秋田エミシは平安期で凝灰岩の耐熱性を知っていた…生きていた証、続報21

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/08/081429

生きていた証…竈探しである。
北海道の発掘調査報告書に抱き合わせで、たまたま発注した秋田の発掘調査報告書だったのだが、何やら怪しい話が載っていた。
ここ、扇田谷地遺跡は、秋田県三種町(旧八竜町)の扇田谷地にある。
秋田市八郎潟の北辺り、米代川の南に位置する。
この辺は古代~中世での製鉄,鍛冶跡を含む遺跡が散見される地域。
扇田谷地遺跡も精練炉&鍛冶跡らが検出され、平安,中世にかけての遺跡である。


「なお、文中で使用した「鵜川石」とは、遺跡西方に路頭する白色凝灰岩の鵜川地区での俗称である。四角く加工されたものが多く、その用途等については、不明である。近代から現代では家の土台石として使用されていたという。」

「SX49竪形炉やSX48、SX20工房跡、SX20工房跡周辺のA・B区間の沢では凝灰岩が部分溶解したと思われる碗状の物質が確認されている。竪形炉の壁体に比べ厚みが薄いこと、竪形炉壁体の内部に鉄滓の付着がみられなかったことをふまえれば、その内部に凝灰岩もしくはその風化物を素材とする容器状の設備や道具があったと推定される。木炭を熱源とした場合の到達可能な温度を考察すれば、その中で銑鉄が造られていた可能性がある。」
「遺構内およびその周辺は凝灰岩に恵まれている。その中には少量の鉄チタン磁鉄鉱も存在する。凝灰岩もしくはその風化物を使って鋼精練に必要な設備を製作し、鉄チタン磁鉄鉱に富んだ凝灰岩風化堆積物を用いて酸化鉄を含むスラグを製造することは容易であったと思われる。このような出土遺物の形状と組成、および遺構の立地状況を考慮すれば、遺跡内で鋼精練が実施されており、SB78掘立柱建物跡付近から検出された銑鉄製遺物はその素材、そしてSX48工房跡で見いだされた鋼はその脱炭素生成であった可能性が高いと筆者は考える。」

「検出した遺構・遺物を見ると、遺跡の利用度が最も高かったのは平安時代であることがわかった。平安時代の遺構群で特筆すべきものとして鉄関連炉があげられる。鉄滓の分析により、銑鉄から鋼を製造する精練炉であることが判明した。文中で使用した白色凝灰岩「鵜川石」は、炉構築材として用いられた可能性も分析の結果明らかになっている。」
「以上の事から、扇田谷地遺跡は、平安時代の一時期には、鉄に関連した工人の集落として営まれていたと考えられる。」

「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ」 秋田県埋蔵文化財センター 平安11年3月 より引用…


解り難いかも知れないが、製鉄法の科学的プロセスを説明の上で、含まれる成分の必然性で、鋼精練の炉材として近辺の凝灰岩を使用した…としている。
当然、1000度を遥かに超える製鉄炉材なので、その耐熱性と加工し易い事を既にご先祖達は、この段階「知っていた」訳だ。
そして、元慶の乱以降、製鉄法は秋田城や払田柵から発し、米代川を登り伝わっていく…
つまり、
竪穴住居の竈←8世紀…
+熱に強いと言う知識←9世紀…
+石工による石の加工技術←14世紀…
=へっつい…

技術伝播を考慮すれば、大館へっついより、能代は早いとも考えられる。
じわじわ、竈の謎にも迫りつつ…
そういえば、凝灰岩フレークがあった北海道遺構があった様な…


因みに…
後の世、中世に至り、この辺一帯を掌握したのが、安東氏。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

現状、石工を連れてきたのは安東氏ではないか?と仮説し調べているので、場所柄的にはピタリと合致してはくる。


安東氏こそ、蠣崎氏を統べた大殿。
北海道に絡む話で、安東氏を無視するのは、真実から離れる事になる。
故に、竈の存在もあり得ると考える。
中世に竈、特に「へっつい」があったら、そこは…安東氏勢力圏と言える訳だ。


参考文献:
「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ」 秋田県埋蔵文化財センター 平安11年3月

時系列上の矛盾…「二風谷遺跡」調査続編にも記されていた「木造住居」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/10/104637
前項に続き、発掘調査報告書による「時系列上の矛盾」を進めていこう。
たまたまではあるが、前項根室の焼失家屋以外にも、火災による炭化材検出例をみつけている。

実はそれが、以前紹介した「ユオイ,ポロモイチャシ跡&二風谷遺跡」の続編たる「二風谷遺跡」の発掘結果なのだ。
参考に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201533
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755

では…

「現在の二風谷市街は、これら遺跡群より山裾にあり、したがって標高も遺跡地より高くなっている。」
平取町では、昭和30年代、全町的に水田造成が行われているが、遺跡のあるあたりも、昭和40年前後に造成されており、そのため、遺跡の上面はかなりの程度破壊されていた。」
「そういう状態の中で、例えば、本年度調査のA-地区のように、1667(寛文7)年の、樽前山噴火による火山灰Ta-b層の下に発見された、アイヌの焼失家屋などは僥倖な残り方だった、ということができる。この焼失家屋の調査ができたことは有意義だった。」
「それは、このチセのどの部分に使われていたかは、専門家による今後の検討にまたなければならないが、なかりの量の割板=rashiが使用されていたのが分かったからである。このことについては、この報告書のなかで、この調査会のメンバーである萱野茂氏によっても述べられていることになるが、従来の、カヤと木柱を主体に考えられていたアイヌのチセ=chiseづくりに一考を要することを示唆している。」
「割板を、本例とほぼ同時期に使用した例としては、昭和59年度調査のポロモイチャシ跡においても見られる。」

「(筆者註:A地区焼失家屋)本遺構は、X-97.98、Y-97.98の4グリッドにまたがって検出されており、調査区のほぼ中央に位置している。検出した層位は、第Ⅲ層(真黒色土)上面であり、Ⅱ層(Ta-b)を除去していく段階で次第に炭化物の分布が明確となったものである。なお炭化物の上面は、火山灰を被っている状態であり、遺構内より出土した鉄鍋、錐石などの遺物も同様の状況であった。また、遺構外より出土した同種の遺物も同じである。」
「炭化材は、ブロック状の炭化物の塊が板材状に薄く広く分布しているものであり、柱材よような断面形を呈する炭化材は検出されなかった。これらから板材と思われるものが何枚も分布しており、このうち最大では幅約40cm長さ約280cmを測り、厚さは1~2cm程である。」
「また、明確に板材として認められないものも多い。しかし柱材と思われるものは認められず、多くは太さ2~3cmの丸太状のものであった。さらに、微細な炭化物(草木類)の集中しているものも検出されていた。」
「炭化材、炭化物をすべて除去した後、柱穴を精査した結果、幾つかの窪みを検出した。径の小さなものは、断面円筒形を呈しており、大きなものは、断面形がスリバチ状を呈している。」

「B地区においてもA地区同様第Ⅲ層(真黒色土)上面に炭化材が3地区で検出された。」
「炭化材は、A地区で検出されたものと同様に板材と思われるものが多く短いものが多い。また、これらの周囲には細かな炭化物が密集している。」


平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度 より引用…


序文と本文を引用してみた。
A地区はユオイチャシの南東に面し、以前発掘した二風谷遺跡との接続部分を、B地区はポロモイチャシの東側で北東が以前の二風谷遺跡と接する。
で、ポロモイチャシ跡において、建物の焼失跡があるのは概報。
居住地区であろう二風谷遺跡にも、焼失家屋が検出されたと言う訳だ。

炭化材らはバラバラに分散し、家屋構造を示せる内容ではない。
本文中には「床材?」とも考えられているが、まともな柱材が無いし、そもそも明確に柱穴が無い(凹み程度)ので掘立住居ですらなく、それなら建つのがムリなのでは?
むしろ2×4の如く壁材で建てたのでは?
ましてや地炉跡があり、床にはならない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/13/062742
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
更に、チセに床が作られるのは、幕府の指導による。
この報告書の後ろには、最初に復元チセを作った「萱野茂氏」がチセについての解説「アイヌチセについて」が附帯しており、その中でも、寝床として板張りよりむしろ松葉やらを敷いて莚を引いた方が暖かい感じがしたとある。
床材では全てにおいて矛盾するのだ。

そう、この焼失家屋の建材は、現状考えられている全てのチセと矛盾している。
床としても…壁や屋根材としても…柱が無いのも、全くチセとは直結してはいない別物となる。
それがアイヌ住居だと、何故断定出来るのだ?、違う人々が建てた事も考慮して、検証する必要があるのに。
ましてや、仮にチセにバリエーションを持っていたなら、降灰後もあっておかしくはない。
だが、そんな話は無いのでは?
続けて、この炭化材はA地区だけでなく、B地区にも散乱しており、複数の家屋が焼けている事になる。
ポロモイチャシの掘立建物も火災の跡がある。

まさか戦乱?…でもあり得るのだ。
この頃、シャクシャインと鬼菱は抗争中。
その場合、この辺を治めていた側は誰?
とりあえず、戦乱と言う邪推はここまで。

少なくとも、擦紋~江戸初期迄、板張り板葺き住居に住む人々が既にいて、アイノ文化の痕跡をほぼ出さずに暮らしていた「可能性」があると言う事だ。
そしてそれらは、降灰直前に火災で倒壊…降灰直後にそこに入り込み、墓標とチャシ木柵を引っこ抜いた集団が居る…ここまではあり得る。


さて、追加の研究は?…されていないだろう。
されてたら、後にそれらが反映されるハズ。
だが、ウポポイを含め、屋根材,壁材で板張りしたチセがあるか?…無い。茅葺きなのだ。
トドメは幕府指導の床張り。
これで良いのか?


さて、散々書いたが、これらチセの矛盾をたった一つだけ矛盾なく説明する手段がある。
『「チセを建てた文化集団たる、アイノ文化を持つ人々」と「焼失家屋を建てた文化集団」は、全く別の文化集団である』
都合良く、火山灰で隔絶されている。
全く矛盾が無い。

更に、興味深いのは…
何よりそれが、アイノの聖地たる平取町「二風谷」に存在する事だ。
上記説明なら、矛盾は解決出来る。
違うとは言えないのだ。
まさか、「萱野茂氏」の「アイヌチセについて」に、ケチをつける訳じゃないだろうな?
なら全ての再現チセは嘘っぱちだと言うようなものだ。



参考文献:
平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日

時系列上の矛盾…根室「西月ヶ岡遺跡」に眠る「竪穴式木造住居」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/02/163712
北海道の発掘調査報告書は面白い。
何気にコアな話が記載されている。
巷では、無いことになっているのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
この辺を踏まえ、読んで戴きたい。
さて、では、引用していこう。


「本遺構の周辺には、キナトイシ1号、および2号チャシ跡、キトナイシ竪穴住居址群、ニランケウシ1号、同2号、同3号チャシ跡(旧名称「ホニオイ1号」、「同2号」チャシ)、穂香竪穴住居址群がある。これらのうち竪穴住居址群は、いずれも「擦紋文化期」の所産と想定されている。また、清水義正氏、清水勝氏によれば、穂香周辺の畑から、ガラス玉、太刀、刀鍔などが出土しているという。」

「(筆者註:1号住居址の事)この住居は調査した4住居址のうちでもっとも北東側に位置し、もっとも規模が大きく、A-14、A-15、B-14、B-15、およびY(拡張)-14、Y-15各区に及んでいる。各壁の長さは北東壁5.5m、北西壁5.8m、南東壁4.5m、南西壁5.5mとなっており、壁高は北東壁側で約90cm、南西壁側で約50cmである。」

「さらに、炉が中央部に床を浅く掘り込んで作られており、大きさは長:軸83.5cm、短軸73cm、厚さ8cmであった。そして、南東壁の中央部からやや東隅寄りに灰白色の粘土による崩れた窯址が認められた。」

「東隅付近の床面および壁面、窯址の右袖付近には、火災によって生じたと考えられる焼土が認められた。」

「住居址内の中央部からやや南西壁よりの附近と、南隅附近とを除くほぼ一面に割合残存状態の良い炭化物が出土し、それらはとりわけ壁付近で、二重三重に重なり合っていた。また、炭化物は住居址中心付近においては、薄く散点的に認められた。そしてそれらのほとんどは屋根材と考えられ、北東壁および南西壁際に壁材が部分的に認められた。屋根材の材料としては、割板が主であり、その他にも丸太、半裁丸太、木の枝、葺草などもみられた。」

「南西壁沿い西隅寄りには、柱状の炭化物(No.33~No.39、No.42他)が、壁際から住居の中央部に向って焼け落ちた状態で集中して出土した。また、これらの枝材は、1本の直交する(南西壁と平行の)枝材と組み合っており、これらから屋根の構造を伺うことができた。」

「(筆者註:Me-a火山灰)本火山灰は表土で、深さ15~20cmまでの黒灰褐色である。オリジナルな白色火山灰層(C層)はみられず、腐植土層中の全体に、火山灰を均様に染めた形でみられる。本層は雌阿寒系の降下火山灰で、そのC14年代については、500±90年B.P.(Me-a3)(Gak.-3314、佐々木ら1971)、1,120±100年B.P.(Me-c)(Gak.-7222)(沖田ら1979)があり、そのいずれとも判定できない。」


根室市西月ヶ岡遺跡発掘調査報告書」 根室市教育委員会 昭和58年3月30日 より引用…


この一帯は擦紋住居遺跡群が幾つかあり、擦紋文化人の居住地域になっていた。
特徴的なのが、紹介した1号住居址で、火災になった為に炭化した建材が出土した訳だ。
少なくともこの住居、割板使って屋根を葺いた上に、葺草で覆う様な構造と推定されている。
つまり、総茅葺きでは無い事になる。

層序的には、竪穴住居は全てⅢ層から堀り込まれている模様。
だが、層序から年代特定には至っていない。
何せⅢ層より上の火山灰層が腐植土中に分散していて、500年B.P.の火山灰か1,120年B.P.か決められない。
一応、擦紋土器の編年で擦紋後期と考えられるが、正確なところは判定出来ずと言う訳だ。


ここで…
c14年代特定は、水爆実験で大気中に放射性物質が撒き散らされた1950年を「0」年として、炭化物の中に「保存された」放射性炭素の比率で概略の年代を特定するもの。
これをB.P.年代と言う。
現在はそれに種々の条件が加わり、年代補正を行う。
ただ、北海道の発掘調査報告書の場合、何故かB.P.年代のみの記載だけで、西暦へ補正換算した年代が乗っていない。
ピタリ合致はしないが、手元にあった秋田の「扇田谷地遺跡」での「暦年代」を参考にしてみよう。
1140±50年B.P. AD 985 2σAD880~1030
780±60年B.P. AD1275 2σAD1195~1310
とある。
なのでこの発掘調査報告書の測定結果の場合、概略15世紀位もあり得るし、9世紀位の場合もあり得る。
本文中は、9世紀と言わんばかりだが、仮に15世紀位の方が正解なら?…板葺きの竪穴住居→板葺き掘立への変遷過程を示す「可能性」が出てくる訳だ。
他の住居はそれらの痕跡が無いので、同様の構造かは「解らない」のだが。
1号住居址が特殊な建築物の「可能性」もあるし、一般的なのかも知れない。
ただ一つ言えるのは、総茅葺きである「チセ」には直結しないと言う事だ。

1号住居を建てた集団は、板を取り出す「建築技術」を持っており、擦紋土器の他に「木製の食器?」と思われるものも出土している。
同年代と考えうる鉄器の出土が無いので、道具までは「解らない」が、明らかに「木工鉄器」を持っていたのだろう。


さて、それぞれの火山灰が均等に撹乱されるシチュエーションとは?
まさか、15世紀位まで、竪穴住居で暮らしていた?なんて話も無くは無いのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/29/200734
秋田県羽後町の「鈴木家住宅」はかなり下った時代まで竪穴も使った痕跡が残っていたのだから。


さて、この1号住居址に住んでいたのは誰?
少なくとも、これが「チセ」と直結しないのだけは確かなのだ。


参考文献:
根室市西月ヶ岡遺跡発掘調査報告書」 根室市教育委員会 昭和58年3月30日

「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成11年3月

ゴールドラッシュとキリシタン12…史書に記された「南部藩主」とキリシタンの関係

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/08/195030

前項のフィールドワーク時に「もりおか歴史文化館」にも立ち寄っていたが、率直な質問へ回答を戴いていた。
ズバリ「南部藩主とキリシタンとの関係は?」…「内史略」に一部記載があるとの事だった。
それでは引用してみよう…と言う前に、「内史略」とは?
wikiでは、「江戸後期に『奥南旧指録』『盛岡砂子』『登曽草紙』などの当時残されていた多量の史料を中心にまとめた編集史、後編は藩の財政事情、百姓一揆、凶作など多方面の記録を採録。」とある。
活字化されたものがあるとの事だったが、秋田県立図書館に全5巻揃っていた。


「備後守信恩公の御母菊池又右衛門姉れん、此両親兄弟は切支丹にて生害 依之れん女下御台所へ駆込助命す 其後御湯殿水師と成 後に行信公の妾と成 久信公(後信恩)を産上る 依之信恩公御家督後 おれんとの弟を被召出 菊池又右衛門と家名を下賜 百石に十五駄被下列御家士(菊池又右衛門 始は川原町に住居 岩井佐左衛門と云) 川原町円光寺は
於れん殿両親菩提の為に御取立 於れんとの正徳二壬辰年四月二十日卒去 法名慈恩院殿機法明林大姉 葬東禅寺 円光寺領五十石并鐘おれんとの寄附也」

「岩手史叢 第一巻 内史畧(1)」岩手県立図書館 昭和四十八年四月二十日 より引用…


「南部信恩」公は1678~1707年の人物で、盛岡南部藩としての五代藩主。
で、その母「慈恩院」が、切支丹だった事が「きりしたん おれん事歴」として記される。父ら一家はキリシタンとして処刑、生き延びた弟は、岩井佐左衛門と名乗っていたが、上記通り信恩公に仕官して、処刑された父の名を継ぎ一家再興を許されている。
既に宗門改めらが出来上がった時代故、棄教する事で生き延び、御家再興まで辿り着いた事例になる。
単なる一方的な「弾圧」だったとは言えなかったと言う事になる。
恐らく、探せば他藩でもあるだろう。

つか、見ての通り、大名家って…奥方が微妙なんだが。
久保田藩でも、西の丸にアンジェリス神父が入り洗礼したとか…
閉鎖空間であるが故…勘繰りたくなる部分はある。
また、1620年代頃の弾圧経て、宗門改め実施に辺り、この頃には…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246
もはや大臼宗として拡散しつくして、寛容になっていた可能性もある。
まして、奥方の方に蔓延していれば、藩主として弾圧を続けていくのも難しくはなるか。

因みに…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E6%81%A9
信恩公は、こんな方。
世継の兄が早く亡くなり、家督を継ぐ事に。
父の行信公は儒教漬けになり、 藩政に口出しする様になった政敵たる儒学者の排除からスタートと言うなかなか厄介なパターン。
記録が残る=政敵が藩主追い落としの為書き残した…これは、背景として折り込む必要があるだろう。


いずれにしても、盛岡南部藩として公式に編纂された古書に残された話ではある。
たった一つの欠片ではあるが、「キリシタンネットワーク」が切れず続いていた可能性はある。
何故気になるか?
明治維新後、キリスト教へ改宗した要職者が結構居るから。
そして
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
元々こんな話があるから…

ふと思う。
我々我が国民が、あまり宗教を口にしないのも、こんな事こんな時代から?。


参考文献:
「岩手史叢 第一巻 内史畧(1)」岩手県立図書館 昭和四十八年四月二十日

時系列上の矛盾…ホットスポット「余市」にあった「弥生文化集団」とのコンタクト痕

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/31/170615
さて、ホットスポット余市」でもセンターを担う「大川遺跡」。
一次資料としての発掘調査報告書を読むと、まだまだ凄い話は出てくる。
本来はビックニュースとして扱われるべき内容が、こんな風に出てくるのだ。
では、引用してみよう。
大川遺跡迂回路地点出土のP-103墓坑についての記事である。

「MO-20に南側上面を切られるが、長軸を北東-南東方向に持つ円形或いは楕円形を呈すると思われ、現状で長軸1.13m×短軸0.95m、深さ約31cmを測る。」

「坑底面にはベンガラが散布され、遺体は判然とせず、歯も確認されなかったが、検出状況から東頭位の屈葬と推定される。」

「西側に石鏃1点、剥片1点が出土した他は北東側に遺物が集中しており、濃い藍色を呈するガラス玉2点、薄い水色のガラス玉が33点が一部を除いて散らばった状態で見られ、その南東側には弥生系土器が立った状態で出土した。土器の外観は肩のあまり張らない壺型を呈しており、口縁部に横方向の2条の結節縄文、頸部から同部に撚糸紋が縦走、赤色顔料により彩色が施され、丸模様などが看取される。これらの伴出遺物より続縄文時代後半の後北C2-D式期に属するものと思われる。」

「大川遺跡(2003年度)-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成16年3月26日 より引用…


迂回路地点では48基の墓坑がこの時確認されたが、その中の一基で弥生系土器が副葬されていると言う。
また、第Ⅳ章まとめでも下記の通り触れられている。

「その中で特記すべきは後北C2-D式期の墓坑群とともに弥生系の墓坑が1基発見されたことである。これまでの調査で知られていなかった時期のものであり重要である。」

「後北式期の墓坑は円形または楕円形を呈し、径1~1.5mを測る。遺体は東頭位の屈葬でベンガラが散布されているものもある。副葬品として土器、石器として石鏃、装身具としてガラス玉がみられる。」

「しかし、恵山式期と比較して副葬品は数点程度であり、その量は急激に減少する傾向がある。」

「弥生系の墓坑は円形を呈するもので径約1.2mを測る遺体はほとんど痕跡がないが玉の位置から東頭位の屈葬と推定される。厚くベンガラが散布されており、副葬品として土器1点、石器として石鏃1点剥片の集中、装身具として水色と藍色のガラス玉が35点も確認された。恐らくこれらの玉は本州の弥生文化の文物として搬入されたものであろう。」

「大川遺跡(2003年度)-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成16年3月26日 より引用…


と言う様に、その重要性を指摘している。
この弥生系土器の他に、この時の発掘では、瓢箪型土器やウニ型土器ら変わり種が出土しており、続縄文として初お目見えしたものは数点ある。

さて、弥生系土器…
このまま読み取れば、既に続縄文段階で、余市の続縄文文化の人々は、弥生文化を持つ人々と少なくとも直接,間接的にコンタクトしている事になる。
まぁ、縄文期既に円筒土器文化圏の一部として動いていたなら然もあらん、むしろ、これだけ広大なルートで動いていたなら、ある意味有って当たり前なのかも知れない。

これら一次資料からも、先祖達のダイナミックさや、北海道が全く孤立した存在では無かった事が頷けるのではないか?
他にも、中世では建物ではないか?濠ではないか?と言う土坑があり、その発展度が伺える貴重な遺跡なのだ。
但し…
実は、2003年を持って、大川遺跡の発掘は終了しており、この後掘削され、殆どは河川となり既に失われているそうで。
もはや、この周辺は失われ、これら発掘調査報告書からしかその様子をうかがい知る事は出来ない事も、付記しておく。


参考文献:
「大川遺跡(2003年度)-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成16年3月26日

時系列上の矛盾…縄文晩期で木棺に伸展葬?余市「大川遺跡 」の怪

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
「時系列上の矛盾」、継続である。
それもホットスポット余市は「大川遺跡」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447
余市と言えば、我々が初期から眼を付けていた茂入山…
その対岸の「大川遺跡」は、その遺物の多さから、ホットスポットの中心的存在。
我々も数多く取り上げてきた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/05/191915
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/13/062742
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
なるべく知りたい筆者は、大川遺跡の発掘調査報告書を収集しようかと、数冊手に入れている。
その中、1998年度版に奇々怪々な記述があるので紹介しよう。

基本層序は、
①表土…
②黒色土(続縄文,擦文遺跡が普通ある)…
③砂層(縄文晩期遺跡がある)…
④砂層(無遺物層)…
と、なっている。
で、その縄文遺構(墓坑)とされる所での話で、縄文で木棺があるとの記述があるのだ。
引用する。


「(1)墓坑について 遺跡の項で記したように撹乱が激しいことや砂質のため墓坑の上部構造を見落としていることもあり、すべての墓を個々に把握することができなかった。」

「長軸は約1.4m、短軸約1mほどの明確な楕円形を呈しており、深さは約1mほどである。」

「墓底にベンガラを敷く場合が多く見られ、P-14のようにベンガラの周辺が厚くなってあることがあり何かに遺体を包んでいる場合、P-15のように木枠などで遺体を囲んでいた可能性も考えられる。」

「墓の埋め戻しにも特徴を見いだすことができる。それはP-1、2、9、11、20、53のように 墓の上部に砂質凝灰岩粗粒が封土として用いられていることである。」

「P-14(筆者註:表中副葬品の記載)ヒスイ勾玉1ヶ、胴部に繊維質の帯状のもの出土、材質は不明(漆製品?)」
「P-15(筆者註:表中副葬品の記載)覆土遺物のみ、木棺痕跡 頭蓋骨残存、木棺痕跡有り」

「「P-20(筆者註:表中副葬品の記載) ヒスイ玉1ヶ 遺体の10cm直上に棺あるいは遺体を包んだと思われる有機物痕跡」


「大川遺跡発掘調査報告書-大川橋線街道路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成12年3月25日 より引用…

巻頭のカラー写真でP-14の帯状繊維質は掲載だが、P-15については、後ろの写真にも無し。
それどころか、ピット遺構の覆土の層序記載すらない。
で、P-15イラストには、木棺らしき木製品と木柱の記載があるのに、ピット内遺物含む全遺物リストには木製品の記載が無い。
勿論、P-20の有機物についても、後記述無し。
現状見ている限りでは、縄文晩期で有機物で遺体を包るむ、ましてや木棺に納めた話は聞いた事が無い。

更にこのP-15、長軸で約180cm、木棺も楕円穴ギリギリ近い図なので、ほぼ伸展葬されている。
P-14らも近いsizeで、他は1m前後が主。
まるで縄文晩期→(続縄文抜き)→擦文期…の埋葬方法なのだ。
これだけ、センセーショナルな話題なのに、詳しい記載が無いのは…何故だ?
縄文の埋葬なら奇抜…
擦文の埋葬なら編年経過の見直し要。
何らか間違いなら「正誤表」だが、添付なし。
正に「謎」…

ただ、これが、川の氾濫らで、剥き出しになった縄文遺構を利用し、擦文文化人が墓坑を作った…と言えば、そんな気もしない訳でもない。
と、なると…
北海道には、中世遺跡が無いのではなく、無くなっているのか入植や開発で遺構として上の時代と下の時代がくっついている様に「見える」ってのもあると言う事になる。
確かに、包含層遺物がごちゃ混ぜになっている事が多い印象。
断片で証明するしかないんだな…

実際、遺構は…
住居跡×3
焚き火跡×2
土坑×52(墓坑51、土坑1)
集合墓×2
貝塚×4 等々に及ぶ

因みに貝塚は、近世~近代の物で(貝や骨の他酒便らが含まれる)、アイノ文化の貝塚は、幕末頃からしかない。
中世~江戸中期には全く貝塚は無いのだ。

まぁ、良くて続縄文、遡って縄文晩期と言っておけば、安全牌と言う事か?
少々勘繰りたくなる。

どう考えても奇々怪々…
おかしいのだ。



参考文献:
「大川遺跡発掘調査報告書-大川橋線街道路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成12年3月25日

津軽「唐川城跡」に見える10~15世紀の状況…俘囚と安東氏の城館の関係

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/21/052745

関連項は上記になる。
さて、たまたまSNS上で北海道の井戸だの城館だのと言う話題が飛び交った。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
たまたま我々も「井戸」にたどり着いたのもあるが。
なので、筆者の手元にあった「十三湊遺跡発掘十周年記念フォーラム」の報告資料を纏めた著作があったので、少々紹介してみよう。
十三湊こそ、中世での北海道への玄関口である事は関連項の通り。
中世での港湾都市の姿をそのまま見せてくれる貴重な場所。
では、十三湊に関連していると考えられる「唐川城」に関しての報告を紹介してみよう。


「この場所は、標語一六〇メートルというこの地域では高いところにあり、非常に眺望のきく場所です。十三湊遺跡全体や十三湖、そして岩木川が見渡せます。もちろん日本海も見渡せ、かつ、その当時は木を切り払えば北側も十分に見渡すことができるという、非常によい場所です。」

「これは、国立大歴史民俗博物館の千田嘉博さんが作られた「唐川城跡要図」で、唐川城の構造がわかるようになっています。北から、第一郭、真ん中に第二郭、南側に第三郭と、郭が大きく三つに土塁と掘で仕切られています。」

「そこに、地表面でもはっきりわかる井戸跡がありました。~中略~竪穴住居跡が五つほど見つかり、竪穴住居に伴う竪型炉とよばれる製鉄炉跡も出てきました。」

「第二調査区では、大きさが二〇メートル×一五メートルという、非常に良好な平坦地が見つかり、この部分も発掘調査しました。おそらくこのような平らなところに礎石建物(石を基礎にした立派な建物)があったのではないかと期待して発掘しました。発掘の結果、ごく簡単な小柱穴はあるものの、大きなきちんとした建物はないことがわかってきました。」

「次に土塁と掘について報告します。~中略~ここでは、土塁と堀がいつつくられたを調べるため、幅三メートルのトレンチをあけて土塁を断ち割り、層ごとに掘り下げていくという調査をいたしました~中略~南側の土塁(三郭側)が外側ですが、大きさは、幅が基底部で四メートル九〇センチ。上部で二メートル五〇センチ、高さが八十センチ。内側の北側土塁(二郭側)が基底部で四メートル、上場で一メートル六〇センチ、高さ四〇センチの、かなりしっかりした土塁である事がわかってまいりました。」

「外側の土塁のなかから、土師器の長甕の口縁が出土し、この土塁が築造された年代を一〇世紀の後半と考えました。また調査の最終段階で、土塁の上のくぼんだ部分から炉跡が出てきました(図3参照)。おそらく、これは土塁を築造したりするときに使う工具を作ったり、工具を鋳直したりするための簡単な鍛冶炉ではないかと思います。同様の遺構は地表面から全体で一〇か所前後確認されています。その中から一〇世紀後半の土師器長甕の口縁部分が出てきたということで、土塁の年代も中世のものでなくて、間違いなく古代のものであるということが推定されました。ただし、この土塁の表土から一五世紀前半ごろの珠洲焼の摺鉢の破片も出ていますので、土塁も中世の段階に再利用されていたことがわかりました。」

「前略~井戸跡を半分に割って調査しました(図6・写真7)。その結果、直径が約一一メートル、深さが三・五メートルという、非常に大きな井戸であることがわかってきました。掘り進めていくと水が湧くことがわかり、間違いなく井戸跡であると思います。また井戸枠などありませんので、素堀りの井戸だと考えています。」

「この鍛冶炉跡はおそらく鉄を製錬したと思われる鍛冶炉跡です。この炉跡を断ち割ってみました(写真10)。長さが約八〇センチ×約四〇センチです。そして、この井戸の斜面に大鍛冶のときに出てくる流動滓と呼ばれる鉄くず、つまり鉄の滓が大量に出てきています。そのようなことから、もしかすると、このような鍛冶のときにこの井戸の水を使ったのではないかとも考えています。」

「我々は唐川城が安藤氏の居館である可能性を考え調査してきたわけですが、第二郭の平らな二つの段は、どうやら、古代(一〇世紀後半)の防御性高地集落を利用して、中世の安藤氏が臨時的に利用したものであろうと考えています。」

「遺物の面からいいますと、擦文土器が出土しています。これは非常におもしろいと思います。」

「次に唐川城の位置づけについて述べます。先ほどもうしましたように、原型は一〇世紀後半の防御性高地集落です。大事な事は、標高一六〇メートルという、津軽地方においては非常に高いところにある高地性の防御集落であり、かつ面積が最も大きいことです。正確に測ると八万二〇〇〇平方メートルあり、ほかの津軽地方で見つかっている防御性高地集落、あるいは環濠集落とよばれる集落がありますが、それらと比べると格段に大きいということが判明しました。古代のころから十三湖周辺は非常に重要な地域であったということです。そして、歴博で調査した福島城と今回の唐川城の築造時期は同じ一〇世紀の後半と考えられるのです。」

中世十三湊の世界-よみがえる北の港湾都市- 「唐川城の発掘調査」 前川 要 青森県市浦村(編集協力 千田嘉博) 2004年9月30日 より引用…


ご覧の通り、前川氏は、防御性集落を中世に再利用すした事を述べている。
その上で、元々この地は有力豪族が治めた由緒正しい場所で、中世に安東氏はここに入る事で自らの地域支配の象徴化と正統性を訴えたと考えている様だ。

さて、考古学的な見解でいけば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
この辺に合致してくると言えてくる訳だ。

巻末に千田嘉博氏がフォーラム全体の解説を
寄稿しているが、千田氏は解釈を見誤ると間違いが起こる事も視野に入れつつ、樺太沿海州にある十一~十三世紀の土城と山城の関係についても示唆させている。
が、俘囚=エミシは十世紀には防御性集落を作っているのも事実。
山城と平城のコンビネーションも200年位東北の方が遡れてしまう訳だ。
因みに、東北の年代は十和田らの火山灰層を根拠にしているので揺るぎ無い。
どうみても、北東北の動きと北海道の動きは連動している様に見えるが、如何だろうか?


さて、話を中世に戻そう。
「この時点での公式見解」として、「コシャマインの乱」についても書いている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
この辺でも書いたが、有ったか?無かったか?「コシャマインの乱」…「新羅之記録」らに記載された「道南十二館」だが、候補とされた場所を発掘したら、戦乱の痕跡はなく、あったのは中世城館ではなく、防御性集落の痕跡だった事例は、幾つかある。
なら、
津軽・渡島衆が擦文期に防御性集落構築…

安東氏が××館として再利用…

これなら、福島城,唐川城同様に、擦文期に既に土木技術者が居るであろうから、何の問題も歪みもない。

勿論、時系列上、擦文人たる津軽・渡島衆は、「アイノ文化」なぞ持っていない。
ここは間違いが無い。



参考文献:
「中世十三湊の世界-よみがえる北の港湾都市-」 青森県市浦村(編集協力 千田嘉博) 2004年9月30日