前項に続けてあとがきである。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2026/05/18/200937
「墨書礫とはどんなもの?…「ユクエピラチャシ」の墨書礫に対する考察、そして出羽の状況」…
関連項は「大野土佐日記」に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/12/185541
「北海道弾丸ツアー第四段、「知内編」…採金は何時から?そして偽典とされる「大野土佐日記」とは?」…
飛島の謎に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526
「舘岩の「石塁」&解読不明碑…飛島の謎-その2」…
善光寺に有珠善光寺、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/07/08/160010
「この際、本家本元を見てみよう…「信州善光寺」での見たまま感じたままの備忘録」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/23/185652
「北海道弾丸ツアー第五段、「噴火湾岸編」…三官寺コンプリート!、火山灰層の厚さ、「方形配石火葬墓」や「畠の畝」の地元評価、そして「タテシロシ」」…
そして、諏訪大明神絵詞である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
「負けじと三度「諏訪大明神画詞」を見てみよう…実は「諏訪大明神書詞」とは?」…
これだけ見れば、墨書礫に大野土佐日記、飛島、善光寺に諏訪大明神絵詞…
なんやねん?なんも関係ないやろ…と、思いがちである。
いや、実はそうでもない。
そもそも論、何故諏訪大社縁起に津軽大乱や安東氏、そして蝦夷が千島の記述があるのか?、そして誰がそれを伝える事が出来たのか?…
疑問に思わないか?
今迄も各地を闊歩し峰入りしていた羽黒修験なら…と漠然と書いて来たが、割とあーそうなのねと納得出来る人々が居た。
先ずはここから説明せねばなるまい。
由利本荘市郷土資料館のパネル。

秋田県は秋田藩領からそのまま移行した訳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/24/152415
「「秋田日記」に記された、江戸期のラテンのノリの秋田の姿と「佐竹公骨抜き化作戦」…東北史のお勉強タイム、その3」…
奈良期から秋田城ら国衙が古書記述ある秋田。
江戸期に秋田藩を治めた佐竹氏は謂わば「新参者」。
パネルの通り、その前は北は我々が論ずる安倍姓安東氏、大仙〜仙北は戸沢氏,六郷氏,本堂氏、横手盆地が小野寺氏…みたいに中世は小分けになっていた。
これ、義務教育らではサラッとで各地域の地元史教育ではガッツリやるが、他地域の事は詳しく解らん方が多い。
では、今回回った地域は?
関ヶ原後に旧安東領をベースに、大仙〜仙北は全て移封、横手盆地は小野寺氏は改易で佐竹氏領に組み込まれる。
では由利本荘,にかほは?
ここは中世では由利十ニ党と呼ばれた複数の小領主が一揆を組みながら北の安東氏、東の小野寺氏、南(鳥海山隔てた庄内)の大宝寺(武藤)氏と渡り合っていた。
時と場合により、どちらにつくか決めたり自分達の中で戦ったりだ。
この地域、関ヶ原後には一度最上義光領に編入されたが、最上騒動で最上氏は改易。
その後は最終的に岩城(赤尾津)は岩城藩として岩城氏(佐竹義宣の弟から)、由利本荘は本荘藩として六郷氏、矢島は矢島藩として生駒氏が治めた。
これが前提。
で、中世に戻ろう。
12〜13世紀辺りの由利本荘、

梵鐘鋳造なんかをやっていた地域だと解っている。
奈良〜平安の秋田城の時代らでは「由利柵」があったとされ、秋田湊と接続されていたのは想像に易しい。
で、鎌倉幕府が出来た頃、ここを治めたのが由利惟平だが、和田合戦に連座して所領の多くを没収された。一部は息子の惟久が継ぎ後に滝沢氏を名乗り治めた。
他の地域は「大弐局」に地頭が任される。
さて、この大弐局…
鎌倉幕府2代将軍頼家と3代将軍実朝の教育係をやった人物。
父親が加賀美遠光、母親は和田義盛娘とされる。
で、大弐局はその地頭職を兄の子、つまり甥に譲っている。
さて、ここで今回の矢島訪問と結び付いてくる。
「秋田県文化財保護協会・地域文化財保護協会誌掲載記事から 第28回 根井家由来書から見た信州と由利郡の氏族関係」によると、前項の「根井館」の館主根井氏は割と謎多き人物だった様だが、その家系図「根井家由来書」が秋田県外で見つかり、参考に研究を進めた模様。
大弐局に地頭職を譲られた一族が分岐していき由利十ニ党の多くを占めていく。
主には小笠原姓。
ここで加賀美遠光でピンと来た方は、当ブログを読み込んでいる。
加賀美遠光は元々甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫とされ、この次男が小笠原長清。
大弐局は、兄小笠原長清の七男小笠原(大井)朝光を養子にして由利地頭職を譲る。
ここを起点として、大井氏を筆頭に由利に土着して仁賀保氏、岩屋氏、小助川氏等由利十ニ党が形成されていく。
小笠原(大井)朝光は武功により信州佐久の大井荘の地頭だった様で、それに伴い根井氏も由利へ…。
と、言う訳で、ここで信州と秋田(由利郡)の節点が出来る。
ここで、小笠原(大井)氏が拠点を置いたのが矢島。
ここ、鳥海山大物忌神社の入口の1つ。
大物忌神社は出羽一之宮で月山神社を合祀する。
この当時、出羽三山は蜂子皇子伝承の羽黒山,月山,そして鳥海山で、湯殿山はあくまでも月山奥之院だった様で。
ここ迄で、信州と秋田、そして(広義の)羽黒修験が結び付く。
前述の通り、由利柵以後中世も京船夷船が集まった三津七湊である秋田湊〜赤尾津〜由利(本荘)〜象潟(まだ象潟湾)…と結び付いていただろう。
故に秋田県内で貿易陶磁器はあちこちで出土する。
さて、関連項として挙げた項を見て欲しい。
何故、津軽や蝦夷が千島の状況を信州に伝える事が出来たのか?
信州に本領を持ち、由利地頭職も務める一族なら伝える事が可能だろう。
当然、情報媒介は各地を闊歩した羽黒修験に託せば良い訳で。
飛島の項で書いた様に、仁賀保(小笠原)氏は大宝寺(武藤)氏の隙をついて飛島を落としていたりする。
湊を持つ=(規模は別にして)水軍を持つ…この段階では。
また、信州佐久は甲斐より村上との結び付きが強いとか。
越後でも村上や佐渡の一部は羽黒修験が広がっていたとか。
そのうち纏めようと思っていたが…
https://x.com/i/status/1795745220489044118
信州には江戸期段階で羽黒修験の霞(旦那場)があったそうだ。
これは根井家由来書によれば、根井氏が延宝年間に矢島を引き揚げ信州松代の真田氏の家臣となった事も考慮すべきなので、それ以前どうか?の確認も必要だろう。故に根井家由来書は秋田の矢島ではなく、信州佐久に残されていたと…。
関係は未知数だが…
松代真田氏とも江戸期では、
https://x.com/i/status/1576418654110904322
こんな繋がりはあったりする。
鎌倉期以降ならこんな繋がりは見つかったので、少なくとも秋田湊から由利本荘経由で信州へ情報を流す事は可能だろう。
諏訪大明神絵詞も全くの想像で書かれたものと考える必要は無くなった。
タイミング的にも問題無いであろう。
しかも後代だが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
「日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…
蚶満寺の檀家の人物が複数寛文九年蝦夷乱で犠牲になっている。
それまでは割と自由に行き来出来た様だ。
まだ、河村瑞賢による西廻航路が出来る前ではあるが。
ルイスフロイスの書簡も
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/24/204753
「蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる」…
伊達ではあるまい。
情報媒介が羽黒修験であるなら、諏訪大社のみならず善光寺も参拝対象。
出羽を中継するなら、善光寺から分祀して有珠善光寺が建立されても不思議でもなくなっていく…媒介が羽黒修験ならば。
有珠善光寺でお聞きしたが、未だに有珠善光寺で行事あらば羽黒修験の方が参加していると。
全く信州との繋がりが解らなかったが、何の事はない。
秋田の歴史を追えば、繋がりが見えて来た。
古の北海道の民が目指した最終地点が秋田湊である以上、繋がりの可能性は延長すべきだろう、と言うか、矛盾が消える。
さて、実はまだある。
大弐局の兄小笠原長清、この兄妹にはまだ知った様な兄妹がいる。
加賀美遠光の三男は「南部光行」だ。
これ、大弐局の人となりと重ねると?
大野土佐日記…
勿論、荒木大学なる人物がそのものズバリ本物であるとは思えないが、物語的にはピースは揃う。
鳥海山(と言うより大物忌神社)を挟み、北の由利郡には大弐局、南の庄内には武藤(大宝寺,小弐)氏。
武藤氏は筑前(つまり九州)と繋がりが。
大弐局は2代将軍頼家と繋がりを持つ。
大弐局から頼家へ上納したり、採金依頼があっても話としては通じてくる。
当然、阻止,奪取しようとするのは北条義時だろう。
又、南部光行が糠部を拝領したのが事実ならば、小笠原氏のみならず南部氏にも連絡可能。
この時代、八幡平に陸路は無く、糠部と連絡するには太平洋側の海路か?それとも出羽から能代→大館→おいらせのルートになるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/24/120855
「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる」…
方形の中世城館は鎌倉御家人の入った所に集中する傾向。
陸路で連絡するとしたら、こんなルートだろう。
将軍家と後の得宗家が地の御家人に使い、利権争いをしていたら…?
似た事件は起こりうる。
まさか古書にそんな争いを書く訳にはいかないであろう。
堀子も甲斐から連れずとも羽黒修験で対応可能。
これらから、鎌倉初期なら人材的ピースは揃い得る。
如何であろうか?
津軽大乱の時点で、古書記録等で小笠原(大井)氏等が援軍として従軍していれば、それを経由し信州へ情報を流す事が出来るのは可能性として十分あるのは解った。
その他事件らも荒唐無稽と言うには人材が揃い過ぎ。
現状は先ずはここ迄。
我々はネットワーク論。
それらのネットワーク確認でまた何か?出てきたら掘り下げるだけ。
まだまだ気が付かない端末や媒介はあるだろう。
何気にピースははまっていく、それが事実に近いなら。
参考文献:
「秋田県文化財保護協会・地域文化財保護協会誌掲載記事から 第28回 根井家由来書から見た信州と由利郡の氏族関係」『地域文化財保護協会発行「舞鶴」第35号』 昭和52.12.7







































































