この際、「内耳土鍋」を見に行こう!、あとがき…「+型刻書」は山形にもある!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/26/210548

「この際、「内耳土鍋」を見に行こう!…「旧伊達氏領」の内耳土鍋ってどんなもん?」…

忘れてはいけない事なので、敢えてあとがきとしよう。

関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842

「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

「南部氏の城館を追う…安東vs南部抗争と北海道史との合致点」…

ぶっちゃけ「アイノ文化の象徴の一つとされる「シロシ」だが、似たようなものは日本中にある」…だ。

確かこの手の刻印は、平安の須恵器らの時代から施された物が検出され、「+・♯」らはドーマンとみなされているかと。

と、言う訳で、山形での事例を紹介しよう。

結論…「有る」だ。

珍しい事に、杯の内側に「+」の刻印。

高畠町「合津窯跡」からの出土の様だ。

古墳時代から中世の考古資料」展PDFを開けば「合津窯跡」は8世紀位の須恵器窯出土の展示をしていると記述がある。

現状遺跡についての記述はこれまでだが…

色がこれだけ赤っぽいので、須恵器なのか近辺で焼かれた土師器なのか?

ちょっと左の数点とは趣が異なる気はするが、質問を失念してしまったので、現状はここまで。

側面にヒビが入っているので、産地出土だと解る。

高畠町は山形でも最古級の須恵器窯跡がある様だ。

又、福島の伊達市周辺では13世紀位の陶器窯跡らがある様だ。

故に瓦質土器らも盛んに作られたのだろう。

 

出土状況等が解らないのでここまでだが、仮に中世もこれを行っていたなら「アイノのシロシだ」と言うのは止めた方が良いかも。

理由は簡単だ。

「ここが伊達氏の領地だった」事が問題。

朧ながら千島,道東と「内耳土鍋」から関連性を見てきているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733

「この時点での公式見解-29…ムックリの理由と「シロシ(家紋)に見る移動の痕跡」、そして伊達氏の影」…

ウタサ紋は、オホーツクや道東、特に十勝との関連性が指摘されている様で。

で、浜益の「伊達シロシ」…

これ…近世〜近代だけではなく、中世でも成立してしまうのだが…

良いのだろうか?

 

別に北海道固有のもんでは無い…これだけは言えるであろう事は…解って戴けたと思う。

これも「類例の学問」であるのにも関わらず、本州、特に東北との類例比較をやっていない証左と言えるであろう。

いずれ、また見つけたら報告しよう。

 

 

 

この際、「内耳土鍋」を見に行こう!…「旧伊達氏領」の内耳土鍋ってどんなもん?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/11/195106

「「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?」…

さて、内耳土鍋ニ種共伴の話を報告した。

今迄もこの南東北の内耳土鍋については、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…

旧伊達氏領周辺と千島から15世紀位に出現するものが一致しそうとの話から、中世伊達氏を当たったりしている。

なら、ここで一発、福島北部の伊達市〜山形南部の置賜地域に内耳土鍋を見に行こうではないか!と、また小遠征を敢行した。

まずは結論。

これが、旧伊達氏領で検出された「内耳土鍋」である。

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」の特別展で展示していた。

で、こちらがそれより先行して訪問した「伊達市保原歴史文化資料館」で確認した内耳土鍋の破片。

因みに、これが奥州藤原氏の居館「柳之御所」の内耳鉄鍋。

よく似ていると思ったりする。

では、詳細を報告しよう。

 

まずは、福島側の伊達市保原歴史文化資料館へ向かった…と、アッサリかいたが、筆者の住む秋田〜伊達市保原迄は片道300㌔を突破する。

最早、距離感はバグを起こしている様なもんなのだが、日帰りである。

が、こうやって学びに行く事が出来る事に感謝せねばと思う。

今回は純然と「内耳土鍋を見に行こう」と言う目的があるので、一通り見てから学芸員さんに目的を伝えた上でレクチャーを戴いた。

・出土は「保原城跡」の発掘による。

・材質は「瓦質土器」。

・「瓦質」系の製作は伊達氏領から蒲生レオン氏郷領となった頃には終焉し、陶器らへと変遷する。

・完形での出土は無く、破片のみ。

・千島での出土の件は聞いた事が無かったとの事。

・考古学は「類例の学問」で、遺跡という「点」から類例を探し広げていく学問だが、あまり北海道に類例を求める事はあまりなかった(北海道の発掘調査報告書は2〜3冊程度読んだ事がある)との事。

阿武隈川流域の発掘をすると暴れ川だった事が解るとの事。以前河原だった周辺は砂層が堆積し、ほぼ無異物となる様だ。その箇所は現在も住居はあまりなくほぼ農地利用だそうだ。住居は段丘上の高台で、重機で掘っても直ぐ解るとの事。

以上、教示戴いた事をざっと要約。

運良く発掘調査報告書を入手出来たが、第5次発掘で「6号井戸跡(SE06)」から写真の一個、遺構外から一個、計二個の出土となる。

考古をご専門とされているとの事で、「材質は瓦質」「完形無し」、即答戴いた。

掘った本人のコメントが一番参考になる。

ここで質問した。

展示は写真の通り縦耳方向になる。

横耳の出土事例はあるか?…即答。

「無し」であった。

曰く、横耳だと応力的に保たず、直ぐとれてしまうのでは?と。

筆者も同じ推定。

前項の通り、「ライトコロ川口遺跡」での事例は、

・縦耳→関東系の瓦質に近い…

・横耳→土師質で作りは粗い…

と、全く違う質感なのだ。

ここ伊達市では前者の事例はあるが、後者の事例は無い。

仮に千島や道東に、旧伊達氏領や関東,関西の物が流入したとしても主には前者になるだろう。

なら、後者は?

実のところ、北東北では瓦質土器はあまり馴染みがない。

これ、当然で、元々が「鉄鍋+木器(漆器)文化圏」。

かわらけと言っても土師質酸化焼成の赤色土器が主流で、むしろ国内外の陶磁器が出土する。

移動しながら思案してたが、中世墓の確認で見かけたのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

瓦質は関西メインだが、手捏ね土師質で椀らが副葬されていた。

これら横耳の粗い作りの鍋は、副葬専用に作られた謂わば「儀鍋」ではないだろうか?

故に、持ち上げて耳がとれるなぞ器にする必要もないし、実用ではないので手捏ねで済む模倣では?

そんな事を考えつつ、次へ回った。

 

以前訪問した中で、確か展示していたな…と思った「高畠町郷土資料館」である。

ここは一度、「中世に竈があるか?」のテーマで「山形で石の産地と言えば「高畠」」と聞いて訪れた事があり、筆者の事を「あ?以前「竈」で…」と記憶してくれていた。

有り難い事である。

高畠町は関連項にあるように、1380年の伊達宗遠置賜攻略後に拠点を置いた地で、この辺から宮城南部の亘理らへ触手を伸ばす。

早速、内耳土鍋を展示していた事が無いか?確認したところ、「無い」と…

記憶違いであった。

で、今回の趣旨や竈,石垣らとの関連を簡単に説明したところ、ほど近い「山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」に現在展示している事を電話確認戴けて、あの写真に至った。

ご教示いただけた事は、

・福島同様に、内耳土鍋は伊達氏の領有期間に限られ、上杉氏の時代には消える。

・山形側でも城跡らからの出土が中心で、後の拠点米沢城に関連した城館からまとまって出土したりする。

・京の将軍家らへ砂金をばら撒く件、置賜にも砂金産出は有り「金」の字が付いた地名も残る。但し、実態は判明しておらず、大量産出は少し懐疑的の様だった。

・砂金の最大産地、月山麓立谷沢川寒河江川方面は一時上山地域を押さえた事はあるが、寒河江→最上氏、立谷沢→武藤氏が押さえていたのではないかとの事で、派手に砂金をばら撒くのは厳しいか。

・北方との関連について、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428

伊達政宗公の野望のルーツは何処か?…典型的ランドパワー「伊達氏」と海の繋がりの初見は「野辺地」」…

野辺地領有の件は、対応戴けた方々はあまり聞いた事が無かった様だった。

・耳の方向は、知る限りは縦耳の模様。

が、概要であった。

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」に資料があったので、中世関連の資料を紹介戴き入手したが「山形県の近世城郭と出土品」  によると、

米沢へ拠点を拠点を写した際に使われた「舘山城」の付随施設「舘山東館」「舘山北館」(写真の黄丸)、

特に「舘山北舘」で集中して検出している様で、ここは武家屋敷と思われる施設。

本城は「丘先式」からの進化型にも見えないだろうか?

他方、「米沢城二の丸」でも検出、記録上は「米沢城二の丸」は上杉景勝の普請とされるが、発掘で伊達氏時代と思われる掘立柱建物跡や溝跡が見つかっているとの事。

さて、ここまでで解った事だが…

・材質は「瓦質」で現状は「縦耳のみ」の検出。

・内耳土鍋は「伊達氏時代」にかなり限定され製作,使用されており、且つ出土が城館が中心な為に、関連が証明されれば即伊達氏との繋がる可能性があるだろう。

以上となる。

さすがに、

・千島の内耳土鍋との関連性の示唆…

・砂金らのばら撒き時期との一致と、北方四島周辺や白糠らの産金の件…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」」…

・「野辺地」と言う北海道との接点を持っていた可能性…

これら状況証拠だけで、繋がった…なぞと言う事は出来ないが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131

「生きてきた証、続報38…慶長遣欧使節団船「サン・ファン・バウティスタ号」に竈はあるか?」…

何故、伊達政宗サン・ファン・バウティスタ号を建造したのか?ら迄、数代の動きを重ねると何となくシックリくる気はするのだが…「太平洋ルートを使った交易」をずーっと狙っていたと。

実は気になる薄い点まだある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/24/120855

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる」…

ここでサラリと触れていたのだが…

「面崖式」の事例で、わざわざ最大級のユクエピラチャシではなく、方形の「タブ山チャシ」を青森の事例と比較したのに違和感を覚えた方はいるかと。

あの方形堀の中世城館が集中するのは、青森側では七戸町周辺になる、野辺地近くの…。

で、先の「石垣探し」で、置賜地域には他の地域に無い特徴を持った中世城館が図示されていて、引っ掛かりを持っていたのだが、「中世やまがたの城館跡−そこに城館がある理由−」の図を借りると、

これ、「置賜の中世居館」として識別されている様だ。

これらの分布はまだ未確認。

これからになるが…

方形のチャシが目立つのは「道東」。

置賜…野辺地(七戸〜十和田方面)…道東(メナシ衆の地)…

まさかね…

いずれ、北海道区分での南東北以南の確認はやってみるつもりではある。

我々が伊達氏にロックオンしたのはここから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/11/183522

片倉小十郎と北海道の関係…伊達正宗と松前慶広の約束と諏訪大社の影」…

メンバーが北海道で言われた「北海道入植した伊達家は、幕末まで北海道と一切の関係が無かった」…この一言から。

江戸期のキリシタン系の話がメインで、政宗の時代が中心だった。

が、こうなってくると…

まだまだ入口。

でも、妄想レベルではあるがこちらの史観の方が面白くないか?

「独眼竜の野望」は、数代前から紡がれた各地との「海の交易」への憧れからスタートし、独眼竜の時代にヨーロッパ迄至る…何とも壮大ではないか。

折角楽しむならこの位のスケールで楽しもうではないか。

ただ、本当に繋がった場合、「幕末迄北海道と関わりは無かった」…これが嘘になるが。

 

参考文献:

「保原城跡発掘調査報告書Ⅴ」 保原町教育委員会  平成14.3.22

山形県の近世城郭と出土品」  山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館  令和3.9.11

「中世やまがたの城館跡−そこに城館がある理由−」 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館  平成24.10.2

「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/23/210550

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?」…

そういえば…

個別事例で、構造にそんな差が無い事を説明していなかったので、敢えてあとがき。

解り易いものが多いので、青森の事例を並べてみよう。

①丘先式…

七戸町荒熊内館」…

これは舌状台地の南端を郭にして、大小二条の空堀で断ち切る典型的な丘先式だろう。

で、七戸には、これが中世城館化していく様も見える事例がある。

七戸町「大池館」…

七戸川左岸の舌状台地先端を空堀で断ち切り郭を作る…ここまでは同じだが、途中に堀切を作り郭を複数化と方形に整形している。

北側では竪穴住居?と思われる凹地がある様なので三郭では終わらぬ可能性もあるし、土師器の出土が見られると言う事からすれば「元々防御性環壕集落の一部→先端に郭を設ける→聖地と多郭化で中世城館化」…こんなプロセスも想起させるのでは?

もっとも、それを立証するには発掘が必要になるのだろうが。

一応…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

「北海道弾丸ツアー第三段、「静内篇」…どうせ見るなら本命級「シベチャリチャシ」!だが、本当に砦なのか?」…

北海道の丘先式の事例としてシベチャリチャシを貼っておく。

シベチャリチャシも運用時の姿は、現在確認されるよりもっと多郭だった可能性は示唆されている。

 

②面崖式…

横浜町「寺屋敷」…

檜木川の河岸上をコの字方の空堀で断ち切る。

南側は崩落の可能性もあり、西側も畑地で喪失の模様。

同様に、七戸町「槻の木館」…

これは丘陵先端付近で、萩ノ沢川の河岸を空堀で断ち切り、ニ郭としている様だ。

ん?

面崖式は「ユクエピラチャシ」の様に、半円状だ!と思ってる方…

いやいや、方形は一杯ありますよ。

これ、標津町「タブ山チャシ」。

それに青森に半円状のものがないハズもない。尾上町(現平川市)「平田森館」…

引座川河岸段丘上だそうで。

段丘側面を堀切するなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

「防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?」…

天然地形利用と動員数をかけられれば、こんなところに行き着くであろうし、敢えて事例は挙げないが丘先式,孤島式は、

式,孤島式」→「丘先式」→「面崖式」ではないだろうか?。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

「防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?」…

こんな風になるのは想像し易い。

③中世城館…

これは、考え方の問題だと思うが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801

「時系列上の矛盾…島牧村「チャランケ・チャシ」から見える「チャシは単独運用ではない」と言う考え方」…

以前から、チャシは単独運用されたものではないのでは?と言っていた。

ちょっとその点に触れてみたい。

七戸町「下見町館」…

これも丘先式で、先端二方に空堀、付け根にも空堀を入れて最低三郭の多郭化をしているケース。

中央の主郭と考えられる部分には方形土塁があるが、これは後代追加された?と考えられている模様。

これと似たような形状のものは北海道にもある。

平取町の「ユオイ・ポロモイチャシ・二風谷遺跡」。

二風谷川河岸の舌状台地先端、赤丸がそれぞれユオイチャシとポロモイチャシ。

青丸部分が擦文系遺物が多く竪穴住居跡がある二風谷遺跡。

上側の半丸が二風谷小学校遺跡。

これ、二風谷遺跡部分を主郭と捉えれば、二つの副郭を設けた中世城館とも捉えられないか?…と、言う考え方だ。

付け根側には小学校遺跡らが連なる訳で、仮に紫丸の高台に何らかの施設が施されていたと仮定すれば一体の施設で山城として運用されていた…?だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…

一度「ユオイ・ポロモイチャシ・二風谷遺跡」は取り上げているが、どうも単発の別の物と言うイメージで発掘されていた様だが、造営時にはセットで造営されて、後発で改修されたり、違う用途で用いられたりしたら、見え方は全く違うものになると思うのだが。

仮にそうだとすれば先に書いた通り、「防御性環壕集落→先端付近に郭→多郭→中世城館化→近世に再利用」と言うプロセスの中に当てはまる事になりそうだが。

この場合一体施設と考えれば、全体の規模はもっと大きなものになるし、先端付近の郭には「館神神社」が…等と言う発想も出てくるのでは?

 

④勝山館同様のものは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

さて、ある意味これが本命の一つでもある。

北海道〜北東北三県のチャシや中世城館を「砦状構造物」と捉え括り、中世城館と北海道式区分で分ける…これには目的があった。

・チャシ区分を使い、中世城館の単郭らを区分する事は可能だった。

・上記の様に、チャシを単体とせず、近辺一体と考え中世城館ではないか?とする事もまた可能性はある。

現実には「北海道のチャシ」では、縄張り図が極一部しか載ってはいないが、何式か区分はされているので類似傾向は解る事になる。

さてでは、勝山館の現物を見た時に同行者と二人で意見が一致した違和感、「勝山館って本当に中世城館なのか?」…これに近似する類例はあるか?…これだ。

結論から書く。

「無い」。

こんな、尾根の下の谷に空堀を施し、段々に建物を建てるケースは各道県数百件の事例の中には無かった。

こんなケースならある。

秋田の西仙北町(現大仙市)「黒沢館」…

丘頂式,孤島式からの中世城館か。

南西斜面には4〜5mで9段に段々を施している。

ただ、これは帯郭というものだろうし、山頂部には平滑され、堀切や土塁が施された主郭を持つ。

勝山館には館主の館も無いし、尾根より高い夷王山山頂に主郭があった訳でもないし、勝山館と夷王山山頂の間には墳墓群…配置も違和感。

城館ではなく、町家遺跡なのでは?

なら、「蠣崎氏」は安東氏一門での身分決定迄の間に「何処にいたのか?」

 

以上、二項に分かれた事になってしまった。

素人目なので専門家がやれば違う結果になる事もあるだろうし、こんな考え方もある…程度の事だ。

以前の研究で取り上げられてそうな事なので、いずれ先行論文にも行き当たるかとは思うが。

ただ…

ほぼ同じ文化,技術を持った人々が…
ほぼ同じ必要性や基準で…
似たような場所を選び、同様の構造物を築いた…

これで十分説明がつく事は解って戴けたと思う。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

最新版では、「チャシは祭祀場」と言う捉え方になってきている様だ。

中世城館でも「館神,一族の氏神」を祀る郭を持った場所はありますし、神社や塚を造営したケースは幾らでもある。

そんな共通点もある。

我々にとっては、「その時代、そこに居た人々が造営した構造物」以外の何物でもない。

違うものだ…なぞと言う「色眼鏡」を掛けて見る事はしない。

なら特別視して、全く違うものと考える必要は無いのでは?

筆者にとって「その時代、そこに住んでいた人々」は、「先祖の商売相手や友人達」に過ぎないのだから。

 

参考文献:

「北海道のチャシ」 北海道文化財保護協会 昭和58.3月

青森県の中世城館」 青森県教育委員会 昭和58.3.31

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61.3.26

「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

直接の前項はこちら。

そして、関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

全国の中世墓の動向。

以前から考えてはいたが、石積探しと中世墓資料確認で非常に手間が嵩むのが解っていたので躊躇もしていられなくなったので、着手してみた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

「北海道弾丸ツアー第三段、「静内篇」…どうせ見るなら本命級「シベチャリチャシ」!だが、本当に砦なのか?」…

チャシである。

今迄も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631

羽黒山蝦夷館」とは?…立地らに対する考察の備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302

「土木,建築視点でも、似たものならここにもある…「伊勢堂垈遺跡」にある古代~中世の空堀跡、そして…」…

東北には蝦夷館と言われた似たものはあると書いてきた。

だが、ピンと来ない方はそれを見て「本州にもチャシがある」などとのたまわるのだが、時系列的には東北の防御性環壕集落が先。

ならこの際そんな「幻想」はぶち壊した方が良いだろう。

敢えて北海道式のチャシ区分に当て嵌めて北東北の中世城館を区分して数値化をしてみようではないか。

石積みや中世城館では、文化が北上する様が見えた。

チャシも中世城館も「砦状構造物」と一括にして区分していき、同様に文化の北上の様が描き出されたら文句もあるまい。

数値化をするには「定義」が必要。

必ず主観は入るが、物差しが無ければ主観で中身がブレるからだ。

①資料は各県教育委員会発行の中世城館資料と「北海道のチャシ」を使用。

但し、「北海道のチャシ」には道南の中世城館は記事が無いので「日本城郭大系第一巻  北海道・沖縄」から引っ張る。

ここで穩内館ら発掘で防御性環壕集落と判断されたものや五稜郭,戸切地陣屋ら近代城郭は除外。

当然ながら、中世以前の「紫波城」ら古代城柵も除外。

古い資料と思われるかも知れないが、各都道府県で定期的に中世城館の状況確認は行われているが、劇的にこれら城館登録数が増える事は無いので、概要を見るには十分だろう。

②下記定義で分ける。

盛岡城の様な「防塁としての石垣,水堀」を持つ物は近世城郭とする。

・尾根筋に複郭や3〜4の連郭を持つ物、畝状竪堀群や複雑な構造を持つ物、平地で水堀を巡らす屋敷跡らを中世城館とする。

まずはここまでで中世城館と蝦夷館,チャシを区分…

・比較的に構造が簡単な物は、

これを参考に、「丘先式」「面崖式」「丘頂式,孤島式」に振り分けた。

尚、北海道は「北海道のチャシ」で河野広道博士の「丘頂式,孤島式」を分別しているが、現状纏めている様なので纏めた。

北東北は図示された物で判断した。

実際の登録数は上記より今回のカウントより多いが、形が解らないなら分類不能。それでも各県数百確認出来るので、概要を確認する「抜き取り数」には十分だろう。

迷った場合は両方にカウントする。これは北海道の資料上やられているので準じた。

③各道県毎に振り分けても何がなんだか解らなくなるのは、既に石積みや中世墓で経験済。よって、

・北海道

道南

西蝦夷地+胆振,日高…口蝦夷領域

宗谷〜オホーツク,十勝以東…テンショ,メナシ衆(奥蝦夷)領域

・青森

津軽

南部

・秋田

沿岸

内陸北

内陸南

・岩手

戸の地域

岩手〜北上周辺

閉伊

磐井ら旧伊達領ら

でそれぞれ確認していく。

こんな風にした。

基本的には独断と偏見だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

自分で「定義」と言いつつ、ルールを決めず分類なぞ許されるハズもない。

と、言う訳で結果はこうなる。

では、中身を検討してみよう。

①中世城館率…

・北海道は道南でしか中世城館と登録されてはいないので0になる。

道南の40%は小計の数値から鑑みるとむしろチャシ登録された物が少ないとも見える。

・青森はそれぞれ30%程度。

・秋田は内陸北では青森同等だが、南を含める沿岸や内陸南では50〜60%迄跳ね上がる。

・岩手は南に下れば下る程に中世城館率が跳ね上がる。

地図で示すと、

赤…8割以上

紫…5割以上

青…2割以上

緑…2割未満…

とすればこうなる。

見事なもんで。

ここまで明確に出るとは思わなかったが、見事に傾向が出ている。

ここで注意が必要と考える事だが、こと青森での中世城館率が高い町村には共通点がある。それは数的に浪岡周辺や三八地域の様に、鎌倉御家人南北朝武将らが入ったと解る地域にそれは偏る事だ。

平賀町(現平川市)「新館城」。

坂上田村麻呂は眉唾臭いが、郭や堀跡はあるが「平城」だと言う。

城と言うよりはむしろ政治を司る屋敷跡っぽいイメージではないか?

郭はあれど比高差1〜2m…こんなケースもあり、全体の中世城館率を底上げしている。

それらから離れると単郭らの簡単な構造の物が増える…と言う事は、在地の人々が構築したとも考えられるだろう。

こんなのを見ると興味深い。

同じ秋田の鳥海町(現由利本荘市)だが、

上の「花見館」なら先丘式だろうが、「根井中後山館」までになると郭が増え、竪堀迄出現してくる。

近隣地区でもこんな、単郭→複郭化→規模拡大→複雑化…の様なプロセスはざっとではあるが見えそうだ。

こんな構造物は、

・必要となる要因の有無

・構築者が安定的に運用可能か?

・構築費用の捻出の可否

・構築する為の人員確保

・構築技術伝播の為の情報有無

これらで可否が決まるであろうから、それら背景を持つ者が必要に応じてそんなプロセスを経たとも言えるのではないだろうか。

現に戦国大名化した安東氏は「檜山城」に

「脇本城」…

政権安定してからは、山城さえ止めて最大交易拠点の「湊城」を改修。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/19/224356

「北海道と南部方面,中央政権との交流、そして安東氏vs南部氏の抗争しなければならぬ理由?…「尾駮の牧」研究から検証する為の備忘録」…

戦う必然、築城,改修費用と人員確保を可能とする財力、これらがあったからこそこんな馬鹿デカい構造物を築けたと言う事だろう。

松前大館」にしても元々記録では安東氏一族の下国定季の居城。

南部氏にしても「三戸城」。

財力や権力を持つから可能な事。

 

②北海道式区分での比較…

北海道で「その他」に区分された3基を除き、

・丘先式

舌状台地や伸びた尾根筋の先端に郭を置き、堀で切り離す。

・面崖式

川筋の段丘らの断崖上部に堀,土塁等で隔絶部分を築く。

・独立丘陵一つ、又は丘陵尾根筋の頂点部分を堀,土塁等で隔絶する。

こう定義して上記カウントしている。

これはどう地形を利用するか?がまま出てくるだろう。

低地帯に独立丘陵が無ければ「丘頂式,孤島式」はムリ。

つまり、それなりの平地が無ければ成立しない。

対して「面崖式」は、河原や海を望める様な台地が無いと成立しない。

より広い平地が必要となるのは「丘頂式,孤島式」→「丘先式」→「面崖式」ではないだろうか?。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

「防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?」…

丘陵をそのまま一つ使う、清原氏の「大鳥井山柵」はある意味「丘頂式,孤島式」の行き過ぎたパターン若しくはルーツであろうし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

「防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?」…

安倍氏の「鳥海柵」は北上川河川敷を望む丘陵の崖を他の城柵と連携し監視出来るので、ある意味「面崖式」の行き過ぎたパターン又はルーツと言えるかも知れない。

なら「丘頂式,孤島式」の比率を地図で示すと、

赤…8割以上

紫…5割以上

青…2割以上

緑…2割未満…

とすればこうなる。

岩手の閉伊地区は少々意外だが、秋田の内陸南部はそれこそ「大鳥井山柵」のある地故に納得である。

ここで…青森の旧南部地域だが、青マーキングしているが21%と、他の東北の地域より低い。

で、これを北海道と比べて欲しい。

津軽平野を持つ割に、

・旧津軽と道南はほぼ同じ構成…

・旧南部と西蝦夷地+胆振,日高はほぼ同じ構成…

になっている。

これ、本当に地形だけのせいであろうか?

確かに津軽平野では中世城館化は進んでおり、単郭の物は西浜や外ヶ浜ら丘陵に多いのは確かではある。

ただ、今まで確認してきた、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

墓制の確認や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

人の移動やアクセス先を鑑みる、

そして、上記の様な中世城館率のグラデーションを見ると、単に地形だけの差とも思えなくなってくる。

何故なら、「何故そこに砦状構造物を築くのか?」と言う発想点に関わるからだ。

この「発想点」こそ、文化そのものだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…

それより前時代のこんな話と重ね合わせると、

人的交流…旧南部、つまり糠部側…

交易的交易…津軽側…

こんな推定がなされている訳で。

と、北海道のテンショ,メナシ地域での特徴は他の地域と少々違い、「丘先式と面崖式の比率がほぼ同等」と言う事。

つまり川筋や海に面する場所に構築する事に特化しているとも考えられよう。

特異と言えば特徴的でもある。

単に地形だけで決められた訳ではなく、構築コンセプト…発想点の差もあり得るだろうと思われる。

 

③畝状竪堀群…

実は、この「確認作業」を始めた段階で、面白い事例がSNS上に上がっていた。

中〜近世城館遺跡の第一人者、中井均教授のポストである。

https://twitter.com/shirojiichan/status/1778407547709567429?t=FW77IvUBvAJkm4W9AarQBQ&s=19

北海道のオコタヌンベツチャシに畝状竪堀群を確認したと。

実は先に石積み探しで秋田にこれがあるのは知っていた。

折角見つけるたポストなので、これも当たってみようと。

この「畝状竪堀群」とはこんなもの。

これは秋田の羽後町「館山館」。

このマーキングの部分がそれで、登る方向を規制する事が出来る。

で、図示されたものを確認する限り、

秋田沿岸…12

秋田内陸(北)…0

秋田内陸(南)…17

で、沿岸も北は能代二ツ井に4箇所あるのみと限定され、後は中央に3箇所、由利本荘市で5箇所、圧倒的に南に偏る。

では青森と岩手は?

見た限りでは無い。

つまりこの畝状竪堀群は、単純に奥大道ら陸路沿いに北上,伝播した訳では無いと言う事になる。

では、このオコタヌンベツチャシに畝状竪堀群を伝播したのは誰か?

ここは試掘されており、資料を入手した。

位置は白糠郡音別町(現釧路市)。

「出土遺物は、骨角器・石器・金属器などが出土しているが土器文化の痕跡は全 くみられない。チャシコツ丘頂の平坦面の土壤層は、表土、火山灰層,黑色土,黑褐色土,褐色土となっており褐色土が基底層をなしている。

褐色土層に至るまでの土層は極めて薄く中央部では20cm内外である。

遺物の出土状況について注目されるのは、骨角器が炉址周辺から集中して出ていることで、骨角器の中には焼けて黒く炭化しているものが多い。」

白糠郡音別町オコタヌンベツチャシコツの遺物」 富永慶一  『北海道考古学 第7輯』 北海道考古学会  昭和46.3.31 より引用…

焼けて尖らせた骨角器、砥石や算盤の玉型ら石器、金属器は刀(タシロ?)と船釘とある。

出土土層や位置は記載なく、チャシ運用年代と合致するか?は不明の様だ。

黒色土層の上には火山灰層…

これで被覆されているなら、それ以前に廃絶されているのだろうが、この火山灰は何?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

一連紹介しているユクエピラチャシでは1300年代のMe-aらで被覆され、その機能を止めている。

同様なら、

・構築はそれ以前…

・後発者が追加で畝状竪堀群を施した…

と言う事になるか。

何せ遺物に石器を伴うので、オリジナルが新しい時代の物とは考え難いのではないだろうか?

それ以後の発掘報告は見つけていない。

そういえば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…

フリース船隊航海記録に登場する「白糠」は、砂金場として紹介されるが…

関連はどうであろうか?

 

さて、如何であろうか?

この位傾向が見えれば、北海道独自のものではないと解って戴けるであろうし、構築年代を鑑みれば大鳥井山柵や鳥海柵がある以上東北からの技術伝播であろうし、わざわざ北方起源を唱える必要も無いし、畝状竪堀群を考慮すれば北東北以外の技術伝播者も居るし、それらは中世墓や石積みの件と相対論,特異点上でも合致してくるであろう。

何も特異点と捉える必然は無いだろうし、東北の蝦夷館を見て「アイノ文化のチャシだ〜」などと言うのが如何にナンセンスなのか解って戴けるのではないだろうか?

悪いが「夢の見過ぎ」ではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

'70s以降の研究状況が妙な方向に向かっていたのが気になるのは我々グループだけではあるまい。

蝦夷→アイノ」の直訳をするならちゃんと東北との関連を見て、北方由来か?本州由来か?検討すべきだと思うのだが。

我々はそれをやっているに過ぎない。

 

参考文献:

「よみかえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」 (財)アイヌ文化振興・研究推進機構  2001.6.2

「北海道のチャシ」  北海道文化財保護協会  昭和58.3月

「日本城郭大系第一巻  北海道・沖縄」 新人物往来社  昭和55.5.15

青森県の中世城館」 青森県教育委員会  昭和58.3.31

秋田県の中世城館」 秋田県文化財保護協会  昭和58.8月

岩手県中世城館跡 分布調査報告書」 岩手県文化財保護協会  昭和61.3月

白糠郡音別町オコタヌンベツチャシコツの遺物」 富永慶一  『北海道考古学 第7輯』 北海道考古学会  昭和46.3.31

「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

さて、これを前項とする。

 

ここ最近の論文,文献読みで、筆者の大好物が複数引っ掛かる遺跡があった。

一つ目の引っ掛かりは「螺旋状垂飾」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

「・常呂町ライトコロ川口遺跡 13 ~ 14世紀  11点 墓(廃絶した擦文竪穴住居址内に造成。ガラス玉約70点)」

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 より引用…

そして二つ目の引っ掛かりは前項より…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

「現時点では、十四世紀中葉~十六世紀中葉以前とされる鉄鍋のさらに個別的な年代は得られていないので、ライトコロ川口十一号上層遺構における内耳土鍋、同鉄鍋、そして機能強化を窺わせる結頭の存在から十五世紀前集前後にはアイヌ文化が道東部においても確立していたと考える。」

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」 小野裕子アイヌ文化の成立と変容』 法政大学国際日本研究所 2007.3.31 より引用…

「螺旋状垂飾」に「内耳土鍋と内耳鉄鍋の共伴」があるという「ライトコロ川口遺跡」だ。

更に臭うのは、

・擦文の竪穴住居に更に掘り込んだ墓…

・十一号「上層」遺構の「上層」って何?

である。

なら、また入手して確認せねばなるまい。

と言う訳で、これも原版へ遡り報告しよう。

 

発掘したのは東京大学のチーム。

1970年代初頭の常呂周辺の発掘調査の延長上で偶然見つかったもので、初期調査段階では標高2m程度と低い為に遺跡はまず無いものと考えられていた様で。

立地はライトコロ川がサロマ湖へ注ぐ河口の西側。

では、基本層序を。

Ⅰ…表土…10~15cm

Ⅱ…粘土層…10~20cm

Ⅲ…粘土と砂が互層で繰り返す→これが位置により複雑のようで、詳細は各遺構毎になっている。

このⅢ層の粘土,砂の互層は、近隣の他の遺跡でも検出しており、風による堆積の砂層と水による堆積の土層が堆積を繰り返していたとしている。

たまたま1975年調査時に台風6号により石狩川水系が大洪水を起こした様だが、そのおり降雨した調査区内の近隣に土層露頭がある竪穴で1cm程度の粘土層が形成された事があった模様で、完全に水没しなくとも砂層と粘土層の互層が出来上がる様が見れた様だ。

標高2m程度と言う事は降雨のみならず海水でも起きうるのだろう。

こんな特殊性を持った地域の様だが、

擦文期の竪穴住居跡が13基、時期不明(擦文土器と考えられる土器片有りだが明確に判断出来る形で残らず)の竪穴跡が1基検出されている。

竪穴住居は概ね三軒程度で時間差がある様で、全ての竪穴が同時代に同時に存在した訳ではない様だ。

発掘参加した藤本強氏による藤本編年では、共伴した擦文土器は擦文後期〜後期後葉だとの事。

ここで、上記「臭う」引っ掛かりの意味が解った。

住居に掘り込んだ墓、上層遺構、とは「竪穴住居廃絶→土層堆積→その後に再利用」と言う意味で、竪穴住居の使用者と墓を掘った人や上層遺構(送り場と推定)を作った人との関連性を示す物証は無いようだ。

では、個別に各遺構を見てみよう。

 

では、小野氏が指摘した「上層遺構」を持つ「11号竪穴」から。

発掘前段階で竪穴による凹みは目視で解った様だ。

覆土の基本層序は

Ⅰ…表土

Ⅱ…砂層(最大厚60cm以上)

Ⅲ…粘土層

Ⅳ…黒色砂質土層→竪穴底面

となるが、上図の土層断面の様に、Ⅱ層には褐色土や粘土層が複雑に重なっており、それらは水を被る度に形成されたと推定している様だ。

ここで「Ⅲ…粘土層」の下部に魚骨,獣骨,炭化物,骨角製品を含む灰黒色砂層がある。

これが送り場を想定した「上層遺構」と言われる部分。

竪穴凹地を利用して北東側から最大6.8×4.4mの範囲で"送られた"と記述され、竪穴凹地のほぼ中央に100×85cmの円形に近い焼土がある。

検出した動物遺存体はこの通り。

さてでは、本命…共伴した内耳鉄鍋と内耳土鍋を見てみよう。

赤マークが「内耳鉄鍋」片…

紫マークが「内耳土鍋No.1」片…

緑マークが「内耳土鍋No.2」片…

残念ながら、完形は無し。

見慣れた「燕尾型回頭銛頭」を含めた骨角器製品、鈎状鉄製品ら同様、この「上層遺構」で検出される。

ハッキリ共伴と記述されるが、鉄鍋は口縁部の破片のみで、内耳の痕跡等は無い…少々期待ハズレである。

と、内耳土鍋であるが、引用してみよう。

 

「内耳土器(Fig.31-1-2. PL. XVII-2.3)

Fig. 31-1は推定復元したもので、サンプル用ビットのチ・ル・オの周辺から出土している。口径16.8cm、高さ8.5cmと推定され、器壁は1cmほどである。内耳は欠失しているが、内耳付設部の貼付粘土の状態から横耳式の内耳土器と考えられる。外面は、粘土帯を指頭で押圧しており、器面の凹凸が著しい。また笹の葉を思わせる植物質の短い圧痕が処々にみられる。ヘラの使用は明確ではないが、わずかに擦痕かま横走する。他に表面に層状の剝落がみられるが、器面強化のために薄い粘土板を貼付した部位の剝落と考えられる。成形は内面の方がよりていねいである。胎土には多量に砂礫を含んでおり焼成は極めて悪い。暗灰色である。 口縁部外面にスス状の物質が黒く付着している。

Fig. 31-2は、魚骨層より上層の出土であるので、本遺構に伴うかどうか不明である。胎土に少量の砂を含み前者より良好である。灰黄色の胎土であるが、焼き上がりは全体的に灰黒色である。ひじょうに細かな絹雲母(あるいは石英)を少し含んでおり、関東地方の中近世のほうろく を想わせる焼きである。内耳は縦耳式である。」

 

さて、ガチで気になる点を羅列する。

①覆土…

何気にスルー気味に書いていたが、先の断面図を確認戴けたであろうか?

覆土中に「白色火山灰」が検出される。

だが何故か、この火山灰には全く触れていない。

この火山灰は何?

明らかにⅡ層…砂層途中にあり「上層遺構」より上、つまり遺構下限が推定出来るハズなのだが。

何故触れぬのか…不思議である。

②内耳鉄鍋…

どうも全くの破片で、内耳鉄鍋であるとハッキリしないと思うのだが。

何故これが重要なのか?

小野氏の指摘では、この内耳鉄鍋?と内耳土鍋の共伴が「擦文土器→内耳土鍋→内耳鉄鍋」と変遷した可能性を上げる事になるからだ。

仮にこれが内耳鉄鍋ではなかったなら、この推定は成り立たなくなる。

③No.1内耳土鍋…

正直、この復元に驚いた。

理由は簡単。

筆者が見た事がある実物,図らで中世で「横耳式」の内耳土鍋を見た事が無いからだ。

類似の物は何処にあるのだろうか?

確認せねばなるまい。

因みに青森の「高屋敷遺跡」らで出土している内耳式土師器は見た事がある物は「縦耳」で、内耳土鍋出現前から「縦耳」が主流だったと思うのだが。

④No.2内耳土鍋…

これはズバリ肌質の記述にある「関東のほうろくに近い」である。

即連想したのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

千島方面での内耳土鍋は、南東北の旧伊達領のものと類似する説だ。

その辺があるので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…中世伊達氏も並行して探ったりしているのだが。

ただ、「湊は何処か?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/09/204601

「枝幸の湊は何時からか?…「枝幸町史」との整合と「湊,津」の特定の為の備忘録」…

湧別らオホーツク海沿岸部がシベリアやオホーツク方面とのクロスロードと考えられるので、驚く事もないのだが。

仮に千島と南東北〜北関東が交渉を持っていたとすれば、延長上でこの周辺へ到達するのは有り得る事。

蝦夷の「メナシ衆」…

不思議ではない。

小括では宇田川洋氏が纏める。

銛先の編年で前田潮分類でF型→江戸初期以降、大塚和義分類でタイプF14~17世紀と幅を持つ。

またやはり横耳式には注目しており、7号竪穴の「埋土出土」で

完形に近い復元をしており、11号竪穴の事例は地肌の類似性を含めてこれの横展開した模様。

やはり、横耳式と縦耳式の関係については今後の検討要としている。

小野氏の論文にはこの横耳と縦耳の関係は記事が無かったかと思う。

簡単に溝が埋まる…こうはならなさそうだが。

 

次に行く。

箕島氏が挙げていた「螺旋状垂飾」が検出されたのは12号竪穴に掘り込まれた「12号竪穴内墓壙」。

こちらも発掘前で凹が目視出来た様だ。

残念ながら、こちらには「白色火山灰」は無い模様。

竪穴自体は紡錘車やほぼ完形の擦文土器が「床面」より出土し、純然とした擦文文化期の竪穴住居である。

墓壙は、基本層序中のⅢ層の途中から掘り込まれ、竪穴住居の廃絶→暗褐色砂質土層堆積→黒色砂質土層と堆積していく変遷過程での事の様だ。

竪穴と墓壙の方向がある程度一致しているので、まだ竪穴の凹が明確な時期だろうと予想している。

引用しよう。

 

「この土壌のプランは、粘土層上面で確認した面で、長さ約1.8m, 幅0.6mで深さ約35cmの隅丸長方形である。長軸は北東一南西の方向で、12号竪穴の各壁と平行している。土壌迄は中央部に向かってやや傾斜しており、また、南西壁寄りの部分は狭くなっている (Fig. 38, Pl. XX)。」

「 遺物はガラス小玉(Fig. 39-1~26, Pl. XXI-2),コイル状鉄製品(Fig. 39-27~38, PL )、鍔(Fig. 39-39, Pl. XX-3)、短刀(Fig. 39-40, Pl. XXI-1)である。ガラス小玉の出土位置にはかなりの拡がりがあるが、他の遺物は Fig. 38, Pl. XXにもみられるように壙底に密着もしくはそれに近い状態でまとまって出土した。

ガラス小玉は70個前後の出土をみているが、大部分は割れており、粉々に風化しているものも 多かった。大形の白いガラス玉1個を除いて、全て青色系統のガラス玉である。風化の度合いは色合いによって異っており、完形で採集できた13個は、殆んど全てが濃青色の玉だった。ガラス玉の分析にはこの濃青色のガラス玉は含まれていない。白色ガラス玉には、茶色の線模様がつけられている (Fig. 39-26)。大きさは、青色ガラス玉が、直径1.2cm前後、高さが1cm前後で、孔径3mm前後である。白色ガラス玉は直径1.8cm とやや大きい。出土範囲は土壌の南西半分、特にコイル状の鉄製品や短刀が出土した地点に集中している。出土レベルもほぼ同一であった。」

以上である。

小括で前田明代氏は形状と副葬?から墓壙と判断した様だが、骨ら明確にそれを示す物は検出されてはいない模様。

ここで、墓壙?が竪穴が埋没する以前に掘られたと推定している事から、「擦文期の後期の墓は知られておらず、江戸時代以前まで確実に遡れるアイノ墓も知られていない」が、これがそれを埋める材料の一つになるのでは?…としているが、「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」では13〜14世紀となっているので、その後の科学分析らも含めてそう判断されているのだろう。

さて、この墓の被葬者は?

新田栄治氏の論説は下記に引用する。

「墓壙内出土の遺物には玉、垂飾様鉄線螺旋状小球(以下、「垂飾」と略)、鍔、短刀がある。

玉については分析結果にあるように、カリウムを多く含み、銅による発色を示すガラス玉がほとんどであり、きわめて稀な例といわれる。年代、製作地とも決定するには資料不足であり、良好な手がかりとはなりえない。

垂飾は11個と鈕残欠が1個ある。鈕残欠はおそらく、現在鈕を欠失している垂飾のうちのどれかにつくものであろう。垂飾球体部はいずれも保存状態がよく、墓壙内で消滅したものがあるとは考えられないし、また発掘にさいして失ったこともないからである。したがって垂飾の総数に11個であろう。これらはいずれも鉄線をコイル状に巻いて作ったもので、球体は中空である。 作法は下端部を起点として1本の鉄線を右方向に5~7回巻きあげて中空の球体を作り、最後に環状の鈕を作るのである。このことは鈕の部分の鉄線末端部が球体部の上に覆いかぶさっているもの (Fig. 39-30) があることから推定できる。中空の部分には何も入っておらず、鈴のようなそれ自体が発音器であるものとは異なる。金属線を螺旋状に巻く手法はアイヌの耳飾にみられるが、銀、真鍮などで、先に玉がつけてあり、形態的にも機能的にも本例とは全く異なるものであ って、両者の関係を云々できる状態ではない。モヨロ貝塚出土の鈴は構造が全く違うものであり、現在のところ、ライトコロ川口遺跡の周辺において、この種の垂飾はその存在を聞かない。

短刀と鍔については、短刀の鎺元部の大きさよりも鍔の穴のほうが大きく、また短刀柄木質部 の残存部分からみて鍔を装着するようになっておらず、両者は別個のものであり、鍔はこの短刀の装具ではない。短刀は平造、角棟で、ふくらはやや枯れるという短刀にみられるごく普通の特徴をもつ。作りは粗雑で鍛えも粗末である。茎上辺が関より下方に垂れ下っているが、茎が下方に曲った刀子はオホーツク文化に特徴的なものであり、沿海州にみられる靺鞨・女真系の遺物との類似がいわれている(菊池1976)。しかし、靺鞨・女真系、オホーツク文化の曲手刀子の茎形態と、この短刀のそれとは若干の違いがみられ、刀身部の形態も異なり、むしろ日本内地系の短刀に近いようである。刀身の平造は平安時代中期以後は、短刀・脇指にもっとも多くみられるといわれ(佐藤 1966), また、手抜緒で刀身を止めるかわりに目針孔により目釘を用いるようにな るのが平安末期ころであること(佐藤 1966) を考えると、この短刀の上限が推定できよう。

これらの遺物は副葬時どのような原形であったであろうか。出土状況から想定復原してみよう。短刀と剣とは別々のものであり、短刀柄部の上に鍔が置かれた。また柄木質部の保存度はかなり良好であり、関部はほぼ完全に残っているのに対して、刀身には全く木質部らしいものは存在しない。このことを考えると、短刀は抜身の状態で納めたようである。また垂飾は短刀の上に各々がほぼ並んだ状態で、しかもほぼ同じレヴェルにある。これらのことから、垂飾は何かにつけて連ねられたのであり、それが短刀の傍、あるいは短刀の上部に置かれたのであろう。こう考える とき,11個の垂飾を1個ずつ結び下げた帯状のものが目に浮ぶ。腰帯、腰枕ふうのものである。これには鍔もつり下げられていたかもしれない。玉については、短刀・鍔・垂飾付近の群、墓壙南西小口側にある群、墓壙中央に散在するものの大略三群に分れている。玉の散在する状態については遺骸崩壊による移動、土壌の凍結・融解に伴なう移動等、種々の要因を考慮しなければな らないが、短刀・鍔・垂飾とほぼ同じレヴェルにあり、大きな混乱はないものと考えられる。三群はいずれも首飾状の玉装飾が散乱した結果と思えるが、文様のある大形の玉 (Fig. 39-26)を中央にして小玉を連ねた、アイヌの首飾のようなものであったろう。それとともに注意されるの は、垂飾鈕の穴の中に、穴を鈕穴と同一方向に向けて、あたかも連ねたかのような状態で小玉が垂飾と銹着しているものがあることである (Fig. 39-35,38)。これは、腰帯にも玉が装飾とし てつけられていたことを示すものかもしれない。

以上の復原から、玉首飾は墓壙南西側にあることになり、長方形墓壙ともあわせて、頭位は南西、伸展葬と推定できる。

オホーツク海を眼前にして、このように埋葬された人物はどのような人であったか。副葬された垂飾と鍔とをつり下げた腰帯、腰枕が手がかりとなる。

すでに記したように鉄線を螺旋状に巻いた球体の垂飾は類例がみられないため、垂飾自体では比較できない。しかし、帯につり下げた復原形では、これらは互いにぶつかって音を発するものである。鈴や小鐘とは異なるが、金属の発音を重視すればいくつかの関係があると思えるものが、樺太アムール川下流域に分布している。すなわち、金属の垂飾のついた帯である。いずれも民族資料であるが、以下にいくつかの例をあげよう。

樺太  オロッコ、ギリヤーク、カラフト・アイヌにみられる。jappaヤッパ、あるいは janpan ヤンパンという革の腰枕で両端に紐がついている。この腰枕に刀の鍔、金属の輪、鉄片などの種々の金属をつり下げ、両端についた紐を体の前で結ぶ。一種の腰鈴である(鳥居 1924a<全集7 :331>,高橋 1929: 149,山本 1949:43,米村1974:17など)。

アムール川流域,その他   金代にシャーマンが腰に5、6枚の鏡を革帯に下げ、原始的鈴をつけていたという(鳥居 1928<全集9:388-389>)。ゴリドに腰枕ふうの革帯とその両端に紐をつけた腰帯と, この枕部に小鐘,鏡などをたくさんつけたものがある(鳥居 1924a<全集7: 331>,圀下1929:78)。またネグダのシャーマンが金属製の腰鈴や鏡などを腰につける(鳥居 1924 b<全集8:168>)。

これらの例はいずれもシャーマンの服装の主要な部分を構成する付属品であり、帯状のものに金属製の垂飾をつり下げて、揺り動かすことによって発音させるという点において一致している。

シベリア内陸一方、シベリア内陸部ではシャーマンの服装はいずれも上衣、外套に皮革の房状の垂れ下りや、金属製の円盤、鈴、形象物などの多数の金属品を全体につけており 形象物などの多数の金属品を全体につけており(有賀1926,圀下 1929, エアリーデ 1974, フィンダイゼン 1977, Sieroszewski 1902: 320-321, Jochelson 1933, Klementz 1910: 16-17),前記の樺太アムール川流域にみられるものとは全く異なった 類型を示している。ただし、東シベリア、アバカン川流域に居住するハカス族のシャーマンの外 套の例では、背面肩下に一列にコヌス、鈴などをつり下げ、合せて細長い紐状のものを房状に垂下したものもあり (Прокофьеба 1971:69), 金属の垂飾だけからはいちがいにいえない点もある。しかし、大局的には内陸部シャーマンの服装は大量の金属製品を衣服につけるのが通例であり、また衣服だけでなく帽子等にも特別のものがあり、沿海州,樺太方面の例とは明らかに区別される。またライトコロ川口遺跡の地理的位置からいっても、シベリア内陸部との直接的関係を想定するのは困難であろう。

前者を腰帯型、後者を外套型とすれば、ライトコロ川口遺跡の垂飾は腰帯型の垂飾ではなかったかという感が強いのである。樺太方面とのつながりを示すものであろう。民族資料による推定のため不確実性はまぬがれがたいが、北海道内部よりも、樺太方面との関連を考慮すべきである。

ライトコロ川口遺跡の墓壙の副葬品が上記のようなものであるならば、自ずと被葬者の性格も 想定できよう。

シャーマン的な人物が頭を南西に向けて伸展葬で葬られ、頭部右側に抜身の短刀を切先を頭側に向け、刃を内側にして置き、その上、あるいはその傍に腰帯を置いたのであろう。それは12号竪穴と墓壙とが各辺の方向を同じくすること、竪穴埋土において墓壙掘方を確認できなかったことから、12号竪穴廃棄後まもなくのことであった。そして、同時に平安時代末期をさかのぼらない時期でもあったのである。」

以上。

この辺が、螺旋状垂飾が北方、と言うより「樺太との繋がりを示唆」させている論のベースだろう。

坪井正五郎博士の指導を受けた、鳥居龍蔵博士のコレクション、これから昨今言われる「環日本海文化圏」的な話になっていくか。

ただ、鳥居博士は「日朝同祖論」者の様だが…

置いといて…

新田栄治氏の論だと、この「12号竪穴住居内墓壙」は遺構の傾向と共伴の短刀の作りより、

構築上限…平安末迄は遡らない時期…

で、その後。

被葬者は螺旋状垂飾とガラス玉から想定する復元(腰帯)より、

樺太方面との繋がりを持つ人物…

となる。

これら論考の中には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

ここで紹介した「渡辺モデル1972」を作った渡辺仁氏が竪穴住居の使い方らで考察を寄稿している。

敢えてここでは割愛するが、同項紹介前に既にこちらを観ていたが、聞き取り対象が誰であるか…ら迄記述しており、細かいフィールドワークを行う研究者であった事が解る。

新田栄治氏も樺太に言及しているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

ムックリの文化借用らは知られた話であるし、オホーツク文化の源流は「靺鞨系」と言うのも言及されているし、我々も「随時移動はあり、顕著なのは江戸期」と考えるし、アンジェリス&カルバリオ神父は「yezoはテンショとメナシの人々」と書いているし、江戸中期以降の北見方面からの移動伝承は「幕別町史」や活動家第一世代が調べたところ。

特に驚く事ではない。

まして本書発行と同時代の活動家は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

「最近の若い学者は北からの移動説を唱える」と憤っているので、まぁ裏も取れるので、そんな論調が強まっていたのも事実だろう。

国内由来でも樺太由来でもその源流が解れば良いだけて、我々的にはどちらでも良い。

 

如何であろうか?

「ライトコロ川口遺跡」での実績の中の、11号竪穴と12号竪穴に特化して書いてきた。

この後に、各研究が進められたと想像するが、実際の発掘から解る事はこの様に「割と曖昧」だったりする。

興味深い遺物はあれど、構築,廃絶時期や遺物同士の関係性は「曖昧」。

で、割とこの「ライトコロ川口遺跡」や

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

「オネンベツ川西側台地遺跡」らは、重要な位置を占めるが如く各論文で引用される。

ただ、「螺旋状垂飾」にして「(本道での)内耳土鍋」にして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

数ある北海道の中世墓の中では「十数基」しか検出されていないのもまた事実であろう。

もっと全体像…「山や森」の検討も必要なのではないだろうか?

本音は「思っていたより「曖昧」だ」と言う感じである。

とは言え、上記の様な気になる点は、更に掘り進めるキッカケには良い。

色々「原版に遡り」学んでいこうではないか。

 

参考文献:

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」 小野裕子アイヌ文化の成立と変容』 法政大学国際日本研究所 2007.3.31 

「ライトコロ川口遺跡」 東京大学文学部  昭和55.3.25

ヤバい、都じゃないかも…「キ型火葬施設」がある長岡京「西陣町遺跡」はこんなとこなのだが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

さて、前項迄で「中世墓資料集成」を中心に特異性がある「十字型火葬墓(施設)」を探してきた。

で、今のところの実績は…

北海道…

上ノ国町「夷王山墳墓群」
秋田県

大館市「山王岱遺跡」(14~15世紀)

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

千葉県…

市原市「新地遺跡」(15末〜17世紀)

の六ヶ所。

それに類似する「キ型火葬墓(施設)」は、

京都府

長岡京右京区 西陣町遺跡」(11世紀後〜鎌倉期)

ここまでは抽出出来た。

前項で秋田の事例を確認出来たので、今回は京都の「キ型火葬墓(施設)」がそのルーツと成り得るか?…こんな視点で確認していこうと思う。

この「キ型火葬墓(施設)」は「長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」 に記載され、これも「中世墓資料集成 近畿編(1)」で確認。

この火葬施設が検出したのは、右京第130次調査の西陣町遺跡で、宅地造成工事に伴うもの。

長岡天神駅の西方約500m、竹林を含む民家敷地内との事。

では見てみよう。

基本層序は…

Ⅰ…暗灰褐色土(森土)

Ⅱ…淡黄灰色土(竹林客土)

Ⅲ…淡赤褐色土(西側からの流入土)

Ⅳ…黄褐色土(礫混じり)

Ⅴ…黄白色砂礫

Ⅵ…暗赤褐色粘質土(西側からの流入)

Ⅶ…黄褐色砂礫土(同上)

Ⅷ…赤褐色土(同上)

Ⅸ…淡黄褐色土

Ⅹ…暗褐色土

で、竹林以前の土層はⅢ層から下、中世遺構はⅣ層、Ⅵ層に古墳〜中世遺物の包含層がある模様で、これらは西側傾斜上側からの流入。Ⅹ層が平安期の遺構面。

キ型火葬施設は、墳墓SX13001とされる。

「上層遺構面のトレンチ中央やや東よりで検出された長軸をほぼ南北に向ける、平面長方形を呈する焼土壤である。検出面で南北1.85m、東西0.55m、底部で南北1.7m、東西0.45m、深さは0.25mを測り、各辺はほぼ直線的であるが、南辺のみやや丸みを帯びる。又東西の長辺部には、南北幅約0.3m、深さ約0.1m程の半円形の窪みがそれぞれ二ヶ所づつ、計四ヶ所に撃たれている。土壌の壁は長辺部の窪みも含めすべて幅0.1m程で赤色化しており、非常に硬くなっていた。ただし底部に関してはまったく赤色化していない。埋土は2層で、下層の黒色土内からは大量の炭に混じって、人骨片、鉄釘、土師器、瓦器の土器片が出土し、上面には完形の土師器皿が3枚置かれていた。以上の状況からSX13001は火葬を行った施設であることが判る。黒色土上面の土師器にはまったく火を受けた痕跡がないところから、火葬終了後に置かれたものであろう。黒色土内の人骨片は非常に細かく、部位の判明するものはなかったが、北側部分に薄い骨片が、中央から南側部にかけてはやや大きな骨片がみられるところから、北を頭にして火葬されたものと思われる。鉄釘は30数本検出されたが欠損するものが多く、錆も多いため 正確な本数や木棺における使用個所は不明である。又、長辺部に見られる四ヶ所の窪みは、この部分に土壙の長軸に直交する形で木材のようなものをわたし、棺をその上に置いて火葬を行った痕跡と考えられる。おそらく棺を上にあげることにより、土壌自身に通風の機能をもたせて燃焼効率を高めたのであろう。ただ、火葬終了後そのまま当所を墓としたものか、あるいは収骨して他所に埋葬したものかは即断できない。しかしながら、検出面において当土壙付近に黄白色砂礫が薄く敷かれてはいたものの、墓標等の明確な痕跡が見あたらず、又土壙内に遺残する骨片が非常に少量かつ細かいことなどから、後者、すなわち「焼場」としての可能性の方が高いと思われる。」

「土壤内から、土師器皿5個体、瓦器埦片1個体分、鉄釘、人骨片が出土している。このうち 49・50・53の土師器皿3枚は黒色土上面に置かれた状態で、他は黒色上内から破片となってとともに検出された。

土師器皿は、外面に指オサエの凹凸を残す平底気味の底部に、短く外反する口縁部をもち、口縁部外面は一段のヨコナデを施す。口縁端部に外傾する面を有するもの(49-51)と肥厚させておさめるもの (52) に分けられる。53は器壁がやや薄く、平底気味の底部に内彎気味に立ち上がる口縁部をもつものである。平均口径・器高はそれぞれ12.0cm・2.5cmを計り、胎土は精良、色調は52が灰白色系で他はすべて淡褐色系のものである。瓦器塊(54)は、口縁部と底部高台付近の破片であり、摩滅が著しく詳細な観察は困難だが、断面三角形の高台を有し、内彎気味に外上方に立ち上がる口縁部をもつものと考えられる。口縁端部内側には沈線が廻り、 内面にはわずかに横方向の暗文が認められる。土師器皿は、形態的特徴から、平安京左京内膳町遺跡SD345・SK118・SK334出土の土師器皿とほぼ同時期と考えられ、12世紀末~13 世紀初頃の年代が比定できる。

鉄釘は、破片が大半であり完形となるものはない。破片数としては、40数点あるものの、図示し得たものは14個体であり、そのうち釘頭部が確認できたものは8点のみであった。釘の全長は完形品がないため不明であるが、55から9cm前後のものと推察される。断面はいずれも四 形状はまっすぐに伸びるものが大半であるが、直角に曲折するもの (67・68)もあり、67は先端部が曲折するものである。頭部は、方形で平坦に潰れているものが多く、打ち曲げられたもの (61) もある。鉄釘の表面には、サビの浸透により断片的に本質の残存するものが多くみられるが、これから棺材の板目方向や板材の厚さ、組み合わせ状態を復原するには、出土状況がバラバラであったことも合わせ、やや不充分である。少ない木質の木目遺存状態の観察により、出土した鉄釘は4つに分類できる。A類(61・66)は、頭部付近に横方向の木目、それ以下の部分は縦方向の木目が残存するもの。B類 (63)は頭部が縦方向、以下が横方向の木目が残存するもの。C類(59) は横方向のみ、D類(58・65) は縦方向のみの木目が残存するものである。他は遺存状態が悪く、分類は不可能であった。」

「今回検出された焼土城SX13001は、近年類例が増加しつつある中世火葬施設の一例であるが、本例は長辺部2ヶ所に窪みを有しているところに特徴がある。これは検出遺構の項においても述べた如く、この部 この部分に木材などを渡して棺を置き、下の土壌に通風および燃料投入の空 間としての機能をもたせるための施設であったと考えられる。これにより、一部ではあるが、当時の火葬の具体的方法を明らかにし得たといえるだろう。以下、この点を含めてもう少し検討を行ってみたい。

当土壙に渡された木材は、地面と棺との間にある程度の隙間を作り出すことと、火葬中に一 定時間棺を支えていなければならないことから、かなり太いものが必要であったと考えられる。長辺部に見られる窪みの上部幅は、最大で40cm、最小で30cmを測り、これから概ね直径30cm前後の木材が置かれていたと推定される。この様に仮定すれば、地面と棺との間は約20cmとなり、先に推定した通風と燃料投入のためのものとして、ほぼ充分な空間といえるだろう。この様な火葬のための通風施設としては、奈良県榛原町谷畑遺跡・御所市葛城石光山古墳群10号地点の様に土壌の底部を溝状に一段掘り下げ、それを両端に延ばしている例や、天理市柚之内焼土壊の様に斜面を利用して過風孔と満を穿つものなどが見られる。

次に、上に載せられた棺であるが、形態は「餓鬼草子」に見られる様に、現在のものとほぼ変わらない長方形箱形のものであったと思われる。又、大きさは、「吉事略儀」によれば、多くの先例が「長六尺三寸。廣一尺八寸。 高一尺六寸」であったとしている。〜後略」

 

長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」  長岡京市埋蔵文化財センター  昭和60.3.31  より引用…

 

と、言う訳で、遺構状況、出土遺物、火葬のあり方を検討した部分を引用してみた。

被葬者は社会的地位が高いとは考えておらず中世の一般庶民で、同遺跡の東に隣接する開田集落との関係が示唆され、それが13世紀頃であると判明している事から、その墓域である事が推定され、これは土師器の編年と合わせても後ろの時期で一致しているので、矛盾は無い様だ。

よって13世紀、鎌倉期位と判断されている。

以上…

少々ヤバそうなムードである。

纏めてみよう。

①成立…

鎌倉期位となると、

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)と、同等程度、むしろ、

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

は、この「キ型火葬施設」より古い形態となる。

都での中世火葬施設は…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

まだ検出数が少なく、明確ではないにせよ、さすがに200年程度のギャップがあるとなると、現状では秋田の「十字型火葬墓(施設)」より遅い成立で、ルーツとは成り得ない。

②構造差…

基本構造が少々違う様だ。

秋田の場合は、浅い円形らの土壙を掘り、通気孔として十字を掘り下げる。

しかも、途中で「火葬のみ→埋葬込み」と変遷までしている。

しかし、この事例だと「奈良の長方形土壙→I型火葬墓(施設)」の後に続く派生型が想定される。

しかも、棺は横渡しされた丸太の上に持ち上げられ設置と想定される。

どうやら共通なのは「直角方向に開けられた通気孔を持つ」事だけの模様。

 

と言う事は、現状では十字型火葬墓(施設)は、秋田で独自に行われる様になった墓制…こんな可能性が高い事になる。

と、なると、上ノ国「夷王山墳墓群」の十字型火葬墓(施設)は、秋田県北部からの伝播の可能性が上がる事になる。

当然、移住や宗教家や墓守役の移動も考慮せねばなるまい。

概略の歴史的背景は前項の通り。

この分布の「特異性」を鑑みれば、かなり堅い線ではないだろうか?

まぁこれも、北方や大陸にルーツを探す事も有りではあるが、その場合でも秋田→上ノ国…この線は崩れないと思われるが。

元々、夷王山墳墓群でもこの十字型火葬墓(施設)は、本州系の人々と推測されているので、別に問題にもならないだろう。

アイノ墓とされる「伸展葬+厚葬」の土層墓より数が多い→秋田系の人々の方が人口インパクトは高いとは言えそうである。

 

如何であろうか?

まぁ、15世紀には檜山に「安東政季」が入る。

大殿と関連が深い人々が多数移住したとしても問題は無かろう。

そして、蠣崎氏の安東家臣団内での身分が確定するのは16世紀になってから。

それより後になる。

こんな話が出てくるから、北海道史は面白い。

東北から見るからこそ見えるものもある。

十字型火葬墓(施設)のルーツ探しはまだ続く…

 

参考文献:

長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」  長岡京市埋蔵文化財センター  昭和60.3.31

これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」

さて、こちらを前項として…

直前で書いた様に、論文,著書を読んで引っ掛かりや疑問,違和感を感じたら、原版迄遡る…これは我々のモットー。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

こんな感じだ。

なら前項で感じた違和感でも、同様に実践しようではないか。

違和感を感じた部分を再度引用してみよう。

「「シンポジウム アイヌ』の歴史認識の、もう一 つの重大な問題性は、同様の論理を、過去の文化集団だけでなく、近現代のアイヌ文化にもあてはめようとすることである。そこでは、近現代に大きな変容を被ったアイヌ文化・民族は、もはや「真正のアイヌ文化」とはみなされなくなってしまう。

「シンポジウム アイヌ」と同年に発表され、今日も大きな影響力を有する渡辺の学説にも、 同様の課題を指摘できる。渡辺は、「アイヌ文化」とは「民族学的に周知のアイヌの文化」「民族誌的現在に於けるアイヌの文化」であるとして、 「アイヌ民族アイヌ民族たらじめてある中心的文化要素は何か」「それがなければアイヌとはいへなくなるような基本的文化要素は何か」と問う。そして、「アイヌ文化の中核(真髄)」を、 「クマ祭文化複合体」と規定する。

和人研究者が「典型的なアイヌ文化」「アイヌ 文化の本質」を抽出し、定義しようとする行為に対しては、佐々木昌雄による厳しい批判がある。 佐々木は、「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」とまず考えているのだということである」とし、「〈アイヌ〉だけを厳密に規定しようとして我が身(シャモ)がスポッと抜けおちているような発想」として、「日本史」 と「アイヌ史」とのあいだの不均衡、非対称性を鋭く指摘した。

上記の議論は、現実に生きる人々、現に存在する集団を、他者が「定義」しようとすることの権力性をあらわにしている。

1989年採択のILO169号条約第一条2項は、先住民族の集団性に関する基本的な判断基準として、自己認識(self-identification)を重視する。また、2007年の国連宣言に結実する、コーボ報告書(1983)の論理や、先住民作業部会(WGIP)の議論も、「定義は本来、先住民族自身に委ねられるべきもので、自らを先住民族と決定する権利が先住民族に認められなければならない」ことを強調する。今日、先住民族において、その「定義」や、集団のメンバーシップの決定は、当事者による自己決定権の重要な一部としてとらえられるようになっている。考古学や歴史学も、こうした現代社会の動向に向き合い、対話していくことが求められる。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀 『季刊考古学別冊42 北海道考古学の最前線』 2023.6.25 より引用…

 

違和感を感じたのは…

①文化成立解明の論文が、何故か民族論にすり替わる点…

②「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」…と言う揶揄…

③我々が先に読んでいる、活動家第一世代の主張との異差…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

古いアイノと新しいアイノ、更には観光アイノを分けて考えて欲しい…これが第一世代の主張。

④学術的探求に、政治的判断を持ち込んでいないか?         etc…

我々がド素人で何が問題か?理解出来ないだけなので、こんな違和感を持つのか?…こう顧みてみるなら、当然その問題視された「渡辺仁 1972」を確認すりゃ良いだけの事。

この論文は、何度か当ブログにも引用している『考古学雑誌』に掲載されている。

公立図書館でも(全巻とはいかないが)、普通に所蔵されているので、読もうと思えば普通に読める。

さて、まずは背景。

本論文が出されたのは1972年だが…当時の世相の一部を改めて貼っておく。

野幌森林公園開園が1968年、北海道開拓記念館開館,百年記念塔一般公開が1971年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

道庁爆破事件が1976年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

この主張も1976年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

丁度、この開道百年記念行事の一環で式典らが実施された直後に発表された論文だ。

又、1970年初から赤軍派中核派ら過激派の活動が活発化して、浅間山荘事件が1972年、東アジア反日武装戦線による爆破事件が1974年から、そして直接の関与はないとされるが精神的主柱とされた太田龍氏の「アイヌ革命論」が1973年である。

何故、ここをクローズアップせねばならなくなるのか?

箕島氏が民族論を出す以上、この当時の世相や「アイヌ革命論」は抜く訳にはいかなくなる。

政治的判断は世相に左右される。

佐々木昌雄氏の反論も、こんな世相の中で行われたのは事実。

我々的には、触れずにしらばっくれる訳にはいくまい。

切り離すなら切り離す…

接続するなら全て接続…

当然の事だ。

では、冒頭から引用してみよう。

アイヌ文化の起原の問題が広く民族・歴史、考古諸学の分野にまたがる問題であることはここに改めて論ずるまでもな からう。しかし従来の研究の実際面をふりかへつてみると、それらの各分野の研究がそれ自身の分野だけに限られる傾向 が強く、相互の接点を追求し、或は進んで他分野まで統合するやうな研究は乏しかった。概して言へば、それら諸分野の 研究は通常は互にすれ違ふか、または断絶を余儀なくされてきた。例へば考古学の側では先史時代からの石器土器等を指 標にして時代の新しい方へと起原を追ひさがってくる。民族学の側ではアイヌの社会組織とか言語等の特徴を指標にし て、民族史的復原法によつて、起原を追ひあげてゆく。このやうな状態だから初めから両アプローチには共通の言語らし いものが存在しなかつたといつてもよい。とにかく従来のすれ違ひや断絶を克服するためには、先づ初めに、過去現代を通じて相互に而も実際に追跡可能な指標を探し求めなければならない。要するにアイヌ文化といふものを、民族、歴史、 考古諸学共通の視点乃至立場で、いかなる面からどのやうにとらへるかといふことである。そこでこの論文では、アイヌ文化の起原或は成立を追求する方法として次の如き新しい試みを行なった。その要点は、(一)アイヌ文化を個々別々の文化要素としてではなく、まとまった一群の代表的文化要素群としてとらへ、また追跡すること、(二)アイヌ文化を物質的側面から、或は物質面とのつながりに於てとらへること、である。」

アイヌ文化の成立  −民族・歴史・考古諸学の合流点−」  渡辺仁  『考古学雑誌第58巻3号』  より引用…

「シンポジウム アイヌ」もそうなのだが、百年記念行事らで北海道に対し視線が集まる時期であり、そんな理由で論文が出されたりシンポジウム開催らが行われた事は想像に易しい。

引用文にあるように、それまで研究は考古なら考古、民俗なら民俗とバラバラに検討され、考古は時代を下り民俗は時代を遡る…こんな風に接点が希薄だったと渡辺氏は述べる。

視点がそれぞれなのだから、それぞれの点なり線なりを結びつける「定義」が必要になる。

そこで渡辺氏は、

「アイノ文化の中心的文化要素は何か?」

「それが無ければアイノ文化と言えなくなる文化要素は何か?」

「アイノ文化の屋台骨又は大黒柱たる要素は何か?」

これを検討した様だ。

勿論、文化要素は単一ではない。

それでまずは、それぞれ本州文化と異差がありそうな個別のアイテムや要素を抽出して並べ配列、その中心にあるのが何か?を導きだそうとした。

抽出されたのは、

クマ祭…

神窓(住居の宗教的構造)…

クマ猟…

マッポとスルク(狩猟具)…

毛皮交易…

イコロ(宝物→資産)…

イナウとマキリ…

シネ・イクトバ集団(家紋で括られる集団)…

サケ漁とコタン…

マレック(漁具)…

ここで渡辺氏が辿り着いた「中核的,真髄的要素」が、「熊送り」をベースとする「クマ祭文化複合体」。

突き詰める過程はこんな感じである。

・熊送りには、獲った熊or育てた子熊のどちらを送るかで文化圏が分かれる。

アイノ文化は後者…

・住居の神窓は神聖視されるが、この住居構造は「飼育型クマ祭」文化圏より広い…

・子熊を得る為の熊猟の狩猟具の発展度…

・熊猟の発展度を即する要素は毛皮交易…

・毛皮の対価で得られる資産要素…

・同様に得る鉄器と、それで加工される宗教具…

・その宗教具に描かれた家紋的刻線とクマ祭や熊猟を共同作業する集団要素…

・集団要素を維持する為の食料要素としての鮭漁と定住性、そして猟具…

これらからはそれまでの渡辺氏の研究や論文でそれぞれの要素が指摘されていて、それらから集大成的に導き出された文化構造の三元図がこれになる。

・社会的側面…「定住性集落形成」

・流通,経済的側面…「金属器の普及」

・宗教的側面…「飼育型クマ祭の確立」

で、この三要素がそれぞれの変遷過程を経て、揃った段階が「クマ祭文化が成立」し、それを民俗,歴史,考古の各分野から追い求めれば良いと提言している論文なのだ。

特に渡辺氏が言及しているのが、「形成段階は考古学的証拠による追求が可能」としている部分や、土器終焉を指標とした時代区分「アイノ文化時代」とこれの区別は明確に認識すべきだと結語で述べる。

如何だろうか?

実はSNS上でもこの渡辺仁氏の考え方について話をさせて戴いた事がある。

このモデルだと、アイノ文化完成は「飼育型クマ祭」開始後。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

最新刊でも熊送りのルーツをオホーツク文化に見るのは問題点があり、文献上で「飼育型クマ祭」が登場するのは18世紀、さらにそれは現存する伝世品のガラス玉の調査年代と概ね一致。

当初、我々が文化完成に必要な要素としてきたのが「北前船就航」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/175633

「「江戸のフィールドワーカーが北海道で見た物」あとがき…やはり「北前船辺り迄」」…

また、文化拡大の変化点として挙げているのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

商場知行→場所請負への変遷による「雇用創出」。

この辺も、大体タイミングとして一致してくる。

我々の考え,見方を渡辺モデル1972に当て嵌めても、結果はほぼ同様になるだろう。

 

ここで、関根氏の渡辺氏に対する評価はこちら。

「駒井の後に東京大学文学部考古学研究室の教授を務めた渡辺仁は生態人類学を専門とする。渡辺は生態人類学が構築したモデルを考古学的事象に適用することで、縄文社会が階層化社会であることを証明しようと試みた(渡辺仁一九九○「縄文式階層化社会」六興出版)。すなわちアイヌをはじめとする北太平洋沿岸の定住型狩猟採集民の社会階層化、工芸・技術の高度化および特殊化を調査し、階層化した狩猟採取社会に共通する構造モデルをつくり、それに照らしあわせて縄文社会を階層化した社会と 結論づけたのである。

渡辺自身も北海道でのフィールド調査を手がけているが 、彼の関心は目の前のアイヌ民族ではなく、北太平洋の狩猟採集民全般やその先の縄文人に向けられていたといってよいだろう。渡辺にとってア イヌ社会は縄文社会をうつす鏡であって、民族調査で得られたデータはアイヌを研究するためではなく縄文を理解するための「手段」として使われた。それは、琉球が古代日本をうつす鏡と考えられ、 日本文化研究の「手段」として言語学民俗学による琉球研究がおこなわれたのと同じ構図と言ってよいだろう。」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

SNS上の話でも、渡辺氏の最終目標は縄文での社会構造の解明で、アイノ文化形成,成立は、その過程の一つの研究だった様で、縄文の社会構造に関してはあまり精度よくモデル化出来てはいない様な事を教えて戴いた。

当然と言えば当然で、関根氏の指摘にもある様に、渡辺氏は北海道へのフィールドワークで聞き取りをして民俗要素のベースを研究していった。

熊送りらが行われた時代からそんに離れた時代ではないし、文献補完も可能。

だが、縄文時代となると聞き取り調査は不能な上ほぼ考古学からの想像,仮説に基づく事になるし、現実発掘調査はバブルに向かう1980年代に活発化、そこから地道な研究が進められ今日に至る。

渡辺氏の手元のデータで抽出出来る事は限られていたであろうから差異が出てくるのも当たり前の事だった事になる。

縄文とアイノ文化でのモデル精度の違いはこの辺から来るんだろう。

 

さて、如何であろうか?

敢えて、渡辺氏の他の論文を引用する必要はなさそうだ。

民俗要素抽出にフィールドワークによる聞き取り調査が使われた事は関根氏が指摘している。

他の論文には、誰からどんな話を聞いたか?らも記述がある。

そして、この「渡辺モデル1972」に考古成果を当て嵌めると、社会,経済,宗教を3視点から文化形成過程が導き出せる訳だ。

渡辺氏は上記の通り、何時からどの様に…こんな考古成果を当て嵌める行為は全く行ってはいない。

モデル化しただけ。

故に政治的判断によるヘイトのレッテル貼りも不可能。

ここで、冒頭の社会背景を思い出して戴きたい。

百年記念行事でクローズアップされた事で各研究が進み、定義研究の話迄至る。

ボチボチ各研究視点の成果統合の兆しは出ていた訳だ。

ここで、関根氏も触れている「社会活動の活発化」…と言うより、過激派の活発化でそれらは尻窄みになっていく。

当然、過激派寄りの意見も出てきて、「政治的判断による論へ論点すり替えざるをえなくなった」…この辺迄は想像に易しい。

この成功のせいか、現在でも反論できなくなると論点すり替えは巷でよく見る。

江戸期に文化完成となると、従来から言われる「先住性」とやらに問題も出る。

箕島氏指摘の「自認」の話も…

いやいや、その辺は全く次元の違う話である。

筆者の様に「エミシの末裔」を自認しても、別に文化形成過程を学ぶ者も居るし、アイノ文化の源流には筆者の先祖たる「エミシ部分の影響」がある。

血統的には「ご近所さんの血を引く」人は居る訳で。

それに加賀家文書一連で述べた通り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005

「江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録」…

既に幕府や東北諸藩から労働力の担い手として「戸籍登録」され、場所請負人へ貸出された人材。

且つ本州以西同様の「宗門改」対象者。

この段階で同じ国民としてのベースが出来ている。

極右主義者の「侵略者」なんて話は馬鹿げた話…まぁロシアの意図により移住していない限りだが。

ちゃんとプロセスは経ている。

ましてや明治からの移住なら、何の問題も無かろう。

「夷狄」らの表現は既に幕末で行ってはいない。

土着した人「土人」と表現が改められているのでは?

そう考えれば、一連の撫育や保護法は、一種の貧困対策として行われたと解るのでは?

「旧土人保護法」の条文を見れば辻褄は合う。

故に、吉田菊太郎翁始めとした活動家第一世代はあんな主張をしていた…大体辻褄はあうし、1970年代の状況と重ねても矛盾は出ない。

大体、「多民族が設定した定義が〜」なぞ、通じないと思うが。

概ねの文化論は欧米式研究から生まれた物。

ついでに言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111

「何故、古書記載の「アイノ」ではなく、「アイヌ」なのか…名付け親「ジョン・バチェラー遺稿」を読んでみる」…

外国人であるジョン・バチェラーが私的に作った呼称を有り難く使っているのは何故なのだ?

本ブログでは古書記録に基づき「アイノ」としている。

ダブル・スタンダードにはしない。

毎度言っている話…「研究によるアップデート」は必要。

 

参考文献:

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀 『季刊考古学別冊42 北海道考古学の最前線』 2023.6.25 

アイヌ文化の成立  −民族・歴史・考古諸学の合流点−」  渡辺仁  『考古学雑誌第58巻3号』  

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15