通目でアンジェリス神父は、蝦夷国は島であると見直しをかけている。

昨今、時空のシャッフルがされていると言い続けているので、あとがきとして並べ直してみよう。

当時の特にバテレンや西洋人達の視点で、「蝦夷」とはどんなものなのか?

 

 

①地理的要因…

蝦夷国の大きさ

西→

海峡を挟み、朝鮮半島沿海州らと向き合う。樺太は地続き。

その先は竹林や馬を目撃しているが交渉は無く、蝦夷人とは違う人々が住む。

端近くに天塩国があり、そこの住民がChinaの絹反物ら買って松前へ持ってくる。

北→

ほぼ未知の領域。

海峡でアジアの大陸と分離されている。これがオホーツク海と合致するかは記述なく、判然としない。

東→

東端は北米大陸と海峡で向き合い、その周辺にラッコが捕れる3つの島あり(そこの住民は浅黒い膚で髭が無い)。

東の途中にメナシ国があり、ラッコ皮を買付て松前へ運んでくる。

メナシ国の奥には白い膚色で石の家に住む人々が居るが交渉は無い。

南→

南の先端に岬があり、そこに松前がある。激流の海峡があり、それで本州と向き合う。

松前殿が治め、総人口は約一万人。

中央部→

未知の領域。

ここの住民の話は出てこなく、両神父ともに会ってはいない模様。

 

松前へ商いに来ているのは、特に高付加価値がある天塩国とメナシ国の人々。

幾つかの湊を経て数十日の日程で米や麹、各種古着らを買い付けて帰っていく。松前へ土着した者も居る。

言語は、関西弁で会話可能な者、通訳が必要な者、それらとは全く言葉が通じない者(特にラッコの島周辺の者の来道の話有り)

容姿は前項を参照戴きたい。

髪型,入墨?,耳環,首飾りら、所謂アイノ文化を持つ人々に似ているが全くのコンパチと記述はしていない。

筆者が気付いた点では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

太刀を持っている記述はなく、短刀か長くても脇差し程度、矛盾はある。

又、天塩国,メナシ国以外の住民については「干鮭,ニシン」を持ってくるらしい事位しか記述なく、全く解らず。

勿論、未知の島とされており、発見されてはいなかったカムチャッカやシベリア東部も含まれると考えていた。

蝦夷国」はそれら未知の領域を含む島で、そのに住む色々な血統を持つ人々の総称として「蝦夷人(エゾニアン)」としていた模様。

 

②時間軸的要因…

報告はアンジェリス&カルバリオ神父が渡道した1620年頃の事。

 

江戸幕府の将軍は徳川秀忠

この直ぐ後に家光となる。

勿論、松前藩成立し、二代公広の治世。

禁教令は既に発せられ、当然ながらバテレン追放令は適用されており、これら報告書の直後に両神父とも捕縛され、

アンジェリス神父→火刑

カルバリオ神父→水攻め刑

で殉教する。

大千軒岳大弾圧はこれらの約20年後(1639年)で、まだ松前藩も東北諸藩もキリシタンへは寛容な部分もあった時期。

既にゴールドラッシュは始まり、数多の金堀&キリシタンが北海道や東北の鉱山へ入っている。

因みに天草の乱は1637年。

 

蝦夷人の交易拠点は松前

宗谷の役宅は既に作られ、厚岸場所開設はこの直後。

商場知行もまだ判然としていない。

金山開設も初代慶広が亡くなる直後から開始されていたり、各役職名が古文に出てくる頃で、藩としての体制形成の時期だと言えるかも知れない。

 

・ロシアは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

まだエニセイスクを侵略し拠点を置いた頃で、まだ東シベリアまで到達してはいない。まだ影響を及ぼす段階に無し。

1616年に外国船は長崎又は平戸に入港する様に限定され、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/22/195207

オランダとイギリス艦艇が、スペイン船に海賊行為を行い始めた頃。

スペインやポルトガルは危機感持っていたであろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/20/181217

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/20/071910

ドン・ロドリゴやビスカイノが記録を残すのが1610~1611年なので、両神父の渡道と蝦夷人との遭遇はその約10年後になる。

まだ活発に我が国周辺で、外国船が闊歩していた時期。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

フリース船隊の航海は1643年で約20年後。ここで千島や樺太、厚岸らへの上陸がされ道東を含め記録が残る。

 

・天災らは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

ビスカイノの金銀島探索が丁度慶長大津波の直後で、1611年のその津波の痕跡は道東の発掘調査でも報告されている。

またこの報告らの20年後の駒ケ岳爆発から火山灰層形成される爆発は

1640年→駒ヶ岳(Ko-d)

1663 →有珠山(Us-b)

1667→樽前山(Ta-b)

と、連発して発生する。

「生き延びる事が出来たのか?」と言う我々の疑問である火山灰層だが、両神父が渡道したのは、丁度これらの火山灰層被覆の直前位に相当する。

因みに記録上の主な金山開山は、

大千軒岳→1628年

沙流,シブチャリ→1633年

様似,国縫,夕張→1635年

と、なっている。

勿論、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)は1669年、きっかけとなる鬼菱とシャクシャインの抗争の始まりも1648年頃なのでその2~30年前に相当し影も形もない。

 

・もう既にロシア東進が進み、赤蝦夷風説考が書かれたのは1781年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205

カムチャッカ半島らを侵略し千島に南下、それらの人々とトラブルを起こしていた頃。

工藤平助は地理全誌(ゼオガラヒー)らも読み込み、概ね

蝦夷→十勝辺りまで

蝦夷→道東〜千島一帯

蝦夷カムチャッカ方面

と分別している様だ。

後に近藤重蔵最上徳内らが直接入り込むが、元々蝦夷国北米大陸直前までの広大な土地と認識していたのでこんな分別が必要になったのだろう。

ロシアの侵略により、明確な国境策定が必要になる。

それまでの様に漠然としている訳にはいかなくなった事情はロシア東進によると言えるのではないか。

 

 

以上の通り。

こんな背景の時代である。

で、この点は踏まえておきたい。

両神父が報告した「蝦夷国」は、未知の領域と人々を含む広大且つ色々な人々を含む総称。

②この時、両神父最大の目的は蝦夷人への布教可能を探る事だが、概ねの西洋人の興味は貿易拡大や「金銀島」を見つけ征服する事。

両神父が報告した人々はあくまでも交易で松前まで来ていた「奥蝦夷」の姿で口蝦夷は描いていない。

故に本道に居た口蝦夷の姿は未知数。

松前周辺に住んでいる蝦夷人もここがベースと考える節がある。

また、少なくともカルバリオ神父は、蝦夷国内の集団の中に(乙名は居るが)、天下殿(天下人や将軍)も王(大名,武将)もいないとしているが、彼等の王と言えるのは松前殿だとハッキリ書いている。

これは蝦夷人に許可証の発行を行って蝦夷国内の往来や商い、安全の保障をしている事が根拠。

異論ある方も居ようが、少なく見積もっても経済圏は同一と見るべきだろう。

松前の町や役宅,直後開かれる厚岸場所がなければ、越冬用の米も生活必需品も手に入らない。

④災害史や考古学視点と組み合わせると、駒ケ岳(Ko-d)、下っても樽前山(Ta-b)被覆直下が、両神父訪道の時期とも一致する(勿論、遺跡はもっと遡る可能性は有り)。

丁度「アイノ文化期」として報告される遺跡の廃絶直前と一致する。

これは、金堀&キリシタンが盛んに北海道入りし、その十年後位からの内陸側へ金山開発した時期とも一致する。

⑤宗谷役宅や厚岸場所が出来た時期も概ね一致する。

特に東方面の場合、松前まで出向く必要はなくなる。

これは、他藩の商いへの介入阻止も含むのではないだろうか?。

蝦夷人は馬を知る。

使いこなす者もいる。

 

こんな感じだろうか。

 

当然、この訳本一つで何が決定するものでもない。

が、この報告はバテレン本人が北海道へ赴き、直接蝦夷人から聞き取りした内容で、フリース船隊航海記録と共に、他人の話を聞いて書いた他の西洋人の記録とは一線を画す。

それもまた事実だろう。

中〜近世に僅かに残される古文の読み直しは、更に進めていきたいと考える。

 

が、不思議な事はある。

安東氏や南部氏の古書にあまり夷狄の記載が無いのは何故?

不思議ではないか?

 

 

ゴールドラッシュとキリシタン-32…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる③&まとめ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305

さてでは、3通目。

アンジェリス神父のニ通目で1621年となっている。

これは、アンジェリス神父が二度目の渡道後、イエズス会の日本準管区の上層部から詳細報告を要求されて書いたもの。

この時に蝦夷国の地図を添付しているが、それがこれ。

とうとう、蝦夷国は大陸から離れた「島である」との認識に至る。

では、進めていこう。

 

①地理的要因

「第一に小生が蝦夷に就いて嘗て差し上げた報告書中で、島ではなくて、韃靼の末端部と岬であり、その韃靼の岬と向きあうて、キヴィラというノーヴァ・エスパーニャの別の岬があるだろうと思い、それ故に、世人の想像している如く、また諸地図に描かれている如くに、この韃靼とノーヴァ・エスパーニャとの両岬の間にアニヤン海峡があるものと推測した旨を述べました。蝦夷が島ではないというように小生の心が傾いた理由は、蝦夷土人達の小生に語ったところに因るのでございます。それは即ち日本人のいる松前から陸路東の方へ行って、東の海岸へ達するまでは九十日の路程でありますし、松前の同じ処から陸路西に向って進むと、西の海岸へ行き着くまでは六十日の路程であるとのことでありまして、それよりして、小生は蝦夷が島ではなくて、韃靼の末端部だと推測しました。というのは、今までにどの〔地理上の〕発見に於いても、西から東へ五箇月もその中を陸路歩き通せる程の大きな島が検出された事がないからでございます。そこで小生は、蝦夷人達がその国土に就いて語るのが真実であるとすれば、蝦夷が島ではなく、韃靼末端の岬である方が確からしいと考えたのでございます。

また他面からは、正しく島であるとする次のような諸理由がございます。その第一は、蝦夷が東の方では海洋に包まれ、南の方でもそうであり、蝦夷末端でえる天塩の国土では西の方にも亦極めて激しい流れがあり、天塩と相対して、彼方の馬でも望見されるほど接近した陸地があります。

蝦夷からその向うへ渡りたいと思うても、天塩の国土とこれに面する陸地との間のかの激流のために、誰も敢てそれをしないのでございます。この流れの中程には、日本の大きな竹の如くに太いヨシ即ち芦が生えているといわれますが、猛烈な流れのために折れ曲り、水中に潜り、それから復た起き上がっているのだそうです。それ故に彼等が天塩の向う側の陸地へ、どうしても渡らないのですが、あの竹が小さい彼等の舟を転覆させるかとの怖れを懐いているからであります。彼等の語る以上のことから、蝦夷は北部でも、韃靼を分離する海に囲続されていると小生は推測しました。そうでなければとてもあの激烈な流れがあり得ないわけであり、天塩とそれに向いあう陸地との間の海が、ただの入海であるとすれば、あの激流を生ずるはずがないからで、そのような流れのあるのは北部にも海が存在し、東から西へ、また〔それと反対に〕西から東へ流れて来るからでありまして、その〔互に反対の〕両流は潮の満干に応じて起るというより外に因れがありません。」

 

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 より引用…

ここに来て、蝦夷が天塩を西の外れとする「島である」との認識へ変わっている。

第一の理由は引用の通り、韃靼へ至る途中には激流があり、それが津軽海峡と繋がる事の様だ。

その激流は蝦夷国を取り囲み流れるだろうとの推測から。

他の理由も要約する。

蝦夷国を統括する「天下殿」がおらず、本州以南の様な「君主」も居ない。又、韃靼は「大汗」が居るがそれに服從する必要もない。

・以前シチリアで見た地図は島(架空の「銀の島」?)になっている。

蝦夷人達が松前→天塩に向かう時は東→西に向かうと行っており、天塩に向かい合う陸地は(高麗に隣接する)兀良哈だろう。

等々。

日数から割り出すと結構矛盾もあり、その分蝦夷国は肥大化してはいる。

現実的には松前→天塩であれば北西へ進む事になるので、彼等の話からの推測でしかないのはやむを得ず。

樺太や千島も無し、カムチャッカ半島も無しでアニアン海峡まで島が続くとの考えだが、北も海で隔てられる事には至った訳だ。

 

②人々に対しての記述

「第二、蝦夷地の土人に就いて申し上げましょう。彼等は強健であり、かなり高い身長を有っており、普通には日本人よりも体軀が高い人であります。松前に商に来る者は日本人のような膚色をしていますから、彼等はそれ程白くもなく黒くもありません。但しもともとは日本人よりも白いのです。以上は小生が、松前で育った男女幾人かの蝦夷人に就いてはっきりと推定するわけであります。これらの〔男女共に〕一般には日本人よりも白いし、ときどき腹部の中程まで垂れるような長大な髭がをもっていて、醜い容貌ではなく、体軀とよく均斉がとれ、外見は立派でございます。」

 

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 より引用…

 

以下長いので要約。

・男性は頭の半ばまで髪をそり、他は髪を伸ばす。中には髪を折らないで結ぶ者もあり。

女性は髪は短く「禿」のよう。

・男女共に耳に孔をあけ、耳環(上等は銀、下等は衣片)を縣ける。

・老若男女共に松前に来ると酒を飲む。容易に酩酊せず、千鳥足や変な格好をするものは極僅か。(飯にトドの脂を掛けるから?)

・男女共に衣服は祭服並みに長く、数多刺繍や垂れた紐飾り有り。刺繍は花クルスに類似するが意味は不明(凛々しいとするが理由を知らぬと答える)。衣服の下には軽袗を着るが、松前へ来る時は着ない。

・女性はガラス珠らの首飾りを掛ける。帯の一端に鏡程の銀板。

・女性は唇と手首(5~6本の環)に藍色を塗る。

・武器は弓矢(毒矢)に槍に脇差し程度の刀。防具は板簾(鉄ではない)の具足。

・彼等の商品は、乾鮭、ニシン、白鳥、鶴、鷹、鯨、トド皮。

他、東→ラッコ皮、西→絹

銭ではなく、米(麹)、小袖,紬,木綿の着物と交換。

・太陽と月を信仰するが、人に有益だから。又山神と海神も信じるが、大漁祈願と薪や建材を入手する為。

・彼等の「住む地」には寺も坊主も居らず、読み書きも出来ない。

・本妻の他に妾あり(中国人を習う?)。

夫が先立っても夫の家に残る。

・既婚女性が姦通すれば頭髪を抜き取る(姦婦と知らしめる)。相手から刀や衣服を奪う事が出来る。

蝦夷人には忌むべき罪悪感が無いと日本人(数年付き合いがある日本人に蝦夷人へ問わせた)が言う。

・地図より蝦夷国は東に長いだろう。

理由はラッコ皮が蝦夷国では産出せず、近くの3つの島で捕れる物を買付に行く為。

この島の人々は髭を生やさず、言葉も違う。

蝦夷国西の人々はラッコ皮を持ってくる事はなく、東の特産。

・挨拶やコミュニケーション方法が多数ある。幾つかは他国人に似ているが、簡単に説明不能

 

この様な感じ。

アンジェリスは、また蝦夷国へ渡りたいと書いているが…それは無かった。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/09/163326

彼はこの様な壮絶な最後を遂げる。

さて、上記を「アイノ文化に似ている」と思った方は受け入れねばならぬ事がある。

①上記はあくまでも、ミナシや天塩の人々の話。

数十日掛けて松前迄、商いをしに来た人々の特徴を記載しており、途中の湊の地名らを含め、途中に住んでいる人々には全く触れてはいないのだ。

新羅之記録で「鵡川から余市迄、村々里々」とされた人々は一切登場しない。

②太刀が無い、間切り包丁も無い、イクパスィも無い。

何時もの通り、似た部分と似ていない部分がある。

③肌の白さについての記載で、敢えて「松前で育った」と表現している。

同じ街で共存している事になる。

商売で行き来する内に、松前へ住み着いたと考えている様だ。

今のところ、筆者が知る中ではっきり色白である事を記載してるのは、これが初見の様だが。

すれば、「西洋人に似ている」と書いたのは彼等が最初になるのでは?

ある意味当然かも知れない。

北海道に上陸した西洋人は記録上、彼等が最初になる。直接会話をしたのは彼等が最初になるであろうから、そうなってくる。

幕末に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417

西洋人が盗掘らを行った理由の遠因は、こんな彼等の報告かも知れない。

 

 

纏めてみよう。

以上の様に、

 

・彼等が「蝦夷人」として説明していたのは、

東側→

本道東端〜北方四島〜千島の人々の事

西側→

本道北端〜樺太の人々の事

と解釈出来る。

それは、松前周辺を含むそれ以外の人々と違い、純然とした「交易の民」の性格を持ち、

東側→

ラッコ皮

西側→

China方面の絹

という特産があればこそ、クローズアップされたと考えられる。

 

・これを鑑みれば、

東側→

厚岸場所の開設

西側→

宗谷役宅の設置

が、記録上途中の諸地区より早いのは、上記特産品を最大限に入手する為だと推測可能だ。

松前藩は「天下殿」たる秀吉,家康からそれぞれ独占交易権を得ている。

が、「天下殿」は、蝦夷人が何処に商いに行こうが自由にすべしとも言っていた。

この段階(1620年頃)これをガードするには、交易場所をより蝦夷人に近い場所にしてしまう必要が出てくる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/26/205243

これは後の「寛文九年蝦夷乱」での乙名らの言い分でも裏付けられる。

また、米の採れない松前藩としては、この「高付加価値品」こそが最大に利幅が取れる収入源とも言える。

囲い込みの必要は出てくるだろう。

 

・つまり、この時期、アンジェリス&カルバリオ神父が報告した「蝦夷人」は、「赤蝦夷風説考」で「奥蝦夷」と記された人々の事であろうと考えられ、「口蝦夷」に関しては記事していない。

彼等は口蝦夷の居住区まで達しておらず、更に彼等が渡道時に口蝦夷には遭遇してはいなかったのか、触れてはおらず「解らない」としか言いようがない。

 

・これは現在の我々だから考慮可能であり両神父は知る由もないが、https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

北海道では中世遺跡が検出されず、生活痕らしき遺跡は今のところ余市位。

それがTa-bら火山灰層直下の時代から突如遺跡が現れる。

蝦夷とされる人々がどの程度定住していたのか?は未知数。

蝦夷居住地域→口蝦夷居住地域への流入は考えておく必要はあるだろうと言う事だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/27/092649

新羅之記録ではあるが、流入を許す古書記載はある。

 

こんなところであろうか。

勿論、古書一つで何かが決まる訳ではないし、あくまでもカトリック布教の視点で報告しているので、数字を盛ったりはあり得るとは思う。

だが、直接蝦夷人と表現する人々へインタビューした貴重な記録であるのは間違いない。

アイノ文化に近い報告と考えるなら、それは本道の事…と、言うより樺太や千島のそれになるのではないか?

これなら、矛盾は消えるだろう。

但し、この文化は口蝦夷の文化とは言い難いのは確かだろう。

勿論、その文化を持って本道に中世から住み続けたという話にはならない。

と、あくまでもこれは1620年頃の話である。

時空をシャッフルしてはいけない。

 

 

参考文献:

 

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 

ゴールドラッシュとキリシタン-31…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる②

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/15/194055

さて、続き。

今度はカルバリオ神父の報告書になる。

これは1620.10.21の日付。

また、地理や人々の様子らに特化して引用してみる。

一応…

我々は以前から別の書物で「カルバリオ」だった為にそれを通しているが、この「北方探検史」ではラテン語読みの「カルワーリュ」と記載される。

引用文と我々の記載内容で差はあるが、同一人物であるので御承知願いたい。

どうやら、カルバリオ神父は、この当時に久保田や院内に多くいた出羽国の信者に招かれ仙台→見分(後藤寿庵の知行地)→下嵐江(岩手の和賀〜秋田の横手方面の峠)→仙北→久保田→津軽→久保田→北海道へ向かったとある。

久保田からは「金堀」名義で渡ったとある。

アンジェリス神父の一度目の渡道は商人名義。

協力者と相談の上であれこれ仕込んだ様だ。

因みに、金堀としたのは「持ち込める商品が無い」為。

その変わりに、カルバリオ神父はミサの道具一式を持つ事が出来た訳だ。

故に「北海道で初めてのカトリックのミサ」を行ったのは彼になる。

 

では、また地理的要因と人々に対しての記述に特化して記していこう。

 

①地理的要因

「前略(筆者註:金堀に変装した理由の事は)四年程前から蝦夷には純良なる金を豊産する諸鉱山が発見されたので、日本じゅうからそれを渇望する人が毎年夥しくかの大きな国へ渡るようになったことがありまして、その人数が昨年は五万人を超え、本年も三万人以上だといわれています。そのうちに加わって多数のキリスト教信者も渡ります。かの国へ行く船は皆、蝦夷での最初の岬の一港へ入ります。そこには松前という日本人の町があります。但しその殿はやはり日本人ですが、その地で生まれ、そこに居城をもっていまて、通商と鉱山からの収益があるだけですが、それでも敬重されていますし、天下から多くの特権をも受けております。そのわけは、鞍をつくるためやその他の用途がある猟虎皮という柔らかい毛皮、生きた青鷹・鷹・鶴・その他の鳥類の如き珍重すべき物がその地から来るからでございます。」

蝦夷の国は一つの海峡で日本から隔てられています。海峡は、最も狭いところで凡そ五乃至六エスパーニャ・レグワ程の幅がありましょう。〜中略〜蝦夷の国土はこの海峡から北方へ伸びて行き、終には大きな韃靼若しくは我々の知らない他の大国と続いております。西方へも他の大国に達するまで広がっております。蝦夷人はその大国に就いての知識を供することができませんが、高麗の国土かまたはそれに隣接する国でなければなりません。その国から此方へは、蘆で覆われている低湿の沼地で蝦夷が区分されています。その両国の間を満潮のときに船が航行します。その西方から松前へ来る蝦夷人は七十四日間も航海し、礼として甚だ上質の絹布を松前殿へもって来ます。それは坊主の衣または十徳用になります。この地の蝦夷人達が申しますには、かの湿地の彼方に見える陸地には、美しい竹林と良馬があるが、その住民と交渉がないので、彼等に関しては何も知らないとのことです。

北方から、もっと正しくいえば北東ほうから松前へ来る別の蝦夷人は、六十三日間航海し、彼等も前にいった〔西方よりの〕人々も、この地方の海岸にある諸港へ寄ります。この〔北東方の〕蝦夷人は、礼として松前殿へ、前にも触れた如く猟虎という島から出るので猟虎皮と申している柔らかい毛皮を将来します。また生きた鷹や鶴、日本人が箭に付けている鷲の羽を齎します。北方で彼等の蝦夷と接続する国には、石造の家や、立派な服装の色の白い人々が住んでいるけれども、それと交わりがないのでわれわれを納得させる程の報知を供せられないと彼等が申します。北東方から現れるこの蝦夷人は、松前へ来るのに、蝦夷と日本とを隔てるかの海峡を通ります。蓋し彼等はその〔海上〕でノーヴァ・エスパーニャの海洋に面する部分の蝦夷海岸に沿うて来るわけになりますし、西から渡来する者は、高麗の海に向けて伸びて行くその反対岸を回るのでございます。」

 

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 より引用…

 

さて…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

グループ検討を始めた頃からの素朴な疑問「無視出来るハズのない人口インパクト」の原文がこちら。

カルバリオ神父が言う今年は1620年で、8月段階で三万人を超えるだろうとの予測。

前項の通り、アンジェリス神父が松前の総人口を一万人と予測している事を鑑みれば、数字を盛っていたとして半分で考えても、総人口の4倍がたった二年で流入松前を通過し且つ金堀衆は鉱山町を作る。

で、その何割かがキリシタン

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255

文化をもたらして当然なのだ。

と、基本的に世界観はアンジェリス神父と共有されている。

東(厳密には北東)は未知のアニアン海峡迄海岸線(現実にはベーリング海峡)が続き、西は韃靼迄海岸線が続く。

東では「石の家に住む白い人々」…

西では「竹林に良馬」…

具体的な聞き取りをしている。

それぞれがどの場所に当て嵌るかは別にして、広大な未知の領域蝦夷国にはそんな違う文化の人々も含めている。

当然これ、樺太,本道,千島だけでは成立しないのだ。

バテレンらにとっては、北海道もカムチャッカもヤクートも、ニブフもウイルタもサハもエヴェンキもごちゃまぜ。

この時代の観念はそうだった…からスタート。

次との関連が出てくるから、まずはここまで。

 

②人々に対しての記述

「先ずこの事業に精通する人々が、そこに金が在るだろうと判断して山をよく観てから、友人知人と相談をして一団体をつくり、前述した松前の殿から、その山中に流れる川畔ら幾らブラッサ(筆者註:長さ単位)を金塊幾らで購い、その金塊だけを実際に金を発見しようとしまいと、それにかかわらず支払わなければならないのです。このような団体が無数にその川のほとりを進んで行って、水路を彼方へ変え、それから川岸の下にある堅岩に達するまで砂床を掘ります。それらの岩の裂け目の砂の中に海浜の小石の如くに、純良な金が見出されます。そのわけは、その生成している〔上流の〕山々から剥がされ、流れに運ばれて来てから、重さの為に砂中に埋まりますし、そしてまた岩の裂け目へ陥ち込むと、もはや下へは流れずにそこに残ることになるのでございます。〜中略〜鉱山から収める利益は、それを売った殿以外の人には帰属しません。何故なら、前にも言いました通りに、金塊発見の多少にかかわらず、その鉱山を買った値段を殿に支払わなければならないからでございます。そしてその支払が済まぬうちには、日本へ帰ることができません。ですから金堀で富を作った者は到って寡なく、多くの者はこの国で死ぬか、若しくは儲けるよりも、出費の方が多くて失敗しています。」

「前略(筆者註:アンジェリスが一度目の渡道から帰った直後)〜天下が禁じている故に松前の住民は一人でもキリスト教信者になってはならないとの法度を出しました。然し〔他国から松前へ〕往復する者を大して気にはしないのです。されば小生は、われわれの到来が知られないように努めて、金堀の名義で上陸しましたし、また殿にキリスト教信者であるとしられているが、その地に住み着いていない古い一信者の家に直ちに身を潜めました。そこで小生は蝦夷に於ける最初のミサを挙げました。〜中略〜信者達は熱狂して小生を迎えました。二年以上前からその地にいる人々は、昨年以来既に告解を久しく念願して小生を待っていましたし、奥州で小生から受洗した人々は、小生が日本〔本土〕を離れて彼等に会いに行ったのを知ると歓喜の余りに涕泣しました。また上方やその他の諸地方でも厳しい迫害のために、告解をしようにもパードレを見付けられなかった人々さ、今この蝦夷に於いて〔自由に〕告解するよい機会を与えられ、ミサにも与かれるとわかると、それこそ彼等の精神にとってどんなに大切な療法であるかを知っていますから、この〔蝦夷への〕危険な渡海で嘗めた労苦も出費も却って役に立ったのだと思い、小生にそれを感謝するに飽きませんでした。その地で前に受洗した人々は、深い敬度を以て最初のミサに与しましたし、また告解の時にいつも彼等に行うことになっている説教を聞き終ってから告解しました。それで彼等は非常に満悦しましたし、小生も亦彼等の情熱を知って大いに慰められました。~中略〜(筆者註:蝦夷の地に留まって欲しいという要望に対し)小生だけを頼りとしている非常に多くの信者を、殊に帰りには訪ねてやらねばならず且つそこへいくパードレがいないので津軽の被追放者達を引き受けていないならば、悦んでその依頼に応ずるだろう、蓋し彼等〔津軽の信者達〕こそは日本キリスト教の精華だからであり、彼等は今もこの〔小生の往訪あるかととても大きい〕悦びを持っていること、〔この蝦夷の〕信者達には毎年小生が一度見舞うだけで足りるし、そして小生はできる限りそれを怠らないことを申しました。」

松前にいる信者達の告解を聴くのに一週間を費やしてから、内地の方へ一日路程の金山に赴いて、そこに働いている信者達の告解をも聴くことにしました。〜中略〜金山から余り遠からぬ処に、その頃新しくつくられた藁屋ばかりの一部落に着いてから、一信者の茅屋で祭服に身を装いました。その茅屋は壁は樹皮でてきていて、屋根はコルクに似た樹皮で葺いてありましたが、非常に清潔にして、幕で飾ってあり、小生の到着前に、祭壇が板でうまい具合に造ってありました。その家で小生は聖母被昇天〔八月十五日〕の祭典を挙げました。そのとき、小生が見て来た日本の諸地方にある豪華な且つ立派に装飾された諸聖堂でこの祭日に多くの信者が集まり、その上に信者達のいろいろの遊戯や催物を加えて行われた祭典を思い出しまして、落涙を禁じえませんでした。これは、このような〔豪華な祭典の〕追憶の故でしょうか。それとも〔この世界の〕発見最終の端の地で小生こそが、その聖日を祝う最初の者であるからという慰悦の故でありましょうか。小生もわからないのでございます。信者達の告解を聴いてここで一週間を過ごしましたが、金山の信者達は病人をさえ加えて、そのために入れかわりたちかわりやって来ましたし、また仕事から離れることのできない幾人かにも授洗しました。それが終って松前の町に戻りました。」

「彼等に就いて小生の見聞したところを申しますと、先ず少し色が黒いのですが、それはその地へ来る者が総て海辺に常住し、漁夫である理由からであります。この大きな蝦夷の国々の内部には、礼賛を弁える人々の部落も奥地にあるらしいのですが、それに就いてはわれわれは何も知りません。若しあるとすれば、松前に住む蝦夷人からそれを推しはかって、恐らくは色の白い人々でしょう。〔というのは、松前の〕蝦夷人のうちで漁業の技能に習熟していない者が、日本人よりも色鮮やかにして白いのですから、それを以てこの人達が〔元来〕色白の外観であるとの鑑識を裏付けるところがあり、さればこそ、彼等が己等と似た人に遇えばそれに非常に敬意を払うのであります。以上のことより、彼等のうちで清潔で品のある且つ漁業で生活していない者が頗る綺麗な色をしている筈だと考えられるのでございます。そのわけは次のようになります。その国内が極めて寒冷で降雪も甚だ多いことです。」

「前略〜蝦夷には莢果と稗以外には米または野菜の田畑がないからでございます。とはいうても若し田が作られ、畑が耕されるなら、国土が大きいし、甚だ肥沃らしいので、それを豊産するでしょう。」

蝦夷〔人〕は普通帯に届くまでの長い髭をもっていますが、昔のポルトガル人の髭のように綺麗に整うています。中には背にも毛の生えている者もいるが、それを醜く見せる程ひどく多いわけではありません。鼻と目は日本人のと異なり、ヨーロッパ人のと似ているが、それ程気品がありません。衣服には、一つの布に種々の模様を織り交ぜています。彼等が最も有難がるのは、男女共に、大小の十字架であって、大は背に、小は種々の部分に着けています。これはサン・トメの昔からの伝統であり、その信者が絶えてよりは衣服の飾りのうちにその微しが遺ったからではないかと、充分に信ずることができます。彼等の死骸を葬るやり方も、キリスト教信者のする通りですから、同じように推断できます。寒冷の季節には、内側に毛のある毛皮製の衣を身に着けます。その衣は皆長くて、われわれのシャツのような袖があります。その前が塞がっているのも、開いているのもあり、開いている方は帯を用い、塞がっている方にはそれを使いません。」

蝦夷は弓箭の術に甚だ巧みであり、毒液をぬった箭を用います。その毒液は蜘蛛から作り、それに或る草を混ぜます。彼等の刀はわれわれの短いテルサード(注、太身の短刀)に類し、柄、欛及び欛頭に種々の細工や銀象嵌の装飾をし、吊り革の代りに甚だ上手に織った絹紐を使います。或る者はそれを肩から吊り下げ(モール人の)彎刀の如くに腋下にかかえます。また或る者は、頭から吊り下げ、両肩で紐を垂らし、刀が後にあって、欛を右に、尖を左へ向けています。」

「売買するには商品を貨幣に代えず、それで物を買うこともありません。物と物とを交易するわけです。彼等が松前で主として買うのは、酒造用の米であり、そのために麹も求めます。また彼等は酒好きですから、頻繁に行う酒盛のためにも酒を購います。彼等が松前にいる間は、筵と予め準備して来た木の骨組とで海浜に造った小屋に住み、〔着くと〕直ぐに舟を引き上げ、それを横倒しにしておきます。海上悪天候または暴風雨にあうときにも同様に致します。その舟には一本の釘も打ってありません。というのは舟は皆纏縛して造られ、帆は筵でできているからであります。妻子と家族全部を連れて来ます。彼等の服從する一人の王もいませんが、部落毎に酋長のような者が一人また数人いて、これらに幾らかの敬意を懐いております。松前の殿は日本人ですけれども、彼等の王であるともいえるでしょう。何故なら、前に申しました如くに、この地へ来る〔蝦夷〕人は誰しも皆これに礼を尽くし、またその標章と許可状とを携行する者が蝦夷じゆうを安全に歩けるからであります。」

 

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 より引用…

 

A,金堀について…

システムは上記の通り。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203

以前も紹介しているが初期は、

・代表者が採掘権を買う

・入る川やその長さで松前藩に対する租税額(納品する砂金量決定)

・仲間を集めて採金

・決められた納税額を納付して帰途につく

こんな感じ。

割符で管理されるので、規程納税しない内は帰れない訳だ。

基本的には、ペイする者は少なく、バテレン達は「財産持ち出し」の方が多いと考えていた様だ。

以前の人口インパクトでも書いたが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

端からキリシタンには帰る場所は無い。

端から帰れない様なシステムなので、あまり問題にはならないのかも知れない、元々それより、信仰を優先した事になる。

 

B,カトリックについて…

カルバリオ神父が見る限り、松前藩は自藩領民の信仰は禁止だが、「旅人」に対しては緩くしていた様だ。

こうなると、本来は採金期間内の金堀に混じろうがあまり気にはしなかって事になる(後の弾圧迄は)。

また、この時二度ミサを行ったとある。

松前に於いて

・大千軒岳に於いて

この中で、大千軒岳では「金堀衆の居住区の中の一軒を聖堂とした」としている。

ここで、仮に居住区を発掘したとすれば、それは極めて「チセに似た構造」を持ち且つ祭壇跡らしき遺構を持つのだろう。

屋根はコケラ葺きの様だが、壁が樹皮とある。

柱の間隔は解らぬが、遺構で屋根や壁材が残るのは火災らでもない限り判然とはしないだろう。

あっても和釘程度。

まずは少なくとも、独立した大聖堂の様なものではない事は確かだろう。

更に、カルバリオ神父の移動範囲は、大千軒岳の居住区が最遠で、そこより遠い森町,八雲町、更に有珠方面には行ってはいない事がハッキリ解る。

・大千軒岳の活動の後に松前に戻る

・僅かに豆と稗しか作っていないとわざわざ農業はほぼやっていない事を記載する

だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140

仮にこれはを確認していたらもっと農業の発達を記録したであろうからだ。

これらはTa-b直下の遺構で時代が被る。

彼の記載の中に、これら渡島半島付け根〜有珠方面の情報らしきものは一切見つからない。

故に、彼は口蝦夷が居住していたであろう場所の情報を全く知らない様だ。

彼が接した蝦夷人とされる中に、その辺の居住者や港の場所らの情報はない事になる。

あくまでも彼が「記録した蝦夷人」は、

松前周辺の居住者

・数十日かけて旅してきた天塩,ミナシとされる場所に住む人々

であると解る。

 

C,人々について…

先のB,を受けて、連々記載している事は天塩,ミナシの人々の特徴であろうとされる事は下記の通り。

・漁業の日焼けで肌は黒いが、松前近郊の人々から推測して肌の地色は白いだろう(脱がせ確認まではせず)

・髭が長く、背中にも毛が生えているが(西洋人視点で)それ程酷くはない

・目鼻は西洋人的だがそれ程品はない

上着はパッチワークの様になっており十字架的紋様がある

・肌着は着ていない

・寒い季節は毛が内側に来るオーバーコート(帯締め)やヤッケ(帯無し)を着る

・弓矢は巧みで毒矢を使う

・携帯する刀は拵に装飾を施す短刀レベルで、布の帯で脇の下か頭から肩に背負う。

大刀,太刀に達する長さは持ってはいない

・主に買いに来るのは米と麹、そして酒で頻繁に酒盛しており、物々交換

・家族単位で航海し、港近くの砂浜に携帯の柱で小屋を建て居住

・船は刳舟、帆はムシロ

・乙名はおり尊敬するが、纏める地域の王はおらず、むしろ松前殿こそ彼等の王である(通行許可証を発行しているのがその根拠)

 

ピックアップするとこうなる。

彼等が誰に従属していたか?も巷の話題になるが、カルバリオ神父はハッキリ記載する。

松前殿が彼等の王」だと。

まぁ生業をする為の通行許可証を発行し、自由に航海して良いとしているのは松前藩

一理ある。

これ以前にあった事を繋げてみると良い。

・秀吉による朱印状で安東氏から独立

・乙名を集め、朱印状を見せて脅す

九戸政実の乱のおりに、数百人規模の蝦夷衆部隊を引き連れる

で、

・通行許可証発行と携帯

他の文書と合わせれば、この程度の背景的証拠は集まるが。

彼等は越冬用の穀物食料や酒を得る為に、主に松前に来ているのだ。

許可証が無ければ越冬可能か?

ムリだろう。

吹雪で漁に出られなければ、乾燥肉だけでなんとかなるのか?

江戸期はそれでなくても、ここから本州に飢饉を齎す小氷河期に向かうのだが。

また、カルバリオ神父は、天塩,ミナシの先がどうなっているのか?をインタビューしている。

・東…石の家に住む色白な人々

・西…竹林が広がり良馬がいる

それらとは見ては居るが、直接の干渉を持たず、途中に居る人々を「中継」していると。

アンジェリス&カルバリオ神父は、天塩の蝦夷人が直接に現沿海州朝鮮半島と行き来はしておらず知らないと断言している。

所謂山丹交易なのだろうが。

さて、ここで問題が出る。

アンジェリス神父も途中港を幾つか経て数十日掛けて航海して来るのは記述する。

東のミナシは

・アンジェリス→80日程度

カルバリオ→60日程度

と差は出ているが、途中の過程が全く解らない。

つまり、

・東…道南〜胆振,日高,十勝等の情報が無い

・西…道南〜後志,石狩,留萌等の情報が無い

無いのだ。

それらの人々とは遭遇しては居ないし、語る人も居ない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436

まぁ十勝らの初見は、この報告書から15~20年下る。

で、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

それらの地域をスルーして、

・西…宗谷役宅設置→1603年

・東…厚岸場所設置→1624年

となる。

このスルーした理由は?

前項で、アンジェリス神父はこう記す。

 

・東方ミナシ国

乾鮭、ニシン、「ラッコ皮」

・他の東部

乾鮭、ニシン

天塩国

乾鮭、ニシン、「大陸の反物」

解って頂けただろうか?

それぞれ特徴を持つ産物をもたらすのは、外部との交渉を持つ東端と西端の人々で、その間の地域は主に共通項を持つものしか持っては来ていなかった事になる。

松前藩にしてみれば、本州に高く売れる珍品を重視し、その調達の為(他藩に干渉させぬ為)にわざわざ産地に近く本州から離して拠点を置いた…では?

この辺の記述、北海道との交渉は津軽藩南部藩にはあまり無い上、あれだけ来ていたとされる秋田湊らの記録も消える。

まぁ独占商権を秀吉,家康から安堵されているので、それらの措置位やって当然か。

 

さて、「北方探検史」はまだ一通残っている。

最後の一通には何が書いているのか?

 

to be continued…

 

 

参考文献:

 

「北方探検記」 H・チースリク 吉川弘文館 昭和37.3.30 

ゴールドラッシュとキリシタン-30…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる①

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/02/131535

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833

さて、2ヶ月位文献を開き読む手が止まっていたが、そんなぬぼーっとしていられる訳もなく。

少しずつ錆びついた頭を動かそうではないか。

実は、手に入れたかった文献がたまたま古書で出ていた。

思わず発注。

「北方探検史 チースリク編」。

実はこれ、あちこちの史書に引用されているもの。

背景を…

北海道へ度道し、直接カトリックの福音をもたらしたのはイエズス会士のアンジェリス&カルバリオ神父の二人。

それぞれ二度、渡道しているのは既出。

元々はその3通の報告書を、主にイタリア訳本から北大の児玉作左衛門、高倉新一郎、工藤長平の諸氏が翻訳し「北方文化研究報告」で発表していた。

これらは学術研究書なので、一般の目には触れる事はなかった。

ここで協力していたチースリク氏がローマのイエズス会本部にそれぞれの原版が保管されている事を発見し、同氏の手によりポルトガル語原版から全文翻訳したものを発行したと言う訳だ。

チースリク氏は司教でもあるので、カトリック的表現の翻訳もお手の物。

手元に届いた本は、何故かチースリク氏がどなたかに献本したものの様で、本人直筆サインが入っていた。

これも何かの縁だと思い、気合を入れ直そうではないか。

まさか、全文を引用するのも手間なので、敢えてそれぞれの書簡から、

①地理的要因

②人々に対しての記述

この2点に特化したい。

 

では本項では、アンジェリス神父の一通目書簡(1618.10.1付け)より。

予め。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/24/195310

この時の逸話がこれである。

秋田から出港し、津軽深浦町で風待の長い足止めを食らった時の話と、松前の殿の暴言。

 

①地理的要因

蝦夷の国は我が〔ヨーロッパの〕古い地図に描かれているような島ではなくて、大陸であります。

西部は韃靼及び中国と、東部はノーヴァ・エスパーニャと連続していて、東方へ伸びる蝦夷の先端とノーヴァ・エスパーニャの先端との間に、われわれがアニアン海峡と呼ぶ分界があるだけでございます。

蝦夷は〕非常に大きな国です。彼等の多くに、蝦夷にある国々に就いてそのしっているだけのこと、〔それぞれの国への〕路程距離のことを訊ねましたところが、彼等は松前からアニアン海峡に達する東部までにある国々の名を挙げました。それで小生には概計して八十日行程だと教えました。

松前から西部へは、蝦夷人のの船の松前へ来る或る処即ち天塩までを、彼等は七十日の行程であろうと教えました。というのは、それより前は、北部地方から続いているとはわかっていても、その国々の名を知らなかったからでございます。そしてその北部がどれ程長いかも知ってはいません。何故なら小生の質問した者は東と西に住む人々だけであったからでございます。」

「毎年東部にあるミナシの国から松前百艘の船が、乾燥した鮭とエスパーニャのアレンカにあたる鰊という魚を積んで来ます。多量の貂の皮を持って来ますが、彼等はそれを猟虎皮といい、我が〔ヨーロッパ〕の貂に似ています。頗る高価に売ります。

蝦夷ではなくて、猟虎と称する一島におるので、蝦夷人はそこへ買いに行きます。その猟虎島は他の六つの島々の近くにあります。されば小生は、それに就いて、蝦夷の先端の正面にあるノーヴァ・エスパーニャの一部分キヴィラ国の正面南部に向いおうている島々だと判断できました。その島々の住民は余り色白くはなく、髭がなく、未開であります。その二人が昨年松前に渡来しましたが、彼等の言語を解する蝦夷人はいませんでした。」

松前津軽の終端から五レグワ離れているだけで、その間の海流は凄まじく流れています。若しどの船かが航路を外れて流されるとすれば、アニアン海峡までは止まることがないでしょう。」

 

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 より引用…

 

さて、少し要約。

A,この段階でアンジェリス神父は「蝦夷の国」は大陸の一部と考えている。

B,その範囲は、

・東…

当時ユーラシアと北米大陸の間にあるとされた架空の「アニアン海峡」まで。

・西…

韃靼、つまり満州方面に隣接。

・南…

蝦夷人の国から突き出た岬(半島)である松前(渡島半島と見るべきか)一帯。

・北…

樺太やシベリアは含むであろうが、詳細無し。

一応松前も含めて、ザーっと現在のグーグルアースで示してみると…

こんな感じであろうか?

勿論、アンジェリスの時代にはまだロシア東進はアジアまで進んではいないので、ベーリング海峡らは発見されていない。

約150年後の赤蝦夷風説考でも

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205

オランダ版万国地理誌(ゼオガラヒー)から引用しているので、「カムチヤスカ」とはしているが、示した地図上ではカムチヤスカの下には()付きで「赤蝦夷」としており、カムチャッカ東端までを見込んでいる様だ。

ヲロシアの一部且つ日本人居住区があったと記される『タツ〔ヤク〕コイ』から想像される「ヤクート(現サハ共和国)」周辺まで含むのだろうから、北海道は南端の一部でしかない。

確定ではない。

記述から想像させる程度で、アンジェリス神父は見込んでいたのではないか?。

勿論、アンジェリス神父の時代→赤蝦夷風説考の時代でロシアに侵略され、千島途中迄進んだ事になる。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

詳細はこちらへ。

アラスカは概ね1800年頃併合された様だが、カムチャッカ〜アラスカ侵略に際し、露米商会が主導的に動いた様だが、慢性的寒さ対応と食料不足に悩まされていた様だ。

後の我が国との通商要求はこの食料調達が主な理由と言う。

クリミア戦争戦費調達で、アメリカに売却される迄はアラスカはロシア領。

C,松前迄の所定の航行期間は、東(カムチャッカ辺り?)から80日、西(天塩,宗谷辺り?)から70日。

これだけの日数、それも片道となると、年の半分近くは漁も含めると「海の上」とも言えるのか。

それも越冬用の食料調達が最大の目的だろう。

どうだろう?

政府広報らで拡散されるイメージと重なるか?

東で言えば、厚岸場所開設が1624年。

それまではこうやって松前へ、その前の時代は十三湊や秋田湊を最大の取引先として行き来していた事を考えると、ほぼ「海の民」「通商の民」となる。

随分イメージとかけ離れると思うが。

ついでに、アンジェリス神父が確認した限りでは、潮は日本海→太平洋の方向にかなりの急流で流れていた。

概ね、我々が考える「本州から向かえば東へ流れる」を裏付けている。

では次…

 

②人々の様相…

「小生はあの船(筆者註:訪道時の船)が帰航する時まで十日間松前にいまして、その信者達の告解を受けました。それは十五人を超えませんでした。また新たにも信者ができました。それから出羽国へ戻りました。小生が蝦夷にいた間に、寡なからぬ蝦夷人と話しましたが、そのうちには通訳を介した者もあり、また日本語を知っているので通訳が要らない者もありました。

彼等が救霊に就いては何も知らないことがわかりました。太陽と月とを崇拝しますが、救霊の故ではなくて、人生に有益なものだからでございます。キリスト教徒のなすと同じようにして埋葬し、資力ある者は函を調製して死骸をそれに入れ、直ちに地中に埋めます。貧しい者は死骸を袋に入れて、同様にして埋めます。日本の神や仏を嫌います。

また彼等は大胆、強勇の人にして争うことが好きです。然し、間もなく仲なおりをし、復た争いはしません。彼等がその敵に遭うと先ず相互にコトワリをいいあいます。果てもなく酒盛をして飲酒するが、決して酩酊しないのには小生は驚き入りました。

弓、毒を塗った矢、短い彎刀、金具を付けた木の槌を用い、この木槌でお互いを殴りあい、その打傷で血まみれになります。小生があるとき喧嘩の場にいあわせたことがあります。喧嘩のあとでも彼等の傷を治療する医者が要りません。というのは負傷は総て塩と海水とで癒すからでございます。

彼等は体軀の小さな人で、強健にして、毛深く、胴に達する髭があり、頭の半ばを剃り、その残部は日本のヴォップロ〔髪〕の如くにしています。男女共に耳環を付け、乗馬に巧みで、単純だがぬかりがありません。」

 

蝦夷人の服装は回教人のカバヤのようですが、我々の長白衣(注、カトリック祭服の一種)に施される如く、あアチコチに多くの種々の色の布で飾られています。彼等はズボンをもシャツをも用いません。あぐらをかいて、日本人のように箸で喰べます。家には、高麗人のように非常に広くて長く且つ手芸を加えた筵を敷いています。」

 

「メナシからは小生が前述した百艘以外にも船がまいります。東部地方の船も亦、松前へ猟虎皮を載せて来ないだけで、同じ商品を持って来ます。蝦夷国の西の方に向う一部である天塩国からも松前蝦夷人の船がまいりますが、それらの船は種々の物と共に中国品のようなドンキの幾反をも将来します。それらの蝦夷は高麗から余り遠くないようでございます。但し、実際に蝦夷人達は、中国をも高麗をもその何物であるかを知らないといいました。

日本からも亦毎年総て三百艘程が松前に渡ります。小生の乗ったのは二十二反帆の船でありました。どの船も皆米と酒とを積んで行きます。さすれば、松前へ渡りたいと思えばいつでも行けるわけで、この蝦夷の布教を続けるのにまことに好都合なことでございます。

蝦夷人がキリスト教徒になるにひどい障害があろうとは思われません。何故ならその国内に出家がいません。彼等の誰一人も読み書きができませんし、また中国人のような非常な利欲〔の念〕をも有ってません。その証に、蝦夷に多数の金の鉱山があるけれども、彼等がそれを採掘しないで、二年前から松前殿がようやくそれらの鉱山を開き始めたことでございます。小生はその金を視ましたが、甚だ純良であります。日本の金のように、というのはそれは極微粒の砂ですが、砂金てはなくて、最も小さな片でも一分はある金の破片であります。あるときには彼等は百六十匁の重量ある金塊を見付けました。それら金の山からは恰も〔金でてきた〕陸地であるかの如くに〔多く産出致します〕。後になって、日本人が〔金の〕山を採掘しているのを知って、蝦夷人に利欲心が起るかどうか小生にはわかりません。

松前にいる日本人は女童をも勘定して一万人程でありましょう。松前もまた或る人々の考えるような島ではなくて、蝦夷の国から海中に突き出ている岬であります。蝦夷には我が国〔ヨーロッパ〕の馬と頗る近似する馬がおり、熊もいますが、牛や羊はおりません。」


「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30 より引用…

 

では要約。

A,言語…

一つ「基準」をつける。

アンジェリス神父は、京で和語を習得している。つまり関西弁である。

・関西弁を理解し、関西弁に近い言葉で話せる者

・関西弁では通じず、通訳を必要とする者

・①の東部ミナシから来た二人に代表される「全く言語の通じない」者

アンジェリス神父が会話した中ではこの三種。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158

この約五十年後に書かれた「津軽一統志」での記載の「津軽狄村の通訳と、西は言葉が通じたが東は通じない」…これとよく通ずる。

B,容姿,特徴…

松前周辺に居た者

小柄で毛深く長い髭、月代の様な髪型で男女共に耳環

剛健にして好戦的

弓,毒矢,短刀,木槌を持つ

酒に強い

パッチワークされた長いガウンの様な服装でシャツとズボンは無し

座る時はあぐら、箸を使い、刺繍入りムシロに座る

医者はおらず、怪我は海水で洗うのみ

・東方の人々

色白ではなく、髭が無い

ぬかりない松前の人々に比べ未開的

C,宗教

太陽と月を信仰

本州の神道,仏教を嫌う

埋葬は、金持ち→棺桶、貧しい→布袋

で土葬。キリシタンに似る

D,交易

・東方ミナシ国…年百艘

乾鮭、ニシン、ラッコ皮

(ラッコ皮は猟虎島と島民より仕入)

・他の東部…年百艘

乾鮭、ニシン

天塩国

乾鮭、ニシン、大陸の反物

(中国,高麗へは行かず、途中仕入)

・本州…年三百艘

米、酒

E,鉱山

多数の金鉱山が松前に開かれるが、蝦夷人は(その時点では)掘らず。

純良な砂金を確認、砂金が大きい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

その約二十年後では、道東,千島,樺太では、最低「銀」の採掘と精錬は知っていて行っていると記載あり。

F,松前の人口

総数で概ね一万人と推定。

G,馬の存在

欧州の馬に近いものが既におり、蝦夷人は乗馬が巧み

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428

ユカンボシC15遺跡らの状況や駅逓制度の話を併せて考えると、居てもおかしくはないが、松前に限定せず蝦夷としている事がポイントか。

近世では初見か?。

しかも乗馬が巧みと記述する。  

 

こんなところか。

割と今迄、我々の報告してきた事が重複して一気に記載されている感。

当時のバテレン…いや、西洋人から見た北海道はこんな感じであり、ワールドワイドから俯瞰すれば、人に接触したのは北海道の松前周辺に限られるが、「蝦夷と言われる国」は北海道ピンポイントではなく極東東端全てを指し、文化も言語も血統も全く異なる地域と人々の総称だと解る。

それは1700年代半ばに古書での記載が始まった時点でも「赤蝦夷風説考」らを併せてみても、何ら差はない。

たまたま古書記載能力のある、我が国や明,清、高麗、後のロシアで記述に登場する「だけ」の事で、それらと土豪や民間で盛んに行き来していて記事されていないだけなのだろう。

アンジェリス神父の記述する「国」の概念は、松前や出羽と記載される事から藩や周辺地域を指すものと解る。

フィールドワークされていないだけで広大且つ多様なものの総称として「蝦夷」と言ってるのは理解されていたので「赤蝦夷風説考」らでは、

・口蝦夷

・奥蝦夷

・赤蝦夷  と言う様に、識別を行っていたのだろう。

簡単に「蝦夷→アイノ」と翻訳して良いハズもあるまい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/30/043133

我々は既に二年前から言っている。

蝦夷=アイノ…ではない。

蝦夷にアイノは含まれる…と。

時代変遷で対象が変わり、更に江戸期に於いて世界観がこれだけ広大になっている。

よく巷で「定義」の話になるのだが、では「定義」していただこう。

「アイノとは何を指し示すのか?」

広大且つ漠然としすぎて、出来はしまい。

単に「北方にいた、独特の文化を持つ人々」では多様過ぎるのだ。

中には「アイデンティティがー」「精神的なー」と仰る方も見受けられるが、もっと識別していかねば説明も定義も出来まい。

まぁそんなファンタジーの世界に住む方は、我々は切り捨て相手にしない。

 

さて…

馬や鉱山の話は今迄も追って来たが、小さいながら明確に記述されている。

これらも考古学視点で探していこうと考える。

交易品も、地域差として明確にされる。

西は大陸の品々、東は毛皮。

入手出来る場所が違うので、それなりに差は出て当然。

言語も最低三種登場する。

で、これはまだ一通目。

三通あるのだ。

 

江戸初期に、バテレン…いや、西洋人は何を見、何を報告していたのか?

 

to be continued…

 

 

参考文献:

「北方探検記」 H・チースリク  吉川弘文館  昭和37.3.30