時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

前項をこれに。

と言うか…

既に前項で少々触れたが、「方形配石火葬墓」があるという「有珠オヤコツ遺跡」がどんな所か見てみようではないか。

まずはこれがその「方形配石火葬(荼毘)墓遺構」。

で、実はこの「有珠オヤコツ遺跡」、発掘調査報告書を検索した段階でピンときた。

論文で散々見てきたが、今迄どんな立地なのか?、地の利がなくて解らなかったのだ。

これが余市町「大川遺跡」なら、既に発掘調査報告書を持っていたので即確認出来たのだが。

で、

上の4冊、有珠善光寺遺跡,有珠4遺跡,ポンマ遺跡は既に持っていたが、検索して「有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」とあったので、即どんな場所にある遺跡なのか?配線が繋がった。

この辺一帯の遺跡、実は隣接している。

だから、詳細を見る前から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

「あ、畠跡があるとこか(笑)」となった。

江戸期のアイノ文化の記録には「農耕はやらず」で、「最上徳内」が一部教えた話迄ある位だ。

で、Ta-b直下の黒1土層に検出された「畠跡は誰が作った?」これを

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報29…東蝦夷地は旧虻田町高砂貝塚」にある畑地の畝の痕跡」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/27/201947

「時系列上の矛盾…今度は西蝦夷地、稚内「声問川2遺跡」にあった畑跡、そして…」…

こんな風に追い掛けた事がある。

実際に確認出来た中では、有珠周辺から噴火湾沿いに虻田や森町,八雲町周辺迄と畠の畝跡は続く。

「畠の畝跡」「有珠善光寺」…

これなら「修験系の墓」があっても全く矛盾は無い。

元々の「有珠善光寺」が信州「善光寺」の末寺なら八宗共学だろう。

なら、諏訪大社の縁起「諏訪大明神画詞」と繋がっても何らかの違和感も出ない。

善光寺を回った修験が諏訪大社を訪問、伝えればそれでOKなのだから。

 

では、本題。

「有珠オヤコツ遺跡」とはどんな所か?

立地は先の地図を確認戴きたい。

平安(擦文文化)期とTa-b直下の中世〜江戸初期と考えられる遺跡があちこちある地域だ。

では基本層序を。

アスファルト(発掘区が市道)

・基礎工事のバラス…50cm

・撹乱層

・Us-b1,2(1663年降下)…

この下から基本土層とする、

・Ⅰ層…明黃白色砂層

・Ⅱ層…黒色腐蝕土質砂層

・Ⅲ層…暗黒褐色砂層

・Ⅳ層…黄褐色粘土質砂層

・Ⅴ層…黒色腐蝕土質砂層

・Ⅵ層…淡黄褐色粘土質砂層

・Ⅶ層…黄褐色粘土質砂層

・Ⅷ層…淡黄褐色砂層→40cm以上掘ったが変化なく地山層とした

との事。

但し、発掘区で途中が消えたり少々複雑な模様で、遺物包含層を見ると、鉄器,擦文土器,須恵器,土師器らは一点(鈎状鉄器)を除くとほぼⅢ層から出現し、Ⅳ層はあまり検出しないがⅤ〜Ⅶ層にかけて増えるとある。

また、場所によりⅩ層位迄積み重なり下部に岩盤がある発掘区もある様だ。

土層も砂層メインなので、主な発掘区は元々磯場でそこに砂が堆積した砂洲や砂浜…と言う事なのか?

なら、一部層の欠落は「海岸線の移動」を指すのだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

「地質学,地形学から見た北海道歴史秘話四題…北海道の先祖達は「生き延びる事が出来たか?」」…

北海道の海浜遺跡で海岸線の移動の痕跡を見る事はある。

ここにある厚岸の事例や泊村等、磯場〜湿原を繰り返したり生活面の移動や撹乱が検出される事例はある。

先へ進む。

主な遺構は、

貝塚…50

・焼土…110

・集石…31

・土坑墓…2

これは「方形配石火葬(荼毘)墓」とは別である。

2基共にUs-b(1663年降下)直下のⅠ層で被覆され、Ⅱ層から掘り込まれている。

それぞれ長方形,隅丸長方形の仰臥伸展葬で南頭囲、1号墓は女性小児、副葬が刀様鉄製品と漆塗膜、2号墓は熟年程度の青年男性で副葬が太刀,刀子×3,骨鏃×27(束ねられ、矢柄は無しで膠の様なもので固定)。

・柱穴…計23で、建物だとしても小屋程度

・溝状遺構…1

そして「方形配石火葬(荼毘)墓」…2基である。

ここは引用しよう。

「北海道の先史時代の墓には、環状列石墓、積石墓のように、石を構造的に定形化して配布した配石墓のほかに、石狩低地帯(恵庭、千歳、苫小牧)で発掘された周堤墓のように、墓域の縦軸の先・後に、基標石とでも考えられる立石を配する墓もある。また、規模は小さいが、墓域の周囲に、数個乃至数拾個の石を用いた墓は、縄文時代以降、数多い例証があげられよう。

方形配石墓は、一辺が4〜5m前後で、東西、南北に方形に石を積み上げた区画墓である。構築の手順は、あらかじめ方形の溝を掘り、人頭大の石を配して基礎配石とし、その上に3〜5段の石を積み重ねていく。被葬者は、配石の内側に南頭位仰臥伸展で合葬されている。副葬品は、 墓域内に置かれる。配石の外側には、溝などの遺構は特に認められない。

発見された二基の配石墓は、南北に対峙して並び、被葬者の骨は火を被って焼けていた。発見の順から、南側をⅠ号、北側をⅡ号とした。共に墳丘(盛土)をもたない。調査された札幌医科大学百々幸雄教授等は、1号墓の被葬者は1・2号の合葬で成人男性・女性、Ⅱ号墓は1-5 号の合葬で、順に熟年男性、9〜10歳男性、12〜15歳女性、壮年女性、14〜16歳男性であると 報告された。

Ⅱ号墓では、1号人骨の脚部を囲むように、木棺と思われる箱形の腐植土の痕跡が認められ た。

Ⅰ・Ⅱ号墓の人骨、副葬品の一部は火を被っていたが、特にⅡ号墓は、全被葬者の上を炭化材(板材,柱材)が広く被覆しており、炭化材の上に堆積する腐植砂土に検出された柱穴群との関係から、葬送儀例に伴う構造物が設けられ、次いで火を掛けて燃やしたのではないかと想像される。副葬品は、刀装具、非実用鍔、内耳鉄鍋、皿状銀製円板、玉類、漆器等多種に及んでおり、時代決定と歴史的な背景には今後の調査研究に委ねるところが多い。

以上、構造、葬法、副葬品の組み合わせ等、これまで全国的に類例が無かった当該遺構につ いて、ここに改めて「方形配石墓」の名称を冠することとしたい。」 

 

「配石の層位は、先にオヤコツ遺跡の層位で述べたものと大きな相違はない。しかし、254m内の区間では、砂丘形成や生活の場の環境条件によって、必ずしも一致しない個所もある。そういう中で、基本層位(例えばⅢ層, VI層)を決定し、配石Ⅰ~Ⅱ号の東壁の層位を細分して 基本層位を当て嵌めて記述することとした。

東壁層位

1. アスファルト、路盤砂利,

2. Us-b1・2 (1663年降灰),

3.明黄白色砂層,

4. 黒褐色砂土(貝層を含む) Ⅲ層,

5. 黄褐色砂,

6.褐色砂 IV-VI層,

7. 黑褐色砂 (貝層を含む) VI層, 

8. 淡褐色砂(乾くと黄白色砂),

9. 黄褐色砂(下部褐色を帯びる)Ⅶ層,

10.茶褐色砂Ⅸ層  である。」

 

「5)方形配石墓Ⅰ号(図45,図版6)

構造

配石は、地表(L5.268~5.276m) から-75cm前後で全体の輪郭が現れ、配石の上部は幅広く崩れていた(図45-1)。配石の上面はL4.38~4.49mで、Ⅲ層が被っていた。崩れた石はⅣ〜VI層を被っており、Ⅶ層に基礎配石が埋められていた。以上からⅠ号配石はVI層上面 につくられたと考えられる。上面の崩れた石470個をとり除き基礎配石を示したのが図45-2で ある。基礎配石の幅は平均50cmである。基礎配石249個を除くと、幅30~50cmの浅い凹みが方形に現れた。この凹みは、Ⅱ号のようにあらかじめ掘り込んだというよりは、若干区画の手を 加えた後に、石の重みで凹んだという可能性がある。

人骨と副葬品の出土状態

232D-233D区に2体が南頭位伸展で並ぶ合葬である。人骨の保 存状態は良くない。1号人骨は、成人男性で中央より東寄りに頭蓋骨、歯、上腕骨,大腿骨そ の他が検出された。頭部西側上方に骨飯類がまとまって2ヵ所、頭蓋の上方に、布片が貼りつ いている鉀、左側頭部から腰部にかけて骨製彫刻の柄をもつ太刀と飾金具柄の太刀が2振り、柄を上方に向けて置き、刀子とともに出土した。2号人骨は、成人女性で中央より西側寄りに、 頭蓋骨,脊椎骨,大腿骨,下肢骨が検出された。左側頭部西側に刀子1振、左肩部に骨鏃類が出土した。頭蓋の西南に2個の大形木炭片が、また周囲にも木炭が散在していた。

1号人骨から離れた東側232C区には、口縁を伏せた内耳鉄鍋1個が置かれ、234D区からは、鋤形の大形鉄製品が検出された。その他、非鉄金属の小円板、釣針、釘等が出土した。

配石内・外の遺構

崩れた石を除くと232E-234E区に8個の小ビットが検出され、それと並ぶ北西隅から漆器腕 (?)が検出された。配石外からは、231G-232G、235Gに径50,80 cm、厚さ3cmの焼土が2ヵ所発見された。ビットは棒杭を並列して刺し込んだと思われ、配石外の焼土と併せ、西側に設けた墓前祭的性格を持った遺構と考えることができようか。   (竹田輝雄)」

 

「7) 方形配石墓Ⅱ号(図49.図版8)

構造

Ⅱ号墓の配石は、地表から深さ90cm~1m10cmで輪郭が現れた。シン航空による実測図(図49-1)は配石の全体が現れたときのものである。配石の上面は標高4m30cmで配石は崩れて内外に広がっていた。崩れた配石をみるとⅦ層の黒褐色砂層,黑茶褐色砂層の下部に崩れた自然石の円礫があり、この層位的位置が生活面と考えられる。Ⅶ層の上部層は方形配石の東側で配石を覆っていた。241F区の擦文土器片2点は崩れた石のわきから出土したⅦ層の土器である。配石の礫は火山岩を含む平均径20cm前後の大きさで、人が容易に持ち運びできる重さで、小石などは含まれていない。方形に積まれている配石は溝を掘って積み上げている。 石の数は総数1277個で現在の海岸にはなく旧河口や旧河川流域にみることができる。

構造を調べるため、配石の広がりを調べて崩れた配石を除去した。配石の北東角にある副葬品の鉄鍋の上にあった崩れた石と溝に積み上げた石をみると、どれが本来の積み石であったのか区別が難しいほど積石に規則性がない。配石は方形の溝を掘って石を入れ、積み重ねている。 溝の幅は50cm~65cm、掘り込みの溝は一定していないが横断面がU字形で深さが40~60cmであ る。北壁は深く60cmで、溝の幅50cm、245D西から245F東にかけて一段と深く245Eで70cmのところもある。その間約2mで、合葬人骨の北側にあたる。溝の断面にみる石積は溝に石を投 げ入れた状態で、斜め,縦,横とまちまちである。上面になると横が多くなる。方形に積まれた石は溝上に傘形に積んでいるが、空間に砂が混じり、平面図(図49-2)の空間の砂を除くとまた石が出てくる状態であるが、基礎配石の幅70~100cm、高さは50cm程度であったと思われるが墳丘はない。

合葬人骨は5体、さらに焼けた人骨が少なくとも1体以上あるが、人骨は薄い黄褐色砂と木炭層に覆われていた。墓壙内の炭化材は南の配石から北の配石に広がり、厚い所で5cm、薄い所 で2cm程度、木炭末の多い所の分布は243Dの西、244Dの西、242E,、243E、 244E、245Eの南、242Fの東、244Fと245Fの東と合葬人骨を覆っている。柱と板材がみられ、炭化の柱は径10cmほどで、244Dから244Eに東西方向に1本、243D、243E、242Eにかけて南西から北東方向に1本と並行する243Eから242Eの2本がある。細いものもあるが部分的である。板材は243E、242Eで柱と重なっているが、板材が厚く柾目状のものは中央から南西に分布し、配石の上に伸びている。埋葬人情が焼けて炭化しているのは1号墓でも見られたが炭化材がなく木炭末が散在している程度しか認められなかった。Ⅱ号墓の炭化材から人骨を埋葬後黄褐色砂で覆い儀式的仮小屋を建てて焼いていたことがわかった。

仮小屋は、方形配石の4m以内の大きさと思われるが、方形配石内外に柱穴は認められなか った。この地域での柱穴は、炭化材分布層の上層であるVI層の淡褐色砂層と黒褐色を帯びた層に柱穴11個が発見されている。分布は方形配石墓の西側から配石の西にかけてあり、柱穴の径8〜11cm、深さ4〜19cmの円形で、これらは発掘区域内発見の柱穴と同じようなもので、直接方形配石墓の炭化材層と関係がなく、244EのVI層で三葉尾羽根文の帯執紋金具が出土している。

埋葬の問題

Ⅱ号墓は、南北3m、東西2m55cmに方形の浅い鍋底状の墓壙を掘り、5体から 6・7体の人骨を埋葬し、太刀,刀子,紐付飾鐔などを副葬している。太刀は1号人骨男性熟年の東、紐付飾郷は4号人骨女性壮年の東と3号人骨12~15歳の女性の東に副葬し、1号人骨の北で配石に近くコの字形木棺の一部と下腿骨と思われ部分が輪郭をとどめていた。合葬人骨の周 辺はやや高くなって配石となるが、配石の内側、東にガラス玉と金属金具の付いた装飾品、文様のある朱漆塗膜、北東に鉄鍋と朱漆塗膜、西に朱漆塗漆器椀と思われるもの11点と骨鏃が束ねられていたような状態で出土した。骨鏃束は2個と考える。

墓壙床は、配石の溝の上面から20〜25cmの深さで周囲が高く木炭や木を敷いた痕跡はない。人骨埋葬後、周囲に方形の溝を掘って石を積み重ねているが、埋葬人骨と副葬品を黄褐色砂で覆う。砂の厚さは2~5cmであるが、溝を掘った砂をかけてから黄褐色砂で覆う。仮小屋は砂で覆ってから建て、短時間に焼いている。Ⅱ号墓の規模は南北4m25cm,東西3m93cmである。

人骨の出土状態

人骨の保存状態はよくない。札幌医科大学解剖学教室百々幸雄教授らによ って取り上げられ、調査された結果、5体合葬で他に焼かれた遺体が少なくとも1体以上埋葬の可能性がある(付篇88頁)。人骨は頭蓋、下顎骨など出土した位置から頭位は南が4体、中央からやや北に1体があった。頭位南の人骨は、やや中央に位置する1号人骨、熟年男性。東に太刀が添えられ、腰に刀子がある。東の配石に近く5号人骨,14~16歳男性。5号人骨と1号人骨の 間に3号人骨、12~15歳女性で東に飾鍔がある。1号人骨のすぐ西に2号人骨,9~10歳男性がある。頭位北と考えられるのは4号人骨で壮年女性、東に紐付飾鎌があった。女性の近くには飾鍔があり、12〜15歳女性のものは壮年女性のものよりやや小さい。

頭蓋の炭化して崩れたものが、2号人骨の西側と4号人骨の北側にあった。採集できた人骨21点の内、炭化した人骨は11点で、太刀の上に炭化した骨があったり、4号人骨の下顎が逆に刺 っていたり、大腿骨が横にあるなどから改葬墓の可能性も考えられる。

副葬品

Ⅱ号墓と周辺出土の遺物は54点で、墓境内からは太刀1振、刀子3振,剣状の鉄器1 点,銀,銅製飾金具3点、飾鍔2点、ガラス玉と付属金具1連、束ねられた状態の骨鏃(II- 23-1,2),朱漆膜残片で個体と考えたもの11、鉄鍋1点、その他鉄残片など21点の45点他が出土した。墓域内の配石近くに朱漆塗木器が多く、西配石の北寄りに集中し、北配石では鉄鍋と漆器、東配石では胸飾りと思われる玉と漆器が出土した。金属製品、漆器、ガラス玉、骨製品については、それぞれの編目で報告されているので参照されたい。

課題

方形配石墓と合葬人骨の埋葬、儀式的仮建物と焼失、被葬者の社会的地位と埋葬法、副葬品にみられる異文化との交流などの問題をこれから考えていかなければならないと思う。方形の配石墓で規模、頭位、合葬墓で類似しているものが、中国のトウニン,ダチエンズイにある。イブリエフ、A、L、「中国の北東渤海発見に関する研究」でジエン エンチジェンの 論文が紹介されている(ソ連科学アカデミー、極東支部ソ連極東中世考古学新資料論文集」 ウラジオストク、1989)。ロシア連邦科学アカデミー一極東支部考古学委員長E. V. シャクウ ノフ氏はオヤコツ遺跡の方形配石墓について、写真資料などから渤海国の墓や古記録から北海 道と沿海州の関係があったのでないかという。   (千代  肇)」

 

主要部分はこんな感じだ。

ちょっと気になる点2つ…

「以上、構造、葬法、副葬品の組み合わせ等、これまで全国的に類例が無かった当該遺構につ いて、ここに改めて「方形配石墓」の名称を冠することとしたい。」…

あれ?

「方形配石墓」と言う呼称は、オヤコツ遺跡が最初なのか?

配石で基壇を作り、塚を伴わず、蔵骨器を埋納し、五輪塔,宝篋印塔を建てる…こんな平安には出現している墓制も方形配石墓と書かれているが…

その辺は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

散々見てきているが、全くの別物扱いなのか?

この辺がよく解らないところ。

横穴式墓−やぐら…もそうだが、用語らの統一がされているのだろうか?

基本的な繋がりやグラデーションを持つ伝播はあるが、細かい地域差はある。

基本的な様式,用語の定義とそれによる層別がないと、全国一環した判断は出来ないと思うのだが…

これは、「中世墓資料集成」と言う同一書籍を通してみてみた感想でもある。

と…北海道,北東北だけだが、中世城館資料でも感じた事だ。

「層別」は同一フィルターで分別していきその傾向で「解析」を行う為にやるのであって、層別したから終わりではない。

基本的な様式,用語の定義…統一した同一フィルターで行わないと意味がないのだが…

この辺が基礎が無い筆者にとっては理解不能な点。

「方形の配石墓で規模、頭位、合葬墓で類似しているものが、中国のトウニン,ダチエンズイにある。イブリエフ、A、L、「中国の北東渤海発見に関する研究」でジエン エンチジェンの 論文が紹介されている(ソ連科学アカデミー、極東支部ソ連極東中世考古学新資料論文集」 ウラジオストク、1989)。ロシア連邦科学アカデミー一極東支部考古学委員長E. V. シャクウ ノフ氏はオヤコツ遺跡の方形配石墓について、写真資料などから渤海国の墓や古記録から北海 道と沿海州の関係があったのでないかという。」

①も絡むが、論文らを読んできて、オヤコツ遺跡,大川遺跡のこのタイプの方形配石火葬(荼毘)墓…似た事例は本州にもある。

発掘調査報告書に記述されるので、北方との関連はここからスタートしているのだろう。

本州の中世墓研究から「似た事例はある」らの指摘や反論はなかったのか?

ここも素朴な疑問。

渤海が唐が認める仏教国だったのは知られた話。

本州以西の方形配石墓も仏教導入から成立したんだろう。

そもそも火葬がそうだろう。

誰も本州を迂回して伝播したとは考えなかったのか?

ソ連研究者の指摘そのまま今に至り、本州以西との事例比較はしていないのか?

え…?????

渤海って926年に滅んで、その後の国々は仏教系なのか?

その形式が「中世にオヤコツ遺跡,大川遺跡に出現」すると?

では、これが「トウニン・ダチエンズイ」の方形配石火葬墓として同書に紹介された図。

では中世墓資料集成より、大分豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀。

比較してみよう。

「オヤコツ遺跡」

配石は溝を掘り基礎配石と配石で盛り上げ、開口部は無い。複数の合葬。Ⅱ号墓に再葬?

「トウニン・ダチエンズイ」

配石は枠状で、開口部を設け建物的にしている。複数の合葬。

「国内事例」

浅い溝を掘り配石で盛り上げ、開口部は無い。基本的に単独葬だが連続的に並べる物が出現していく。火葬の合葬事例は近畿に蔵骨器に再葬する形式である。

共通点が多いのは「国内事例」では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

発掘調査報告書のⅡ号墓に再葬の記述があるので、

アイヌ墓には伸展葬の火葬があり集骨はなく、和人墓には集骨がある。」…

この定義は発掘段階から崩れている。

国内事例でも、全て蔵骨器埋葬する訳ではない。

そのまま集石,覆土する場合も、火葬施設内に掘った土坑に納める場合ある。

疑問を持つのは筆者だけか?

 

さて、話を戻そう。

長くなるので、遺物には本項で詳細は触れないでおく。

層序から見ると、擦文土器が出土するⅣ〜Ⅶ層位に掘り出し面があるようなので平安(擦文文化)期かともとれるが、14世紀位と論文で指摘されるのは副葬からの年代推定なのか?Ⅱ号墓の木質からC14炭素年代で割り出したか?その後の研究からの判断なのだろう。

遺骨は、百々幸雄教授らの検討ではアイノ系…仮に平安(擦文文化)期であればまだアイノ文化と言う文化指標が使えないので、我々的には「在地系」の可能性が高いとしておこう。

と、ここまで読んだ上で、本項最初の部分を読んで戴きたい。

・「トウニン・ダチエンズイ」より「国内事例」に近くないか?…

・仮に渤海の影響を帯びたとしても「仏教要素」は入り得る…

・少なくとも被葬者ではなく葬送者が「仏教要素」を持つ…

・「有珠善光寺」と近い立地を持ち、有珠善光寺寺伝播で平安開基→一度荒廃→松前慶広再興とあり、周囲に「仏教要素」を持つ者が居ても整合は取れてくる。

・先述通り、周囲立地として、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

Us-b,Ta-b直下で畠の畝跡が検出しており、「仏教要素」、遺物の多くが本州産、後代農耕を行う等、生活文化的に殆ど本州以西と差が無い…

胆振〜日高に居たとされる「シュムクル集団」は、近代聞き取りでは「本州から渡った」伝承を持つ…

ここまで揃えば、この有珠周辺の中世の姿は、「アイノ文化」を持っていたと言うよりは、極本州に近い文化集団だったのではないか? …と推定出来そうなものなのだが。

更に言えば、オヤコツ遺跡は有珠4遺跡より層序的には若干古い可能性が高い。

理由は基本層序のⅡ層黒色腐蝕土質の上に、Ⅰ層の砂層が乗る。

少なくとも廃絶後に飛砂層が乗る。

それと同等、若しくは若干後の時代に確実に農耕を開始している。

つまり、アイノ文化化したのではなく、北東北と文化同化する方向だと言う事ではないか?

どうやったら、違う文化化すると言うのだ?

それこそ「時系列上の矛盾」だ。

やはり、引用原文の確認は必要だ。

ちゃんと北方由来とするスタートラインがソ連研究者の論文によると「書いてある」。

だが、この方はこの段階で我が国の国内事例比較をやっているのか?、いやそれは我が国の研究者の仕事だろう。

 

周辺遺跡との関連性と時系列上の傾向をみれば、こんな考え方もあっても良いハズだが。

不思議でならない…

 

参考文献:

伊達市 有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」 伊達市教育委員会 1993.3.31

北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?

さて、「九州・沖縄編」で日本国内を見てみたこの項、並べてみよう。

 

北海道…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

※…参考…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

 

東北…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/16/192421

「北海道中世史を東北から見るたたき台として…東北の中世墓の傾向や宗教北上の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

 

北陸…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

 

関東…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/26/195206

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−3…東北の延長線上で北関東の傾向を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

 

中部・東海…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/08/210411

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認」…

 

近畿…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

 

中国・四国…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/23/194835

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−5…折角だからの「四国編」」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/08/225208

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」」

 

九州・沖縄…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/15/205006

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」」…

 

そして、予備知識として…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

 

以上…で終わったら、何をやってきたか?解らない。

なら、分別してみよう。

予め…

開始時点で書いた様に、カウントはある程度明確に土葬か?火葬か?記載ある「発掘事例数」の比較である。

百基検出しても発掘事例として1なら1でカウントしている。

何故ならば、

・屋敷墓の様に検出数が低い事例が、大規模墓域に潰されてしまう…

・大規模遺跡の場合は一度の発掘では終わらず、自ずと事例数が増えてくる…

こんな理由で代数的にカウントしているので、総数基準で表した場合とでは差は出てくるだろう。

筆者的には、まずは概ねの傾向を掴む事と、特異点的な墓制の抽出が最大の目的なので、代数で構わない訳だ。

これが今後の叩き台となれば良いのだ。

では、「土葬(発掘事例)率」として…

・9割以上…赤マーク

「東蝦夷地」、佐賀、長崎、沖縄

・9〜8割…黃マーク

「西蝦夷地」、愛媛、福岡、大分、熊本、宮崎、鹿児島

・8〜7割…緑マーク

「道南」、「南部」、岩手、山梨、香川、岡山、山口

・7〜6割…靑マーク

津軽」、三重、奈良、大阪、島根、広島

・6〜4割(殆どイーブン)…マーク無し

秋田、山形、新潟、富山、茨城、栃木、群馬、千葉、東京、神奈川、長野、岐阜、愛知、滋賀、京都、和歌山、兵庫、徳島、鳥取

・4割以下(火葬が強い)…紫マーク

宮城、福島、石川、福井、埼玉、静岡、高知

こんな感じである。

見難いのはご容赦を🙇

敢えて、途中で行った「北海道3分割」「青森二分割」はそのまま使ったが、旧国別で更に細分化すれば、若干の動きの差は出るかと思う。

見ての通り、最もカウント数が多いのが「ほぼイーブン」、京都以東の大都市圏がそれに当たり、北陸,関東から南東北掛けてが火葬が強く、徐々に京都から離れると土葬の比率が高くなっていく傾向は見れそうだ。

また、火葬が強い地域と一致しそうなのが

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/08/210411

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−6…信濃や伊勢はどうか?「中部・東海編」を確認」…

ここで書いた「T型火葬墓」の分布。

何故か南都奈良周辺の「長方形型」からの派生なのか、伝播過程で吸気穴が付くように変化した上で拡散,増殖した感じなのか?

火葬墓形態は、京都〜日本海側全体に掛けては不規則土坑に集石が目立つ。

何故そんな差が生まれたのかは解らないが、伝播媒体によるのだろうか?。

ただ、ここは言っても良いのではないだろうか…

「そんな変遷をしても、隣地域との繋がりはある」…だ。

特異点的な少数を除けば、いきなりドンと変化したり、墓制が極端に違っていると言う感じではない。

伝播媒体が徐々に伝えて、それが隣地域へ影響を及ぼし拡散した…こんな様は見える気がする。

要は「日本中繋がり無き地域は無い」とも言えそうだ。

比率の違いは、伝播速度の違いでもあるかも知れないし、比較的早めに伝播可能な日本海ルート側の火葬墓の形が似通うのも、そんな伝播媒体の差とも見えなくもない。

 

さて、この項で問題視した「方形配石火葬(荼毘)墓」にも触れねばなるまい。

北海道

余市町「大川遺跡」

伊達市「オヤコツ遺跡」

ここからアイノ文化の起点…こんな見解があるが、上記を見てどうだろう?

今迄各項で散々書いてきたが、

・元々は平安で既にある「方形配石墓」からの派生で、「方形配石墓」自体は配石の小型化や連続区割りら簡素化が起こり、中世末位には消えてゆく…

・特に、それまで他所で火葬(荼毘)後収骨→蔵骨器へ入れる→配石中央へ蔵骨器を納める→配石し五輪塔,宝篋印塔を建てる…こんなプロセスから配石利用し火葬(荼毘)を行う様になったのではないか…

・それは運用年代から鑑みて北陸の石道山,医王山,白山らの修験の手により始まり、運用され続けた…

・戦乱らの理由により、一部が地域脱出の上、他地域へ移動し伝播させたのではないか?…

・伝播過程では、京都(比叡山当山派),出羽三山ら大集団には定着せず、飛び越えた地域へ飛び、船での移動を考慮する必要があるだろう…

・北海道だけではなく、

松江市「下がり松遺跡」 室町後半…

東広島市「別所古墳群」14~15世紀…

鞍手町「山鹿城跡」 中世後期…

豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀…

と、西日本にも出現し、北海道と似た時代が想定されており、活動(又は回避移動等)は北だけでなく西へも行われている…

これらを鑑みれば、最早北海道固有でも、北方由来でもないのではないかと推定しても良いのではないだろうか。

再び敢えて問う。

吾妻鏡らに畿内から放逐された悪党の記述があり、それは新羅之記録上では渡党の祖と記述される

・中世、法華宗の日持や武田信広の北陸からの招聘も含め、僧が北海道へ渡った記述はあるのに、何故北方由来を語る必要があるのか?

・厚真では「修験の影響」を示唆している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

我が国固有の宗派であるのに、何故北方由来とするのか?

・特に「オヤコツ遺跡」の立地を見ると、

直ぐ北にあるのが「有珠善光寺」。

それに隣接する様にあるのは、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718

「時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」」…

畑跡だ。

畑跡はここから西へ、入江高砂貝塚→旧虻田町→森町方面へ駒ケ岳火山灰(Ko-d)直下で検出している。

これがアイノ文化とリンクするのか?

だから我々はこういう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720

「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…

そう、「オヤコツ遺跡」の方形配石火葬(荼毘)墓こそ、北陸の修験の移動や墓制伝播の証ではないのか?…と。

それは畠跡らで「極本州に近い文化で暮らしていたのではないか?」へ直結する。

そもそも論、「本州以南の実績との比較検討をやったのか?」だ。

北方ばかり見て、やってないのではないか?

現に「方形配石火葬(荼毘)墓」は国内に存在し、北方よりより近い時代にそれはあるのだ。

ド素人の我々が見つけられる物を、専門家が見つけられない訳はない。

つまり、恣意的に比較検討をしていない…そう言わざるを得ない。

 

また、「十字型火葬墓」に関しては秋田周辺の他には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

上ノ国町「夷王山墳墓群」…

市原市「新地遺跡」…

近似として、

長岡京市長岡京右京区 西陣町遺跡」…

のみで、西日本では確認する事が出来なかった。

何らか古い形から変遷したのだろうか?

この「十字型火葬墓」については、秋田県内で「火葬施設→火葬+埋葬」の変遷が見られる。

つまり、「方形配石墓→方形配石火葬(荼毘)墓」の変遷が他の事例として有り得る事を裏付けるものとも言えないだろうか?

この辺は古代火葬墓の傾向を更に確認していこうとは考えている。

 

では、遺物…

まずは「垂飾」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/15/205006

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」」…

京丹後市弥栄町「御殿口古墓」

」…

大和町「久池井一本松遺跡」 …

この2事例は記載を確認出来た。

「九州・沖縄編」でも書いたが、螺旋状を論ずる前に、「垂飾」そのものを論ずるべきではないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/10/180435

「真に守るべきものは?…東北史のお勉強タイム-5」…

ここで紹介した「切り紙」だが、特に高野山周辺で発達した様だ。

理由は「周辺で米があまり採れず、藁が潤沢でない」とか。

結界に使うべき「縄」が限られる為に、大陸発祥の「切り紙」を代替したところから発達したらしい。

これは邪推ではあるが北海道では、

・藁は無い…

・紙も製造技術伝播していない…

よって中世、潤沢に使える状況には無いだろう。

よって代替に鉄線を利用…

こんな考え方も出来るのではないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712

「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…

平安(擦文文化)期、不思議と祭祀具に持ち込まれた「ヒバ(アスナロ)、スギ」が使われている。

本州から持ち込まれた鉄線や鉄の母材を代替利用するなら、鍛冶は行われていたので「撚る事」は可能。

まぁ邪推はこの辺迄。

いずれ、螺旋状以前に「似た形状での垂飾」副葬事例はあると言う事だ。

 

また、「ガラス玉」も強調されているアイテムではある。

だが、北海道以外では「数珠」としてガラス玉が副葬されるケースは多々ある。

畿内の様に「木工技術」が確立された地域では木製の数珠玉もある。

九州周辺ではむしろ主流は「ガラス玉」「水晶玉」又はその混成。

北海道では、近世実績から「シトキ,タマサイ」と判断される様だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354

「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…

中世迄遡る「伝世品」が皆無な中で、それを「シトキ,タマサイ」と断定可能な検証は行われているのか?

これが上記迄の「修験に関する」記述を読んで戴ければ、中世ならこんな話は成立するだろう。

「巫女の数珠」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

和鏡も同様で説明可能。

 

さて、如何であろうか?

改めて、北海道…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/25/105821

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4…本命「北海道の中世墓」、だが何故か「長方形墓と楕円墓が併用」されている、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/13/210344

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがきのあとがき…これって早い話、「金掘衆や場所の姿を投影しただけ」なのでは?」…

ついでに「チャシ・中世城館」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

今のところ、全国の中世墓を俯瞰してみた限り、明確な差があるか?と問われれば「見当たらない」としか答えようがない。

似た事例が有り過ぎるのだ。

それに、北海道の特殊事例と着目されるもの(遺物,遺構含め)は、何故か全体像の中の一部「特異点」をピックアップしている様にしか見えないのだ。

仮にそこが「文化の分岐点」とするなれば、「その後に事例は増える」のではないか?…現実にはそれが顕著に見えるケースは殆ど「無い」。

伝世品も伝承江戸末期位迄が限界で、中世との繋がりを立証出来るところまでは至らない。

「疑問」しか出ない。

まぁここはあくまでもスタートライン。

これから最新版でどの様に解釈されているか?らも見てみようではないか。

疑い深いだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031

「建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り」…

こんな事がまかり通るのだ。

疑い深くもなる。

仮に我々の主張の可能性が高まるなら、北海道研究の致命的欠陥は「日本全体との事例比較が甘過ぎる」事になるのだろう。

まぁ我々が気付く程度、先行論文があるハズだ。

無いとしたら…そっちが恐ろしい。

 

参考文献:

伊達市 有珠オヤコツ遺跡・ポンマ遺跡」 伊達市教育委員会  1993.3.31

北海道中世史を東北から見るたたき台として−10…到達、これが最後の「九州・沖縄編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/08/225208

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」」

さて、北海道中世史を東北から見る基礎知識として我が国の全体像を見てみる中世墓確認ツアーも、ここ「九州・沖縄編 」で終焉を迎える。

早速見てみよう。

 

福岡県…

・遺跡総数

657

・土葬or火葬

土葬→308

火葬→79

・特徴ある副葬

古銭→23

ガラス玉(水晶,土玉含む)→7

鏡→21

鉄鍋→4

鉄釘→45

刀剣(刀子含む)→69

陶器,かわらけ→324

漆器→7

仏具(五輪塔,板碑含む)→21

・特徴ある墓制

周溝墓→9

鍋被り→0

石積塚→10

 

佐賀県

・遺跡総数

174

・土葬or火葬

土葬→106

火葬→15

・特徴ある副葬

古銭→9

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→5

鉄鍋→0

鉄釘→11

刀剣(刀子含む)→11

陶器,かわらけ→109

漆器→4

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→15

鍋被り→0

石積塚→2

 

長崎県

・遺跡総数

12

・土葬or火葬

土葬→10

火葬→1

・特徴ある副葬

古銭→1

ガラス玉(水晶,土玉含む)→0

鏡→0

鉄鍋→0

鉄釘→3

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→11

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

大分県

・遺跡総数

193

・土葬or火葬

土葬→72

火葬→16

・特徴ある副葬

古銭→7

ガラス玉(水晶,土玉含む)→7

鏡→13

鉄鍋→1

鉄釘→20

刀剣(刀子含む)→37

陶器,かわらけ→75

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→6

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

熊本県

・遺跡総数

134

・土葬or火葬

土葬→77

火葬→16

・特徴ある副葬

古銭→2

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→3

鉄鍋→1

鉄釘→7

刀剣(刀子含む)→10

陶器,かわらけ→75

漆器→1

仏具(五輪塔,板碑含む)→7

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

宮崎県…

・遺跡総数

109

・土葬or火葬

土葬→38

火葬→7

・特徴ある副葬

古銭→15

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→4

鉄鍋→4

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→11

陶器,かわらけ→35

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→4

・特徴ある墓制

周溝墓→3

鍋被り→0

石積塚→2

 

鹿児島県…

・遺跡総数

44

・土葬or火葬

土葬→17

火葬→7

・特徴ある副葬

古銭→5

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→1

鉄鍋→0

鉄釘→0

刀剣(刀子含む)→3

陶器,かわらけ→19

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→0

・特徴ある墓制

周溝墓→3

鍋被り→0

石積塚→1

 

沖縄県

・遺跡総数

41

・土葬or火葬

土葬→29

火葬→1

・特徴ある副葬

古銭→0

ガラス玉(水晶,土玉含む)→2

鏡→1

鉄鍋→0

鉄釘→1

刀剣(刀子含む)→1

陶器,かわらけ→15

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→1

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→6(但し岩陰墓への石積み追加を含む)

 

以上である。

では従来通りのテーマごとで。

 

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

福岡…ほぼ80:20

佐賀…ほぼ90:10

長崎…ほぼ90:10

大分…ほぼ80:20

熊本…ほぼ85:15

宮崎…ほぼ85:15

鹿児島…ほぼ75:25

沖縄…殆ど土葬

となる。

九州一帯であまり大きな差は出ておらず、殆ど火葬墓が記載されない沖縄を除けば割と近似。

一応、沖縄の歴史はよく解らないが、火葬(?)事例を挙げておく。

浦添市浦添ようどれ」13後世紀?・15世紀~近代…

「墓の型式的な呼称はないが、掘込墓石の範疇と考える。岩盤を掘り込み、短い墓道を有する墓室を2基(英祖王陵と尚寧王陵)造り、石厨子(石棺)を置く。この墓室の奥には複室と言われるやや小さな墓室がさらにある。この墓の前面には付属施設と思われる大規模な石積みが大きく3段造られ、各々平坦面が形成される。その平坦面には13世紀後半および14~15世紀の瓦溜りや金属工房跡とされるとりべや銅滓や青銅剥片や銅製品が出土する地点がある。」

「石厨子は中国産輝緑岩製で、家形を模す。その台座には蓮弁、鹿・馬などの動物、棺身には阿弥陀如来地蔵菩薩の像容が彫刻される。屋根には、蓮弁(高麗系)、巴(大和系) 瓦などグスク・近世の瓦を模す。」

「墓室の石厨子は英祖王陵には3棺、尚寧王陵には4棺の石厨子(石棺)が ある。この石厨子の中には、焼骨および洗骨したものと思われるものなども納められている。浦添ようどれも、玉陵と同じく、伝承にある年代に現在の形で構築していたかは不明である。墓室前面に尚寧王代の万暦四年(1620) 碑文があり、そのころに修復したと書かれる。金属工房跡で見つかった銅製品は、木製厨子(木棺)の飾金具とされる。」

との事。

 

B,特徴ある副葬について…

気になった二点を紹介しよう。

・螺旋状?…

この上,右が螺旋状に巻いている様に見えた。

北九州市「椎木山遺跡」中世前~中・18世紀中…

折角なので左隣の円盤、下の玉ごと発掘調査報告書で確認しよう。

「5.鉄製品(第29図、図版第六一)

第Ⅲ地区の第40号墓から出土した副葬品である。28は錆が著しく、一部を欠損しているためその形状は明確ではないが、本来長辺10.5cm、短辺9.5cm、厚さ0.3cmを測る不整八角形の板状を呈するものと推定される。厚さはほぼ一様であ る。ほぼ中心にはタガネのようなもので一方から孔が穿たれ、そのために反対側は肥厚している。副葬時に布で被われていたらしく、一部に布目の痕跡がみられる。布目は孔を穿った面より反対側の面に多くみられ、しかも布が重なり合っているところから孔を穿った面を表とし、 余った布を裏で重ねたものと思われる。これは出土状態とも一致するところである。

29は28の上に乗った状態で出土したもので、28と同様錆が著しい。一部を欠損しているが復元は可能である。径3.5cm~4.5cmの小型の鉄輪を径7cm~8cmの大型の鉄輪に繋げたもので、大型の鉄輪は2個あり、それぞれに小型の鉄輪が7個及び8個繋がっている。さらにこの大型の鉄輪は互いに繋がっているものと思われる。また鉄輪はいずれも断面円形を呈し、径は0.4cm ~0.5cmを測る。いずれも用途は不明である。」

「6.玉(第29図、図版第六一)

第Ⅲ地区の第40号墓から鉄製品と伴出したものである。3個以上が出土したが風化が著しく原形を保っているのは1個だけであった。径約1.4cm の球形に近い形状を呈し、ほぼ中央部に径約2.5cmの孔が穿たれている。表面は研磨され、色調は灰白色を呈する。石材は長石が使用されている。」

以上で、同じ墓の副葬。

残念ながら螺旋状に巻いている訳ではなく、大きな環に小さな環を通して繋げている様だ。

仮にこの円盤が八稜鏡の破鏡を模した「儀鏡」であれば、環は「錫杖」、玉は「数珠」で説明がついてしまいそうだが。

因みにこの「第40号墓」、こんな風なのだ。

火葬を別で行い方形配石内の小穴に火葬骨を収めた「方形配石火葬墓」で、周辺は集石,配石を行った46基の中世火葬墓群で、火葬骨は蔵骨器,小石室,小穴らに納められている。

残念ながらビンゴとはならない。

・垂飾

また、九州では「数珠」だけでなく「ガラス玉,水晶玉」の材質記載も多く見受けられる。

そんな中、「垂飾」の記述がある。

これも早速、発掘調査報告書を。

佐賀県大和町「久池井一本松遺跡」 9中~10中世紀…

「(4) 玉類(Fig. 194)

SP33土壙墓から一対の水晶製垂飾165.

166が出土した。いわゆる流滴形で,長さは1.2 cm,上端に両側から径1mmの孔を穿けている。透明であるが、火熱を受けた為か、2点ともひび割れが進んでいる。」

この「久池井一本松遺跡」は、古墳期〜中世で造営された古墳群,墳墓群「礫石遺跡」群の中の一つ。

古墳期から古墳造営され出し、一度8世紀位に縮小、9〜10世紀位にバタバタ木棺墓や土坑墓が増え出している。

火葬に纏わると思われるのはこのSP33のみで、周囲に対しては特異点

記述もここまでで、詳細等に言及はなかった。

さて…

「垂飾」についての記述は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

京都に続き2例目。

ふと気が付いたのだが…

そもそも、北海道「美々4遺跡」の「垂飾」も流滴形。他の事例は「石質」なので螺旋状にはならないのは当然。

螺旋状に拘る必要があるのか?

何故ならば、茄子型や流滴形を金属で簡易的に作るならどうするか?

貴金属にすれ鉄線にすれ、単にクルクル巻いて上下から潰せば簡単に作る事が可能だからだ。

この垂飾をわざわざ「螺旋状,コイル状」とカテゴライズする必要があるのだろうか?…だ。

何故、そんな事を考えたのか?

・用途不明である。

・北海道一連の副葬である「ガラス玉」「和鏡」も北海道で作られた訳ではなく、その双方とも本州以西で出土実績がある。

この二点から。

装飾品の「チェーン」の製作工程をググってみると、

①金属線を棒らにコイル状に「巻く」

②金ノコらで縦に切る

③環状にバラけた物を繋げていく

これが一般的な様だ。

巻く工程は入る模様。

さすがに鉄線を金ノコで切るのは大変だろう。

が、加工母材が鉄線しか無ければ、鎖状にするだろうか?

素朴な疑問。

とりあえず、「垂飾」の用途や意義がまだ解っていないので、その辺はおいおい確認してみるとする。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

さて、上記「椎木山遺跡」の様に、「火葬(荼毘)を行わず、埋葬のみ行う方形配石火葬墓」は今迄もあちこちにあった。

概ね、

①他の火葬施設で火葬して収骨

②蔵骨器へ納められる

③方形配石の基壇に蔵骨器を納めて上から集石

④基壇中央に五輪塔,宝篋印塔らを建てる

こんなプロセス。

北海道余市町「大川遺跡」と伊達市「オヤコツ遺跡」の各一事例、そして北陸では、方形配石内で火葬(荼毘)…被熱痕と火葬骨検出…ここが違いだと言うのは概報。

では九州は?

実は「有る」様だ。

二点報告する。

・福岡県鞍手町「山鹿城跡」 中世後期…

「山鹿城跡内に造営された墓地で、五輪塔・宝篋印塔を墓標とする火葬墓が残る。調査区内から石囲いした区画墓内に墓標を設置。9基の墓が確認されている。」

ウィキではあるが…

「天慶年間鎮西奉行となった藤原秀郷の弟・藤原藤次により、築城された。藤次は姓を山鹿に改め、山鹿氏は当城を代々の居城とした。寿永2年(1183年)の平家の都落ちの際には、安徳天皇をはじめ平氏一門を山鹿秀遠が当地に迎えた。秀遠は平氏とともに敗れ、当城も鎌倉幕府に没収された。鎌倉時代には宇都宮家政に山鹿氏の旧領が与えられ、以後は山鹿姓を名乗った。室町時代には庶流の麻生氏花尾城で権勢を伸ばし、本家の山鹿氏も支配下に入った。やがて大内氏が北九州方面に進出すると、麻生氏とともに麾下に組み込まれた。戦国時代には麻生氏の出城となり、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後は廃城となった。」…

と、あるので「麻生氏」の墓になるのか?

実はアッとなったのは、そこではない。

この城の三ノ丸、現在「白山神社」なのだそうだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/20/195630

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−2…東北の延長線上で北陸の傾向を見てみよう」…

発祥は北陸は白山。

勿論、現状はここまで。

さて、北陸と繋がるだろうか?

確認続行である。

豊後高田市「ナシカ谷遺跡」14世紀…

「12×5mの範囲に集石が認められるが、3群が連結した形態を持つことが観察される。この集石下には4基の墓が確認されている。1・4号墓器は石積みによる方形の石室状遺構が確認でき、一方、2・3号墓は素掘りの土壙状を呈する。2・3・4号墓からは、被熱痕跡や焼土・炭化物

が確認されている。」

「1号墓(短刀1点・土師質土器片)、2号墓(鉄釘33点・土師質土器片・ 瓦器碗)、3号墓(土師質土小皿3点・土師質土器坏3点・瓦器椀1点、4号墓(土師質土器小皿7点・土師質土器坏4点・短刀1点・鉄釘)」

特に4号墓はピタリ合致、それも鉄釘が検出されるとなると、木棺に入れてから火葬(荼毘)したのだろう。

この国東半島そのものが「六郷満山信仰」の地で、山を挟む杵築では磨崖仏が有名な修験の山。

納得である。

少なくとも「ナシカ谷遺跡」はビンゴだろう。

他にも幾つか確認したい遺跡はある。

北海道以外にも、火葬(荼毘)を伴う方形配石火葬墓はあり、修験に関わりを持つと思われる地にそれはありそうだ。

なら、北海道は?

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら十字型を成すものは見当たらない。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず。

西には今のところ無し。

 

さて、如何だろうか?

国内全体像や特異点として取り上げた内容に関してはもう一項書いてみたいと思う。

あくまでもここが今後の資料館巡りや種々確認の基礎知識となる。

つまり、スタートラインに過ぎない。

これからである。

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−九州・沖縄編(1)−」 中世墓資料集成研究会 2004.10月

「中世墓資料集成−九州・沖縄編(2)−」 中世墓資料集成研究会 2004.10月

「椎木山遺跡-若松区大字蜑住字椎木山所在火葬墓群の調査-」 北九州市教育委員会  1977.3.31

「礫石遺跡-九州横断自動車道関連埋蔵文化財発掘調査報告書(9)-」  佐賀県教育庁文化課  1989.3月

北海道中世史を東北から見るたたき台として−9…懲りずに「中国編」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認」…

さて、サクサク続けて行こう。

次は「中国編」。

 

鳥取県

・遺跡総数

94

・土葬or火葬

土葬→42

火葬→27 

・特徴ある副葬

古銭→23

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→5

鉄鍋→4

鉄釘→23

刀剣(刀子含む)→17

陶器,かわらけ→34

漆器→8

仏具(五輪塔,板碑含む)→19

・特徴ある墓制

周溝墓→7

鍋被り→0

石積塚→5

 

島根県

・遺跡総数

40

・土葬or火葬

土葬→22

火葬→13

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→3

鉄鍋→1

鉄釘→6

刀剣(刀子含む)→6

陶器,かわらけ→22

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→2

 

岡山県

・遺跡総数

76

・土葬or火葬

土葬→40

火葬→17

・特徴ある副葬

古銭→11

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→4

鉄鍋→6

鉄釘→22

刀剣(刀子含む)→22

陶器,かわらけ→43

漆器→6

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

広島県

・遺跡総数

225

・土葬or火葬

土葬→42

火葬→21

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→3

鉄鍋→3

鉄釘→21

刀剣(刀子含む)→19

陶器,かわらけ→43

漆器→5

仏具(五輪塔,板碑含む)→15

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→21

 

山口県

・遺跡総数

124

・土葬or火葬

土葬→60

火葬→18

・特徴ある副葬

古銭→13

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→3

鉄鍋→2

鉄釘→21

刀剣(刀子含む)→21

陶器,かわらけ→54

漆器→10

仏具(五輪塔,板碑含む)→14

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→5

 

以上である。

では何時も通り…

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

鳥取…60:40

島根…65:35

岡山…70:30

広島…ほぼ65:35

山口…ほぼ75:25

となる。

これは、「陸路繋がりで都から離れると土層比率が高い」法則(?)発動であろうか?

 

B,特徴ある副葬について…

あまり目立つと思われる物は見当たらないが山口に至り、銅碗(又は似た形状)の物が登場する。

山口市瑠璃光寺跡遺跡」15~16前世紀の「銅製紅皿」、防府市「下右田遺跡」室町期の「金銅製碗」。

瑠璃光寺跡遺跡」は山口県下最も大規模な中世墓域とあり、土葬,火葬双方あり、それこそ「ガラス玉,水晶玉」「錫杖」らも検出している。

周辺の墓相変遷が見える貴重な遺跡とある。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

幾つか特徴的な物があるので纏めて。

方形配石火葬墓が北陸以西で見つかった。

松江市「下がり松遺跡」 室町後半…

「基壇状遺構1基。火葬墓3基。火葬 墓は基壇上から2基、基壇から少し離れた場所で1基を検出。いずれも荼毘跡と考えられる。」

「(筆者註:副葬等は)土師質土器片。五輪塔残欠、瓦等。 瓦には 「□永十□□戌甲七月口」の 紀年銘がある。」

また、それらしいものとしては、

東広島市「別所古墳群」14~15世紀…

「集石遺構7基。うち、3期(筆者註:3基の間違い?)に土壙墓が伴う。また、集石遺構のうち2基から火葬骨が検出され、火葬墓が確認されている。また、集石に混ざり、五輪塔・宝篋印塔の残欠、石仏が検出されている。」

「土師質土器坏・皿、鍋片、羽釜、火鉢片、亀山焼系甕片,備前焼擂鉢片」

収骨有無に言及していないので「それらしい」とした。

とりあえず、西日本にも「方形配石火葬墓」は飛び石的に伝播している様だ。

とは言え、鳥取,島根や特に広島は方形配石を伴う墓自体は多く、その多くは通常の「蔵骨器を伴う方形配石墓」。

上記の様にハッキリ荼毘墓、それらしいものらの年代は解る限りでは14世紀〜室町後期。

さすがに北陸の事例迄は遡るのは難しい様だ。

となれば、その事例の多さも含めると「北陸由来」の蓋然性が高そうである。

また、鳥取の「周溝を伴うもの」と広島の「集石塚」に近いものを2例紹介しよう。

鳥取市「大熊段遺跡」15~16世紀…

「土坑墓4基、墳丘・周溝を伴うもの 1基 (荼毘墓)、周溝を伴うもの1 基(土葬墓)の合計6基。」

「1号墓:焼骨、釘、土師器皿1点、2号墓:骨、釘、土師器皿2点、銭貨12点(繊維で包む)、3号墓:土師器皿2点、4号墓:骨、土師器皿、銭貨6点(竹籠入り)、5号墓:白 磁、土師器皿、6号墓: 夾紵製容器の漆片、銅製座金具、刀子」

広島県高田町「山手1・4号古墓」中~近世…

「基壇状遺構2基。いずれも基壇下から土壙墓を検出し、うち1基は火葬墓の可能性がある。1号墓は五輪塔が基壇上に置かれ、4号墓は墓標の大礫が置かれていた。」

「土師質土器皿・釜片、青磁碗片、五 輪塔残欠。」

鳥取には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841

「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…

「磐若台遺跡」の様な「日の字」の様な周溝も検出する模様。

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら十字型を成すものは見当たらない。

主な火葬墓の形は方形又は円形,不定形の土坑+上に集石…が多い様で、T字型やI字型も中国地方には見当たらない。

これも広域ではあるが、地域性か?。

又は宗派の影響だろうか?

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず。

西には今のところ無し。

 

以上の通りである。

とりあえず、方形配石火葬墓の実績には辿り着く。

残るは九州,沖縄。

土葬:火葬比率はどうか?

方形配石火葬墓や十字型火葬墓に辿り着けるか?

Coming Soon…

 

参考文献∶

 

「中世墓資料集成−中国編−」 中世墓資料集成研究会 2005.3月

お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編編(1)(2)」を確認」…

ここから繋げよう。

さて、本ブログもお陰様で

504の投稿で50000アクセス突破した。

2020年5月から開始して3年9ヶ月だろうか。

この数字がどんな価値なのか?、筆者的には単に学ぶ過程を公開しながらただ積み重ねてきただけなので、あまりよく解らないのだが、ステップを踏む過程での目印と思えばそんな価値はあるだろう。

拙い文章に誤字脱字…

それでもこんな数字になったのは、一重に見て下さる皆様のお陰。

ありがとうございます。

今迄も途中で目印の場合は、割と原点に戻ったり地元ネタをやっているので、前項に纏わる内容でいってみよう。

ズバリ「十字型火葬墓」がある所はどんなところか?だ。

 

これは、火葬墓又は火葬施設(埋葬せず火葬のみ行う)で、火葬主体へ十字型の通風穴を施す遺構を敢えて便宜的にこう書いている。

現状進めている「列島中世墓の俯瞰」でも取り上げているのだが、

北海道遠征で見かけた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

上ノ国町「夷王山墳墓群」

一箇所、これが初見、他に

秋田県

大館市「山王岱遺跡」(14~15世紀)

琴丘町「金仏遺跡」(13世紀代?)

琴丘町「盤若台遺跡」(12~13世紀)

北秋田市鷹巣「からむし岱Ⅰ遺跡」(9~10世紀)

4箇所と、

千葉県の 

市原市「新地遺跡」(15末〜17世紀)

の1箇所、今のところはその6ヶ所のみ。

また前項で、

京都府

長岡京右京区 西陣町遺跡」(11世紀後〜鎌倉期)

「キ型」は見つける事が出来た。

ここで、長期にこの形を使い続けているのは筆者の地元「秋田県」になる。

位置関係は、

白矢印が米代川河口…

古い方から、

赤丸…からむし岱Ⅰ遺跡

緑丸…金仏遺跡

紫丸…盤若台遺跡

青丸…山王岱遺跡

となり、米代川沿いと能代平野にある事が解り、南はそのまま八郎潟沿いに平地が伸びて、秋田平野北部と繋がる。

中世〜江戸期には羽州街道が通る辺り。

では古い方、からむし岱Ⅰ遺跡の火葬墓は?

ここは北秋田市の北部、鷹巣にある。

米代川にも隣接する。

発掘調査報告書では、縄文の竪穴住居や落とし穴、平安の掘立建物跡、そして中世はこの火葬墓跡SK-14一基を検出、

平安の掘立建物SB-22の上の層から掘り込まれ、中央付近で柱跡P10に達している模様。

明確な人骨ら遺物は検出されておらず、火葬施設なのだろうか?

幾つか自然科学分析が行われていて、土中の軽石はTo-Aつまり十和田噴火時に排出された物特定され、同時に火葬跡からの栗を燃やした跡のC14炭素年代は1σで985~1035年と考えられている。

上記の通り、中世墓資料集成東北編では9〜10世紀と記述あったが、この測定結果で見ると10~11世紀となるんだろう。

報告書内では測定結果からは古代末位だが、周囲の十字型火葬墓の年代から中世墓と判断していた様だ。

これを鑑みると、この十字型火葬墓の秋田での出現は平安中期位になり、丁度、今の大河ドラマ「光の君へ」の藤原道長と被る頃だ。

実は、この辺の年代を知りたかった。

この時代は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/054652

「大災害が起こった時、人はどう行動するか?…平安期の「十和田噴火,白頭山噴火」が住む人々へ与えたインパクト」…

当然ながら、915年の十和田噴火の後になる。

何らかの理由でここにこんな火葬の仕方をする人物が移入したか?、「作法」として取り入れる宗教的文化の流入があったのか?…こんな事だろうか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/12/214629

「北海道には文字がある続報…ここまで下がったハードル」…

十和田噴火で覆われた地域、特に比内には既に仏教は伝来していた様で。

「火山灰考古学と古代社会 十和田噴火と蝦夷律令国家」 によれば、一部は火山灰が飛散した十和田方面へ移動したと思われるので、その後に移入したのだろうか?

いずれにしても、

①今のところ、十字型火葬墓の造営開始は十和田噴火の後の西暦1000年前後…

②荼毘後に収骨した火葬施設の可能性が高そうだ…

ここまでは解った。

ただ一基のみ。

特異点なのか?

同書には「磐若台遺跡に複数検出」とある。

では今度はそちらを。

磐若台遺跡は、旧琴丘町,現三種町で、能代平野の南部で八郎潟に面し、南側が秋田平野北部の所謂湖東地区である五城目町,八郎潟町と隣接。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/19/202134

「折角だから、9世紀前葉以降最大規模の反乱を復習してみよう…「元慶の乱」とはなんだったのか?」…

琴丘を含む周辺を河北と読んだらしいので比内ら同様、元慶の乱で反乱軍だったのか?

元慶の乱で焼かれたとされる「秋田郡衙」の比定地は五城目町

中世なら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026

「生きていた証、続報32…秋田県「洲崎遺跡」は生活痕残る中世町屋遺跡、そして…」…

今迄も何度か登場する「洲崎遺跡」がある井川町も直ぐ南。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/25/104404

「「へっつい」を伝えたであろう石工集団…生きていた証、続報11」…

鎌倉末〜室町期の「時宗の板碑群」があるのがこの五城目,八郎潟,井川の各町。

その板碑や宝篋印塔らは県内のみならず、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435

「紀年遺物による「安東兼季」と石工活動の特定…生きていた証、続報15」…

安東氏を通じて、十三湊や鶴岡と繋がりを持っていたとも考えられている。

更に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/10/093753

「竈→石工→鉱山への回帰…生きていた証、続報13」…

この時代、石工だけに留まらず、五城目の銅座や市が開かれ、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/184237

「秋田エミシは平安期で凝灰岩の耐熱性を知っていた…生きていた証、続報21」…

平安〜中世での製鉄や鍛冶遺構を伴う遺跡が湖東〜河北には多数あり、それらを伴う中世土豪らの屋敷跡があったりする。

踏まえ…

「( 4 )火葬墓

20基発見された。平面形によって3分類できる。楕円形で焚き口を持つもの4基 (SK693、 SK694、 SK835、SK834)、円形・楕円形10基 (SK692、SK817、SK480、SKl196、SK475、SK479、SK477、SK472)、不定形で浅い掘り込みを持つもの 6基 (SK471、SK474、SK476、 SK473、SKl180、SK512) である。焚き口を持つタイプは、大館市山王岱遺跡や鷹巣町からむし岱I遺跡に類例がある。しかし、山王岱例が長軸 2m前後で、あるのに対し、盤若台例はいずれも 1m程度と小さい。茶毘に付した人体をそのまま埋めているので茶毘墓である。これらの奈毘墓はそれぞれの長軸が直交するように配置されている。同時に構築されたものだろう。
これらの遺構は方形周溝のすぐ近隣のごく狭い範囲内に集中している(第105図)。
人骨の残りには良悪があり、部位を判別出来るものからチョーク状となるものまである。
21号は長方形のプランを持ち他に比べて倍以上の大きさを持つ。焼土が遺構内に充満している反面、人骨を全く含まない。骨が全て回収されたと考えると火葬場である可能性が高い。後に削平及び撹乱を受けて上面は残っておらず、プランの一部も欠損している。本来はより上面で火葬を行っていたと考えられる。」

「3. 小結
墓域を中心とする遺構が数多く発見され、本遺跡の中世における人間活動については以下の 3点が明らかとなった。
( 1 )方形周溝・火葬墓というタイプの異なる墓が狭い範関内に集中して発見されたことにより、中世の墓域を確定することが出来た。
( 2) 6基の井戸が発見され、多くの木製品が出土した。特に 4号井戸からは多くの木製食器が出土した。
( 3 )遺跡内の限られた範囲から中国陶磁器が多く出土した。全てが破片ではあるが、最小個体数は26である。また白磁四耳壺の様に全体の形がわかるものもある。所有する胸磁器の個体数が豊富なこ
とから、これらの所有者がかなり有力な人物であったことを想像できる。」

「4.中世

狭い範囲からまとまった量の中国陶磁器が発見された。それらの年代はみな 12世紀末から13世紀前半におかれるものである。平泉に特徴的な広東省系の白磁が 1点もなく、全てが福建省系の白磁であ

る点も、盤若台遺跡の年代が平泉に後続することを示している。平泉町埋蔵文化財センターの八重樫氏のご教示によれば、東北地方の中世遺跡は陶践器の年代から以下のように時代別に分類できるという。

1期  平泉と並行し、平泉の滅亡と共に衰退するもの
2期  平泉と並行し、かつ滅亡設も存続するもの
3期 平泉の滅亡前後に現れ、そのまま存続するもの
4期 平泉の滅亡後に現れるもの

この中で盤若台遺跡は3期にあたる。出土した中国陶磁器のうち最古のものが12 世紀後半の青磁で、主体となる時期は 12 世紀後半 ~13 世紀前半である。本遺跡は平泉滅亡前後に現れ、平泉が滅亡した後に盛りを迎えることを示す。

ところで秋田県中央地域から南部にかけて古代末から中世にかけての円形または方形周溝が構築される。青森県野木遺跡や岩手県でも奈良時代を最古とし平安時代から中世にかけて構築されている。

琴丘町の近隣では、五城目町岩屋古墳群のように平安時代の方墳群がある。盤若台遺跡の方形周は、古代の方墳や関東地方などで見つかっている主体部を伴う方形周溝の系統上に位置づけられる可能性

がある。 5基の方形周溝には主体部が見つからなかったものの、豊富な中国陶磁器を所有し得た有力者達の墓である可能性が高い。また、方形周溝と共に慕域を形成する 20基の火葬墓はその関係者であると推定される。」

我々は中世墓に注目して確認しているが、磐若台遺跡はむしろ先述の様に平安からの製鉄,鍛冶遺構を伴う遺跡として着目されていて、自然科学分析もそちらが強い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/07/202638

「これが復元された「製鉄炉」…「まほろん」展示の「箱型炉」を見てみよう」…

何せ古代製鉄の「ズク押し法」の精錬(大鍛冶)部分はあまり明確に解明されていない。

それらしい事をやっている形跡があるので注目するのは当然かも知れない。

縄文から断続的に古代〜中世〜近世と土地利用された痕跡があり、平安の居住区や製鉄工房→中世の墓域や製鉄,鍛冶工房と姿を変えている様だ。

5基の方形周溝を中心にして20基の火葬墓が検出され、その内の4基が十字型火葬墓になる。

方形周溝は中心部のマウンドが江戸期位に平滑された様で、周溝から珠洲系陶磁器片や人骨,馬やテンの獣骨も検出しているが、主体部が平滑されているので墓とは断定してはいない模様。

東北の他の事例と合わせ、方形周溝が若干古く、それに添わせる様に火葬墓を配置したと考えている様だ。

最初に書いている磐若台遺跡の12〜13世紀と言う中世年代はこの貿易陶磁器とC14炭素年代によるもの。

平安後〜鎌倉期位と判断している様だ。

ここで忘れてはいけない事例として、覚えておく必要があるのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/25/194855

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編編(1)(2)」を確認」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

元々別の火葬施設で荼毘し、蔵骨器に収骨後収めていた「方形配石墓」。

過程で小型化や連結、配石の欠如等の変遷をしたが、北陸「火葬+埋葬」を一箇所で同時に行う様な変遷も、秋田の十字型火葬墓の事例で見られる様に、起こり得る事だ…と言う事が言えるのではないだろうか?

たまたま秋田では米代川沿いの地域〜湖東地域に限定されるので、そんな変化が解りやすく見える。

北陸→北海道と飛んではいるが、日本海ルートを利用して移動したなら説明は付く。

何度も書くが、武田信広や蠣崎氏が北陸から僧を招聘した話すら古文にはある。

戦乱からの回避等が伴うなら、移住はあり得るだろう。

背景条件はピタリの上、時代背景も整っているのだから。

 

さて、ではこれら遺跡で暮らしていた人々はどんな風だったのか?

十字型火葬墓に着目した段階で事前に市町村史に目を通しているのだが、あまり明確に記載されてはいないのが実情で、能代市史、峰浜村誌、八森町史、八竜町史、琴丘町史らを読んでみると、これら似た様な記述になる。

ザッと書き出せば、

・9世紀…

元慶の乱

・10世紀…

十和田噴火

・11世紀…

秋田城廃絶,土豪台頭と清原氏登場、この周辺地域は実態不明

・12〜13世紀…

平泉栄華から奥州合戦藤原泰衡を討った「河田次郎」や鎌倉殿に反旗を翻した「大河兼任」、橘公業の小鹿島受領

・14〜15世紀…

建武の新政の葉室光顕の着任と惨殺、十三湊から南下した「湊安東氏」登場

・15〜16世紀…

「安東政季」の檜山入り、南部氏のと抗争、檜山安東氏と湊安東氏の確執と統一による戦国大名

こんな感じ。

後は、寺伝や鉱山伝承等ポツポツで、土豪の実態や民衆の状況の詳細が解明されている訳ではない。

割と十三湊と秋田湊との関連性から、安東氏の影響下にあったと推定する処が多い様だ。

つか、安東氏の戦国大名化前の古文が残されていないのが実情で、研究があまり進んでないのが実態か。

とは言え、からむし岱Ⅰ遺跡が十和田噴火後に断定出来るので、書き出したところへ当て嵌めれば、秋田城廃絶→土豪台頭→河田次郎,大河兼任→安東氏南下…こんな時期と合致してくる。

ことに大河兼任はこの地域に居たのではないか?とも言われるので、遺跡の実態を見れば少なくとも言えそうなのは、

・既に仏教伝来、火葬も伝わった

・郷を治めた土豪は製鉄,鍛冶を駆使出来た

土豪は貿易陶磁器を手に出来ただけでなく、国内陶磁器、漆器、木工品と生活用品は種類豊富

・竪穴と平地建物の併用

・馬や毛皮を取る獣が検出

・途中から金山伝承あり

つか、古文では空白の割には、遺跡に出る状況はまるで真逆で、土豪,民衆の暮らしは結構豊かだったであろう事が想起されるのではないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

「「余市」と「脇本城」との関係…貿易陶磁器から見える武将の存在」…

余市と時代的には重なり、十三湊に先行して平安から既に開け、津軽へ製鉄や須恵器窯を伝搬させたルート上に当たり、更に秋田城時代から北海道の人々への米の供給の為の穀倉地帯の中核を成していたであろう地域。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842

「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…

日本海交易で繋がりを持ち、お互いに豊かに暮らしているなら、民衆レベルの交流は全く問題ないであろうし、少し後代と考えられてはいる様だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/04/200752

「秋田の中世城館の石積み、続報…特別ミッション、秋田の「蝦夷館」に石積みはあるか?」…

須恵器らから、古い時代でも存在はしたのだろう「蝦夷館」の石積みは、可能性として余市の石垣,石積みの源流とは成り得る訳で。

それらを鑑みれば、夷王山墳墓群の十字型火葬墓は、この周辺の一部集団の移住や文化的リーダー(例えば宗教家)が移住して開花させた…と仮説しても問題はないのではないだろうか?

で、今のところ、北,東日本と関西迄覗いて、十字型火葬墓に近い形態は京の長岡京付近のみで、西日本の確認を残すのみ。

次は古代墓の確認になるだろう。

源流と成り得る宗教集団が見つかれば、日本海交易と照らし合わせて、誰が伝搬させたか?理解出来て来るだろう。

まぁ「系統建てられた学問」なぞやっていない筆者的には「絨毯爆撃」で片っ端から見ていくしかないが。

それでも広域の墓相状況は同時に学べる訳だ。

 

さて、如何だろうか?

各市町村史はそれぞれ独立して書かれているが、今回の墓相や陶磁器ら交流や文化痕でそれぞれ独立したものを接続してみれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/27/181439

「点と点を線に、そして面に…生きていた証を追う」…

一方で消えてしまった関係を、もう一方から探り出す事も可能なのでは?と考えたから。

当初グループ検討を開始時点で目指したのは、各地域でそれぞれ資料館巡りらをしてる方々とネットワークを作り、各地域史を縦糸に、特定アイテムや遺構を横糸にして、機を織る様に少しずつ面にしていってそれを北海道と接続する…だ。

これを学閥なぞ気にしないアマチュアや通う資料館の学芸員さんらとコミュニケーションをとり進められれば一気に広域情報を得られる…謂わば地方資料館情報のネットワーク化。

これを進められたら、一地方では見えない詳細情報をお互いに共有可能だろうなと。

横糸が堅固に結び付けば、縦糸の間違いも検証出来るだろうなと。

まぁ現実はそんな簡単に情報共有出来る様なスタイルにはなる訳もないが。

その分筆者も含めて、あちこちを自分の眼で確かめる様になったのだが…ムリなら自分で確かめれば良いのだ。

「継続は力なり」…

誰かの1アクセスが50000アクセスになったのも継続から。

ネットワークも少しずつ広げたら良いだけで。

「周知の事実」が広がれば、矛盾も見えるし騙される事も無い。

コツコツ積み重ねるのみ。

 

参考文献:

「からむし岱遺跡  −大館能代空港アクセス道路整備事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書−」  秋田県埋蔵文化財センター  2002年3月

「磐若台遺跡  -一般国道 7号琴丘能代道路建設事業に係る発掘調査報告書-」  秋田県埋蔵文化財センター  2001年3月

「磐若台遺跡  -主要地方道琴丘上小阿仁線高速交通関連整備事業に係る発掘調査報告書-」  秋田県埋蔵文化財センター  2001年10月

能代市史  通史編Ⅰ」能代市  平成12.11.28

峰浜村誌」  峰浜村  平成7.10.31

八森町史」  八森町  平成元.12月

八竜町史」 八竜町史編纂委員会  昭和43.1023

 

北海道中世史を東北から見るたたき台として−8…本命?「近畿編(1)(2)」を確認

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

 

関連項は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

こちら。

ある意味、今回が本命。

何せ、首都「京」がある京都を始め、滋賀、「南都と金峯山寺」の奈良、大阪、高野山と熊野の和歌山、兵庫と我が国中世の文化的な中心を要する地域。

では見てみよう。

 

滋賀県

・遺跡総数

114

・土葬or火葬

土葬→39

火葬→31  

・特徴ある副葬

古銭→5

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→3

鉄鍋→2

鉄釘→16

刀剣(刀子含む)→5

陶器,かわらけ→64

漆器→3

仏具(五輪塔,板碑含む)→10

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→7

 

京都府

・遺跡総数

334

・土葬or火葬

土葬→76

火葬→62  

・特徴ある副葬

古銭→25

ガラス玉(水晶,土玉含む)→8

鏡→8

鉄鍋→5

鉄釘→25

刀剣(刀子含む)→25

陶器,かわらけ→96

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→18

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→7

 

奈良県

・遺跡総数

268

・土葬or火葬

土葬→40

火葬→72 

・特徴ある副葬

古銭→12

ガラス玉(水晶,土玉含む)→4

鏡→5

鉄鍋→17

鉄釘→14

刀剣(刀子含む)→20

陶器,かわらけ→70

漆器→2

仏具(五輪塔,板碑含む)→29

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→1

 

大阪府

・遺跡総数

430

・土葬or火葬

土葬→85

火葬→54  

・特徴ある副葬

古銭→11

ガラス玉(水晶,土玉含む)→3

鏡→5

鉄鍋→10

鉄釘→26

刀剣(刀子含む)→26

陶器,かわらけ→107

漆器→9

仏具(五輪塔,板碑含む)→19

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→1

 

和歌山県

・遺跡総数

79

・土葬or火葬

土葬→22

火葬→21

・特徴ある副葬

古銭→4

ガラス玉(水晶,土玉含む)→1

鏡→4

鉄鍋→3

鉄釘→5

刀剣(刀子含む)→8

陶器,かわらけ→38

漆器→0

仏具(五輪塔,板碑含む)→4

・特徴ある墓制

周溝墓→0

鍋被り→0

石積塚→0

 

兵庫県

・遺跡総数

550

・土葬or火葬

土葬→82

火葬→78

・特徴ある副葬

古銭→9

ガラス玉(水晶,土玉含む)→5

鏡→7

鉄鍋→5

鉄釘→20

刀剣(刀子含む)→30

陶器,かわらけ→122

漆器→4

仏具(五輪塔,板碑含む)→12

・特徴ある墓制

周溝墓→1

鍋被り→0

石積塚→5

 

以上である。

では、またテーマ毎に見てみよう。

 

A,土葬or火葬…

各県毎の比率は、

滋賀…ほぼ50:50

京都…55:45

奈良…35;64

大阪…60;40

和歌山…ほぼ50:50

兵庫…ほぼ50:50

となる。

概ねイーブン、奈良が火葬が、大阪は土葬が強く見えるが、発掘箇所による偏りはあるかも知れない。

この地域は石塔らがそのまま残される事が多く、そこは発掘されておらず火葬か土葬か解らない事が多い。

総数に対し土葬,火葬の数が少ないのはそんな理由である。

全体像を見るなら、個別の墓を時期毎に地図にプロットする必要があるが、今回は全国的な傾向比較が目的なのでそこまではしていない。

ただ感触的には、奈良が特徴的に感じた。

火葬は仏教に伴い伝来…それが維持さ)たであろう高野山周辺は殆ど火葬のようだ。

それも、火葬施設は見えず、蔵骨器(瓦質羽釜状)に火葬骨を納め土坑に埋めた形。なので往古からの土葬(古墳)文化から火葬が強くなり、古墳が多い大阪はその逆…案外そんな考え方もありなのかも知れない。

遺跡数…というより発掘数という指数で捉えれば現状そんな風には見える。

 

B,特徴ある副葬について…

こんな「似た様な物がある」…は如何であろうか?

①墓制とセットされた似た様なもの…

兵庫県三木市「宿原寺ノ下遺跡」12世紀後半…

「標高55メートル前後の志染川による氾濫原・川岸丘陵段丘上の平坦部に位置する」

「木棺墓SX205、残存長さ1.7cm幅0.6 cm深さ0.2cm木棺の残存1.4cm内法幅 0.4cm棺側板厚0.6cmを測る上面に長軸に沿って板石を並べ内側に石を詰める」

「和鏡1面・鉄製毛抜き1点・須恵器椀 1点・須恵器小皿1点・鉄製刀子1点・子皿状の漆椀1点・鉄釘片3点, 銭貸片1点を出土」

揃っているものを敢えてピックアップしてみた。

近畿編では、結構東西方向に掘り込まれた墓は有ったりする。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246

「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…

北枕は案外ステレオタイプで、土地利用の仕方で割と平気で東西方向にしたりしていて、この遺構も東西方向、残念ながら頭位迄明確では無さそうだが思い切りの木棺墓である。

12世紀後半で、和鏡、古銭、刀子、須恵器(系と言う事だろう)、漆器、そして毛抜形金属製品迄、副葬が揃っていたりする。

和鏡の副葬位置を考えれば、東頭位の可能性が高いのではないだろうか?

実は筆者、本書確認とこの項を書いている最中に、実は忌中だったりする。

葬儀らの合間に気晴らしも含めてやっていた訳だが身内を納棺するに当たり、副葬しつつ傍と関連項を思い出した。

納棺時、花や関連した物を入れる際無意識に、顔の側や足元のスペース、又はお気に入りの服らは胸の上に乗せていた。

周りを見ていても、花は無意識に顔の側に飾りつけている、全く申し合わせもせずに。

仮に杖ら「長いもの」ならば、足元へ添わせる様に入れただろう。

スペース的なものもあるだろうが、あの世に着いた時に、ふと使い易そうな場所に何気にやってる自分や身内を見ながら「無意識にこんな風にやったのか…」とふと思ったり、案外そんなものなのかも知れない。

もとい…

毛抜型鉄器も数列見受けられた。

擦文期の副葬で結構目立つものだが、ここは「兵庫県」、似た様な墓制だが何の関係があるのか?

忘れて貰っては困るのだ。

「前略〜鎌倉幕府が全国を統一すると、その勢力は、奥州はもちろんその北辺と関係を持っていた北海道南海にも及んだと思われる。吾妻鏡卷二十二建保四(一二二六)年間六月の条に、その年の二月京都の東寺の宝蔵に入り宝物を盗み捕らえられた賊徒ほか強盗海賊五十余人を奥州につかわすべき由沙汰あり、夷島に放ったとの記録があり、さらに文暦二(一二三五)年七月の条に夜討強盗の枝葉は関東に送り、夷島につかわすべしとの命令が六波羅に下された由がみえている。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道      昭和45.3.20  より引用…

ピックアップされているのは2件だが、鎌倉幕府により北海道が流刑地とされていた話は知れた事。

そして、その監理らも含めて「蝦夷沙汰」を行使するのが、得宗家代官としての「安倍姓安東氏」の職務だろう。

畿内と近い墓制がここで伝わっていても、全くもって不思議でも何でもない。

11〜13世紀位で明確に地の人か本州の人か?明確に解る遺跡があるのだろうか?

中世遺跡が薄い北海道、むしろ場所により数%何割か「混ざる」可能性はあるだろう。

それら罪人達がどうなったか?

あまり記される文献は見ないのだが。

案外、東北や関東より東西方向に掘り込まれた墓は近畿に多く見受けられる様な気もする。

関連項にある様に、限られた面積を有効に使う為、実際あまり拘りはなかったとすれば、人口密集地である近畿はそんな考え方が当てはまる気もするが…どうなのだろうか?

いずれにしても、北海道の特徴とされる墓制と言われるものが、他地方よりむしろ近畿でポツポツ見られるのは興味深いところ。

 

②茄子形垂飾…

京都府京丹後市弥栄町「御殿口古墓」  9~10世紀

竹野川中流の左岸丘陵先端に位置する。」

「地山面を幅約3m・深さ1.8m掘り込 んだ墓壙で、底部に木炭層が残る。火葬墓か。」

「瑞花双鳳紋八稜鏡1面、茄子形装飾品2 品2点(東京国立博物館蔵)、石帯 7点、鉄剣・須恵器甕(所在不明) が出土している。」

「地方官人層の墓と推定される。」

東博所蔵とあり、是非見たいものだ。

「地方官人」は、石帯からだろうか?

和鏡と共伴も興味深く、年代は和鏡によるものだろうか?

と、言うか…

似てないだろうか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

ここにある「美々4遺跡」の鉄製螺旋状垂飾がこれ。

15世紀中〜1667年と比定されており、時代背景は合ってはいない。

だが、この様な形状の「垂飾」は、少なくとも9〜10世紀には京や丹後国に出回っていた事は解る。

古い発掘且つ材質,構造の詳細記述がないのでどんなものか?は解らないが、仮にこんな「茄子形垂飾」を模して作ろうとすれば、針金や銅線を「螺旋状」に巻いた上で上下方向に潰せばこんな形には出来るだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/08/16/182820

「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?…螺旋形状をした事例の備忘録」…

一連の「コイル状」「螺旋状」の鉄製品も、その「構造」から追跡しての話。

「形状」から追うなれば、こんな「垂飾」の事例と用途らからの追跡も必要になるかも知れない。

そして上記①より、これが「畿内である」事は大きいかも知れない。

何しろ、「墓の副葬」である事を考慮するならば。

「垂飾」については別途確認したいと思う。

 

C,周溝を含めた墓制変遷…

D,集石塚について…

幾つか周溝を伴う物、集石塚としてカウントしているが、

・周溝…方形周溝

・集石塚…むしろ方形配石墓

に限定されていた。

周溝を伴うものとして、

京都府長岡京市長岡京右京区第130次  西陣町遺跡」 11世紀後〜鎌倉期…

「火葬塚1基:周溝を持つ」

「土師器48点、凝灰岩製相輪部、銅製品」

との事。

明確か蔵骨器らへの記述は無いが、周溝中央部に塚状の盛土が元々はあり、火葬だったと想定している様だ。

では、方形配石の事例は、かなりガチ系をピックアップする。

京都市山科区醍醐寺三宝院院 重要文化財宝篋印塔」 室町期

「西に開ける谷の奥に醍醐寺に関係する墓域が存在する。」

「重文宝篋印塔は二重基壇上に位置し、下部の一辺は4.78mと大規模である。宝篋印塔のの下部に2基、各辺に3基、土壇の周囲にも10基、合わせて25基の土壙があり、その多く には甕が据えられていた。」

常滑甕・壺、・備前甕、土釜など蔵骨器に使われ、瓦質の焼成品や石で蓋をされる。瓦質筒型容器や土師器皿も数点出土する。中心部の容器は常滑の小型甕であった。」

醍醐寺第65世座主賢俊 (1357年没)に関係して造立された、と伝えられてきた。」

醍醐寺三宝院である。

中世では座主の賢俊が足利尊氏の庇護を受けた様で、後に高野山(真言宗)や吉野を中心とした「当山派修験」の本山となった寺院。

単なる方形配石のみならず、二重の基壇となる大規模なもの。

さすが本山級となれば立派なもの。

引用文に「釜」とあるが、実はこんな形の様で、

瓦器の羽釜状で、奈良周辺で特に副葬の「鍋」がカウントされてるのは、この手が検出されている事だ。

特に「高野山」周辺の火葬骨を納める蔵骨器は本書で見る限りではこのタイプが殆どの特徴。

項目の先頭にも書いたが、これら周溝を伴う物、方形配石を伴う物は、火葬を行った感じではなく、他所にある火葬施設で火葬した後に収骨し、蔵骨器に納めた上でこれら火葬墓に葬った様だ。

この辺を鑑みると、今のところ方形配石で火葬迄行っているのは北陸周辺に限定されている様な感じである。

何せ、我が国の仏教の先駆地域である近畿がこうなので、北陸へ伝播した段階か運用過程で火葬迄行う様になった…現状はこの可能性が高そうだが。

とすれば、 北海道の余市町「大川遺跡」や伊達市オヤコツ遺跡」のルーツと考えられるのは、同時代以前〜同時代にも運用されていた北陸、それも白山,石動山そして医王山らの修験系の墓…これらの蓋然性が高いと思うが如何であろうか?

 

また、面白いものを見つけた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

関東は鎌倉周辺で、一つの大型墓壙に複数の遺体が葬られた事例は概報だが、これはむしろ意図して合葬した火葬事例ではないだろうか?

兵庫県淡路市「北浦遺跡」 14〜16世紀…

「瀬戸内へ向い、北西方向に延びる丘陵端」

「長方形の列石区画内に2つの石囲区画(1号墓・2号墓)、1号墓は2×1.2 m、一部2段の石積みがある長方形区画  埋葬施設は2箇所(土師質壺蔵骨器・備前焼壺蔵骨器)2号墓は小規模石積み埋葬施設2箇所(備前焼壺蔵骨器2基)

「土師質1、備前燒表3(以上藏骨器)、須恵器鉢2、一石五輪塔6、五輪塔空風輪2、五輪塔火輪2、不明石造品(笠塔婆か)」

「2基ともに蔵骨器の埋納坑は認められない  各蔵骨器は底部穿孔・火葬骨と白玉砂利 をいれる

1号墓備前焼壺1個体には少なくとも男女1体分づつの火葬骨が入れられている  須恵器鉢2個体は蓋身の関係であった可能性があり、それ以外にも蔵骨器が存在していた可能性が高い」

「確認調査においても蔵骨器一土師質壺・備前焼壺片が出土している  通称『荒神山』 近世にも使用され土饅頭状 に盛土されてい る」

以上の通り、方形配石した区画内に蔵骨器を納めたタイプで、方形配石内で火葬したか?は不明だが、1号墓では余市町「大川遺跡」同様に「合葬」している様だ。

時は14〜16世紀とあるので、北陸一帯の方形配石火葬墓より時代は下る様だが、鎌倉周辺の事例と違いここでは意図して同じ蔵骨器に「合葬」されている。

関連項の通り、大川遺跡の事例たった一つを文化代表例の如く語るなら、この事例をもってして「合葬した火葬事例は本州にもある」…これが成り立ってきてしまうのだが。

この辺は本来、慎重にやる必要があると思うが。

 

E,十字型火葬墓について…

残念ながら正確に十字型を成すものは見当たらない。

だが、C,Dで述べた「長岡京右京区 西陣町遺跡」に、関連項にある「キ型火葬墓」がある。

「焼土壙」と記述され、人骨片,鉄釘30数本,土師器皿5点,瓦器椀1点を検出、焼場、つまり火葬施設と推定されている。

推定用途は、上ノ国「夷王山墳墓群」の十字型火葬墓と同様になる。

形状がピタリとはいかないが、比定される時代も11世紀後〜鎌倉期位と秋田での事例と重ねても割としっくりくる時代背景ではある。

今の処は類似事例はここのみで、他の地域では見つけられておらず、一箇所ではあるが、ルーツの可能性を考えてみるのも有りなのではないだろうか?。

 

F,鍋被り墓について…

残念ながら中世では見当たらず、実は北ルーツが南下したのだろうか?

 

以上である。

筆者の薄学故に始めた、国内での墓制の特徴把握の為の俯瞰であるが、これで、

・北海道

・東北

・関東

・北陸

・中部,東海

・近畿

・四国

迄、ザッと見てきた。

印象を一言で書けば、「墓制の伝播は、地域間の繋がりの中で行われた」という極当然の結果なのではないか?だ。

例えば火葬施設。

京付近に多く見受けられる「円形,楕円,不定形の浅い穴」と事後に石を敷き詰める形…①

これは北陸や東北日本海側、道南へ伝播している。

対して、奈良(勿論、先の円形らのものもあるが)周辺の「小型長方形又は隅丸方形,長楕円の土壙」…②

そしてそれが後に通気孔が施され…③

近畿〜東海の「I型」になる

そして中部,関東へ到達段階で「T型」に変わり…④

それが陸路で南東北迄達する。

他の形と共通する部分で重複はするが、ザッとイメージ的には、

赤マークが①が優勢…

黄マークが②,③…

青マークが④…

こんな感じに出現している様だ。

これ、単に「火葬墓,火葬施設」と話してしまえば、この火葬施設圏を跨げばイメージする形が違う様な気もする。

勿論、筆者が見ているのは先に述べた通り代数的に全体像からのイメージ。

個別の墓をプロットし直せば、結果は変わる場合があるのはご了承願いたい。

その場合、一箇所に大量にその形の墓がある様な大規模遺跡にデータが引っ張られる危険性があるので、こんな手段にしている。

また、大阪らに見られる横穴式古墳の再利用とも思えるものは、一部は兵庫,京都日本海側と北陸迄、もう一方で海路?で中部らを飛び越え鎌倉〜南房総の「やぐら」として昇華するように見えなくもない。

円錐形に石で塚を作るのは出羽周辺、「方形配石」を行い敢えてそこで火葬を行うのも北陸周辺…こんな特異点も見え、これらは前時代からの信仰と習合され独自性を産んだ?とも思える。

何となくだが、広域で見比べると「文化伝播の当然の結果」で、全くの固有性は無いと思えるのだ。

それは北海道も一緒で、あまり明確な独自性は見えないと思える…少なくとも、墓や住居ら生活痕を見る限り。

地方から見えるものと全体像から見えるものは見え方が違う。

全体像から見える自地域の位置付け…こんな視点は忘れてはいけないのではないだろうか?

 

まぁまだ道半ば。

まずは列島の中世墓制の全体像を掴むのが優先。

細かく見るのはその後だ。

残るは中国地方、そして九州,沖縄地方…

この手の文化に突然の「メタモルフォーゼ」は無いだろう。

従来から人が住むと説明するなれば尚更の事。

あるとするなら、人の移動,移住やそれに伴う宗教の伝播や新文化の受容しかないだろう。

なら、北海道は…?

 

 

参考文献∶

「中世墓資料集成−関東編(1)−」 中世墓資料集成研究会 2006.6月

 

「中世墓資料集成−近畿編(2)−」 中

世墓資料集成研究会 2006.6月

 

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道      昭和45.3.20 

 

「よみがえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」(財)アイヌ文化振興・研究推進機構 2001.6.2

ゴールデンロード⑥&ゴールドラッシュとキリシタン-35…北海道の「採金施設」とはどんな場所か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225

「ゴールデンロード⑤…遠野と金山,水銀との繋がり、そして修験道の関与は?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

「ゴールデンロード」と「ゴールドラッシュとキリシタン」…両シリーズで攻めてみたい。

 

・様似のゴールドラッシュの伝承と状況…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849

「ゴールドラッシュとキリシタン-27…様似町史に記された「黄金伝説」は「キリシタナイ伝説」だけに非ず」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/174555

「北海道弾丸ツアー第三段、「様似篇」…観音山に石垣はあるか?、金鉱山の痕跡は?、秋田県民との意外な繋がり?、そして伝説の「キリシタナイ」は何処か?」

旭川のポテンシャル…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409

「砂金&水銀は「様似」だけに非ず…旧「旭川市史」に記された「旭川」のポテンシャル」…

・そして、近世,近代の状況…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/02/131535

「ゴールドラッシュとキリシタン-29…近代北海道にもゴールドラッシュは発生していた。そして…」…

・予備知識として…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」…

錬金術」が「科学」に変わった時シリーズで。

こんな風に江戸期のゴールドラッシュについて追ってきているが、なら実態はどうだったのか?についてはイマイチ肉薄出来ていない感。

前から欲しかったのは、実際に金鉱石なり砂金なりの採金場がどんな風だったか?だが、あまり出回らない。

やっと古書に出ていたのを見つけて入手した。

「今金町 美利河1・2砂金採掘跡  -後志利別川美利河ダム建設用地内埋蔵文化財発掘調査報告書-」である。

実際に江戸初期の北海道の砂金場分布はこうなるそうだ。

なかなか興味深い地図である。

キリシタン処刑で知られる大千軒岳を源流とする「知内川」を始め、その後に開山された記録がある

・島牧(1631)

・シブチャリ(1633)

・アイポシマ(1635)ら、知内川の衰退に先んじて探索作業は進んだとしている。

ただ、この後志利別川での採金記録はあまり詳しくは記録が無い様だ。

では報告していこう。

 

発掘に至る経緯は、

・周辺は以前から江戸〜明治での砂金場伝承、明治〜昭和のマンガン鉱山等が行われた地。

後志利別川へのダム建設の話が出る。

・ダム工事に伴う粘土採取で旧石器時代の遺跡(ピリカ遺跡)を確認、周囲を調査。

・砂金場については、多数の石垣,石積み,水路らが広範囲に有った事は知られていたが、詳細は不明。

・それらがダム築堤、国道付替、満水時の水没地域に掛かるので、大規模な二箇所が発掘する事になった…

と、言うもの。

昭和57年度に「2砂金採掘跡(750×150~300m範囲)」、昭和63年度に「1砂金採掘跡(900×50~250m範囲)」の調査を行った。

後志利別川は、長万部岳を源流として南下後、この美利河周辺でチュウシベツ川,ピリカベツ川と合流し西へ、瀬棚から日本海に注ぐ。

また、周辺の山々を源流にする川は多く、噴火湾側へ注ぐのが国縫川…そう、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

「この時点での公式見解④…新北海道史の「シャクシャイン像」」…

漢文九年蝦夷乱の際に、松前藩軍とシャクシャインが衝突した「最も松前に近い」のが国縫で、ここが落ちれば瀬棚〜長万部の採金場ごと奪取されかねない事態。

謂わば「最終防衛線」だったのだろう。

松前軍六百数十名の中には、利権を守るべく161名の金掘衆が参戦していた記録がある。

その後、幕末に再度砂金採取や調査が始まり、安政年間では函館奉行が佐渡の技術者を招聘したり、明治では外国人技術者のブレークやマンローの地質調査、先述の枝幸に先んじて小泉衆が探索,採金したりしているとの事。

関連ある史料も「クンナ井砂金山絵図」ら未公開だったものも含め、同書に掲載される。

付記するが、後志利別川,チュウシベツ川では砂金は出るが、ピリカベツ川では殆ど出ないそうだ。

どんな遺構か?

概略はもう、図面あらば言葉は要らないかも。

・美利河1砂金採取跡

A地区…

B地区…

B地区断面図…

北からC→A→D→B→Eに地区分けされ、

C地区…石垣,石積みは散見するが保存状況は良くない

A地区…上記通り

D地区…住宅地,農地,採石で遺構は殆ど残存せず

B地区…上記通り

E地区…チュウシベツ川に最も近く、大部分は撹乱され、ほぼ遺構は残存せず

で、各地区共採取場は概ね長方形の凹地として残される。

水路は最大のもので底幅1.5~3m、深さ1.0~5m。

石垣は水路に沿い概ね1.5mの高さに積まれ、石積みも16箇所に及ぶ。

 

・美利河2砂金採取跡…

A地区…

B地区…

石積部分の断面…

北からA→C→D→Bに地区分けされ、

A地区…上記通り

C地区…保存状況良好で、このまま保存

D地区…現在の道路を作る段階で全体的に平滑され、殆ど残存せず

B地区…上記通り

で、概ね各遺構の大きさらは1砂金採取場跡同様。

A地区の石積みのトレンチ土層断面は上記通り。

・各採取跡に伴う導水路…

特に2砂金採取場跡での最長導水路はチュウシベツ川から約東方1kmの位置から取水し、約800m遺構が確認出来、深さ50~70cm、両岸に石垣を施す部分もある。

ざっと、解り易い部分の図がこんな感じ。

後志利別川右岸の段丘やチュウシベツ川に導水路を築き水や砂金らを引き込み、「石垣」造りの水路や流れを調整したり掘った土砂,石らを積み上げた「石積み」を築き、採取場に導き採金。

「大流し」と言われる採取法で、広範囲の砂礫層から砂金を取る為に水路で水を引き込み流水を導入するもの。

上流から水路を引き、砂金を含む砂礫層へ流し込む為に、大規模且つ多人数を要する大規模工事が必要になる。

これを行っていた事を示す遺構になる。

驚愕である。

単に川に入り、砂金がありそうな場所で揺り板を揺する…こんなものではない。

一度周辺の砂礫層を洗いざらいにして、水路を変えながら砂礫層を掘り進むを繰り返す様だ。

あまりに大規模に堰や石垣,水路を築くので「大流し」の場合、採取終了してもそのまま放置される事が多いそうだ。

故にこんな感じで残ったのだろうとしている。

水路は縦横に走るが、水利を考慮し幾つかのブロック分けされそこから枝状に分岐していると考えられる。

さて問題、この遺構が何時作られたものか?、ここは「まとめ」の部分に記述されるので引用する。

「両採掘跡の明確な年代については、今回の調査だけではその結論を出すにはいたらなかった。しかし、「クンナ井砂山絵図」によって幕末期の採掘の様子がある程度できるため、それとの比較で若干の見通しを示すことができるようになった。

「絵図」によれば、幕末期の採掘は「赤淵沢」,「本山」,「黒岩」など、利別川の支流が主体で、本流ではあまり行っていない。また、「大川トシへチ」と「久春屋仁川」の合流点より下流部の美利河2砂金採掘跡に相当する部分には全く書き込みがされていない。さらに 美利河1砂金採掘跡に相当する「大川トシヘチ」の右岸部には「上  ばん」の語句がみら れるだけである。以上の点から、幕末期においては両採掘跡での採掘はほとんど行われていない可能性が強い。さらに、両採掘跡とも段丘上の高台に位置し、導水路なくしては水を確保できないという点から、かなり大規模で組織的な採掘が行われていたことがうかがわれる。また、明治以降においては、マンローらの調査こそ行われるが、大規模かつ組織的な採掘は行われていない。したがって、両採掘跡で砂金採取が盛んに行われたのは江戸初期、松前藩によってであることが、かなり確実になったといえる。」

以上の通り、発掘調査段階では消去法ではあるが、江戸初期の発掘実態を伝える遺構である可能性が高いと判断されている。

 

さてでは、そんな石垣や石積みを金掘衆が行う事が可能だったのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151

「ゴールドラッシュとキリシタン-22…石を扱う技術集団として、この痕跡を追ってみる ※1追記あり ※2写真追加」…

新北海道史を引用したが、

「築城は六年を費して、同十一年(註釈:1606)八月落成をみ、福山館と称した(松前家譜、松前史)。そこで、元和三年から五年(註釈:1615~1617)にかけて、大館町および寺町を福山城下に移し、寛永六年(註釈:1629)鬱金岳(千軒岳、浅間岳ともいう)の金堀に城の石垣を修築させ、しだいにその形を整えていったが、同十四年(註釈:1637)城中から火を出し、硝薬に点火して建物が多く焼失したため、同十六年(註釈:1639)六月これを修造した。」

とあり、ゴールドラッシュ時点で金掘衆に石垣構築技術を持つ者が居たのは、福山城の石垣が証明している。

更に…

「翌(筆者註:元和)三年東部音津己(福島町字松浦)および大沢(松前郡松前町)から砂金を出し、同六年公広は砂金一百両を幕府に献じるにいたった。ところが幕府はその金ならびに金山を公広に賜わったので、藩はその採掘を奨励したらしく、採金業は急に盛んになった。有名な知内の砂金は、元和七年ころから多量の産出をみ、知内川の水源である千軒岳の金山は、寛永五年に創開され、当時金山奉行は蠣崎主殿友広および蠣崎右近宗儀であった。また西部にも西部金山奉行を配置し、厚沢部、檜山、上ノ国付近の砂金を管理していた。金師は仙台の人で喜介という者でその下に山尻孫兵衛、水間左衛門などがいた。同八年西蝦夷地島小牧から砂金を出し、同十年東蝦夷地ケノマイ(日高国沙流郡慶能舞)、シブチャリ(日高国静内郡)、同十二年には十勝、運別(日高国様似郡内)の両所に採金の業開け、ついで国縫、夕張にもまた砂金が採掘されるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日  より引用…

と言う訳で、ここで「仙台の人」が登場する。

勿論、直接の関与は解らないが、仙台藩に石垣や水路の技術があったのか?と言うなれば即答でYES。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/03/080215

「ゴールドラッシュとキリシタン-4-a…「後藤寿庵」と言う武将(増訂版)」…

「寿庵堰」や先んじたとも言われる「茂井羅堰」で実証され、未だ補修を続けながら現在も使われている。

仙台藩在住の技術者なら、これらを知る可能性はあるだろう。

まして、当時の鉱山技術者は全国区。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519

「ゴールドラッシュとキリシタン-26…「院内銀山」は全国区、そしてそれを支えるネットワークが出来るのは必然」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/185916

「ゴールドラッシュとキリシタン17…徒弟制度&相互扶助?、リアルな「友子制度」の実態」…

出来つつある「友子制度」でネットワークで、仙台藩以外でもその辺は成立する。

江戸初期の遺構であろう…状況証拠としては、かなり高めの背景となろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515

「ゴールドラッシュとキリシタン…無視出来るハズが無い人口インパクト」…

カルバリオ神父の報告はゲタを履かせているとは思うが、鉱山町は人口が集中したであろう事は想像が容易。

半数でみても、当時の北海道の人口に匹敵又は凌駕する人々が雪崩込んだ事となる。

それに、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/18/200305

「ゴールドラッシュとキリシタン-31…この際アンジェリス&カルバリオ神父報告書を読んでみる②」…

正規で申請したなら、租税しない限り戻れないシステム、なかなか途中足抜けも難しい。

また、金掘衆は食料は自前なので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…

半ば闇市同然で商売に行ってもそれは成立させられる。

関ヶ原,大坂の陣の残党やキリシタンを含む「牢人」を含むであろうので、人集めもそれなりの規模で可能なのは考えられる。

水利,石垣の技術、人集めの面の背景的には問題なさそうだ…というよりは、大量に「牢人」が発生した江戸初期たからこそ可能なのかも知れない。

ならば、最初の地図の如く短期間で広域の砂金場や金山を探索,開発するのは可能なのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/14/065055

「「黄金山産金遺跡」で何が行われていたか?…その推定の備忘録」…

我が国最初の砂金場開発段階で、砂金そのものや「もち石」を探り河川を遡るスタイルで行われている事や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/16/191817

「「錬金術」が「科学」に変わった時-7…武田信玄の軍資金、甲斐の金山とはどんな所か?」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/22/210608

「「錬金術」が「科学」に変わった時-6…佐渡の鉱山史を学んでみる」…

砂金場から露頭箇所、金鉱脈を手繰る事は甲斐や佐渡の実績でノウハウが有ったのは解る。

先述の通り「全国区」である事を鑑みれば、何の問題もない。

つまり、冷静に背景を見れば、偶然でもたまたまでもなく、「なるべくして」あの様な大規模工事を擁する砂金場が出来て、組織的に一気に他地域に展開されていった…で説明出来る。

それは同時に、瀬棚〜国縫ラインのみでなく、他の砂金場でも同様の砂金採掘跡遺構がある(又はあった)可能性も予想出来る…と、言う訳だ。

 

如何であろうか?

背景を添えれば驚く事ではなく、有り得る事だろう。

そして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/10/195717

「ゴールドラッシュとキリシタン-34…最新キリシタン墓研究と「火山灰直下の墓」の共通点についての備忘録」…

我々が「本当にこれで大丈夫なのか?」と危惧する理由も解って戴けたと思う。

当時の鉱夫の寿命は短い。

帰る故郷も既に他人のもの。

身寄りも少ない。

なら、少ない身の回り品は?…子孫に託されるより副葬される…だ。

なら、本州から渡って土着した人々が奥地に居てもおかしくはあるまい。

なんとか当時の砂金場実態を少し覗う事が出来た。

まだまだこれから。

少しずつ積み上げ、迫っていこうではないか。

 

 

参考文献:

「今金町 美利河1・2砂金採掘跡  -後志利別川美利河ダム建設用地内埋蔵文化財発掘調査報告書-」  北海道埋蔵文化財センター  平成元.3.30  

 

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45年3月31日