「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

直接の前項はこちら。

そして、関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

全国の中世墓の動向。

以前から考えてはいたが、石積探しと中世墓資料確認で非常に手間が嵩むのが解っていたので躊躇もしていられなくなったので、着手してみた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

「北海道弾丸ツアー第三段、「静内篇」…どうせ見るなら本命級「シベチャリチャシ」!だが、本当に砦なのか?」…

チャシである。

今迄も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631

羽黒山蝦夷館」とは?…立地らに対する考察の備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302

「土木,建築視点でも、似たものならここにもある…「伊勢堂垈遺跡」にある古代~中世の空堀跡、そして…」…

東北には蝦夷館と言われた似たものはあると書いてきた。

だが、ピンと来ない方はそれを見て「本州にもチャシがある」などとのたまわるのだが、時系列的には東北の防御性環壕集落が先。

ならこの際そんな「幻想」はぶち壊した方が良いだろう。

敢えて北海道式のチャシ区分に当て嵌めて北東北の中世城館を区分して数値化をしてみようではないか。

石積みや中世城館では、文化が北上する様が見えた。

チャシも中世城館も「砦状構造物」と一括にして区分していき、同様に文化の北上の様が描き出されたら文句もあるまい。

数値化をするには「定義」が必要。

必ず主観は入るが、物差しが無ければ主観で中身がブレるからだ。

①資料は各県教育委員会発行の中世城館資料と「北海道のチャシ」を使用。

但し、「北海道のチャシ」には道南の中世城館は記事が無いので「日本城郭大系第一巻  北海道・沖縄」から引っ張る。

ここで穩内館ら発掘で防御性環壕集落と判断されたものや五稜郭,戸切地陣屋ら近代城郭は除外。

当然ながら、中世以前の「紫波城」ら古代城柵も除外。

古い資料と思われるかも知れないが、各都道府県で定期的に中世城館の状況確認は行われているが、劇的にこれら城館登録数が増える事は無いので、概要を見るには十分だろう。

②下記定義で分ける。

盛岡城の様な「防塁としての石垣,水堀」を持つ物は近世城郭とする。

・尾根筋に複郭や3〜4の連郭を持つ物、畝状竪堀群や複雑な構造を持つ物、平地で水堀を巡らす屋敷跡らを中世城館とする。

まずはここまでで中世城館と蝦夷館,チャシを区分…

・比較的に構造が簡単な物は、

これを参考に、「丘先式」「面崖式」「丘頂式,孤島式」に振り分けた。

尚、北海道は「北海道のチャシ」で河野広道博士の「丘頂式,孤島式」を分別しているが、現状纏めている様なので纏めた。

北東北は図示された物で判断した。

実際の登録数は上記より今回のカウントより多いが、形が解らないなら分類不能。それでも各県数百確認出来るので、概要を確認する「抜き取り数」には十分だろう。

迷った場合は両方にカウントする。これは北海道の資料上やられているので準じた。

③各道県毎に振り分けても何がなんだか解らなくなるのは、既に石積みや中世墓で経験済。よって、

・北海道

道南

西蝦夷地+胆振,日高…口蝦夷領域

宗谷〜オホーツク,十勝以東…テンショ,メナシ衆(奥蝦夷)領域

・青森

津軽

南部

・秋田

沿岸

内陸北

内陸南

・岩手

戸の地域

岩手〜北上周辺

閉伊

磐井ら旧伊達領ら

でそれぞれ確認していく。

こんな風にした。

基本的には独断と偏見だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

自分で「定義」と言いつつ、ルールを決めず分類なぞ許されるハズもない。

と、言う訳で結果はこうなる。

では、中身を検討してみよう。

①中世城館率…

・北海道は道南でしか中世城館と登録されてはいないので0になる。

道南の40%は小計の数値から鑑みるとむしろチャシ登録された物が少ないとも見える。

・青森はそれぞれ30%程度。

・秋田は内陸北では青森同等だが、南を含める沿岸や内陸南では50〜60%迄跳ね上がる。

・岩手は南に下れば下る程に中世城館率が跳ね上がる。

地図で示すと、

赤…8割以上

紫…5割以上

青…2割以上

緑…2割未満…

とすればこうなる。

見事なもんで。

ここまで明確に出るとは思わなかったが、見事に傾向が出ている。

ここで注意が必要と考える事だが、こと青森での中世城館率が高い町村には共通点がある。それは数的に浪岡周辺や三八地域の様に、鎌倉御家人南北朝武将らが入ったと解る地域にそれは偏る事だ。

平賀町(現平川市)「新館城」。

坂上田村麻呂は眉唾臭いが、郭や堀跡はあるが「平城」だと言う。

城と言うよりはむしろ政治を司る屋敷跡っぽいイメージではないか?

郭はあれど比高差1〜2m…こんなケースもあり、全体の中世城館率を底上げしている。

それらから離れると単郭らの簡単な構造の物が増える…と言う事は、在地の人々が構築したとも考えられるだろう。

こんなのを見ると興味深い。

同じ秋田の鳥海町(現由利本荘市)だが、

上の「花見館」なら先丘式だろうが、「根井中後山館」までになると郭が増え、竪堀迄出現してくる。

近隣地区でもこんな、単郭→複郭化→規模拡大→複雑化…の様なプロセスはざっとではあるが見えそうだ。

こんな構造物は、

・必要となる要因の有無

・構築者が安定的に運用可能か?

・構築費用の捻出の可否

・構築する為の人員確保

・構築技術伝播の為の情報有無

これらで可否が決まるであろうから、それら背景を持つ者が必要に応じてそんなプロセスを経たとも言えるのではないだろうか。

現に戦国大名化した安東氏は「檜山城」に

「脇本城」…

政権安定してからは、山城さえ止めて最大交易拠点の「湊城」を改修。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/19/224356

「北海道と南部方面,中央政権との交流、そして安東氏vs南部氏の抗争しなければならぬ理由?…「尾駮の牧」研究から検証する為の備忘録」…

戦う必然、築城,改修費用と人員確保を可能とする財力、これらがあったからこそこんな馬鹿デカい構造物を築けたと言う事だろう。

松前大館」にしても元々記録では安東氏一族の下国定季の居城。

南部氏にしても「三戸城」。

財力や権力を持つから可能な事。

 

②北海道式区分での比較…

北海道で「その他」に区分された3基を除き、

・丘先式

舌状台地や伸びた尾根筋の先端に郭を置き、堀で切り離す。

・面崖式

川筋の段丘らの断崖上部に堀,土塁等で隔絶部分を築く。

・独立丘陵一つ、又は丘陵尾根筋の頂点部分を堀,土塁等で隔絶する。

こう定義して上記カウントしている。

これはどう地形を利用するか?がまま出てくるだろう。

低地帯に独立丘陵が無ければ「丘頂式,孤島式」はムリ。

つまり、それなりの平地が無ければ成立しない。

対して「面崖式」は、河原や海を望める様な台地が無いと成立しない。

より広い平地が必要となるのは「丘頂式,孤島式」→「丘先式」→「面崖式」ではないだろうか?。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

「防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?」…

丘陵をそのまま一つ使う、清原氏の「大鳥井山柵」はある意味「丘頂式,孤島式」の行き過ぎたパターン若しくはルーツであろうし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

「防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?」…

安倍氏の「鳥海柵」は北上川河川敷を望む丘陵の崖を他の城柵と連携し監視出来るので、ある意味「面崖式」の行き過ぎたパターン又はルーツと言えるかも知れない。

なら「丘頂式,孤島式」の比率を地図で示すと、

赤…8割以上

紫…5割以上

青…2割以上

緑…2割未満…

とすればこうなる。

岩手の閉伊地区は少々意外だが、秋田の内陸南部はそれこそ「大鳥井山柵」のある地故に納得である。

ここで…青森の旧南部地域だが、青マーキングしているが21%と、他の東北の地域より低い。

で、これを北海道と比べて欲しい。

津軽平野を持つ割に、

・旧津軽と道南はほぼ同じ構成…

・旧南部と西蝦夷地+胆振,日高はほぼ同じ構成…

になっている。

これ、本当に地形だけのせいであろうか?

確かに津軽平野では中世城館化は進んでおり、単郭の物は西浜や外ヶ浜ら丘陵に多いのは確かではある。

ただ、今まで確認してきた、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

墓制の確認や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

人の移動やアクセス先を鑑みる、

そして、上記の様な中世城館率のグラデーションを見ると、単に地形だけの差とも思えなくなってくる。

何故なら、「何故そこに砦状構造物を築くのか?」と言う発想点に関わるからだ。

この「発想点」こそ、文化そのものだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…

それより前時代のこんな話と重ね合わせると、

人的交流…旧南部、つまり糠部側…

交易的交易…津軽側…

こんな推定がなされている訳で。

と、北海道のテンショ,メナシ地域での特徴は他の地域と少々違い、「丘先式と面崖式の比率がほぼ同等」と言う事。

つまり川筋や海に面する場所に構築する事に特化しているとも考えられよう。

特異と言えば特徴的でもある。

単に地形だけで決められた訳ではなく、構築コンセプト…発想点の差もあり得るだろうと思われる。

 

③畝状竪堀群…

実は、この「確認作業」を始めた段階で、面白い事例がSNS上に上がっていた。

中〜近世城館遺跡の第一人者、中井均教授のポストである。

https://twitter.com/shirojiichan/status/1778407547709567429?t=FW77IvUBvAJkm4W9AarQBQ&s=19

北海道のオコタヌンベツチャシに畝状竪堀群を確認したと。

実は先に石積み探しで秋田にこれがあるのは知っていた。

折角見つけるたポストなので、これも当たってみようと。

この「畝状竪堀群」とはこんなもの。

これは秋田の羽後町「館山館」。

このマーキングの部分がそれで、登る方向を規制する事が出来る。

で、図示されたものを確認する限り、

秋田沿岸…12

秋田内陸(北)…0

秋田内陸(南)…17

で、沿岸も北は能代二ツ井に4箇所あるのみと限定され、後は中央に3箇所、由利本荘市で5箇所、圧倒的に南に偏る。

では青森と岩手は?

見た限りでは無い。

つまりこの畝状竪堀群は、単純に奥大道ら陸路沿いに北上,伝播した訳では無いと言う事になる。

では、このオコタヌンベツチャシに畝状竪堀群を伝播したのは誰か?

ここは試掘されており、資料を入手した。

位置は白糠郡音別町(現釧路市)。

「出土遺物は、骨角器・石器・金属器などが出土しているが土器文化の痕跡は全 くみられない。チャシコツ丘頂の平坦面の土壤層は、表土、火山灰層,黑色土,黑褐色土,褐色土となっており褐色土が基底層をなしている。

褐色土層に至るまでの土層は極めて薄く中央部では20cm内外である。

遺物の出土状況について注目されるのは、骨角器が炉址周辺から集中して出ていることで、骨角器の中には焼けて黒く炭化しているものが多い。」

白糠郡音別町オコタヌンベツチャシコツの遺物」 富永慶一  『北海道考古学 第7輯』 北海道考古学会  昭和46.3.31 より引用…

焼けて尖らせた骨角器、砥石や算盤の玉型ら石器、金属器は刀(タシロ?)と船釘とある。

出土土層や位置は記載なく、チャシ運用年代と合致するか?は不明の様だ。

黒色土層の上には火山灰層…

これで被覆されているなら、それ以前に廃絶されているのだろうが、この火山灰は何?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

一連紹介しているユクエピラチャシでは1300年代のMe-aらで被覆され、その機能を止めている。

同様なら、

・構築はそれ以前…

・後発者が追加で畝状竪堀群を施した…

と言う事になるか。

何せ遺物に石器を伴うので、オリジナルが新しい時代の物とは考え難いのではないだろうか?

それ以後の発掘報告は見つけていない。

そういえば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…

フリース船隊航海記録に登場する「白糠」は、砂金場として紹介されるが…

関連はどうであろうか?

 

さて、如何であろうか?

この位傾向が見えれば、北海道独自のものではないと解って戴けるであろうし、構築年代を鑑みれば大鳥井山柵や鳥海柵がある以上東北からの技術伝播であろうし、わざわざ北方起源を唱える必要も無いし、畝状竪堀群を考慮すれば北東北以外の技術伝播者も居るし、それらは中世墓や石積みの件と相対論,特異点上でも合致してくるであろう。

何も特異点と捉える必然は無いだろうし、東北の蝦夷館を見て「アイノ文化のチャシだ〜」などと言うのが如何にナンセンスなのか解って戴けるのではないだろうか?

悪いが「夢の見過ぎ」ではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

'70s以降の研究状況が妙な方向に向かっていたのが気になるのは我々グループだけではあるまい。

蝦夷→アイノ」の直訳をするならちゃんと東北との関連を見て、北方由来か?本州由来か?検討すべきだと思うのだが。

我々はそれをやっているに過ぎない。

 

参考文献:

「よみかえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」 (財)アイヌ文化振興・研究推進機構  2001.6.2

「北海道のチャシ」  北海道文化財保護協会  昭和58.3月

「日本城郭大系第一巻  北海道・沖縄」 新人物往来社  昭和55.5.15

青森県の中世城館」 青森県教育委員会  昭和58.3.31

秋田県の中世城館」 秋田県文化財保護協会  昭和58.8月

岩手県中世城館跡 分布調査報告書」 岩手県文化財保護協会  昭和61.3月

白糠郡音別町オコタヌンベツチャシコツの遺物」 富永慶一  『北海道考古学 第7輯』 北海道考古学会  昭和46.3.31

「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

さて、これを前項とする。

 

ここ最近の論文,文献読みで、筆者の大好物が複数引っ掛かる遺跡があった。

一つ目の引っ掛かりは「螺旋状垂飾」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

「・常呂町ライトコロ川口遺跡 13 ~ 14世紀  11点 墓(廃絶した擦文竪穴住居址内に造成。ガラス玉約70点)」

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 より引用…

そして二つ目の引っ掛かりは前項より…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

「現時点では、十四世紀中葉~十六世紀中葉以前とされる鉄鍋のさらに個別的な年代は得られていないので、ライトコロ川口十一号上層遺構における内耳土鍋、同鉄鍋、そして機能強化を窺わせる結頭の存在から十五世紀前集前後にはアイヌ文化が道東部においても確立していたと考える。」

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」 小野裕子アイヌ文化の成立と変容』 法政大学国際日本研究所 2007.3.31 より引用…

「螺旋状垂飾」に「内耳土鍋と内耳鉄鍋の共伴」があるという「ライトコロ川口遺跡」だ。

更に臭うのは、

・擦文の竪穴住居に更に掘り込んだ墓…

・十一号「上層」遺構の「上層」って何?

である。

なら、また入手して確認せねばなるまい。

と言う訳で、これも原版へ遡り報告しよう。

 

発掘したのは東京大学のチーム。

1970年代初頭の常呂周辺の発掘調査の延長上で偶然見つかったもので、初期調査段階では標高2m程度と低い為に遺跡はまず無いものと考えられていた様で。

立地はライトコロ川がサロマ湖へ注ぐ河口の西側。

では、基本層序を。

Ⅰ…表土…10~15cm

Ⅱ…粘土層…10~20cm

Ⅲ…粘土と砂が互層で繰り返す→これが位置により複雑のようで、詳細は各遺構毎になっている。

このⅢ層の粘土,砂の互層は、近隣の他の遺跡でも検出しており、風による堆積の砂層と水による堆積の土層が堆積を繰り返していたとしている。

たまたま1975年調査時に台風6号により石狩川水系が大洪水を起こした様だが、そのおり降雨した調査区内の近隣に土層露頭がある竪穴で1cm程度の粘土層が形成された事があった模様で、完全に水没しなくとも砂層と粘土層の互層が出来上がる様が見れた様だ。

標高2m程度と言う事は降雨のみならず海水でも起きうるのだろう。

こんな特殊性を持った地域の様だが、

擦文期の竪穴住居跡が13基、時期不明(擦文土器と考えられる土器片有りだが明確に判断出来る形で残らず)の竪穴跡が1基検出されている。

竪穴住居は概ね三軒程度で時間差がある様で、全ての竪穴が同時代に同時に存在した訳ではない様だ。

発掘参加した藤本強氏による藤本編年では、共伴した擦文土器は擦文後期〜後期後葉だとの事。

ここで、上記「臭う」引っ掛かりの意味が解った。

住居に掘り込んだ墓、上層遺構、とは「竪穴住居廃絶→土層堆積→その後に再利用」と言う意味で、竪穴住居の使用者と墓を掘った人や上層遺構(送り場と推定)を作った人との関連性を示す物証は無いようだ。

では、個別に各遺構を見てみよう。

 

では、小野氏が指摘した「上層遺構」を持つ「11号竪穴」から。

発掘前段階で竪穴による凹みは目視で解った様だ。

覆土の基本層序は

Ⅰ…表土

Ⅱ…砂層(最大厚60cm以上)

Ⅲ…粘土層

Ⅳ…黒色砂質土層→竪穴底面

となるが、上図の土層断面の様に、Ⅱ層には褐色土や粘土層が複雑に重なっており、それらは水を被る度に形成されたと推定している様だ。

ここで「Ⅲ…粘土層」の下部に魚骨,獣骨,炭化物,骨角製品を含む灰黒色砂層がある。

これが送り場を想定した「上層遺構」と言われる部分。

竪穴凹地を利用して北東側から最大6.8×4.4mの範囲で"送られた"と記述され、竪穴凹地のほぼ中央に100×85cmの円形に近い焼土がある。

検出した動物遺存体はこの通り。

さてでは、本命…共伴した内耳鉄鍋と内耳土鍋を見てみよう。

赤マークが「内耳鉄鍋」片…

紫マークが「内耳土鍋No.1」片…

緑マークが「内耳土鍋No.2」片…

残念ながら、完形は無し。

見慣れた「燕尾型回頭銛頭」を含めた骨角器製品、鈎状鉄製品ら同様、この「上層遺構」で検出される。

ハッキリ共伴と記述されるが、鉄鍋は口縁部の破片のみで、内耳の痕跡等は無い…少々期待ハズレである。

と、内耳土鍋であるが、引用してみよう。

 

「内耳土器(Fig.31-1-2. PL. XVII-2.3)

Fig. 31-1は推定復元したもので、サンプル用ビットのチ・ル・オの周辺から出土している。口径16.8cm、高さ8.5cmと推定され、器壁は1cmほどである。内耳は欠失しているが、内耳付設部の貼付粘土の状態から横耳式の内耳土器と考えられる。外面は、粘土帯を指頭で押圧しており、器面の凹凸が著しい。また笹の葉を思わせる植物質の短い圧痕が処々にみられる。ヘラの使用は明確ではないが、わずかに擦痕かま横走する。他に表面に層状の剝落がみられるが、器面強化のために薄い粘土板を貼付した部位の剝落と考えられる。成形は内面の方がよりていねいである。胎土には多量に砂礫を含んでおり焼成は極めて悪い。暗灰色である。 口縁部外面にスス状の物質が黒く付着している。

Fig. 31-2は、魚骨層より上層の出土であるので、本遺構に伴うかどうか不明である。胎土に少量の砂を含み前者より良好である。灰黄色の胎土であるが、焼き上がりは全体的に灰黒色である。ひじょうに細かな絹雲母(あるいは石英)を少し含んでおり、関東地方の中近世のほうろく を想わせる焼きである。内耳は縦耳式である。」

 

さて、ガチで気になる点を羅列する。

①覆土…

何気にスルー気味に書いていたが、先の断面図を確認戴けたであろうか?

覆土中に「白色火山灰」が検出される。

だが何故か、この火山灰には全く触れていない。

この火山灰は何?

明らかにⅡ層…砂層途中にあり「上層遺構」より上、つまり遺構下限が推定出来るハズなのだが。

何故触れぬのか…不思議である。

②内耳鉄鍋…

どうも全くの破片で、内耳鉄鍋であるとハッキリしないと思うのだが。

何故これが重要なのか?

小野氏の指摘では、この内耳鉄鍋?と内耳土鍋の共伴が「擦文土器→内耳土鍋→内耳鉄鍋」と変遷した可能性を上げる事になるからだ。

仮にこれが内耳鉄鍋ではなかったなら、この推定は成り立たなくなる。

③No.1内耳土鍋…

正直、この復元に驚いた。

理由は簡単。

筆者が見た事がある実物,図らで中世で「横耳式」の内耳土鍋を見た事が無いからだ。

類似の物は何処にあるのだろうか?

確認せねばなるまい。

因みに青森の「高屋敷遺跡」らで出土している内耳式土師器は見た事がある物は「縦耳」で、内耳土鍋出現前から「縦耳」が主流だったと思うのだが。

④No.2内耳土鍋…

これはズバリ肌質の記述にある「関東のほうろくに近い」である。

即連想したのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

千島方面での内耳土鍋は、南東北の旧伊達領のものと類似する説だ。

その辺があるので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…中世伊達氏も並行して探ったりしているのだが。

ただ、「湊は何処か?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/09/204601

「枝幸の湊は何時からか?…「枝幸町史」との整合と「湊,津」の特定の為の備忘録」…

湧別らオホーツク海沿岸部がシベリアやオホーツク方面とのクロスロードと考えられるので、驚く事もないのだが。

仮に千島と南東北〜北関東が交渉を持っていたとすれば、延長上でこの周辺へ到達するのは有り得る事。

蝦夷の「メナシ衆」…

不思議ではない。

小括では宇田川洋氏が纏める。

銛先の編年で前田潮分類でF型→江戸初期以降、大塚和義分類でタイプF14~17世紀と幅を持つ。

またやはり横耳式には注目しており、7号竪穴の「埋土出土」で

完形に近い復元をしており、11号竪穴の事例は地肌の類似性を含めてこれの横展開した模様。

やはり、横耳式と縦耳式の関係については今後の検討要としている。

小野氏の論文にはこの横耳と縦耳の関係は記事が無かったかと思う。

簡単に溝が埋まる…こうはならなさそうだが。

 

次に行く。

箕島氏が挙げていた「螺旋状垂飾」が検出されたのは12号竪穴に掘り込まれた「12号竪穴内墓壙」。

こちらも発掘前で凹が目視出来た様だ。

残念ながら、こちらには「白色火山灰」は無い模様。

竪穴自体は紡錘車やほぼ完形の擦文土器が「床面」より出土し、純然とした擦文文化期の竪穴住居である。

墓壙は、基本層序中のⅢ層の途中から掘り込まれ、竪穴住居の廃絶→暗褐色砂質土層堆積→黒色砂質土層と堆積していく変遷過程での事の様だ。

竪穴と墓壙の方向がある程度一致しているので、まだ竪穴の凹が明確な時期だろうと予想している。

引用しよう。

 

「この土壌のプランは、粘土層上面で確認した面で、長さ約1.8m, 幅0.6mで深さ約35cmの隅丸長方形である。長軸は北東一南西の方向で、12号竪穴の各壁と平行している。土壌迄は中央部に向かってやや傾斜しており、また、南西壁寄りの部分は狭くなっている (Fig. 38, Pl. XX)。」

「 遺物はガラス小玉(Fig. 39-1~26, Pl. XXI-2),コイル状鉄製品(Fig. 39-27~38, PL )、鍔(Fig. 39-39, Pl. XX-3)、短刀(Fig. 39-40, Pl. XXI-1)である。ガラス小玉の出土位置にはかなりの拡がりがあるが、他の遺物は Fig. 38, Pl. XXにもみられるように壙底に密着もしくはそれに近い状態でまとまって出土した。

ガラス小玉は70個前後の出土をみているが、大部分は割れており、粉々に風化しているものも 多かった。大形の白いガラス玉1個を除いて、全て青色系統のガラス玉である。風化の度合いは色合いによって異っており、完形で採集できた13個は、殆んど全てが濃青色の玉だった。ガラス玉の分析にはこの濃青色のガラス玉は含まれていない。白色ガラス玉には、茶色の線模様がつけられている (Fig. 39-26)。大きさは、青色ガラス玉が、直径1.2cm前後、高さが1cm前後で、孔径3mm前後である。白色ガラス玉は直径1.8cm とやや大きい。出土範囲は土壌の南西半分、特にコイル状の鉄製品や短刀が出土した地点に集中している。出土レベルもほぼ同一であった。」

以上である。

小括で前田明代氏は形状と副葬?から墓壙と判断した様だが、骨ら明確にそれを示す物は検出されてはいない模様。

ここで、墓壙?が竪穴が埋没する以前に掘られたと推定している事から、「擦文期の後期の墓は知られておらず、江戸時代以前まで確実に遡れるアイノ墓も知られていない」が、これがそれを埋める材料の一つになるのでは?…としているが、「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」では13〜14世紀となっているので、その後の科学分析らも含めてそう判断されているのだろう。

さて、この墓の被葬者は?

新田栄治氏の論説は下記に引用する。

「墓壙内出土の遺物には玉、垂飾様鉄線螺旋状小球(以下、「垂飾」と略)、鍔、短刀がある。

玉については分析結果にあるように、カリウムを多く含み、銅による発色を示すガラス玉がほとんどであり、きわめて稀な例といわれる。年代、製作地とも決定するには資料不足であり、良好な手がかりとはなりえない。

垂飾は11個と鈕残欠が1個ある。鈕残欠はおそらく、現在鈕を欠失している垂飾のうちのどれかにつくものであろう。垂飾球体部はいずれも保存状態がよく、墓壙内で消滅したものがあるとは考えられないし、また発掘にさいして失ったこともないからである。したがって垂飾の総数に11個であろう。これらはいずれも鉄線をコイル状に巻いて作ったもので、球体は中空である。 作法は下端部を起点として1本の鉄線を右方向に5~7回巻きあげて中空の球体を作り、最後に環状の鈕を作るのである。このことは鈕の部分の鉄線末端部が球体部の上に覆いかぶさっているもの (Fig. 39-30) があることから推定できる。中空の部分には何も入っておらず、鈴のようなそれ自体が発音器であるものとは異なる。金属線を螺旋状に巻く手法はアイヌの耳飾にみられるが、銀、真鍮などで、先に玉がつけてあり、形態的にも機能的にも本例とは全く異なるものであ って、両者の関係を云々できる状態ではない。モヨロ貝塚出土の鈴は構造が全く違うものであり、現在のところ、ライトコロ川口遺跡の周辺において、この種の垂飾はその存在を聞かない。

短刀と鍔については、短刀の鎺元部の大きさよりも鍔の穴のほうが大きく、また短刀柄木質部 の残存部分からみて鍔を装着するようになっておらず、両者は別個のものであり、鍔はこの短刀の装具ではない。短刀は平造、角棟で、ふくらはやや枯れるという短刀にみられるごく普通の特徴をもつ。作りは粗雑で鍛えも粗末である。茎上辺が関より下方に垂れ下っているが、茎が下方に曲った刀子はオホーツク文化に特徴的なものであり、沿海州にみられる靺鞨・女真系の遺物との類似がいわれている(菊池1976)。しかし、靺鞨・女真系、オホーツク文化の曲手刀子の茎形態と、この短刀のそれとは若干の違いがみられ、刀身部の形態も異なり、むしろ日本内地系の短刀に近いようである。刀身の平造は平安時代中期以後は、短刀・脇指にもっとも多くみられるといわれ(佐藤 1966), また、手抜緒で刀身を止めるかわりに目針孔により目釘を用いるようにな るのが平安末期ころであること(佐藤 1966) を考えると、この短刀の上限が推定できよう。

これらの遺物は副葬時どのような原形であったであろうか。出土状況から想定復原してみよう。短刀と剣とは別々のものであり、短刀柄部の上に鍔が置かれた。また柄木質部の保存度はかなり良好であり、関部はほぼ完全に残っているのに対して、刀身には全く木質部らしいものは存在しない。このことを考えると、短刀は抜身の状態で納めたようである。また垂飾は短刀の上に各々がほぼ並んだ状態で、しかもほぼ同じレヴェルにある。これらのことから、垂飾は何かにつけて連ねられたのであり、それが短刀の傍、あるいは短刀の上部に置かれたのであろう。こう考える とき,11個の垂飾を1個ずつ結び下げた帯状のものが目に浮ぶ。腰帯、腰枕ふうのものである。これには鍔もつり下げられていたかもしれない。玉については、短刀・鍔・垂飾付近の群、墓壙南西小口側にある群、墓壙中央に散在するものの大略三群に分れている。玉の散在する状態については遺骸崩壊による移動、土壌の凍結・融解に伴なう移動等、種々の要因を考慮しなければな らないが、短刀・鍔・垂飾とほぼ同じレヴェルにあり、大きな混乱はないものと考えられる。三群はいずれも首飾状の玉装飾が散乱した結果と思えるが、文様のある大形の玉 (Fig. 39-26)を中央にして小玉を連ねた、アイヌの首飾のようなものであったろう。それとともに注意されるの は、垂飾鈕の穴の中に、穴を鈕穴と同一方向に向けて、あたかも連ねたかのような状態で小玉が垂飾と銹着しているものがあることである (Fig. 39-35,38)。これは、腰帯にも玉が装飾とし てつけられていたことを示すものかもしれない。

以上の復原から、玉首飾は墓壙南西側にあることになり、長方形墓壙ともあわせて、頭位は南西、伸展葬と推定できる。

オホーツク海を眼前にして、このように埋葬された人物はどのような人であったか。副葬された垂飾と鍔とをつり下げた腰帯、腰枕が手がかりとなる。

すでに記したように鉄線を螺旋状に巻いた球体の垂飾は類例がみられないため、垂飾自体では比較できない。しかし、帯につり下げた復原形では、これらは互いにぶつかって音を発するものである。鈴や小鐘とは異なるが、金属の発音を重視すればいくつかの関係があると思えるものが、樺太アムール川下流域に分布している。すなわち、金属の垂飾のついた帯である。いずれも民族資料であるが、以下にいくつかの例をあげよう。

樺太  オロッコ、ギリヤーク、カラフト・アイヌにみられる。jappaヤッパ、あるいは janpan ヤンパンという革の腰枕で両端に紐がついている。この腰枕に刀の鍔、金属の輪、鉄片などの種々の金属をつり下げ、両端についた紐を体の前で結ぶ。一種の腰鈴である(鳥居 1924a<全集7 :331>,高橋 1929: 149,山本 1949:43,米村1974:17など)。

アムール川流域,その他   金代にシャーマンが腰に5、6枚の鏡を革帯に下げ、原始的鈴をつけていたという(鳥居 1928<全集9:388-389>)。ゴリドに腰枕ふうの革帯とその両端に紐をつけた腰帯と, この枕部に小鐘,鏡などをたくさんつけたものがある(鳥居 1924a<全集7: 331>,圀下1929:78)。またネグダのシャーマンが金属製の腰鈴や鏡などを腰につける(鳥居 1924 b<全集8:168>)。

これらの例はいずれもシャーマンの服装の主要な部分を構成する付属品であり、帯状のものに金属製の垂飾をつり下げて、揺り動かすことによって発音させるという点において一致している。

シベリア内陸一方、シベリア内陸部ではシャーマンの服装はいずれも上衣、外套に皮革の房状の垂れ下りや、金属製の円盤、鈴、形象物などの多数の金属品を全体につけており 形象物などの多数の金属品を全体につけており(有賀1926,圀下 1929, エアリーデ 1974, フィンダイゼン 1977, Sieroszewski 1902: 320-321, Jochelson 1933, Klementz 1910: 16-17),前記の樺太アムール川流域にみられるものとは全く異なった 類型を示している。ただし、東シベリア、アバカン川流域に居住するハカス族のシャーマンの外 套の例では、背面肩下に一列にコヌス、鈴などをつり下げ、合せて細長い紐状のものを房状に垂下したものもあり (Прокофьеба 1971:69), 金属の垂飾だけからはいちがいにいえない点もある。しかし、大局的には内陸部シャーマンの服装は大量の金属製品を衣服につけるのが通例であり、また衣服だけでなく帽子等にも特別のものがあり、沿海州,樺太方面の例とは明らかに区別される。またライトコロ川口遺跡の地理的位置からいっても、シベリア内陸部との直接的関係を想定するのは困難であろう。

前者を腰帯型、後者を外套型とすれば、ライトコロ川口遺跡の垂飾は腰帯型の垂飾ではなかったかという感が強いのである。樺太方面とのつながりを示すものであろう。民族資料による推定のため不確実性はまぬがれがたいが、北海道内部よりも、樺太方面との関連を考慮すべきである。

ライトコロ川口遺跡の墓壙の副葬品が上記のようなものであるならば、自ずと被葬者の性格も 想定できよう。

シャーマン的な人物が頭を南西に向けて伸展葬で葬られ、頭部右側に抜身の短刀を切先を頭側に向け、刃を内側にして置き、その上、あるいはその傍に腰帯を置いたのであろう。それは12号竪穴と墓壙とが各辺の方向を同じくすること、竪穴埋土において墓壙掘方を確認できなかったことから、12号竪穴廃棄後まもなくのことであった。そして、同時に平安時代末期をさかのぼらない時期でもあったのである。」

以上。

この辺が、螺旋状垂飾が北方、と言うより「樺太との繋がりを示唆」させている論のベースだろう。

坪井正五郎博士の指導を受けた、鳥居龍蔵博士のコレクション、これから昨今言われる「環日本海文化圏」的な話になっていくか。

ただ、鳥居博士は「日朝同祖論」者の様だが…

置いといて…

新田栄治氏の論だと、この「12号竪穴住居内墓壙」は遺構の傾向と共伴の短刀の作りより、

構築上限…平安末迄は遡らない時期…

で、その後。

被葬者は螺旋状垂飾とガラス玉から想定する復元(腰帯)より、

樺太方面との繋がりを持つ人物…

となる。

これら論考の中には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

ここで紹介した「渡辺モデル1972」を作った渡辺仁氏が竪穴住居の使い方らで考察を寄稿している。

敢えてここでは割愛するが、同項紹介前に既にこちらを観ていたが、聞き取り対象が誰であるか…ら迄記述しており、細かいフィールドワークを行う研究者であった事が解る。

新田栄治氏も樺太に言及しているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

ムックリの文化借用らは知られた話であるし、オホーツク文化の源流は「靺鞨系」と言うのも言及されているし、我々も「随時移動はあり、顕著なのは江戸期」と考えるし、アンジェリス&カルバリオ神父は「yezoはテンショとメナシの人々」と書いているし、江戸中期以降の北見方面からの移動伝承は「幕別町史」や活動家第一世代が調べたところ。

特に驚く事ではない。

まして本書発行と同時代の活動家は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

「最近の若い学者は北からの移動説を唱える」と憤っているので、まぁ裏も取れるので、そんな論調が強まっていたのも事実だろう。

国内由来でも樺太由来でもその源流が解れば良いだけて、我々的にはどちらでも良い。

 

如何であろうか?

「ライトコロ川口遺跡」での実績の中の、11号竪穴と12号竪穴に特化して書いてきた。

この後に、各研究が進められたと想像するが、実際の発掘から解る事はこの様に「割と曖昧」だったりする。

興味深い遺物はあれど、構築,廃絶時期や遺物同士の関係性は「曖昧」。

で、割とこの「ライトコロ川口遺跡」や

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

「オネンベツ川西側台地遺跡」らは、重要な位置を占めるが如く各論文で引用される。

ただ、「螺旋状垂飾」にして「(本道での)内耳土鍋」にして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

数ある北海道の中世墓の中では「十数基」しか検出されていないのもまた事実であろう。

もっと全体像…「山や森」の検討も必要なのではないだろうか?

本音は「思っていたより「曖昧」だ」と言う感じである。

とは言え、上記の様な気になる点は、更に掘り進めるキッカケには良い。

色々「原版に遡り」学んでいこうではないか。

 

参考文献:

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」 小野裕子アイヌ文化の成立と変容』 法政大学国際日本研究所 2007.3.31 

「ライトコロ川口遺跡」 東京大学文学部  昭和55.3.25

ヤバい、都じゃないかも…「キ型火葬施設」がある長岡京「西陣町遺跡」はこんなとこなのだが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

さて、前項迄で「中世墓資料集成」を中心に特異性がある「十字型火葬墓(施設)」を探してきた。

で、今のところの実績は…

北海道…

上ノ国町「夷王山墳墓群」
秋田県

大館市「山王岱遺跡」(14~15世紀)

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

千葉県…

市原市「新地遺跡」(15末〜17世紀)

の六ヶ所。

それに類似する「キ型火葬墓(施設)」は、

京都府

長岡京右京区 西陣町遺跡」(11世紀後〜鎌倉期)

ここまでは抽出出来た。

前項で秋田の事例を確認出来たので、今回は京都の「キ型火葬墓(施設)」がそのルーツと成り得るか?…こんな視点で確認していこうと思う。

この「キ型火葬墓(施設)」は「長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」 に記載され、これも「中世墓資料集成 近畿編(1)」で確認。

この火葬施設が検出したのは、右京第130次調査の西陣町遺跡で、宅地造成工事に伴うもの。

長岡天神駅の西方約500m、竹林を含む民家敷地内との事。

では見てみよう。

基本層序は…

Ⅰ…暗灰褐色土(森土)

Ⅱ…淡黄灰色土(竹林客土)

Ⅲ…淡赤褐色土(西側からの流入土)

Ⅳ…黄褐色土(礫混じり)

Ⅴ…黄白色砂礫

Ⅵ…暗赤褐色粘質土(西側からの流入)

Ⅶ…黄褐色砂礫土(同上)

Ⅷ…赤褐色土(同上)

Ⅸ…淡黄褐色土

Ⅹ…暗褐色土

で、竹林以前の土層はⅢ層から下、中世遺構はⅣ層、Ⅵ層に古墳〜中世遺物の包含層がある模様で、これらは西側傾斜上側からの流入。Ⅹ層が平安期の遺構面。

キ型火葬施設は、墳墓SX13001とされる。

「上層遺構面のトレンチ中央やや東よりで検出された長軸をほぼ南北に向ける、平面長方形を呈する焼土壤である。検出面で南北1.85m、東西0.55m、底部で南北1.7m、東西0.45m、深さは0.25mを測り、各辺はほぼ直線的であるが、南辺のみやや丸みを帯びる。又東西の長辺部には、南北幅約0.3m、深さ約0.1m程の半円形の窪みがそれぞれ二ヶ所づつ、計四ヶ所に撃たれている。土壌の壁は長辺部の窪みも含めすべて幅0.1m程で赤色化しており、非常に硬くなっていた。ただし底部に関してはまったく赤色化していない。埋土は2層で、下層の黒色土内からは大量の炭に混じって、人骨片、鉄釘、土師器、瓦器の土器片が出土し、上面には完形の土師器皿が3枚置かれていた。以上の状況からSX13001は火葬を行った施設であることが判る。黒色土上面の土師器にはまったく火を受けた痕跡がないところから、火葬終了後に置かれたものであろう。黒色土内の人骨片は非常に細かく、部位の判明するものはなかったが、北側部分に薄い骨片が、中央から南側部にかけてはやや大きな骨片がみられるところから、北を頭にして火葬されたものと思われる。鉄釘は30数本検出されたが欠損するものが多く、錆も多いため 正確な本数や木棺における使用個所は不明である。又、長辺部に見られる四ヶ所の窪みは、この部分に土壙の長軸に直交する形で木材のようなものをわたし、棺をその上に置いて火葬を行った痕跡と考えられる。おそらく棺を上にあげることにより、土壌自身に通風の機能をもたせて燃焼効率を高めたのであろう。ただ、火葬終了後そのまま当所を墓としたものか、あるいは収骨して他所に埋葬したものかは即断できない。しかしながら、検出面において当土壙付近に黄白色砂礫が薄く敷かれてはいたものの、墓標等の明確な痕跡が見あたらず、又土壙内に遺残する骨片が非常に少量かつ細かいことなどから、後者、すなわち「焼場」としての可能性の方が高いと思われる。」

「土壤内から、土師器皿5個体、瓦器埦片1個体分、鉄釘、人骨片が出土している。このうち 49・50・53の土師器皿3枚は黒色土上面に置かれた状態で、他は黒色上内から破片となってとともに検出された。

土師器皿は、外面に指オサエの凹凸を残す平底気味の底部に、短く外反する口縁部をもち、口縁部外面は一段のヨコナデを施す。口縁端部に外傾する面を有するもの(49-51)と肥厚させておさめるもの (52) に分けられる。53は器壁がやや薄く、平底気味の底部に内彎気味に立ち上がる口縁部をもつものである。平均口径・器高はそれぞれ12.0cm・2.5cmを計り、胎土は精良、色調は52が灰白色系で他はすべて淡褐色系のものである。瓦器塊(54)は、口縁部と底部高台付近の破片であり、摩滅が著しく詳細な観察は困難だが、断面三角形の高台を有し、内彎気味に外上方に立ち上がる口縁部をもつものと考えられる。口縁端部内側には沈線が廻り、 内面にはわずかに横方向の暗文が認められる。土師器皿は、形態的特徴から、平安京左京内膳町遺跡SD345・SK118・SK334出土の土師器皿とほぼ同時期と考えられ、12世紀末~13 世紀初頃の年代が比定できる。

鉄釘は、破片が大半であり完形となるものはない。破片数としては、40数点あるものの、図示し得たものは14個体であり、そのうち釘頭部が確認できたものは8点のみであった。釘の全長は完形品がないため不明であるが、55から9cm前後のものと推察される。断面はいずれも四 形状はまっすぐに伸びるものが大半であるが、直角に曲折するもの (67・68)もあり、67は先端部が曲折するものである。頭部は、方形で平坦に潰れているものが多く、打ち曲げられたもの (61) もある。鉄釘の表面には、サビの浸透により断片的に本質の残存するものが多くみられるが、これから棺材の板目方向や板材の厚さ、組み合わせ状態を復原するには、出土状況がバラバラであったことも合わせ、やや不充分である。少ない木質の木目遺存状態の観察により、出土した鉄釘は4つに分類できる。A類(61・66)は、頭部付近に横方向の木目、それ以下の部分は縦方向の木目が残存するもの。B類 (63)は頭部が縦方向、以下が横方向の木目が残存するもの。C類(59) は横方向のみ、D類(58・65) は縦方向のみの木目が残存するものである。他は遺存状態が悪く、分類は不可能であった。」

「今回検出された焼土城SX13001は、近年類例が増加しつつある中世火葬施設の一例であるが、本例は長辺部2ヶ所に窪みを有しているところに特徴がある。これは検出遺構の項においても述べた如く、この部 この部分に木材などを渡して棺を置き、下の土壌に通風および燃料投入の空 間としての機能をもたせるための施設であったと考えられる。これにより、一部ではあるが、当時の火葬の具体的方法を明らかにし得たといえるだろう。以下、この点を含めてもう少し検討を行ってみたい。

当土壙に渡された木材は、地面と棺との間にある程度の隙間を作り出すことと、火葬中に一 定時間棺を支えていなければならないことから、かなり太いものが必要であったと考えられる。長辺部に見られる窪みの上部幅は、最大で40cm、最小で30cmを測り、これから概ね直径30cm前後の木材が置かれていたと推定される。この様に仮定すれば、地面と棺との間は約20cmとなり、先に推定した通風と燃料投入のためのものとして、ほぼ充分な空間といえるだろう。この様な火葬のための通風施設としては、奈良県榛原町谷畑遺跡・御所市葛城石光山古墳群10号地点の様に土壌の底部を溝状に一段掘り下げ、それを両端に延ばしている例や、天理市柚之内焼土壊の様に斜面を利用して過風孔と満を穿つものなどが見られる。

次に、上に載せられた棺であるが、形態は「餓鬼草子」に見られる様に、現在のものとほぼ変わらない長方形箱形のものであったと思われる。又、大きさは、「吉事略儀」によれば、多くの先例が「長六尺三寸。廣一尺八寸。 高一尺六寸」であったとしている。〜後略」

 

長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」  長岡京市埋蔵文化財センター  昭和60.3.31  より引用…

 

と、言う訳で、遺構状況、出土遺物、火葬のあり方を検討した部分を引用してみた。

被葬者は社会的地位が高いとは考えておらず中世の一般庶民で、同遺跡の東に隣接する開田集落との関係が示唆され、それが13世紀頃であると判明している事から、その墓域である事が推定され、これは土師器の編年と合わせても後ろの時期で一致しているので、矛盾は無い様だ。

よって13世紀、鎌倉期位と判断されている。

以上…

少々ヤバそうなムードである。

纏めてみよう。

①成立…

鎌倉期位となると、

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)と、同等程度、むしろ、

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

は、この「キ型火葬施設」より古い形態となる。

都での中世火葬施設は…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

まだ検出数が少なく、明確ではないにせよ、さすがに200年程度のギャップがあるとなると、現状では秋田の「十字型火葬墓(施設)」より遅い成立で、ルーツとは成り得ない。

②構造差…

基本構造が少々違う様だ。

秋田の場合は、浅い円形らの土壙を掘り、通気孔として十字を掘り下げる。

しかも、途中で「火葬のみ→埋葬込み」と変遷までしている。

しかし、この事例だと「奈良の長方形土壙→I型火葬墓(施設)」の後に続く派生型が想定される。

しかも、棺は横渡しされた丸太の上に持ち上げられ設置と想定される。

どうやら共通なのは「直角方向に開けられた通気孔を持つ」事だけの模様。

 

と言う事は、現状では十字型火葬墓(施設)は、秋田で独自に行われる様になった墓制…こんな可能性が高い事になる。

と、なると、上ノ国「夷王山墳墓群」の十字型火葬墓(施設)は、秋田県北部からの伝播の可能性が上がる事になる。

当然、移住や宗教家や墓守役の移動も考慮せねばなるまい。

概略の歴史的背景は前項の通り。

この分布の「特異性」を鑑みれば、かなり堅い線ではないだろうか?

まぁこれも、北方や大陸にルーツを探す事も有りではあるが、その場合でも秋田→上ノ国…この線は崩れないと思われるが。

元々、夷王山墳墓群でもこの十字型火葬墓(施設)は、本州系の人々と推測されているので、別に問題にもならないだろう。

アイノ墓とされる「伸展葬+厚葬」の土層墓より数が多い→秋田系の人々の方が人口インパクトは高いとは言えそうである。

 

如何であろうか?

まぁ、15世紀には檜山に「安東政季」が入る。

大殿と関連が深い人々が多数移住したとしても問題は無かろう。

そして、蠣崎氏の安東家臣団内での身分が確定するのは16世紀になってから。

それより後になる。

こんな話が出てくるから、北海道史は面白い。

東北から見るからこそ見えるものもある。

十字型火葬墓(施設)のルーツ探しはまだ続く…

 

参考文献:

長岡京市埋蔵文化財調査報告書  第2集」  長岡京市埋蔵文化財センター  昭和60.3.31

これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」

さて、こちらを前項として…

直前で書いた様に、論文,著書を読んで引っ掛かりや疑問,違和感を感じたら、原版迄遡る…これは我々のモットー。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

こんな感じだ。

なら前項で感じた違和感でも、同様に実践しようではないか。

違和感を感じた部分を再度引用してみよう。

「「シンポジウム アイヌ』の歴史認識の、もう一 つの重大な問題性は、同様の論理を、過去の文化集団だけでなく、近現代のアイヌ文化にもあてはめようとすることである。そこでは、近現代に大きな変容を被ったアイヌ文化・民族は、もはや「真正のアイヌ文化」とはみなされなくなってしまう。

「シンポジウム アイヌ」と同年に発表され、今日も大きな影響力を有する渡辺の学説にも、 同様の課題を指摘できる。渡辺は、「アイヌ文化」とは「民族学的に周知のアイヌの文化」「民族誌的現在に於けるアイヌの文化」であるとして、 「アイヌ民族アイヌ民族たらじめてある中心的文化要素は何か」「それがなければアイヌとはいへなくなるような基本的文化要素は何か」と問う。そして、「アイヌ文化の中核(真髄)」を、 「クマ祭文化複合体」と規定する。

和人研究者が「典型的なアイヌ文化」「アイヌ 文化の本質」を抽出し、定義しようとする行為に対しては、佐々木昌雄による厳しい批判がある。 佐々木は、「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」とまず考えているのだということである」とし、「〈アイヌ〉だけを厳密に規定しようとして我が身(シャモ)がスポッと抜けおちているような発想」として、「日本史」 と「アイヌ史」とのあいだの不均衡、非対称性を鋭く指摘した。

上記の議論は、現実に生きる人々、現に存在する集団を、他者が「定義」しようとすることの権力性をあらわにしている。

1989年採択のILO169号条約第一条2項は、先住民族の集団性に関する基本的な判断基準として、自己認識(self-identification)を重視する。また、2007年の国連宣言に結実する、コーボ報告書(1983)の論理や、先住民作業部会(WGIP)の議論も、「定義は本来、先住民族自身に委ねられるべきもので、自らを先住民族と決定する権利が先住民族に認められなければならない」ことを強調する。今日、先住民族において、その「定義」や、集団のメンバーシップの決定は、当事者による自己決定権の重要な一部としてとらえられるようになっている。考古学や歴史学も、こうした現代社会の動向に向き合い、対話していくことが求められる。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀 『季刊考古学別冊42 北海道考古学の最前線』 2023.6.25 より引用…

 

違和感を感じたのは…

①文化成立解明の論文が、何故か民族論にすり替わる点…

②「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」…と言う揶揄…

③我々が先に読んでいる、活動家第一世代の主張との異差…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

古いアイノと新しいアイノ、更には観光アイノを分けて考えて欲しい…これが第一世代の主張。

④学術的探求に、政治的判断を持ち込んでいないか?         etc…

我々がド素人で何が問題か?理解出来ないだけなので、こんな違和感を持つのか?…こう顧みてみるなら、当然その問題視された「渡辺仁 1972」を確認すりゃ良いだけの事。

この論文は、何度か当ブログにも引用している『考古学雑誌』に掲載されている。

公立図書館でも(全巻とはいかないが)、普通に所蔵されているので、読もうと思えば普通に読める。

さて、まずは背景。

本論文が出されたのは1972年だが…当時の世相の一部を改めて貼っておく。

野幌森林公園開園が1968年、北海道開拓記念館開館,百年記念塔一般公開が1971年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

道庁爆破事件が1976年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

この主張も1976年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

丁度、この開道百年記念行事の一環で式典らが実施された直後に発表された論文だ。

又、1970年初から赤軍派中核派ら過激派の活動が活発化して、浅間山荘事件が1972年、東アジア反日武装戦線による爆破事件が1974年から、そして直接の関与はないとされるが精神的主柱とされた太田龍氏の「アイヌ革命論」が1973年である。

何故、ここをクローズアップせねばならなくなるのか?

箕島氏が民族論を出す以上、この当時の世相や「アイヌ革命論」は抜く訳にはいかなくなる。

政治的判断は世相に左右される。

佐々木昌雄氏の反論も、こんな世相の中で行われたのは事実。

我々的には、触れずにしらばっくれる訳にはいくまい。

切り離すなら切り離す…

接続するなら全て接続…

当然の事だ。

では、冒頭から引用してみよう。

アイヌ文化の起原の問題が広く民族・歴史、考古諸学の分野にまたがる問題であることはここに改めて論ずるまでもな からう。しかし従来の研究の実際面をふりかへつてみると、それらの各分野の研究がそれ自身の分野だけに限られる傾向 が強く、相互の接点を追求し、或は進んで他分野まで統合するやうな研究は乏しかった。概して言へば、それら諸分野の 研究は通常は互にすれ違ふか、または断絶を余儀なくされてきた。例へば考古学の側では先史時代からの石器土器等を指 標にして時代の新しい方へと起原を追ひさがってくる。民族学の側ではアイヌの社会組織とか言語等の特徴を指標にし て、民族史的復原法によつて、起原を追ひあげてゆく。このやうな状態だから初めから両アプローチには共通の言語らし いものが存在しなかつたといつてもよい。とにかく従来のすれ違ひや断絶を克服するためには、先づ初めに、過去現代を通じて相互に而も実際に追跡可能な指標を探し求めなければならない。要するにアイヌ文化といふものを、民族、歴史、 考古諸学共通の視点乃至立場で、いかなる面からどのやうにとらへるかといふことである。そこでこの論文では、アイヌ文化の起原或は成立を追求する方法として次の如き新しい試みを行なった。その要点は、(一)アイヌ文化を個々別々の文化要素としてではなく、まとまった一群の代表的文化要素群としてとらへ、また追跡すること、(二)アイヌ文化を物質的側面から、或は物質面とのつながりに於てとらへること、である。」

アイヌ文化の成立  −民族・歴史・考古諸学の合流点−」  渡辺仁  『考古学雑誌第58巻3号』  より引用…

「シンポジウム アイヌ」もそうなのだが、百年記念行事らで北海道に対し視線が集まる時期であり、そんな理由で論文が出されたりシンポジウム開催らが行われた事は想像に易しい。

引用文にあるように、それまで研究は考古なら考古、民俗なら民俗とバラバラに検討され、考古は時代を下り民俗は時代を遡る…こんな風に接点が希薄だったと渡辺氏は述べる。

視点がそれぞれなのだから、それぞれの点なり線なりを結びつける「定義」が必要になる。

そこで渡辺氏は、

「アイノ文化の中心的文化要素は何か?」

「それが無ければアイノ文化と言えなくなる文化要素は何か?」

「アイノ文化の屋台骨又は大黒柱たる要素は何か?」

これを検討した様だ。

勿論、文化要素は単一ではない。

それでまずは、それぞれ本州文化と異差がありそうな個別のアイテムや要素を抽出して並べ配列、その中心にあるのが何か?を導きだそうとした。

抽出されたのは、

クマ祭…

神窓(住居の宗教的構造)…

クマ猟…

マッポとスルク(狩猟具)…

毛皮交易…

イコロ(宝物→資産)…

イナウとマキリ…

シネ・イクトバ集団(家紋で括られる集団)…

サケ漁とコタン…

マレック(漁具)…

ここで渡辺氏が辿り着いた「中核的,真髄的要素」が、「熊送り」をベースとする「クマ祭文化複合体」。

突き詰める過程はこんな感じである。

・熊送りには、獲った熊or育てた子熊のどちらを送るかで文化圏が分かれる。

アイノ文化は後者…

・住居の神窓は神聖視されるが、この住居構造は「飼育型クマ祭」文化圏より広い…

・子熊を得る為の熊猟の狩猟具の発展度…

・熊猟の発展度を即する要素は毛皮交易…

・毛皮の対価で得られる資産要素…

・同様に得る鉄器と、それで加工される宗教具…

・その宗教具に描かれた家紋的刻線とクマ祭や熊猟を共同作業する集団要素…

・集団要素を維持する為の食料要素としての鮭漁と定住性、そして猟具…

これらからはそれまでの渡辺氏の研究や論文でそれぞれの要素が指摘されていて、それらから集大成的に導き出された文化構造の三元図がこれになる。

・社会的側面…「定住性集落形成」

・流通,経済的側面…「金属器の普及」

・宗教的側面…「飼育型クマ祭の確立」

で、この三要素がそれぞれの変遷過程を経て、揃った段階が「クマ祭文化が成立」し、それを民俗,歴史,考古の各分野から追い求めれば良いと提言している論文なのだ。

特に渡辺氏が言及しているのが、「形成段階は考古学的証拠による追求が可能」としている部分や、土器終焉を指標とした時代区分「アイノ文化時代」とこれの区別は明確に認識すべきだと結語で述べる。

如何だろうか?

実はSNS上でもこの渡辺仁氏の考え方について話をさせて戴いた事がある。

このモデルだと、アイノ文化完成は「飼育型クマ祭」開始後。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

最新刊でも熊送りのルーツをオホーツク文化に見るのは問題点があり、文献上で「飼育型クマ祭」が登場するのは18世紀、さらにそれは現存する伝世品のガラス玉の調査年代と概ね一致。

当初、我々が文化完成に必要な要素としてきたのが「北前船就航」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/175633

「「江戸のフィールドワーカーが北海道で見た物」あとがき…やはり「北前船辺り迄」」…

また、文化拡大の変化点として挙げているのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

商場知行→場所請負への変遷による「雇用創出」。

この辺も、大体タイミングとして一致してくる。

我々の考え,見方を渡辺モデル1972に当て嵌めても、結果はほぼ同様になるだろう。

 

ここで、関根氏の渡辺氏に対する評価はこちら。

「駒井の後に東京大学文学部考古学研究室の教授を務めた渡辺仁は生態人類学を専門とする。渡辺は生態人類学が構築したモデルを考古学的事象に適用することで、縄文社会が階層化社会であることを証明しようと試みた(渡辺仁一九九○「縄文式階層化社会」六興出版)。すなわちアイヌをはじめとする北太平洋沿岸の定住型狩猟採集民の社会階層化、工芸・技術の高度化および特殊化を調査し、階層化した狩猟採取社会に共通する構造モデルをつくり、それに照らしあわせて縄文社会を階層化した社会と 結論づけたのである。

渡辺自身も北海道でのフィールド調査を手がけているが 、彼の関心は目の前のアイヌ民族ではなく、北太平洋の狩猟採集民全般やその先の縄文人に向けられていたといってよいだろう。渡辺にとってア イヌ社会は縄文社会をうつす鏡であって、民族調査で得られたデータはアイヌを研究するためではなく縄文を理解するための「手段」として使われた。それは、琉球が古代日本をうつす鏡と考えられ、 日本文化研究の「手段」として言語学民俗学による琉球研究がおこなわれたのと同じ構図と言ってよいだろう。」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

SNS上の話でも、渡辺氏の最終目標は縄文での社会構造の解明で、アイノ文化形成,成立は、その過程の一つの研究だった様で、縄文の社会構造に関してはあまり精度よくモデル化出来てはいない様な事を教えて戴いた。

当然と言えば当然で、関根氏の指摘にもある様に、渡辺氏は北海道へのフィールドワークで聞き取りをして民俗要素のベースを研究していった。

熊送りらが行われた時代からそんに離れた時代ではないし、文献補完も可能。

だが、縄文時代となると聞き取り調査は不能な上ほぼ考古学からの想像,仮説に基づく事になるし、現実発掘調査はバブルに向かう1980年代に活発化、そこから地道な研究が進められ今日に至る。

渡辺氏の手元のデータで抽出出来る事は限られていたであろうから差異が出てくるのも当たり前の事だった事になる。

縄文とアイノ文化でのモデル精度の違いはこの辺から来るんだろう。

 

さて、如何であろうか?

敢えて、渡辺氏の他の論文を引用する必要はなさそうだ。

民俗要素抽出にフィールドワークによる聞き取り調査が使われた事は関根氏が指摘している。

他の論文には、誰からどんな話を聞いたか?らも記述がある。

そして、この「渡辺モデル1972」に考古成果を当て嵌めると、社会,経済,宗教を3視点から文化形成過程が導き出せる訳だ。

渡辺氏は上記の通り、何時からどの様に…こんな考古成果を当て嵌める行為は全く行ってはいない。

モデル化しただけ。

故に政治的判断によるヘイトのレッテル貼りも不可能。

ここで、冒頭の社会背景を思い出して戴きたい。

百年記念行事でクローズアップされた事で各研究が進み、定義研究の話迄至る。

ボチボチ各研究視点の成果統合の兆しは出ていた訳だ。

ここで、関根氏も触れている「社会活動の活発化」…と言うより、過激派の活発化でそれらは尻窄みになっていく。

当然、過激派寄りの意見も出てきて、「政治的判断による論へ論点すり替えざるをえなくなった」…この辺迄は想像に易しい。

この成功のせいか、現在でも反論できなくなると論点すり替えは巷でよく見る。

江戸期に文化完成となると、従来から言われる「先住性」とやらに問題も出る。

箕島氏指摘の「自認」の話も…

いやいや、その辺は全く次元の違う話である。

筆者の様に「エミシの末裔」を自認しても、別に文化形成過程を学ぶ者も居るし、アイノ文化の源流には筆者の先祖たる「エミシ部分の影響」がある。

血統的には「ご近所さんの血を引く」人は居る訳で。

それに加賀家文書一連で述べた通り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005

「江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録」…

既に幕府や東北諸藩から労働力の担い手として「戸籍登録」され、場所請負人へ貸出された人材。

且つ本州以西同様の「宗門改」対象者。

この段階で同じ国民としてのベースが出来ている。

極右主義者の「侵略者」なんて話は馬鹿げた話…まぁロシアの意図により移住していない限りだが。

ちゃんとプロセスは経ている。

ましてや明治からの移住なら、何の問題も無かろう。

「夷狄」らの表現は既に幕末で行ってはいない。

土着した人「土人」と表現が改められているのでは?

そう考えれば、一連の撫育や保護法は、一種の貧困対策として行われたと解るのでは?

「旧土人保護法」の条文を見れば辻褄は合う。

故に、吉田菊太郎翁始めとした活動家第一世代はあんな主張をしていた…大体辻褄はあうし、1970年代の状況と重ねても矛盾は出ない。

大体、「多民族が設定した定義が〜」なぞ、通じないと思うが。

概ねの文化論は欧米式研究から生まれた物。

ついでに言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111

「何故、古書記載の「アイノ」ではなく、「アイヌ」なのか…名付け親「ジョン・バチェラー遺稿」を読んでみる」…

外国人であるジョン・バチェラーが私的に作った呼称を有り難く使っているのは何故なのだ?

本ブログでは古書記録に基づき「アイノ」としている。

ダブル・スタンダードにはしない。

毎度言っている話…「研究によるアップデート」は必要。

 

参考文献:

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀 『季刊考古学別冊42 北海道考古学の最前線』 2023.6.25 

アイヌ文化の成立  −民族・歴史・考古諸学の合流点−」  渡辺仁  『考古学雑誌第58巻3号』  

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 

最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

さて、あとがき的ではあるが、前項で引っ掛かった事を検証してみよう。

それはどの部分か?

いきなり改めて引用してみよう。

アイヌの姿を描いた最古の史料としては、元亨元年(一三二一)に製作された重要文化財「紙本著色聖徳太子絵伝」(茨城県那珂市上宮寺蔵)が知られている(高倉新一郎編一九七三『アイヌ絵集成』番町書房)[図2]。場面は、敏達天皇一○年(五八一)に起きた蝦夷の大蜂起の際、一〇歳の聖徳太子天皇に建言して、大和国三輪山麓を流れる初瀬川(大和川の上流)の辺りでみずから蝦夷の巨酋綾糟を説服されたという伝説にもとづく「十歳降伏蝦夷所」である。おそらく描いた絵師は実際にアイヌを目にしたことはなかったと思われるが、アイヌの伝統的衣装の一つで「ラプル」とよばれる鳥の羽根でつくった衣を身にまとった人が描かれていることからわかるように、アイヌに対する知識はある程度持っていたようだ。注目されるのは、蜂起を諫める馬上の太子の前にひざまずく四名の蝦夷のうち、三名が持っている半弓とよばれる短い弓と矢筒である。当時和人がアイヌに対して弓矢に長けた人々というイメージを強く持っていたからこそ、このような絵が描かれたにちがいない。」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

この「最古の絵は「紙本著色聖徳太子絵伝」」としている点。

この様に、関根氏はほぼ断定的にそうだと記述しているが、どう考えてもこれは

擦文土器消失が14世紀だったとして、事件のある581年とは約900年、北上市三輪山の距離約700kmの時空を消し飛ばす「キング・クリムゾン効果」。

ならば、引用文献「アイヌ絵集成」上、編集した高倉新一郎博士がどんな意図を持ってこの絵をアイノ絵だとしたか?…気にならないか?

気になるなら、片っ端から確認する…これが我々グループのモットー。

と言う訳で、「アイヌ絵集成」を入手した。

本書は、江戸期に書かれたアイノ絵を集成した「図録巻」と美術史的内容も含めた解説が載る「解説巻」のニ巻構成。

有名なところでは「夷酋列像」らも収集されている。

編集は「高倉新一郎」博士。

本ブログでも度々取り上げているが、各地方史書の編纂や「松前旧記」を収集らに尽力された方、北海道史の重鎮であったのは間違いない。

後代の研究者が取り上げて当然の一人。

では、その高倉博士が上記部分をどう記述していたのか?…下記に引用する。

 

「今日残る最古のアイヌ絵は茨城県那珂町上宮寺所蔵、重要文化財聖徳太子絵伝』中 「十歳降伏蝦夷所」と説明した箇所に描かれたものである。この絵は敏達天皇十(五八一)年 に蝦夷の大蜂起があって洛中が震駭した際、当時十歳の聖徳太子天皇に献言して自ら蝦夷の巨酋綾槽を説服されたという伝説を絵にしたもので、馬上の太子の前にうずくまっ た者の外二名の蝦夷が描かれている。元享三(1三三三)年の作といわれ、鎌倉末の作品である。ここに描かれている蝦夷は必ずしもアイヌだとはいえない。全体として唐画の人物に似ていて、異民族であることを表現するために、唐絵に倣ったのだともいえるが、眼がくぼみ映がなく、眉毛および鬚が濃くて、それと相対している和人と著しい対照をなす容貌に描かれているだけではなく、頭を包み、筒袖で脞までのアイヌのアツシを思わせる衣服をつけ、鳥毛の衣服(アイヌ語=ラブリ)、毛皮の衣服(ゥリ)を重ね、脚胖をはき、腕にアイヌが伝承するものに似た矢筒(イカョップ)をつけ、半弓を持っているところは、すくなくとも筆者が、当時のアイヌを頭に描き、これを現わそうとしていたと見ても強いたものとは言えない様である。

この頃になると、京都の勢力が直接アイヌの世界である蝦夷ヶ島即ち今日の北海道に及ぶようになった。文治五(一一八九) 年源頼朝の奥羽征討から百三十余年、北陸を通じて京都と蝦夷島の交通は次第に類繁となり、文化の中心京都のアイヌに対する興味と知識はかなり豊富になりつつあった。この絵伝より少し後れて、延元三(一二三三四)年、足利尊氏の秘書小高円忠が信濃国諏訪神社に寄進した『諏訪大明神絵巻』には、元享・正中から嘉暦(一三11 7人) 年間にかけて奥羽を騒がせ、蝦夷管領として奥羽の奥地並びに蝦夷島に勢力を張っていた安東太一族の乱を、諏訪明神の神威によって平定した顛末が記されてあり、その中に、安東太に味方したらしい「蝦夷ヶ千島」の蝦夷即ちアイヌの記事をのせている。これによると、アイヌには三つの類があるが、髪髪が多く、全身毛深い、禽獣魚肉を食として五穀の農耕を知らず、九訳を重ねても話が通じにくい。此の中に霧を起こす術、身を隠す術を知っている者があり、戦場に臨むときは、男は甲冑弓矢を帯して前陣に進み、婦人は後にあって木を削って幣帛の様なものを造り、天に向って呪文をとなえる。至って身軽で、飛ぶ鳥や走る隙に同じく、矢は骨を鏃として毒薬をぬり、一寸でも皮膚に触れると死ぬと、アイヌについてかなり正確な情報をのせている。これには名の示す通り絵が伴っていたはずであるが、残念ながら失われて、今日伺う術がない。しかし、アイヌの情報がこれだけ京都にあったとすれば、蝦夷を描くのに、これによらないはずはないと思うのである。但 し、記述も、絵も、実見をした人によって描かれたのではないから、精々それらしい姿に描いたというにすぎなかったと思われる。本当のアイヌ絵が現れるのは、更に三百八十年ほど後、江戸中期、享保以後のことであった。」

アイヌ絵集成」 高倉新一郎  番町書房  昭和48.5.20  より引用…

 

以上である。

記述順に、ちょっとポイントを…

①最古の絵は「聖徳太子絵伝」である

聖徳太子に諭された「蝦夷2名」が描かれる

③描かれている蝦夷は必ずしもアイヌだとはいえない

④唐画風に装飾

⑤京の勢力の影響が北海道に及んで交易らが盛んになる時期の作で、北海道の情報は京にも伝わっていただろう

⑥代表例は「諏訪大明神画詞」

⑦実見ではなく、情報からの想像だろう

⑧実見による本当の意味での「アイノ絵」出現は、更に380年後の江戸時代…

こんな感じか。

割と支離滅裂っぽいが、他でも肯定→否定→肯定した理由の解説…こんな構成の文は、新北海道史でもあったかと思うので、意図してやられているのだろう。

さてこれを見て、高倉博士は肯定しているか?

③にあるように一度否定しており、断定している訳ではなく持論を述べている事になるだろう。

③の部分は同書では改頁された処に記述されるので、関根氏が次頁を読まなかったと言う事はないだろう。

とするなら、関根氏は高倉博士の持論を支持してあんな記述をした…こんな感じなのだろう。

そりゃそうだ。

何度も書くが、後代に生まれた文化名、それも距離が離れる場所、それらを直接結びつけられる訳がない。

いずれにしても、引用元の文章では「高倉博士は断定まではしていない」事は間違いなさそうだ…ここまでは解った。

 

ではさて…

高倉博士は、何故そんな時空を隔てた物を繋がるものだと「仮説したのか」?

実はこれ、高倉博士はその答えを別の文章に書いてあるのだ。

それは「新北海道史」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

既に紹介済だか、これは高倉博士が持つ史観に関わるので改めて引用しよう。

「東北の蝦夷

蝦夷とはわが国最古の史書古事記日本書紀では愛弥詩または愛比須と訓じているが、えみし、えびすはともに異民族のことである。東北に進んだ大和民族と対抗した人々を和人はこう呼んだ。しかしこう呼ばれた人々が今日のアイヌ人種に属するかどうかはわからない。記録に現われた蝦夷に関する記事には、今日のアイヌであることを的確に語ってくれるものは何もないからである。蝦夷はまた毛人とも書かれているので、世界で一番毛深い人類に属するアイヌを指したとする説があるが、これは中国の地理書に東北の海に粛慎国があり、そのさきに毛人 があるとの説から、中国の東方の異民族を夷と呼んだと同じ考えで毛人と呼んだもので、必ずしも毛深いことを現わした語とはいえない。事実今日東北地方で発掘された人骨は北海道アイヌとの類似を的確に示しているものはまだないし、明らかにアイヌ語に基因する地名は陸奥地方にやや濃厚に残されているだけである。

蝦夷すなわちアイヌ

蝦夷がすなわち今日のアイヌを意味するようになったのは、東北の異民族といえばアイヌしかほかにいなくなった時以来のことである。それは我国の勢力が奥羽の北端近くに伸び、蝦夷をえぞと呼ぶようになった平安朝末のこと、真に蝦夷アイヌであることを確実に語ったものは、正平十一(一三五六)年にできた諏方大明神画詞である。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.3.20 より引用…

先の項から改めて書き直し…

・近世以降アイノと名乗る人々は居た→

・近世アイノは千島,樺太の人々に近い→

諏訪大明神画詞の日ノ本,唐人はそれらに近い…

古事記,日本書紀蝦夷と書かれた人々がいた→

・それらは異民族→

・東北の蝦夷(エミシ)が朝廷に「服從させられ」、異民族と呼べる人々がアイノしか居なくなった…

これで「蝦夷=アイノ」と言う図式を解説している。

で、その根拠となる古書は「諏訪大明神画詞」だ…こう書けばわかり易いか。

恐らく、ほぼ無条件で「蝦夷→アイノと直訳」している方の論理はこうなのだろう。

まずは、「蝦夷」と言う人々のイメージの源流は「古事記日本書紀」による…と解った。

ではそのイメージはどうなる?

「和漢三才図会」寺嶋良安  吉川弘文館  明治39.11.21  より引用…

 

「和漢三才図会」は1712年、寺嶋良安の手により出された、謂わば「江戸期の百科事典」…筆者の手持ちは明治に再版されたものだが。

江戸期の蝦夷に触れる記述と言えば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/24/195739

「生きていた証、続報35…「東遊雑記」に記された「竈無し」と秋田県史との矛盾、そして「夷人」登場」…

その江戸期の武士層からみて「遅れた人々」みたいなイメージだろうか?

ここまで来たら解るだろう。

これ、「古事記,日本書紀」らに書かれたイメージが、ずーっと我が国では踏襲されてきている事になる。

平安での「安倍宗任」へのイメージ、同じく在地勢力で最初に就任した「鎮守府将軍清原武則」へのイメージ…

まぁ都の御貴族様方には、あまり良い印象で捉えられてはいない様だが。

古事記,日本書紀」で形成されたイメージが、読みつがれそのイメージをベースに「聖徳太子絵伝」らの絵図を描かれ、それは「和漢三才図会」までも受け継がれているのではないか?

と言う事は「事実とは別に」似た様な者が描かれる事になる。

これはある意味当然で、元々「古事記,日本書紀」は我が国の史書として編纂されたのだから。

言い難い事を書けば…

蝦夷をアイノと直訳する」事は、「古事記,日本書紀」に描かれた史観にアイノ文化を当て嵌める行為。

思い切りの「皇国史観」になるのでは?

戦後教育は「皇国史観」からの脱却を最重要目的とされたのは言うまでもない。

更に言えば、今迄のブログを読んでみて戴ければ解るが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

吉田菊太郎翁はこんな史観。

これは戦前生まれなので当然そんな教育を受けたから当然かも知れない。

では、考古学での発掘事例で出てくるものは?…殆ど本州産で異民族的なものは殆ど無い事実があり、蝦夷っぽいものはと言っても、奈良〜平安で既に小異はあれど、竈付きの竪穴住居に住み、末期古墳を造営し、毛皮は着るが都に出荷したのは「毛布狭布」…etc…そんな大異があるのか?宗教も大差なくなるのに。

これなら「南北朝位には同化していた」…こんな結論に至っていてもおかしくはないのでは?

なら、何故わざわざそんな結論、吉田菊太郎翁が持つ史観にせず、その「皇国史観」に近付ける必要があるのか?

これはある意味想像し易い。

・朝廷に服從させられた…

・権力で押さえつけるた…

そんな「対立軸」が霧散してしまうから…ではないのか?

故に「文化区分の定義」、つまり象徴アイテムらの設定で「文化による学術的時代区分」を明確にする事も出来ない…そう見えるのだが。

これは極めて「政治的判断」と言わざるをえないだろう。

学術的判断は、事実の探求による「普遍なもの」で、新事実の発見でアップデートされていくもの。

政治的判断は、時代の背景や世論,世相で常に変化するもの。

考古学の実績が積み上がってきた今日、わざわざ「皇国史観」に近付けず、アップデートした方が良いのでは?

この辺が筆者には理解不能なのだが…

 

話を元に戻そう。

最新刊だけ読めば最古の絵図は「聖徳太子絵伝」と思えて来るが、引用した原版では必ずしもそれを「断定していない」事は解って戴けたであろうか?

そして無条件に「蝦夷→アイノ」と直訳する事は「皇国史観」に基づく事になる…これは高倉博士の話を読んで、その根拠を確認していけば想像に易しい。

こんな感じである。

まぁ、直訳している方々がそれに気付いている様には見えないのだが…良いのだろう。

引用した著者は、その辺を理解,踏まえた上で仮説する。

その辺の理解が無い方は、著者の仮説を鵜呑みにする。

せっかく引用文を紹介してくれているのだ。

気になったなら、遡り確認すべきである。

「原版まで遡れ」…これは我々がずーっと言ってきた事。

我々はただ、実践しているに過ぎない。

 

因みに高倉博士は、喜田貞吉博士の影響を受けていたかと…

それなら、何となく納得である。

 

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 

アイヌ絵集成」 高倉新一郎  番町書房  昭和48.5.20

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.3.20 

「和漢三才図会」寺嶋良安  吉川弘文館  明治39.11.21

 

何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」‥

さてここを前項として、関連項はこちら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

である。

勿論、前項で紹介した関根氏の「つながるアイヌ考古学」でも触れているのだが、何時擦文文化が終焉し、何時からアイノ文化化するのか?…は、現状も閑々諤々で結論をみない。

考古学からのアプローチでは、基本的に「擦文土器消失→鉄鍋化」又は「竪穴住居→平地住居化」がベースとなるのは概報。

関根氏、いや、関根氏のみならず、北海道を回って尋ねてみれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「弾丸ツアー報告-1、恵庭編…江戸期の物証的「空白期」、そして「アイノ文化を示す遺物は解らない」」…

厚真と千歳の事例をもってして「中世と近世が繫がった!」と言う話になる。

ここで厚真の実績やTa-b降灰らの遺跡喪失らを絡めて話を続けると沈黙となり、「諸説あり」と教示戴けたりする。

結論から書くと、擦文文化→アイノ文化を含む時代区分がどうなのか?は「諸説あり」になる。

考古学でのアプローチは先述したが、アプローチの仕方により捉え方が一致しないと文献に書いてある。

では、どんな風に捉えられているか?確認してみよう。

 

①擦文文化終焉時期…

たまたま入手した文献にあった小野裕子氏の論文より。

この論文時点でも擦文→アイノの変容点は何時からか?については、「北奥蝦夷の道央への移住」からという大井説の「11世紀前」から始まり、多くが支持する「10世紀半ば」とされる。

更に擦文文化終焉に関しては概ねの「12〜13世紀代」に対して、「15世紀前半」や「商場設置時期」とするもの迄それぞれ数百年の差がある。

だが、これらに共通する点は、

・中世日本海交易らを始めとした本州との交易,接触がアイノ文化化を引き起こす…

・擦文→アイノの変容は「連続的である」…

この2点。

ここで問題となっていたのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

前項でも関根氏が「ミッシング・リンク」に触れていたと書いたが、丁度過渡期の中世遺跡が薄くて、連続性や変容する様を確認する事が出来ない…だから「厚真の実績」が如何に重要な位置を占めるか?、「繫がった!」と敢えて記述する根拠とされる訳だ。

前項で我々がそれに対して主張するのは、

・厚真だけの実績で、全道を示す事が出来るの?

・「修験」の影響を重く見れば、本州と同化の方向に向かうだろう(宗教の根源が共通になる為)

・人の移動に伴い変容するのは同意だが、交易量拡大らを伴うとすればやはり同化の方向に向う…これは道央〜日高ライン上で顕著になり、口蝦夷〜奥蝦夷〜赤蝦夷の文化グラデーションが出来てくる…

こんな感じ。

中には、ここまでハッキリ書かないとピンと来なかった方もいるかと思うが、ずーっと言ってきたのは平たく書けばこうなる。

擦文文化段階で、東北とかなり近いものになってくれば、更に接触が増える中世で異文化化してくるか?…極単純な考え方。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010

樺太,千島と本州人との両血統持ち、帯刀した人の痕跡…「択捉島」で出土した人骨と日本刀」…

こんな事例もあるのだし、より遠くへ(商売上の)活路を見い出せば、外部(それが例えばイテリメンやニヴフ等)と混雑して外部文化が口蝦夷より濃い方向に行く。

謂わば「半連続的」又は「連続的」と「断続的」との複合…と、言うべきか。

恐らくこの「連続的」を半ば否定するのが「タブー」なのだろうが、我々は学会とは何の関連も無いので問題無くこれを言えてしまう訳。

おっと、話を戻そう。

小野氏は「日本海交易隆盛期移行に全道的アイノ文化化促進」との立場なので「15世紀前葉」との事。

その根拠としているのが「土器消失→鉄鍋化」のタイミングな様だ。

「鉄鍋と確実に共伴した擦文式土器の事例はこれまでのところ未確認である。鉄鍋の存在を窺わせる内耳土器との共伴は、ごく僅かだが知られており、中でも根室の西月ヶ岡遺跡七号竪穴住居址からは良好なセットが確認されている 〔八幡他編 一九六六〕。オホーツク海側にある 常呂町周辺の擦文式土器では終末段階に土器が小型化することが指摘されているが「藤本一九七二、四三三〕、この七号竪穴の組成は(図1)いずれも口径一〇㎝前後の擦文土器、および口径一五㎝の内耳土鍋からなるが、小型高坏が伴う点で終末段階より多少遡るものと思われる。」

「他方、現在までのところ、道内で確認される鉄鍋は十四世紀中葉以降のものである〔越田二〇〇三〕。東北地方では例数は少ないものの、平泉柳之御所奥州市玉貫遺跡で十ニ~十三世紀の鉄鍋が出土しており、しかも十二世紀前半代頃を下限として土器が集落址において検出されないので、北海道が特殊な状況であることは確かだろう。しかし、道内における土器の廃用時期についての主流の見方は、陶磁器や古鏡、あるいは東北北部との関係から十二、十三世紀代とするものである。その場合、鉄鍋の確認時期との空白は、内耳土器の使用を想定するか〔宇田川 一九八〇〕、資料の出土率に関わる要因に求めるか(越田 前出、一二二〜一二三、あるいは鋳物師による回収〔瀬川 一九八九〕などの要因によって解釈されている。このうち内耳土器の普及段階を挟んで鉄鍋へと移行するという点については、鉄鍋の高価さから見て、入手が難しい場合内耳土器を持って充てるということは十分考えられる。しかしこうした事態は、 必ずしも全道一斉に生じる訳ではなく、入手し易い地域や集落間、あるいは対価の獲得に長けた世帯間とそうでない個でばらつくことが予想され、移行期として普遍的に設定する事は難しいと思われる。」

「このように擦文期とアイヌ期の移行期に関わる銛頭に機能強化と見られるタイプが出現していることは、上で述べた交易対価の獲得に向けた動きと捉えて良いだろう。これが「十四世紀中葉」以降に確認例が増え始める鉄鍋のあり方と連動する可能性は十分あると思われる。現時点では、十四世紀中葉~十六世紀中葉以前とされる鉄鍋のさらに個別的な年代は得られていないので、ライトコロ川口十一号上層遺構における内耳土鍋、同鉄鍋、そして機能強化を窺わせる結頭の存在から十五世紀前集前後にはアイヌ文化が道東部においても確立していたと考える。小論では僅かに銛頭の事例を挙げるに留まったが、冒頭で触れたように、交易対価の獲得に向けた努力は、アイヌ社会におけるイオルの成立に見るように、擦文社会の土地と資源の配分のあり方を変化させたと考えられるので、擦文終末期の遺跡と近世アイヌ期の遺跡の比較分析を通じてこの動きを捉えることが必要である。

さて、これまで論じてきたことからアイヌ文化への変容は商場設置段階より早い時期から始まっていた可能性が強いことが言えると思う。特に、東北北部への自由な航行が可能であれば、利器を始めとする必要品は和人との交易を 通じて獲得することができたと考えなければならない。しかし、一つ大きな問題がある。それは東北北部における擦文式土器は、道東部を中心に分布する最終段階の土器群を含まないことである。それまでの土器を伴う東北北部への擦文人の進出が利器の入手を始めとする交易目的とされていることは周知のことだが、この最終段階の土器が東北ではもはや出土しないことは、擦文人が東北北部に出向いて交易をしなくなったことを意味するのだろうか。天野が指摘しているように道東部の擦文文化の鉄器保有率は、前半期にくらべかなりの増加を見せる〔天野一九八九〕。道東部の集団はその器をどこから入手していたのだろうか。一つの考え方は、道央部との交易を行うことである。道央部と道東部の終末年代の併行性の根拠に土器群の類似性を挙げる意見が一般的だが、筆者は両地域の土器群には時間的ズレがあると考えている〔小野裕子 二〇〇七5)。道東部集団が擦文終末期にどのような地域と、如何なる交易をおこなっていたか、これについてはまだ多くの検討課題が残されている。

さらに、冒頭に挙げた終末年代のズレについてだが、筆者の場合もまた、他の諸氏の十三世紀前葉頃という年代観とは二百年ほどの開きがある。」

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」  小野裕子  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31  より引用…

小野氏は土器消失→鉄鍋化の補足で「銛頭」の変化を合わせ検討し、上記の様な論へ至った様だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/15/120448

空堀は何工数,何日で築かれたか?のきっかけ…入口として「遠矢第二チャシ」をみてみよう、ただ…」…

ありゃ?

道東は関連有りとされる遺構である「チャシ」の中にはMe-aで被覆される物が。

こうなると、道東での連続性に疑問が出てくるのだが…良いのかな?

と言う訳で、2007年段階でも土器消失→鉄鍋化の時期や遺物の解釈には数百年ギャップがあり一致をみておらず、それは関根氏の本でも触れられている。

ただ、今迄で触れてきたが、擦文文化期の遺跡の移動,拡大が道央→道北,オホーツク→道東と時計回りに行われた事、

「十一〜十二世紀の擦文人は何をめざしたか」  澤井玄  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31  の竪穴の移動と鮭鱒→矢羽根用猛禽類の羽根の需要(武士の台頭による)らの朝貢品,交易品のトレンド変化、これらによるものとの見解は割と一致している様だ。

この移動状況と商品変化について澤井氏は、『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』においても同様の見解を寄稿している。

要は「生業」としての商品変化に着目し、特に本州との接触が文化変化の引金となる…と言っている様だ。

これについても、我々の見解は上記通りである。

現状は「アイテムを並べ、それで変化点を見る」様な手法がトレンドとして続いている模様。

ただ、一つ疑問を投げ掛ければ…

「変化点は見えるが、それをアイノ文化の源流と言えるのか?」、「接触の増大で異文化化が可能なのか?」に対しての答えにはなっていないのでは?…これが、我々が当初から持っていた疑問でもある。

 

さて、これだけで終わっては面白くもなんともない。

では、上記考古学的視点以外での視点はどうなるか?

これも『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』に記述あるのでそれから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

こちらで引用した簑島栄紀氏がまとめている。

謂わば「研究史」と言う事になるのか?

それぞれの時代で影響を及ぼした研究者と論文,書籍,概念を羅列していこう。

・「アイ丿文化期」概念の成立…

河野広道・名取武光

「北海道先史時代」…1938

大場利夫

「北辺の先史文化」…1959

宇田川洋

アイヌ考古学」の概念…1980年代

以上、3点…

1938年段階では「アイノ文化期」と言う概念はまだ未成立で、1950年代に河野広道博士がそれを提唱し始め、大場氏がそれを継承したとしている。

簑島氏が注目したのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

「この時点での公式見解⑭…新北海道史が示す「アイヌ民族が古代と繋がっている」根拠」…

「今日では、丁度日本人の先祖が石器、土器を製造したことを忘れてしまったと同様、近代アイヌも忘れてしまったのであって、北海道の先史時代遺物はほぼ確実にアイヌの祖先が製造したものであると考えられるに至った。」…この考え方だ。

元々から擦文文化→アイノ文化での断続を強調してはいない。

我々的には貼付の通りこの考え方、継続性を「前提条件」としないと成り立たないのでは?…これ、再三書いてきた。

話を戻す。

ここで宇田川氏が「アイヌ考古学」を本州の中〜近世に規定したそうで。

「独自の民族文化の歴史として正当に位置づけよう」としたのは宇田川氏の様で。

 

・「アイヌ文化期」概念の展開と課題…

埴原和郎・藤本英夫・浅井亨・吉崎昌一・河野本道・乳井洋一

「シンポジウム アイヌ−その起源と文化形成−」

渡辺仁

アイヌ文化の成立−民族,歴史,考古諸学の合流点−」 『考古学雑誌』1972年

以上、2点。

この内、前者のシンポジウムとはこれの事。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/11/185850

「定義や時代区分はそれで良いのか?…「河野本道」氏が問いかける事とは?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/12/185631

「定義や時代区分はそれで良いのか?、あとがき…河野氏の問いかけに答えられる者はいるのか?」…

後者は興味深いので、渡辺仁氏の部分について引用してみよう。

「「シンポジウム アイヌ』の歴史認識の、もう一 つの重大な問題性は、同様の論理を、過去の文化集団だけでなく、近現代のアイヌ文化にもあてはめようとすることである。そこでは、近現代に大きな変容を被ったアイヌ文化・民族は、もはや「真正のアイヌ文化」とはみなされなくなってしまう。

「シンポジウム アイヌ」と同年に発表され、今日も大きな影響力を有する渡辺の学説にも、 同様の課題を指摘できる。渡辺は、「アイヌ文化」とは「民族学的に周知のアイヌの文化」「民族誌的現在に於けるアイヌの文化」であるとして、 「アイヌ民族アイヌ民族たらじめてある中心的文化要素は何か」「それがなければアイヌとはいへなくなるような基本的文化要素は何か」と問う。そして、「アイヌ文化の中核(真髄)」を、 「クマ祭文化複合体」と規定する。

和人研究者が「典型的なアイヌ文化」「アイヌ 文化の本質」を抽出し、定義しようとする行為に対しては、佐々木昌雄による厳しい批判がある。 佐々木は、「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」とまず考えているのだということである」とし、「〈アイヌ〉だけを厳密に規定しようとして我が身(シャモ)がスポッと抜けおちているような発想」として、「日本史」 と「アイヌ史」とのあいだの不均衡、非対称性を鋭く指摘した。

上記の議論は、現実に生きる人々、現に存在する集団を、他者が「定義」しようとすることの権力性をあらわにしている。

1989年採択のILO169号条約第一条2項は、先住民族の集団性に関する基本的な判断基準として、自己認識(self-identification)を重視する。また、2007年の国連宣言に結実する、コーボ報告書(1983)の論理や、先住民作業部会(WGIP)の議論も、「定義は本来、先住民族自身に委ねられるべきもので、自らを先住民族と決定する権利が先住民族に認められなければならない」ことを強調する。今日、先住民族において、その「定義」や、集団のメンバーシップの決定は、当事者による自己決定権の重要な一部としてとらえられるようになっている。考古学や歴史学も、こうした現代社会の動向に向き合い、対話していくことが求められる。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25  より引用…

簑島氏始めとした研究者が引っ掛かっているのはこの点だろう。

おいおい…文字や遺物を持って散々「都に対して遅れる」と筆者の先祖たる「蝦夷(エミシ)」を馬鹿にし…もとい、指摘してきたのは誰だ?

それに基づき「北奥蝦夷の移動」…へぇ~…

あれ?「ILO169号条約第一条2項」って我が国、批准してたっけ?

で、歴史を扱うと言うなれば、その主張の変遷を踏まえて「集団がどう考えてあるか?」確認するのが、本来の「寄り添う」スタンスになるのでは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/26/045821

「民族運動第1世代との差異は何か?…現代「その血を引く人々」の発言ついての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

ざっと、今迄読めた部分での「活動家第一世代〜第三世代」迄の主張はこんな感じで変遷している様だ。

同時に、当時の世相の一部を背景として貼っておく。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

世相は重要。

そうでなければ「知里真志保博士による、河野広道博士に対する糾弾事件」なぞ発生はしないであろう。

知里博士の側に居たのは誰か?…

まずは次へ行く。

 

・時代区分の指標としての「交易」論…

ここは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」‥

ここで駒井和愛移行の研究史としてざっと触れているので割愛。

'70sの定義付けらは棚上げし、交易らにより「過去の復元」へ舵を切り直した印象も受けるが、気のせいだろうか?

簑島氏はこれらを踏まえ、

「上記の研究史を踏まえて、簑島は、倭、日本 との交流・交易の変遷を基軸として、およそ3~ 13世紀の北海道地域で人々が繰り広げた歴史を、「アイヌ史的古代」(アイヌ史における古代)とすることを提案した。鉄器の普及状況などからみて、統縄文後半期(3~7世紀)は、北方圏における交流・交易の大きな画期であり、当該期の対外交易は、北海道の経済・社会・文化のゆくえに幅広い影響を及ぼした。蓑島の「アイヌ史的古代」 は、瀬川の指摘する構造変動が10世紀に一斉に進んだとは限らず、より段階的に進展した側面を重視するものでもある。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25  より引用…

と提唱している。

 

以上がざっと研究史から見た擦文文化終焉→アイノ文化形成の状況と、時代区分や定義,規定の変遷について拾ってみた。

定説,通説とはあれこれ言われるが、むしろまだ問題がごまんと積み重なった状況。

故に定義付けや区分も、進んではいない様だ。

上記を書きつつ思うのだが…

元々論文とは、ある一定の視点から「事象を規定,定義し、それを調査し突き詰め、論を書いたもの」だと思うのだが。

裁判で最初にやるのは「争点設定」。

当然、学問なら「規定,定義された論」が成り立つのか?…これが論戦の争点なんだろう。

渡辺仁氏の論の件を「興味深い」と思ったのは、その辺である。

問題点を指摘するのは良しとして、「渡辺説そのものが成り立つか?」…本来やるべき事はこちらなのでは?

浅学のド素人的には…

その「定義設定者がダメ」と言うなら、我々の様に各時代の集団側の指摘する集団定義を抽出し、「そこに至る迄の過程を明らかにする」…必要なのはこちらなのでは?

例えば…

渡辺説の定義なら、熊送りが明確なのは江戸期になる…これ当然の事。

集団側が「熊送り」を重視したのは事実であろうし、断絶に至る過程では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033

「「アイヌブリな葬送」は虐待ではない…藤本英夫氏が記した「家送り」と、当時のマスコミの世論操作」…

家送りの断絶や世相、そして時の首長の判断らが強く影響しているのも間違いないだろうし、それ以前に自ら止め、殆どが観光として行われていたのは言うまでもないので、渡辺説には妥当性があるのでは?

例えば…

ムックリに設定すれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417

「この時点での公式見解-28…「旭川市教育委員会のスタンス」と、旧「旭川市史」に記された「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」との関係」…

明治になる。

例えば…

鉄鍋に設定すれば、上記通り15世紀だろうし…

これらの源流を追い、それを束ねた上で交易論らを乗せていく…こんな作業をやれば良いだけだと思うのだが。

集団サイドから「文化真髄と考える物はなにか?」を聞き取りだして、その源流を追うのが「最も寄り添った形」になるだろう。

まずここに書いているのは「文化論」で、「血統論」ではない。

どんな血統であれ、そこに住んでいた者がそんな文化で暮していた…これを立証していくだけで、それらに血統論を乗せるのは「文化形成過程が固まってから」なのでは?

で、これは別に北海道に限った事ではない。

現状でも、日本史研究で事象の源流を追う事はやっている訳で。

最終到達点は現在の「我々は憲法で定義された日本国民である」に至るだけの話なのだが。

話を戻そう。

本来、学問として追求すべきは何時からアイノ文化期が始まるか?…ではなく「アイノ文化とは何か?」、同時に「日本文化とは何か?」だと思うだが…違うのだろうか?

「アイノ文化とは何か?」が決まれば、自ずと文化開始時点も決まり、そこに至る過程は「過渡期」になる。

先日もSNS上で話をしたが、漠然として定義化されていないと言う話があったが、それは「上記の様な事情による」のだろう。

学問はタブーなぞなく、自由に論戦を繰り広げて良いと思う。

真実の追求こそ、学問の真髄…こう「定義」するなら。

学問の自由は保証された権利。

ただ、筆者が考えるに、その自由を行使するにはたった一つ負うべき義務があると思う。

それは「政治に干渉しない」だ。

何故なら血税が動き、利権が発生する根拠を作り、権威を与える危険性を帯びるから。

政治に干渉した段階で「道義的責任」からは免れない…当然の事。

政治に干渉したか?否か?は、その委員会らでの主張らと論文とで物証が担保されるので、オフレコでは済まないだろう。

 

さて、我々も闇雲に掘り下げでいた訳ではなさそうだ。

案外、研究史らで指摘される部分を抑えている様で。

だから先行ブログを貼付出来る…だったりする。

さて、次へ…

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」  小野裕子  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31

「十一〜十二世紀の擦文人は何をめざしたか」  澤井玄  『アイヌ文化の成立と変容』  法政大学国際日本研究所  2007.3.31 

「擦文社会の動態」 澤井玄『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀  『季刊考古学別冊42  北海道考古学の最前線』 2023.6.25

最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる

さてさて、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331

「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

一通り、簡易的な予備知識を入れた処で、最新研究の動向を確認していこう。

この本の出版は「中世墓資料集成」確認作業中で知っていた。

SNS上で「こんな最新版を読め」みたいな話を見た事があるし、自分で見た物と研究者の最前線との隔たりがどの位なのか?は確認の必要はあるので、買ったまま平積みして順番待ちにしていた。

筆者は右も左も無いので、提示された資料を読むなんて事に躊躇はない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019

「南部氏の城館を追う…安東vs南部抗争と北海道史との合致点」…

この「陶器底部線刻」を教えてくれたのはウポポイのマーク氏。

もっとも、それを元に確認した結果は真逆のこれだが。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842

「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…

厚真のこれは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537

「時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?」…

粘着性を持つアカウントからの情報。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

ちゃんと現地迄足を運び、レクチャーを受けてきた。

知識0から始めた筆者にとっては、情報提供は有難い事。

多少「学がない」「古い文献しか知らないのか?」と罵られ様がそんなものはどうでも良い事で、そこから掘り進めて確認すれば良いだけの事。

もっとも、至る結果は教えてくれた方々の話とは真逆の結果に辿り着く事が多いのは何故なのか?

まぁそれもどうでも良い事だ。

 

と、言う事で、早速中身を読んでいこうではないか。

まず、冒頭から「最前線からの前提条件」を同書から引用しておく。

「すなわち考古学では編年研究が進み、縄文文化アイヌ文化は直接つながるもので ・はなく、少なくとも一千年以上の開きがあることが明らかにされた。」

「北海道の縄文文化は、植生の境界にあたる道央部の石狩低地帯や、北海道南西部渡島半島つけ根の黒松内低地帯を境に、道東・道央・道南の文化圏に大別されるが、黒松内低地帯以南の道南部は縄文時代を通して本州北部と一体の文化圏を構成しており、津軽海峡が文化圏の境界になることはほぼない」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

前提①

よくSNS上で縄文とアイノ文化の直接の継続性を語る方々が居ると聞いているが、それは考古学的には「否定」されている事だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150

「時系列や層別らの重要性…河野廣道博士からの警鐘」…

ここで我々も述べているが、既にそんなものはとうの昔に否定され、北海道観光が活況を浴びる度にマスコミにより焚き付けられているだけのもの。

昭和初期でも最新研究でもハッキリ指摘されている。

これを語る事は「学問への冒涜」「亀ケ岡文化の否定」に繋がる。

きっぱり「止めておけ」と言いたい。

前提②

縄文期段階で「津軽海峡が文化圏の境界になることはほぼない」のも、学術的に認められた話。

「デカくて塩っぱい川」と例えられるのはその為。但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」

どんな川でも渡るには「コツが要る」事を忘れてはいけない。

この二点を「前提条件」としておく。

同書は、

・第1章  アイヌ文化へのまなざし

・第2章  アイヌ研究の歴史

この2章で背景や研究史の解説、

・第3章  アイヌ文化成立前の北海道

・第4章   アイヌ文化の形成と特徴

・第5章  和人の進出とアイヌ文化の変容

この3章で文化成立のプロセス解説、

・第6章  本州アイヌ樺太アイヌ

ここで外部文化との関連性、

・第7章  アイヌ考古学の展望

と言う構成。

 

①背景…

著者は、

・最古史料→「今昔物語(12世紀)」

・姿を描いた最古史料→「紙本著色聖徳太子絵伝(1321年)」等同系絵巻

・中世詳細史料→「諏訪大明神絵詞」

・近世最も古い史料→「蝦夷志(新井白石,1720年)」

菅江真澄の一連文書

他、近代ではモース,シーボルト,ディキンス,ミルン,坪井正五郎,ヒッチコックらが取り上げたとして挙げている。

同書内で取り上げた主な古文献は他に

新羅之記録」「アンジェリス&カルバリオ神父の報告」「フリース船隊航海記録」等。

おっと待った…

「今日知られるアイヌを記した最古の史料は、一二世紀に書かれた『今昔物語」と考えられている (海保夫一九八七「中世の蝦夷地」吉川弘文館)。『今昔物語」(国史大系本)では、陸奥国奥六郡(現在の岩手県奥州市~盛岡市)の支配者である安倍氏を古代東北の蝦夷(エミシ)に列なる「酋(エビス)」 の長、これよりさらに奥の住人を「夷(エゾ)」とし、エゾとエビスが区別されている。 」

「エミシ」と「エゾ」の分布定義をこうした直後に「紙本著色聖徳太子絵伝」について、

「場面は、敏達天皇一○年(五八一)に起きた蝦夷の大蜂起の際、一〇歳の聖徳太子天皇に建言して、大和国 三輪山麓を流れる初瀬川(大和川の上流)の辺りでみずから蝦夷の巨酋綾糟を説服されたという伝説にもとづく「十歳降伏蝦夷所」である。おそらく描いた絵師は実際にアイヌを目にしたこと はなかったと思われるが、アイヌの伝統的衣装の一つで「ラプ ル」とよばれる鳥の羽根でつくった衣を身にまとった人が描かれていることからわかるように、アイヌに対する知識はある程度持っていたようだ。注目されるのは、蜂起を諫める馬上の太子の前にひざまずく四名の蝦夷のうち、三名が持っている半弓とよばれる短い弓と矢筒である。当時和人が アイヌに対して弓矢に長けた人々というイメージを強く持っていたからこそ、このような絵が描かれたにちがいない。」

としている。

矛盾に気がついただろうか?

・アイノ文化成立は擦文土器消失と規定…

聖徳太子の時代はまだ国衙が東進,北進の時代で東北には到達せず…

仮に擦文土器消失が14世紀だったとして、事件のある581年とは約900年、北上市三輪山の距離約700kmの時空を「吹っ飛ばして」アイノの姿とするのか?

筆者はこれを「キング・クリムゾン効果」と呼びたい。

荒木飛呂彦氏の漫画「ジョジョの奇妙な冒険第五部」のラスボス「ディアボロ」が使うスタンド(特殊能力)「キング・クリムゾン」は、正確な予知をして「自分の考えに不要な時間数秒を吹っ飛ばす」事で能力者の都合の良いように前後の時間を繋ぐ事。

前提①もそうだが、ここでも時系列上900年、距離700kmの時空を吹っ飛ばして、聖徳太子の時代の事件と後代文化を接続している。

先の略定義を逸脱した上で最凶版「キング・クリムゾン効果」は如何なものか?

これが、遺物と伝世品による接続が完成しているなら良いだろう。

だが、まだ擦文土器消失すらハッキリ規定出来ない現状。

その絵図に描かれたのは、エミシ?エゾ?

まぁ特段驚く事はない。

ぶっちゃけ「あるある」なのだ。

付記すると…

「またこの時代以後の他の記録には「糠部の駿馬」の起源でもある狄馬や、鹿角地方の特産品である毛布狭布、あるいは貂裘・粛慎羽(北方産の鷲の羽か。写真60)・胡籙などがみえ、中央から、北の 世界独特の物品が強く求められるようになっていた様を知ることができる。

毛布狭布とは、麻・苧の狭布に山鳥・野兎の毛を混ぜて織っ たもので、仏教思想によって毛皮を着られない京都貴族の冬の必需品ともいわれているものである。これを産する鹿角は、それゆえに「けふの郡」とも呼ばれた。三十六歌仙の一人能因法師の和歌(『後拾遺和歌集』・写真61)にもこの布が登場するほど都では著名なものであった。」

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」

新編弘前市史編纂委員会  平成15.11.28  より引用…

拾遺和歌集の成立は11世紀頃。

この頃に鹿角はもう俘囚扱いだろう。

今昔物語や紙本著色聖徳太子絵伝成立前から「毛布狭布」は都で珍重されていたのが解る。

まだアイノ文化の欠片もなく世は擦文文化真っ只中、直結は出来ないのでは?

それに、延喜式上、出羽国は我が国最大級の「絹の産地」である事を忘れてはいけない。

さて、考古学としては、駒井和愛、渡辺仁、宇田川洋、佐藤宏之、天野哲也、瀬川拓郎…で関根達人らの実績を挙げる。

って、河野広道博士の名前が無い…

戦前から後藤寿一氏らと江別,恵庭古墳群やアイノ墓標の識別ら、草分け的存在なのに…ただ、この辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834

「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…

「糾弾事件」らで察するべし。

学閥や如何に「ムラ社会」なのか?解かろうものだ。

因みに…

「敗戦により外地のフィールドを失った研究者が、北海道・沖縄・奄美対馬といった「内なる外地」に目を向けるようになった戦後である。一方、人類学や民族学では、「混血或いは異文化との接触に 依って、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつつあるのであって、速やかに人類学的民俗学的総合調査を運行しないならば、遂に永遠にアイヌ文化の究明は不可能となるかも知れない」(日本民族学協会」 一九五○「アイヌ民族総合調査の計画」『民族学研究』一五-一、三四頁)との認識のもとに、一九六〇年代までは アイヌの遺骨収集や親族関係調査が続けられた。しかし一九七〇年代にはさまざまな社会運動と交 したアイヌ民族復権運動のなかで、それまでの人類学や民族学によるアイヌ研究にも厳しい目がむけ られるようになり、それらの分野でのアイヌ研究は後退せざるを得ない状態となった。」…

だそうだ。

その辺の背景は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」

我々も捉えている。

活動家第一世代の後見人をやった河野広道博士と、'70sの活動家に同調した研究者…著者がどちらに近いスタンスかはこの辺で見られそうだ。

第一世代が非常に「観光アイノ」を嫌っていたか?は、ずーっと述べてきている。

 

②文化編纂…

第3章についてはほぼ書く事がない。

と言うか?

同書でも、
・縄文
・→続縄文
・→擦文
・→何らかの理由,影響で「土器喪失」
・→アイノ文化化に文化変容…

ここまでは最早通説的に言われている事で、それを解説している。

ここでハッキリ、

恵山式は弥生土器の影響を受け、江別太式は恵山式の影響を受ける」

「擦文土器は土師器の影響で成立」

「大陸系のオホーツク文化は擦文文化に吸収される」

との認識を記述している。

この辺はもう他の論文を読んでも、異論は出ている様子がなく、概ね見解の一致をみている様だ。

ここに「キング・クリムゾン効果」は発動のしようがない。

故に「何時何をキッカケに擦文土器消失し、何の影響を受けるのか?」…これが現在の研究者達の課題である。

縄文〜擦文迄、北海道が孤立し独立した歩みだったと言う事実は無い。

実は著者、江別古墳群らの被葬者は、「北上したエミシの支配層」と言うスタンス。

その上で、擦文文化の成熟過程で在地の人々と同化,吸収されただろうと述べている。

文化伝播に留まらず、少なからず移住を伴うと言う事。

対岸の東北らとの関係の影響を受け、行き来し、都の動向も反映した上で文化成立している事を忘れてはいけない。

ここで、著者はオホーツク文化とアイノ文化の類似性についても3点の問題点を挙げている。

これは当然なのだ。

オホーツク文化が擦文文化に吸収されるのは土器消失以前なのだ。

よく「熊送り(イオマンテ)」の原型をオホーツク文化に求める論はあるが、これも「キング・クリムゾン効果」と言える。

現実には、オホーツク文化で見られる熊の頭骨を並べるらが、擦文文化へ吸収された後に再出現するのは江戸前〜中期の古文献で、考古学的にも文献的にも約450年の空白がある。

これを埋める為に必要な鍵として

・「 九~一〇世紀、擦文文化によるオホーツク文化の同化の過程で、擦文文化のなかに組みこまれたオホーツク文化の文化要素を抽出する。」

・「 一三、一四世紀のアイヌ文化のサハリン・千島列島への北上にともなう大陸文化の受容を明らかにする。」

・「アイヌ文化を構成する文化要素の系譜をオホーツク文化と擦文文化に限定せず、ヤマト文化も視野に入れて検討する。」

を挙げる。

理由は極簡単。

近世以降のアイノ文化に対し、擦文文化やオホーツク文化がどの様に受け継がれたか?の系譜が全く未解明だから。

それぞれの要素を分解し大陸,本州も含め系譜解明しなければ、そんなもの解かろうハズもない。

最重要課題でもあろうが、熊送りはそんな確認すべき要素の一つでしかない。

では、個別に著者がどう見ているか?

 

A,墓制…

第1章に記述があるのだが、

・アイノ文化…土葬,伸展葬,厚葬,非墓石文化

・日本文化…土葬,座葬,薄葬,墓石文化

琉球文化…洗骨,再葬,非墓石文化

こう定義する。

だが、これは近世以降の比較でしかない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

著者が述べるアイノ文化形成〜近世初期迄の墓制確認は行った。

本州の座葬が広がるのは近世初期、主に都市化された後。

そこまでは土葬と火葬が入り混じり、屈葬と伸展葬が入り乱れる。

アイノ墓にしても、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006

「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…

最終到達点はここ。

本来、この定義に至り最終到達点へ向かうプロセスがないと、説明出来ないのではないか?

何より重要なのは前項でも述べているが、「アイノ墓の伸展葬化は末期古墳から」…これを述べていない。

一般書だからこそ書くべき事だ。

これらの実績が河野広道,後藤寿一博士らによるもの。

 

B,ミッシング・リンク

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130

「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…

こんな事は無いと言う方も居る様だが、著者はこれを認めている。

と言うか、明確に中世を謳える遺跡数が少な過ぎて、擦文土器消失や代替プロセスが見えない→文化変遷が証明不能

著者はその上で、厚真の一連の発掘調査、

・宇隆1遺跡の経壺…

・上幌内2遺跡の和鏡…

これらが平泉ら東北との繋がり、

・ワイヤー製垂飾…

北宋銭,ガラス玉…

これらを大陸系、特に沿海州との繋がりを示し、双方との「交易の民」としての初源的アイノ墓と推定している。

和鏡,ワイヤー製垂飾,北宋銭は同一墓の副葬で、和鏡の下部には毛皮があり、熊の毛と判定されたとの事。

その上で、著者は厚真の成果を根拠に中世でのミッシング・リンクの解消を示唆している。

だが…

これ見方によっては逆なのだ。

後述する伊達市方面の成果迄入れても、余市と厚真を繋ぐライン…「新羅之記録」にある「鵡川から余市迄村々里々」、このライン上の臨海、又は近い点でしか中世の痕跡は見つかっておらず、前時代擦文文化遺跡の広がりが急激に萎むプロセスを説明出来ていない。

現状は「厚真頼み」に成らざるをえない点をどう説明するのか?

と、この項で著者は、奥州藤原氏は交易と仏教をセットで接しようとしたが、擦文文化人は権威財は受け入れても「仏教を受け入れる事は決してなかったのてまある。」…としているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

厚真の見解は「文化の源流に修験有り」だ。

神仏習合…明治以前の我が国ではこんな考え方。

諸仏が権現と化し神の力を揮う…か。

切り離されたのは明治の廃仏毀釈からで、修験の受容は即仏教、それも密教要素の受容になる。

 

C,擦文とアイノを分けるもの

・鍋,漆器

細かくは書かないが、当然ながら土器消失段階で代替食器として鉄鍋+漆器と変遷したと。

だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/12/185112

「鍋について学んでみる…その東北,関東における起源と変遷」…

鍋については何度か取り上げた。

ぶっちゃけ、鉄鍋+漆器文化圏は北海道,北東北,京、ポツポツ北陸…だろうか。

面白い事に、中世墓の副葬だが、鉄鍋してカウントしているが、最初に書いた通り土鍋や瓦質羽釜もカウントしていて、関西以西は見事な迄に鉄鍋でなく土師質,瓦質に変わる。

北陸では、貸し鉄鍋+メンテナンスが商売として成立。

樺太,千島は内耳土鍋製造が近代迄継続した。

で、内耳土鍋の出現が早いのは南東北だったりする。

なので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…

こんな事を探る。

これをどう解釈するか?

鉄鍋+漆器文化圏が京と北東北と同一に起こる本道は、別に特徴的な出来事として語る必要はなく、日本海交易の延長線上で切り替わる…で説明可能で、奥州藤原氏からの交易量増大によるで問題ないのでは?

・装飾品

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/08/210833

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−2…螺旋形状をした事例3点の備忘録」…

この辺が、中世墓確認からの延長上で、本州事例らの確認最中。

但し、ガラス玉は何度も書いているが、中世墓への副葬事例は日本中にある、「数珠」と表現され。

ガラス玉は割と水晶玉と合わせて九州辺りで多くなるのではないだろうか。

著者は中世のガラス玉生産地を大陸に求めているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/27/184710

「「ガラス玉」の背景、あとがき…主な産地の一つは「インドネシア」、そして…」…

大航海時代後の最大産地はインドネシアだし、それは大陸へ送られていたし、引用している「フリース船隊航海記録」に樺太らで乗組員がばら撒いてる記述を著者は読んでいるハズ。

国内でも「一乗谷朝倉氏遺跡」にガラス玉工房跡は検出するし、何より江戸期に倹約令で廃れる前迄関西で作っていたのは確認済。

まだ当たれていないのは耳飾位か?

とは言え、これも引用しているアンジェリス&カルバリオ神父の報告にある様に、彼らが報告した「yezo」はテンショ(天塩と樺太方面)、メナシ(目梨泊と千島方面)の人々の様なのは著者も読んでいるハズ。

何故、国内事例と比較せず、山丹交易しか意識しないのか?

因みに後の項にあるが、19世紀頃に松前城下町でガラス玉の製作をしていた事を発掘調査で明らかになった著者は記述している。

そして、伝世品としてのタマサイの分析として5段階に細分出来るそうだが、最も古い年代で、17世紀後半迄「遡る」そうだ。

ん?

これは逆ではないか?

17世紀迄しか「遡れず」、まだ中世迄接続出来てはいない…ではないのか?

1600年代後半…Ta-bら火山噴火や寛文九年蝦夷乱の時代。

それなら納得。

実は「山丹交易」と強調はされているが、記録される物は魚や毛皮,皮革とされ、伝世品で明確にそれを証明する物は殆ど無いそうで。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…

これも平取と厚真でご教示を受けた通り。古い物が無いのには明確な理由がある。

端から伝世品が少ないのだ。

・チャシ…

著者は軍事施設か?祭祀施設か?…

これには「本来の機能は祭祀施設」で軍事機能は後に付加と判明としている。

ここは至極同意である。

但し、B,を見て戴ければ、我々が言いたい事は解るかと。

著者もその根拠に挙げる、厚真のヲチャラセナイチャシ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837

「時系列上の矛盾、厚真町⑧…これが本命「ヲチャラセナイチャシ」とは、どんな遺跡か?」…

これが「護摩堂」ではないか?と考えている。

つまり、「修験道場や神社仏閣跡」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651

余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…

土台、我々にとって「中世墓」の確認も修験の影響確認も、最終到達点は「余市の石垣は何か?」ここに至るプロセスの一つでしかない。

中世墓の分布やチャシ,中世城館の分布らと照らし合わせているのも、その手段である。

これは「今後として」だが、北海道式の形態区分で日本中の中世城館の形式分類をするつもり。

これなら、これら「祭祀施設」を北海道へ伝えた集団系譜が見えるだろう。

以前、チャシは14世紀位からと言われて来たが、著者も11世紀位から出現するようだと指摘している。

チャシそのものの発掘事例が少ないのもあるが、今後事例が増えればもっと明確に「構築時代が遡る」だろう…北東北の「防御性環濠集落」時代までだ。

・イクパスイ…

著者は現状最も古いイナゥやイクパスイと考えられる(又は源流)ものは「ユカンボシC15遺跡」の平安(擦文文化)期のものとしている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…

これの事。

ここで著者も「材質が本州から持ち込まれたスギやアスナロ」だとして、特別な理由があったと指摘する。

著者はここで踏み込む…

現状、同様のアイテムはニヴフ,ウイルタらでも確認され、中世位に出現する様だ。

つまり、ユカンボシC15遺跡のそれがそうだとしたら、13世紀のアイノ北上に伴い、彼らが外部のニヴフ,ウイルタへ伝播させた可能性が出てくる訳だ。

それもオリジナルは本州産材質に「拘りを持ち」だ。

あの…

秋田城ら平安に機能した「国衙・城柵」には必ず一名「陰陽師」が派遣され、地方での祭祀に当たっては教えを受けた者が代行したのではないか?とされているのだが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856

「時系列上の矛盾…「斎串,祭祀場」との関連性を見る為、能代「樋口遺跡」を確認してみる」…

こんな感じ。

その少し後だろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

この辺の地域と重なってくるか。

こんなところが再三言う「勝手にパズルのピースが組み上がる」と言うところ。

陰陽師」の指導で地方祭祀を代行したのが「修験僧,山の聖,行者」なら、修験の北上と概ね合致してくるが。

別に驚く事でもないのでは?

・火葬墓…

この辺が興味を持ったところ。

「合葬墓や茶毘墓もまた沿海地方に起源を求めることができる。沿海州アムール川流域のアムール女真文化では、一一世紀末の土坑墓の墓地において埋葬地点の上で火葬(クレマーツィヤ)する習俗がみられる。ウラジオストク近郊のナデジ ユジンスコエ墓地では、女性と幼児の合葬例や、「埋葬焼却の仮屋」の痕跡も確認されている。 アムール女真文化の火葬は、靺鞨以来の伝統的な土葬に「エグスグマーツィヤ」とよばれる遺骨掘り出しや棺焼却をともなう除厄浄化儀礼が 加わり、発達・複雑化したものと考えられてい る。ロシア沿岸地方オクチャブリ地区のスイフシ川右岸に位置するチェルニャチノ5遺跡から発見された墓はすべて二次的な火葬を受けており、そのなかに、土坑の底部に石を敷き詰め、遺体を納めた棺もしくは木製構造物を置いて火をつけるものや、土坑内に遺体を納めた棺もしくは木製構造を置き、土坑の周りを石で囲い、それらを焼く墓が報告されている。」

ほう!

靺鞨は元々土葬で、何らかの影響で火葬を始めた…か。

さて、中世墓を確認段階でも書いているが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331

「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…

11世紀の沿海州の事例に14〜15世紀と判断する余市「大川遺跡」、有珠「オヤコツ遺跡」の事例を重ねると、300年程度の「キング・クリムゾン効果」なんだが…

ここで、本州の事例比較らは一切無い。

北陸なら、同時期に方形配石遺構での火葬実績はあるのだが。

渤海国」は唐が認めた仏教国。

仮にその形式が渤海から伝わったとしても、北陸経由が時系列上の矛盾が消えるのだが。

それに、方形配石遺構に蔵骨器を埋葬した「火葬墓」は、持っと遡る事が出来るのだが。

方形周溝墓なら尚更で、これも中世東北で検出を見る。

大体、火葬そのものが仏教形態の一つとして持ち込まれたものではないのか?

靺鞨も渤海時代から火葬を開始したのであれば、そりゃ火葬の受容もあるだろう。

「アイノは仏教を受容しなかった」と著者の指摘を適用するなれば、火葬の受容は有り得ないのでは?

 

と、ここまで書いたら、お気付きだろう。

著者が北方系文化の受容として捉える部分を「修験の北上」へ置き換えれば、恐らくミッシング・リンクを含めた「時系列上の矛盾」はほぼ消えると考える。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

北海道で検出される「和鏡」の意味を考えた事があるのだろうか?

目の前に、和鏡を根幹に持ち日本中の信仰を集め、鎌倉幕府執権にすら物申せる「大信仰集団」があるのだが。

「一つ穴の和鏡」はこれで事例は確認出来る。

そして、修験の北上の影響を最大限に見れば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…

こんな風に、矛盾は消える。

そして、その場合、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

こんな風に推移してきたのでは?

 

本書で気になった他の部分を付記すれば…

・厚真の指摘の「修験」は登場せず…

東通村「浜尻屋貝塚」を本州アイノと捉えており茶道具の出土迄指摘しているが、それより先に「アイノは仏教,茶の湯」を受容しないとしている。なら重ねて良いのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507

「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…

また「硯」については一言も無い。

ここの人々は文字を持つ…

・蠣崎波響の「夷酋列像」を一つの根拠にしているが、メナシ衆且つ、蠣崎波響は彼等と直接合って書いたのではないハズ。根拠になるのか?

同様に、奥州仕置の九戸城内の夷衆へ言及しているが、その「氏郷記」は年代らが不明だと思うが。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/210518

それらの史料批判はされたのか?…

・有珠らの「畠の畝跡」に言及し焼き畠系かとしているが、それこそ「突如それまて検出しない畝が出来る」理由へは触れていない…

etc…

まだ解明すべき点はあるかと思う。

 

率直な感想…

筆者は資料館巡り、疑問に思った事を無造作に文献で調べてきただけだが、割と最新版でポイントとして指摘された事は押さえられていたかな…だ。

視点や解釈は違えども、著者が参考文献されていた文献の幾つかは既に発注した。

ここから、知見を増やすステップとして良い学びになった。

感謝である。

敢えて最後に…

北海道研究の「大穴」は「本州との事例比較が殆ど無い」事だろう。

関根教授は「弘前大」だが。

目の前に材料が揃っているのに、何故そことの接続を行わないのか?

よく話す方とも「勿体ない」と…

まぁ、我々が学ぶのは「北海道〜東北の関連史」。

人は人、我々は我々…

それがメインロードの研究者であっても、我々のスタンスは何も変わりはしない。

 

 

参考文献:

「つながるアイヌ考古学」 関根達人  新泉社 2023.12.15 

「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」

新編弘前市史編纂委員会  平成15.11.28