推挙を受けての三役任命、そして…「加賀家文書」に残る「雇い方願上」にある労働システム

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005
前項では、役アイノの推挙の話を。
では、改めてその後どうなるか?をみてみよう。
これは、一次幕府直轄以後の流れと見るべきところ。
その前、つまり松前藩施政下はどうか解らない。
同じかも知れないし、違うかも知れない。
蓋然性有りと言えるのは、幕末の東蝦夷地とされた地域の事だと言う事。
だが、幕府直轄では賃金やシステムの統一化はある程度予想可能。
何故なら、人足費用らは統一され、松前藩に戻された時代、後の二次直轄や東北諸藩に分割された時代もそれが踏襲されているから。

では、役アイノの任命から。

安政七年 役アイヌ申渡

安政七年申年
閏三月二十三日
アツケシ喜多野殿様
御用所御出席
当御詰合様同断

御申渡
惣名主役被仰付候 庄屋後見
惣年寄 仁助(ヘツカイ)

庄屋役人被仰付。
陣平(会所元・子モロ)

惣年寄役被仰付候
礼吉(ホニヲイ)
八蔵(ホニヲイ)

名主役被仰付候
正治(ホニヲイ)
喜吉(チウルエ)
鉄治(サキムイ)
三治郎(ウヘンヘツ)

殿様から年寄役 御直に被仰付候
鷹助(会所元・子モロ)
耕作(ウヘンヘツ)

会所から申立(年寄役)
重蔵(チウルエ)
才吉(シベツ)
四郎吉(ヘツカイ) 」

一応、解説には、安政七年は三月十八日をもって改元、三月十九日以降は万延元年になっているが、文書的には改元が反映されていない模様。
仁助が惣名主(惣乙名)となり、名主(乙名)と年寄(脇乙名)が厚岸代官立会で任命された時の「申渡書」になるのだろう。
厚岸の代官…仙台藩になるか。
この様に、役アイノは基本的に藩や函館奉行所から任命されるのだろう。
仁助はニシベツ川事件での活躍を経て、この地域のアイノのトップ「惣名主(惣乙名)」まで上り詰めた事に。
藩境とされる河川では、その利用権で上流と下流で揉めているのは概報。
この一件は白黒を付けるまで徹底的に役アイノ同士、又、藩を巻き込み話し合いをやっている様は、加賀家文書にも残る処。
役アイノ(役土人)任命はこの様な感じ。

では…

アイヌ雇い方願上

「恐れ乍ら書付けを以てお願い申し上げます

一当御場所のアイヌたちをこれ迄お貸し渡になり漁業に差し支えなく仕事をしてきました。有難く仕合せに存じ上げます。そのようなときところ、この度、御領地になりましたので、これまでの通りお貸し渡になられたくお願い申し上げます。尤も(筆者註:もっとも)、雇い方のことは漁業へ組み入れる者は
幕府の支配中からの仕切りの通り、漁割合勘定とし、その外大工・木挽・鍛冶・馬方・炭焼・畑作・山稼・二つの通行所詰人足・御用状持夫・通行人足等に使う者、これもまた先の規約通り賃金を差出します。勿論、食事等は入念に特別の手当等をして雇いたいと存じますので、恐れ乍らお願い申し上げます。以上
文久元年八月六日
御詰合様
御役人中様
子モロ支配人
善吉 印


御付札
書面 全て是までの通りと心得、アイヌの介抱は尚又念入に手当が行き届くように取計らうべき事 」


どんな時代か?
文久二年に皇女和宮の将軍徳川家茂とのご婚礼。
上記の通り、場所請負人の任期に合わせ、丁度幕府直轄領で仙台藩が警備の為の出張陣屋を開いていた時に、陣屋へ「アイノ雇い方願」を出したものか。
これを見る限り、統率しているのは藩、又は函館奉行所で、場所請負人や支配人は「その労働力を借り受け、雇い入れる」と言う形になっているのが解るだろう。


上記二つを見る限りでは、
・独立性はこの段階では無い。むしろ、幕府や藩直属の漁師,工人衆的な存在。
・幕府や藩から任命された役土人がそれら人民を率いる。
・場所請負人やそれに雇われた支配人が、幕府や藩に対して「その労働力を借り受け、雇い入れる」形で場所運営を行う。
・漁師は「漁獲高に相応した歩合」で、工人は「幕府が設定した給料」で、それぞれ支払われる。
以上。

随分イメージが違うと思うが、残されている「加賀家文書」に則ればこうなる。
故に、働きが良い者や家族円満,出産,長寿,死亡時には、幕府又は藩から場所を介して手当(ボーナス)が支給されたと。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
更に「非課税」。
税金は、場所請負人が運上金として支払う。
本人達が払う必要はなかった。
この他に、役土人にはオムシャらで酒や煙草その他の「役付手当」が支払われ、後に上下の着用が許可されると。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757
この他、本州の名主や庄屋が行った世話役としての機能も支配人らが担い、賃金の台帳管理や戸籍(宗門改に必要)らも代行していたと言う事に。
何より本州との違いは、名主,庄屋を介して意見が言えた事。
下手に集まり逆らう様な意見を言おうとするなら、一揆とみなされ磔が待っている。
故に連座する時は円形に代表者が解らぬ様に署名したのは、あちこちの資料館でも展示が見られるだろう。
ここまで見た限りで、そのような連座署名はない。
場所経由又は乙名直接であれこれ陳情があったからこそ、赤裸々な話まで残されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
構造的欠陥も幕府直轄で随分解消されたと言わざるをえないか。
で、なければ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
こんな総力戦での開拓事業が、役土人含めて行われる訳もない。
勿論、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
中には極悪非道と思われる場所もあったであろうが。
ただ、それも松浦武四郎等の様に、直接函館奉行らにリーク出来る者により、待遇検討余地が広がったりしているのも確かであろう。


さて、どうだろう。
史書から、それらを発行するために使われた史料に遡れば、こんな記事も存在するのだ。
本来、歴史学も体系的に組み上げられているハズなのだが、これら細かい施策が提示されている史書って少ないのでは?
「弾圧印象」が各文献でも先行し、感情論的に解釈された事が記載の多くに割かれているのもまたあるのではないだろうか?
多角的に他支店での検証が必要だと考えるのは、我々だけであろうか?

折角、某博物館も出来たのだ。
見直しすべきタイミングでもあるのではないだろうか?
勿論、それをやるのは「その組織の中に身を置く者」の役目だと思うのだが。
自浄努力は組織にとって必須、無ければ腐るだけ。
責任を持って「矢面に立って」戴きたいものだ。
多額の「税金」を使って存立しているのだから。





参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/17/201757
もう少し「加賀家文書」を観てみよう。

「乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。~中略~乙名以下役土人の任命は、もともと松前藩がまったく新たに選任したのではなく、蝦夷の慣習によって選ばれた酋長なり有力者なりが、乙名や役土人にたったのであるが、後にはしだいに和人の干渉が加えられら和人の都合のいいものが選ばれるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30 より引用…

まず第一点…
新北海道史に於いても、
・藩役人との上下関係は寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)後の起請文により成立していた事は認めている。
・その選任は慣習により決められた。
ここは認めている。
実際、豊臣秀吉からの朱印状で松前慶広の独立が認められた段階で「逆らえば、秀吉討伐軍が来る」と脅しているので、松前との上下関係は、そこの気もするが。

では、幕末どうだったのか?
加賀家文書をみてみよう。

①シベツ住年寄宅蔵名主への繰上願

「恐れ乍ら書付けを以てお願申し上げます

シベツ住年寄 宅蔵
右の者、日頃から実意をもって仕事に励み、アイヌたちも従って居りますので、この度名主へ繰上を言い付けられますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。
文久元年八月二十八日 子モロ支配人 善吉

郡御役所 」


②シベツ村名主力助隠居、同所住アイヌ喜蔵年寄に取立

「恐れ乍ら書付を以てお願い申し上げます

シベツ村名主 力助
右は四年前から病気を患っていたところ、いよいよ老衰し、役を勤めかねるとのことを度々願出ていますので、どうぞ隠居を仰せつけられますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。 以上
万延二年二月十八日
通辞 伝蔵
支配人 善吉


恐れ乍ら書付を以てお願い申し上げます

シベツ村住アイヌ 喜蔵
右の者、常日頃から真心を持って働き、村中のアイヌの評判も良いので、お取立になって下されたいと、役アイヌたちから願出てますので、年寄役にお取立に下げ置かれますよう、恐れ乍らこのことをお願い申し上げます。 以上
万延二年二月十八日
通辞 伝蔵
支配人 善吉

代官所

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31 より引用…

これら推挙により、代官所で検討の上、「役土人申渡」の書付で、申渡されるシステムの模様。

確かにこれを見ると推挙状は通辞,支配人名で行われている。
介在しようと思えば出来る事は出来る。
但し、見逃していけないのは、
①仕事ぶりの評価を下すのは支配人なので、推挙までは可能であろう。
②仮にここで無茶振りをしても、直接代官所へ申し出る事は可能。なので、余りに無茶振りな事は難しくなる。
③何より、全く慣習から外す訳にはいかない。
④勿論、代官には拒否権もあるであろう。
⑤「撫育」に協力的な者は「新シヤモ」として取り立てられた事は以前から指摘している。
これらは考慮が必要。

さらに…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
川村カ子トと川上コヌサの力関係はこう。
川村カ子トが元々の乙名(名主)を継いだ家系で、役土人制度が無くなる明治までこんな風な慣習は続いていた。

なら、加賀家文書と旧旭川市史の中間は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/01/223305
ベンリクゥの力は絶大。
周囲の者は逆らえない。
つまり、単に支配人らの思惑のみで決定出来る程、簡単ではないと考える事が出来る。


まぁ、少なくとも前項も合わせ、上記の段階では、支配体制の歯車に組み込まれているのは解るだろう。
つまり、明治政府の思惑で組み込まれた訳ではない事は解るだろう。
何せ、最終的には代官所からの書付で効力を発揮するのだから。
独立性を訴えるのは少々難しいのではないか?、何せこんな物証があるのだから。
明治ではない。
「少なくとも」江戸期、それも寛文九年蝦夷乱直後には、こんな風になっていたのは事実だろう。






参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30

幕府や松前藩は本当に弾圧したのか?…「加賀家文書」に記される赤裸々な報告や史料の断片

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/08/062222
さて、一夫多妻ら家庭環境について。
前項にある、

「このようにアイヌが多くの妾をもつということは、裕福な和人が痴情的征服欲から妾を蓄えるものとはちがい、亡弟の後事を見てやるという深い愛情の発露から生じたものであり、また当時のアイヌ社会の労働力を根幹とした経済性から発生したものであった。」

平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31 より引用…

少々引っ掛かりが。
では、他の史書ではどう表現されているのか?

「結婚は自由ではなく、おそらく近親婚をさけるためであろう、~中略(男系は父からシロシ継承、女系は母から貞操帯継承の主旨)~同じ系統に属する男女は結婚を許されない。したがって、未亡人は実家へ帰っても結婚する相手がいないので、婚家にとどまり、夫の系統の者に再婚するか、その世話ななるほかはない。ゆえに勢力がある者はこうした婦人と婚し、又は養って、一夫多妻の形をとることがあった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30 より引用…

ここも得意の「おそらくと言う推測」が微妙だが、感情論と言うよりは同系統での結婚を避けた「風習」を理由としているので、説得力はある様な気もする。

さて、ここまでが「前提」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
先の平取町史やらで記載された「番人らの妾」や酷使の問題だが、松浦武四郎ら間接的に聞いたり関わった者ではなく、直接の当事者がどんな記録を残しているのか?知りたくはないか?

「加賀家文書」をご存知だろうか?
実は秋田県公文書館にもそれがあり、筆者も目にした事があった。
これは、中身の8割程度を残した「加賀伝蔵」を中心にして、4代に渡り場所支配人、通辞、番人らを歴任した一族が残した記録で、別海町の「加賀家文書館」で公開されている様だ。
幕末〜明治初期頃の執政者からの通達や支配人らからの報告書(家屋数や人口調査含む)、黒船来航への対応、住民らからの訴えへの対処等々が含まれる。
勿論、昔から知られて各研究で引用されたりしている一級資料。
加賀伝蔵は秋田県八森(八峰町)の出身で、兄らが道東で通詞らをやった為か15歳で北海道へ渡り、飯炊きから下積み、通詞や支配人まで上り詰めた人物で、晩年は引退し八森へ戻り余生を過ごしたと言う。
その記載に関係する地域は常呂周辺から厚岸周辺、国後,択捉までで、主に標津や別海周辺になる…正に幕末の東端の状況が記されている。
別海町では、この加賀家文書の現代語訳版を発行している。
その中で先述の家族関係やらを手持ち資料からピックアップして「糾弾される」側の視点も確認してみようではないか。
主には、どんな施策を行っていたのか?だ。
では…
※註釈
細かい引用文書は「参考文献」を参照下さい。


①場所の支配人・通辞・番人が心得ておく事


一 規則の趣旨を第一に心得る事
一 異国船を見かけたならばすぐに訴え出る事
アイヌの人たちの世話を念入りにし、道理に合わないことが無いようにする事
一 変わった出来事が有ったならばすぐに申し出る事
一 いつも生業を怠りなく一生懸命に心掛ける事
アイヌたちが各自貯えて置く食料や換物の外、油などの非常の際やいつも差し支えがないようにたっぷりと囲んでおく事
一 男女にかかわらず孤児・独り身・病人・障害者には、一際念入りに世話をする事
一 出生・死亡のアイヌの人がいたならばその都度会所へ届ける事但し、出生のときは 米八升、麹二升、死亡のときは 米四升、麹一升を遣わす事
アイヌの人たちへ諸品を売るときは、幕府が定めた値段の通りにする事
アイヌの人たちから軽物や他の産物、使用品等を買入れるときは、幕府が定めた値段通りに買入れる事
アイヌの人たちへ払う木挽き・飯炊き・山仕事、その外の賃金は、幕府の行ってきた通りに払う事
アイヌの人たちへ番家から与える酒や外の物は、幕府の行ってきた通りに与える事
アイヌの若者で独身の者がいないよう、乙名たちへ申し聞かせ、それぞれ縁組をさせる事
一 懐妊の女性アイヌに手荒く働かせたり、人夫等に出したり、重い荷物を背負わせるようなことは決してしてはならない。尤も幼児の養育は念入りににすることを申し付ける事
一 親孝行、関心な心がけや行いの者がいたなら申し出る事
一 病気のアイヌが薬用願を出したならば申し出る事。勿論薬用中は白米飯を与え、番人に度々見廻りさせ、戴いた薬等粗末にならないようにいたす事
一 番人並びにアイヌの変死、急病のときは届ける事
一 御用状の継ぎたては遅れないように心がけ、速達の御用状は番人が付き添い、急ぎの御用状は役アイヌ、その外少しばかりのものを与える事
一 役アイヌの内、病死で退役し、後役を申し付けるときは、乙名・小使たちに選ばせ、依怙贔屓のないよう正しく取り扱う事
一 御制札はいつも大切にし、風雨のときは見廻りをし、万一破損のときはすぐに届ける事
一 新規に漁場を開き、新規に家や蔵を建てるときは届け、総て初めてのことは届け出る事
一 各船の船頭たちはアイヌと交易のようなことをさせてはならないのは勿論アイヌの家へみだりに入らせないよう気を付ける事。但し、船手の者が勝手に山入りしてはならない、近くの番屋へ届けた上、樹木をとらせる事
アイヌの人口のことは五月中に調べ、六月に入ったならば差し出す事
一 旅アイヌの人口のことは、当年から御城下へ書き付けを出すことになったので、毎年アイヌの人口、生死ともその時々に届ける事
一 御詰合様が場所見廻りのときは、小頭役の者に役アイヌをつけて次の番屋へ送り届ける。しかも、止宿される所では夜廻り等までする事
一 年始の挨拶として、メナシ、その外から各番家から小頭の者は役アイヌと同道の上来られる事
一 寒中の挨拶として、メナシから総代として和人ひとり役アイヌひとり別海・幌茂尻・花咲はこれまでの通り役アイヌを連れて来られる事
一 毎年会所へ差し出している男の子たちの給料は、会所から払うので、その番家から払わない事
一 御詰合様見廻りは勿論、御通行の御役人様の往復の引き船を出し、丁寧に取り扱う事 但し、国泰寺様の僧侶の回向も同様の事
御目見アイヌの順番に当たる番家は、前の年から心得の指し図を受ける事 但し、来る未の年は順年でこざいます。

以上の各項目の通り心得ている事 以上

弘化二巳のとし
加賀屋常蔵殿 同徳右衛門 」

現代語訳版第二巻「御手本」より。
年代に少々疑義ある様だが、概ねこれを熟知し任務に当たる事としていた様だ。
一次幕府直轄の後の松前藩領となった頃の話で、直轄時の政策踏襲の様だ。
註釈には、
・各自の備蓄食らの他に根室では11箇所の備蓄蔵が有った様だ。
取引価格は幕府設定の継続した。これは同書や史書にも一覧されている。
不正しない様に記載あるが、運上屋や会所には担当役人が居て、不正の申出が出来るシステムにはなっていた。
事実、根室と釧路では河川の使用権で揉めており、最後は乙名同士が呼ばれそれぞれの言い分を聞く事態にもなっており、代官による裁定が下ったケースは同書や史書にも記載がある。
また、「撫育政策」としての各項目への事例は②以降に記していこう。
薬用願では註釈に仙台藩の医師が別海住居女土人3名への治療を行った事例が付記されている。
人口調査も「旅土人」、移動している者も報告対象となり、人別帳が残される。
御制札とは?、要は「邪宗門や外国人へ従う事は厳罰」等三箇条の「掟」を書いたお触れ「高札」の事。
これらに伴い「不正は役人に届け出る事」はお触れで周知されていた。
一次直轄後、不正と思われる事が減って行くのは、松前藩の「無為に治める」→幕府の「掟厳守」への転換によるとも言えるのではないであろうか?


②伝蔵へ、赤子訓導役申し渡す

根室通辞
伝蔵へ
一 幼児の教え導き役人を申し渡します
この度、幼児の教え導き役に定めた趣意は、アイヌ人不足で不毛の土地でも人数が増へ漁業が年毎に盛んになるよう場所請負人は勿論、アイヌ至るまでかげながら助けにもなるようにして置きたき処、アイヌが増える基は赤娘を産み養育が行き届くことが第一のことであり、その根源は妻がいない男や夫がいない女が無いように、十分なお世話をされれば、自らアイヌが増え、場所の引立てになりますので、この趣旨をよく理解し精勤する事。」

現代語訳版第一巻「雑綴」より。
日付がないが、前後に綴られた物を見る限り、第二次直轄時の事か。
最大の目的は人口減少が元で場所運営が滞る事ではあろうが、子供の養育と特に土地の者同士の結婚斡旋をする事がその任務の記載がある。
現代なら「少子化対策」になるか。
当然、先述の同族以外でなければ結婚出来ない風習とはバッティングしそうだが、その辺は場所を複数受け持っているので仲人的に動いたりも出来そうではある。
あくまでも乙名との調整になるだろうが。
公儀からの通達上はこんな事もやっていた。
これも断片ではあろうが、人口減少は場所運営に差し障り、直近の問題だった事が解るだろう。
又、上記通り、夫がいない女性だけでなく、妻の居ない男性も対象なので妾云々で済む話ではないのも付け加えておく。


③老女ペテレクテへの手当て

「標津住居女アイヌ ヘテレクテ 九十八歳

その方は親子、兄弟、縁者もいなく、孤高のもので難渋しているので、米五斗と古着一枚をくださる。

(安政六年) 六月 」

④ヲン子シトカへの手当米

「ヲンネシトカ

その方は、いつも家族が仲良く、一生懸命働いていると聞いたので、米八斗をくださる。

(安政六年) 未六年 」

③,④共、現代語訳第一巻「雑綴」より。
身寄り無き高齢者や、家族仲良く仕事に励む者への特別手当が支給された事例。
所謂「撫育」の一環だろう。
別に同化政策だけやっていた訳でもない。
努力する者には褒美を出したり、協力し仕事に励めばボーナスが出たりする。
勿論、幕府はある程度相場を決めていた様だが、この他に、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
全てが非課税…この特別優遇措置は大きいのではないか?
実は、善蔵も若い頃から行った先々で開梱をしており、巡検使見回りの折に作物献上し、ご褒美が下されていた事も残されている。


⑤申渡

根室・花咲・野付三郡の全てのアイヌへ親しく申し付ける

一、「天子様」を大切になされ、「御制札」の内容並びに「御知らせ」のあの事この事をしっかりと守る事。

一、何事によらず、世の常ならざることをみかけ次第直ぐに申し出る事。

一、御命令が有るまでは、総て前の通りに心得、…
…一同なりわいに精を出し尽くし、親しく、家業が繁盛するようにする事。
追加、取り扱に於いて頭の者を始めとして番人たち、その外の者たちが自分勝手で一同が困ることになれば、なんの遠慮もなく訴え出る事。
(明治五年) 月 日

開拓使

現代語訳第一巻「雑綴」より、開拓使からの申渡。
解説ではこの年、
村名設定や撫育が行われ、年末にオムシャの禁止令が出された。記録上、根室最後のオムシャだそうで。
御制札(高札)も含め、明治に変わっても暫くは、従来の生活が続いた事になる。


⑥老女死亡届

「恐れながら書付を以申しあげます
幌茂尻住居
アイヌ女性 ソロホク
八十三歳

右の者はかなり高齢となり、急病を患いろいろと手当てをしましたが、そのかいもなく、昨夜十一時頃病死とのこと、幌茂尻の番屋守から申し出がありましたので、おそれながらこのことをお届け申し上げます。以上

慶応元年五月十六日 根室場所支配人
善吉 印
正三郎様 」

現代語訳版第三巻「萬覺帳」より。
宛先の「正三郎様」は、仙台藩根室出張陣屋代官の「本多正三郎」か。
各番人から報告が上がり、場所支配人が直接に代官へ報告していたのが解る。
他項でも記載したが、あくまでも場所請負人は統治している函館奉行や各藩から人的資源を借りているに過ぎない。
①の人口調査報告の事例。


⑧標津アイヌメノコビの事

「標津住居
母 マツヌイ
倅 センコムケ
妹 キトエ
同 シュツエ
嫁 メノコビ
家内五人
男一人
女四人

右の芋キトエと嫁のメノコビが以前から不和であったところ、この度マツヌエ・センコムケ・シュツエ等がメナシの方へ伐木のために行ってて留守の最中、特別なもめごとがまずあって、どうしようもなく当座の凌ぎのため、根室に居る親類の女のシトナウカル・ヤカムの方へ行っていた。標津へ帰る時になってふとした出来心で釧路の親類の方へ立ち寄ったとのこと。御答え申し上げておぎすのでお含みになって下さい。

女 キトエ
夫 チヤレ
この二人は別家に居合わせていて、このことを知っているとのこと

女 メノコビ
母テハクエ
右に同じく、知っているとのこと。

この件は厚岸の御用所でお決めになられるとのこと。内々に承っめいることです。」

現代語訳第四巻「大實恵」より。
嫁と小姑の揉め事の模様。
加賀家文書でもさすがにこれ一編のみだそうで。
解説でも「家庭内不和は国や民族を問わず永遠の出来事」と…いや、時代も問わずだろう。
注目すべきは、これら家庭内の事も訴えあらば役所や通辞が関わり、仲裁したりしていたようだと言う事だろう。
より身近な問題でも、相談役としての機能をやらされていた事になるのか。


⑨釧路女アイヌヲシタエが標津へ逃げ帰った一件

「前略〜

釧路場所 女アイヌ ヲシタエ
右 口述

私は釧路場所を逃げ出し、根室場所の内の標津の番家へ参りましたことをお調べ中にございますのでこのことを申し上げます。私は、元標津生まれで、両親共幼少の時に亡くなり、同所のアイヌハツテシユの女房マウンヌルと言う者に養育され、成長の後所々へ縁付いたが、兎に角不幸で嫁いだ先々で夫が病死したり、離縁等をされたり、仕方なく親類たちの厄介になり、漁業をしていたところ、四年前から同所の番家守の世話で乙名力助(筆者註:アイノ名カモイサイケ)の女房になり、睦まじく暮らして居たところ、一昨年十二月中釧路場所内へ厚子用の皮を取りに行って、広場の小屋で休息していたところ、同所の御役人でえる小田井蔵太様が山中御見回りとして御通行になられ、その時役アイヌのメンカクシが付き添われこの広場で捕まり、一通りお調べの上蔵太様が御立ち戻るまでの間、このメンカクシへ御預けなり、足枷を打たれ、会所へ引き連れられてきたところ、御同人様に同所で言い聞かされたのは、米なり酒や又は古着なり亭主なり、何不自由のないようにするので、釧路アイヌだと理解することと言い聞かされ、この故か当分の内は、十日目に玄米四升、また十日目に二升というように同所から貰っていたところ、安政三年の春になり
子供位な、チカフウカヲと言う者をメンカクシの世話で夫婦になった。実は不服であったが、御役人並びにメンカクシの威勢を恐れ、仕方なく夫婦になったことで、このチカフウカヲ亭主にしたからには、もう会所からの手当もないことをメンカクシが言い聞かせ、それ以来夫婦で昆布を取りに各場所へ稼ぎに行っていたところ、この昆布一把を会所に持っていけば、玄米一升と引き換えになり、その時は一把に付米一合の手当て米を貰い受け、漸くその日暮らしをしていた。
そうして居るうちに、私も老年になり、夫のチカフウカヲから昼夜の区別なく交合のことをせがまれ、夫の言うなりになっていたが、今申し上げました通り、夫は若者の盛り、せがまれるままにもなり兼ねたので、時にはつれなく断る事も有った。その時な飯等もくれないで、空腹で過ごすことも度々あって、標津へ帰ればこんなこともないものをと、ふと気付き、その上同所には夫の親類はいるが、釧路には情けをかけてくれる身寄りもいないので、打ち明けて相談する手段もなく、元々標津は出生の村で、両親の墓所も有って、且つ、夫の力助へも久しく会ってなく、かれこれ朝夕苦しく思っていたところ、釧路場所の桂恋へ夫に付き添って、昆布取りの稼ぎに行ってたところ、やはり前に申し上げました通り、交合を毎夜せがまれ、とてもこの上は添え遂げることができなくなったので、仕方なく同所から逃げ出したことでございます。この上どのように言い付けられても釧路へ帰る気は毛頭ございません。
力助並びに親類等を慕って参りましたことですので、私一人を御助け下されると思われ、特別の御慈悲で、右漁業科せきをしたいと思いますので、なにとぞこのことを御許し下さいますようひとえにお願い申し上げます。
右に申し上げました通り少しも相違ございません。 以上

右 ヲシタエ
根室御用所

前書の趣旨、私も参り通訳しましたところ、ひとつひとつ相違ございません。
従って奥夏季に印鑑を押して差出します。 以上
通訳代 伝蔵 印 」

現代語訳第四巻「大實恵」より。
赤裸々である。
前略部分は、ヲシタエと言う女性を標津で預かった事と、それまでの経緯である。
概ねどういう事か?

・ヲシタエは元々身寄りが少ない女性で、夫とも離別を繰り返していた。
・標津の番人の世話で標津の乙名である力助と結婚し仲良く暮らしていた。
・釧路場所へアットゥシの皮を取りに行った所、釧路の役人(小田井)と釧路の乙ナ(メンカクシ)に「捕まる」。釧路側へ入り込んだ事やヲシタエの祖父と母は釧路出身な事が根拠の模様。
乙名に足枷を付けられ釧路へ連れていかれ、釧路アイノであると言い聞かせられ、手当米を充てがわれる。
・釧路乙名の斡旋で子供程に歳が離れた夫と結婚をさせられる。この時点で手当米はカット。
・若い故に昼夜問わず性行為を迫られ、拒むと飯を減らされる。この時は飯一合/日。
・耐えられなくなり、標津場所へ逃げ出す。取調が行われ、標津の役人2名(金井,名取)が立ち会う。標津の支配人は善吉(善蔵の兄)、通辞が善蔵。
・取調の内容を通辞の善蔵が纏めて書簡にして、根室の御用所へ送付した。
こんな感じ。
この時は釧路→仙台藩、標津→会津藩だったのでは?
藩境を超えたが故か?、それだけ人口減少が問題だったのか?、足枷を付けた乙名のやり方も中々エグい。
実はここの解説は簡素で「色々な事が見えてくる」とはあるが、重要な事に触れていないような…
再三我々は指摘してきたが、役人の横暴と言えばそうなるのかも知れないが、ご覧の通り、乙名等、役土人が関与している事だ。
当然なのだ。
請負人、支配人、通辞、番人ら場所の人々は、労力を借りているに過ぎない。
職制上は、藩役人の下に乙名等の役土人が着く。藩役人が動けば役土人も付き添う。
この通り、釧路乙名が介在している。
場所間の行き来はあり、釧路アイノが根室場所で雇われ場合により根室各地に定住したりしている様だ。
この一件、松浦武四郎の地図と合わせ、ヲシタエが逃げた時の滞在地らは特定されている模様。
人口減少は直近の問題でもあったのだろう。


如何だろうか?
これが支配人,通辞や番人が残した記録。
視点が変わると印象も変わろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/10/204415
簡単に悪逆非道とだけ言うわけにもいかないと。
勿論、これは断片の一つに過ぎない。
相対的に根室や釧路らの記録らとの突き合わせや松浦他の史料との整合性をとる必要はあるだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
歴史に正邪無し。
構造的欠陥を修正しながら今に至る。
現にこれらのような施策が打たれていたのは間違いはないだろう。

加賀家文書は、昭和50年代には史書資料編に掲載されたり、この数値で交換レートや人口を割り出したり利用された史料。
専門家なら知っているであろうし、目にしているだろう事は付記しておく。
こんな記録もあるのだ。
一方的に見ても断言してもいけないと言うことだ。
加賀家文書は千通に及ぶと言う。
まずは手持ちの第一~五巻までサラリと抜粋してみたが、筆者はこの先何巻迄出版されているか?は確認していない。
中々赤裸々で面白い史料だと思う。
興味ある方は御一読を勧める。
幕府や松前藩の施策のイメージが少し変わるかも知れない。







参考文献:

「加賀家文書 現代語訳第一巻」 別海町 平成13.3.31

「加賀家文書 現代語訳第二巻」 別海町 平成14.3.31

「加賀家文書 現代語訳第三巻」 別海町 平成15.3.31

「加賀家文書 現代語訳第四巻」 別海町 平成16.3.31

「加賀家文書 現代語訳第五巻」 別海町 平成17.3.31

平取町史」渡辺茂/河野本道 平取町 昭和49.3.31

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.30

京に続き、源流を見てみよう…九州のキリシタン墓碑を学んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/27/201921
前項は京のキリシタン墓碑…折角だから、源流を見てみよう。
当然なのだが、カトリック伝来は九州から。
「日本のカトリック」と考えれば、そのスタートは当然九州になるだろう。
何より、現物を見てみない事には何も始まらない。
「九州のキリシタン墓碑 -十字架に祈りて-」と言う文献がある。
著者の「荒木英市」氏が、研究論文らを確認し、フィールドワークで確認した墓碑を紹介している。
同書によれば、そこは流石に源流。
潜伏キリシタンらの伝承もるので、体系的に研究が進められていた様だ。
細かい分岐は別として、墓碑は概ね3系統に識別されている様だ。

A,寝棺型伏碑
半円型や切妻型(立体性が高い)の墓碑。
垂直に立てるのではなく、墓室の上に伏せる。
前項にある京のカマボコ型の墓碑もこれに当たる様で。

京に近い事例。
熊本県玉名市にある「伊倉のキリシタン墓碑」。
見事なカマボコ型で、側面(平坦部)に「花十字」の文様で無銘。教育委員会の説明板によれば、16世紀中頃のものと推定される。
こんな花十字を仮に立碑に施されれば何かの家紋ともとれるかも知れないと思う。
勿論通常の「✝」もあるが、花十字の他にカルバリオ十字(千型の十字)の事例は多い模様。

B,寝棺蓋石型伏碑
Aを更に蓋状(立体性が低い)にしたり、全くの平板型や自然石を墓室の上に伏せる。

大分県湯布院町の「並柳のキリシタン墓碑群1」。
平板に十字を施し、無銘。
右側の写真のものでL46cm,W28cm,H15cmで、これは真ん中に穴を掘っている。他の事例の説明をみると、祈祷らの時には十字架を立てた様な記述がある。
並柳集落では合計57基の墓碑があるそうで。
由布院を支配する四豪族の内、戸次氏からの分派「奴留湯(ぬるゆ)氏」が大友氏vs島津氏の「日向耳川の戦い」に従軍、九死に一生を得て帰投、強烈なキリシタンとなり、周囲では最高2000人を超えるまでになったとの伝承だそうだ。
奴留湯氏は後に大友義統の棄教,弾圧やその没落で離散した…とか。

C,立碑
板碑や(後代の)和式墓碑,庚申塔等の様に墓碑を立てている。
当然、カトリックの象徴になるものを仕込む事になるんだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246
筆者の予想するこんな事例もこの立碑の(隠匿性が)行き過ぎた例なのかも知れない。

大分県大田市の「十字架型の石塔」。
文禄五(1692)年、キリークの種子の下には戒名。
もう、幕府の切支丹類族改より5年後だが、徹底が遅れたか?としている。
著者は典型的な仏教徒への擬装と考えている様だ。
変わった事例では…

大分県本匠村の「松葉のキリシタン墓碑」。
上はカマボコ型に「✝」を刻む墓碑だが、むしろ問題は下。
この墓碑と並ぶ庚申塔なのだが、青面金剛の右手の輪宝には✝を刻み、左手は本来三叉矛のところが槍、下の右手の弓矢は心臓を撃ち抜く。又、蓮の台座の下には三角形を描き三位一体を示す…著者はキリシタン系統と考察する。
確かに「違和感」を感じるが、もう立碑になると、どこまでどうなのか?ハッキリ解らぬ感もある。

この他、Bの伏碑の上に五輪塔が立っていたりするパターンも。
もうこうなると、
キリシタン仏教徒を擬装
キリシタン墓碑を仏教徒が台座として転用
どちらとも考ええられそうな物もある。
何せ前項にもあったが、カマボコ型の伏碑が「手水桶として転用された」事例は幾つか九州でも確認されている様だからだ。
さすがに同書にはA~Cの時代変遷までは記載が無い。
元々オープンで信仰されていた→禁教令で潜伏化…なら、A,B→Cと擬装の傾向は強くなるであろうが。
ここは、無銘が多く年代特定が難しいのもあるかも知れない。
種々「これは!」と思うところあれど、禁教令前のあからさまな「✝」「IHS」「INRI」等を彫り込む事例がないと、断定は難しいのかも知れない。
毎度言ってはいるが、先祖慰霊や信仰対象なので、学術の名の下に簡単に発掘する訳にもいかないのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
こんな事例は超レアケース。


さて、如何であろうか?
これらはまだ入口。
こんな人々の一部が新天地を求め、織豊~江戸期に北上したのは言うまでもない。
北海道~東北に至る過程でどのように変遷したか?等は、これから記録や文献で学ぼうとは思う。
禁教令で隠された部分は多く、また修験道系の一部がカトリックを取り込んだ指摘もあるので、ハッキリさせるのは難しいのは解った。
ただ、こと北海道においては、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
こんなレアな事例が報告されているのは概報。
弾圧と言うフィルターをかけるより、技術や文化を伝播した人々…として、語り継ぐのも必要な事ではないか?…と考えるのは我々だけだろうか?
前にも書いたが、流れるSNSの写真の中には「あれ?」と思わせられるものは結構ある。
先日も「手水桶」と思われるものがあったりした。
それだけ、現在の想像より潜伏キリシタンの痕跡は浸透していたのかも知れない…そう思う。









参考文献:

「九州のキリシタン墓碑 -十字架に祈りて-」 荒木英市 出島文庫 平成14.10.25

♨の放送内容は噓になるのか?…松浦武四郎が記す「温泉」と日常入浴

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
松浦武四郎蝦夷日誌からの一連であるが、たまたまSNS上に出た話があったので、一項設けてみよう。

内容はズバリ…某テレビ番組の北海道の特集で温泉が紹介された由。
アイノ文化に風呂に入る習慣は無いのではないか?との話があった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
衛生上の問題は江戸期の同化政策でも指摘され、風呂に入らなかった話も。
なら、番組は噓になるのか?
実は、松浦武四郎はこんな記述を残している。
以前も少し触れているが、改めてクローズアップしてみよう。
それぞれどの地域示し、本文引用する。

①山越内領
・美利加別近く…
「是より上、エラマンテウシ(右小川)、アイチユウナイ(左小川)、此所にて二股。右クスリサンベツ(小川)、此源に温泉数ヶ所有て、土人等皆モウベツより爰え湯路〔治〕に来る也。左の源カニカン岳に至るよし。」
紋別近く…
「所々に温泉数ヶ所。瘡・切疵・眼病・こしけ等に宜しく、此邉の土人君縫・ヲシヤマンベ〔長萬部〕川筋等より上る。夏秋は草深くして甚行悪く(一日半)、春堅雪の比に余はモベツより上りしが、温泉近く迄行て泊たり(凡例六り位)。其所しばし雪なし。礁原也。爰に小屋を作り宿す。又浴る處も無が故に、俵笆を小川中に敷て、其上に臥て温もる也。其温もり方他方に類なく、実に奇とすべし。」

幌別
登別温泉
「岩坂切通し少し下りて温泉場、今は止宿所も出来、湯治人も居たり。筵を河中に敷て浴せしが、今は川の上に屋根を架、二川(西、シユンベツ、水川也。東、クスリサンベツ、熱湯也)合て程よき故にして入る也。硫黄にして臭気甚し。」

③根諸〔根室
根室市と久摺の境付近…
「此處より久摺湖またシベツチヤ〔標茶〕等へ道筋有。上にカンチウシ岳、其後ろに温泉有、久摺の土人は惣て是に湯治す。」

以上、「蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

④クドウ〔久遠〕領
・アナクドウ…
「アナクドウ(十三日、フトロ〔太櫓〕ドホンアキ召連れ出立)小澤の西に有、大岩聳し腰に大穴有て、其上に貫たり。神霊有とて木弊を立て尊敬す。岩面に鉄漿水の如き水滴出る。土人等切疵・打身等に附るに即功有と。」

⑤磯屋〔イソヤ〕領
尻別川上流…
「余丁巳〔安政四年〕五月五日磯谷に到り川筋行の事を談じ、糧食の用意し、案内(サケノカロ、スイト、五右衛門、甚四郎)四名を命じて、六日(快晴)刳船二艘を雇、渡場より出(右平山、左平野)。ラシヘルシナイ(右小川)、クロルシナイ(和人ユーナイと云)、上に温泉有。」

⑥岩内領
・湯内…
「(筆者註:薬師堂が)土人の話に、此堂百年前よりこゝに有と。扨板階五六十下りてユウナイ〔湯内〕(幅三間橋有、止宿小や一軒)、傍に温泉沸々湧上り、水八分を加て浴す。此家は岩内の半兵衛と云者建しと。宿するに鍋を持たず来りし故困りしが、スイド自分アツシに米を包み、温泉壷に随時入置、上て其上に筵被置しが、程よき飯に成りたり。然し其米に土人の息〔臭カ〕気移りしには甚恐れし也。翌朝は未明より米を筵に包みて温泉に漬置しが、せ又よく出来たり。」


以上、「蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15 より引用…

頭注から探したので見落としはあるかも知れぬが、ざっと抜粋してみた。
以上の様に、温泉の記述は幾つかあり、登別温泉の様に温泉場として出来上がりつつある様や「土人の湯治場」や「治療の為の霊泉利用」らは記述され、当時既に東西蝦夷地含めて温泉利用はされていたのは解る。
ここで日常はといえば、先述通り、風呂の習慣は無かったと。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
何せ、旭川での「近文コタン」での「旧土人保護規定要領」の第八条には「共同浴場・共同井戸設置」が規定されるので、衛生管理の欠如はあったものと考えて良いだろう。
湯内の逸話でも、アッツゥシで包んだ米へ臭気が移る…ここからも裏付けられる。


言えば、
湯治ら温泉使用…OK
日常の風呂使用…NG
ここらがボーダーラインで、記録にある温泉紹介の場合、嘘は言ってはいないとは言えるのかも知れない。
雑談とは言え、ガチの考察をしてしまったが、こんな感じで如何であろうか?

但し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/205904
こんな風にこの蝦夷日誌では、人々の書き分けがされている。
標記はあくまでも「土人」であり、アイノ文化を持つ人々と同一か?となると微妙ではある。
ここは押さえておく必要はあるだろう。

まぁいずれにしても「入浴剤」の利用は絶対に無いであろう事は間違いなさそうである。







参考文献:

蝦夷日誌(上)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15

蝦夷日誌(下)」 松浦武四郎/吉田常吉 時事通信社 昭和37.1.15

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

「錬金術」が「科学」に変わった時-3…近世秋田の「阿仁銅山 銅山働方之図→加護山全図並製鉱之図」を学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/05/204650
さて、古代からの技術史を学んでいるが、ここは筆者の郷土に残される「近世鉱山での技術がどうか?」も改めて学ばねばなるまい。
江戸中期〜後期までの最先端鉱山プラントが秋田にはある。
・阿仁銅山
・加護山精錬所 だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/104946
前項でも触れたが、鉱山や精錬技術の変遷はあまり相対的に纏められた文献らはなく、鉱山単位や文献単位の研究書が主と教えて戴いた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/24/181320
で、折角だかとこの「銅山働方之図」での特別展図録を戴けた。
筆者の精錬技術勉強のルーツは、院内銀山や阿仁銅山の遺構や資料館へのフィールドワークになる。
ざっとではあるが…
・阿仁銅山…
1300年頃の開山伝承があり当初は金山→銀山として稼働とされるが、正確には裏付けられてはいない。
江戸期には銅山として稼働しており、当初はその粗銅は上方へ送られていた。
・加護山精錬所…
こちらは重商主義を敷いた田沼意次への働きかけで、江戸中期に秋田県能代市(二ツ井)に建設される。
粗銅からの精錬を独占していた上方からの技術移管で、主に阿仁銅山からの粗銅を銀と銅に精錬を行った施設。
これで、久保田藩内で銅の一貫生産が可能となる。
この二施設は鉱山王国秋田の一翼を担い、経済のダイナモとして機能していた。
当然、これら技術はトップシークレットなのだが、そこは筆まめ久保田藩
江戸後期に極彩色の絵巻にして、その工程図を残した(銅山働方之図は全長8m)。
あまりの長さに、全図公開される事は殆ど無い。

では、図録からどんな工程を経て銀や銅を作ったか?見てみよう。
まずその前に…
よく聞く「精錬」とは何か?
鉱山から掘り出した鉱石は色々な不純物を含む。
聞いた話では××鉱と言われる鉱石でも5~6割の純度の様だ。
自然に産出した鉱石の中では砂金が最も純度が高いのではないか?
理由は簡単。
金が自然では殆ど酸化しないから、他の成分が酸化溶出する中で金のみそのまま残るから。これ、自然が金を精錬してくれていると考えたら解りやすいかと。
これを技術で順番に不純物を抜いていき、必要な金属の純度を上げていき取り出す事を「精錬」という。
概ね取り出す金属より貴重な金属も含むので、粗銅から銅を取り出す工程には銀を取り出す工程も付帯される。
案外、金より銀そして銅と、工程が複雑になったりする。
古代~近世精錬の手法の元が「アマルガム」。
水銀や加熱して溶けた鉛などの金属は、特定の金属を取り込む性質がある。
なので、一定の比率で金,銀を水銀や鉛に混ぜるとそれらが混ざったものと、不純物を分離可能(鉄や岩石(珪素等)は取り込まれない)になる。
例えば、水銀なら再加熱すれば蒸発し、取り込まれた金,銀だけ残る→アマルガム精錬…
鉛なら再加熱の熱加減で液化した鉛と固形の金属を分離する事が可能→灰吹法精錬…
と言う訳だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
で、古代に水銀をどうやって作ったか?利用したか?はこちらで。


では、本題。
・阿仁銅山…

鉱石を掘り出す。

鉱石を細かく砕き、鉱石と岩石に選り分ける。

鉱石を焼き硫黄を除去(焼上がりを「焼鉱」という)。

「焼鉱」を木炭と加熱溶解し、焼上がりから不純物の塊を取り出す(これを「鉱滓」という)。
この不純物は主に鉄やケイ素の化合物。

炉の底部には粗銅が溜まっているので、それを掻き出す。

取り出した粗銅を再加熱し、不純物を酸化し分離し純度を上げる。
ここで粗銅の純度は大体90%以上までになる。

秤量して「加護山精錬所」へ


・加護山精錬所…

米代川水運で、阿仁銅山の粗銅と藤里の太良鉛山の鉛を運び込む。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/22/102500

粗銅と鉛を炉で加熱しする(この時出来る合金を「合わせ銅」と言う)。
鉛は粗銅の約20~30%加える。

加熱を続けると、銀は鉛の中に吸収される。

銅と鉛の比重差,融点差を利用し銅と鉛に分離させて、それぞれを取り出す(これを「南蛮吹き法」)。

銀を含んだ鉛は再度炉に掛けられ、灰の上で鉛と銀に分離。
灰の中に吸い込まれた鉛と銀は分離し、それぞれを出荷。

4で取り出した銅は再加熱し、不純物を酸化させ分離。これを繰り返し精銅を作り出し出荷。

阿仁銅山の粗銅を加護山精錬所で精錬した場合、銅の0.1%程度が銀の産量だそうで。
少ない?
いや、仮に1㌧の粗銅を処理すれば、100gの銀が採れる訳だ。
少ない?それは処理量によるのでは?


以上。
これが銀山の場合は、阿仁銅山の1~3と加護山精錬所の2~5を繰り返しやれば、純度の高い銀の精錬が可能だろう。
こんな手間をかけながら、金銀銅は作られていく。
阿仁銅山の産出量は、1716年には日本一となる。
国内で使うだけではなく、海外決済にも粗銅は利用された。
当時の主要産出地は南米、スゥエーデン、そして日本で、市場はアムステルダム…つまりオランダが主に仕切った訳だ。
前項の「天工開物」にも、日本産粗銅から精錬して銀を取り出したとある。
又、主要な生産品は…?
青銅に仕上げて大砲に。
欧州では中世以降、通貨として銅貨はあまり使わなかったそうで。
1854年にイギリスで鉄製の「アームストロング砲」が発明されるまで、大砲の主要な材質は青銅だとの事。
また、1878年エジソン電灯会社設立からは、電線としての用途が拡大した…これも言うまでもない。

如何だろうか?
日本は資源が無い…これは間違い。
産業革命以前の世界の需要の何割かの金銀銅は日本から産出され、世界に供給された。
手元に少ないのは、海外と幕府らの金銀銅交換レートがあまりに酷かったから流出してしまっただけ。
また、鉱脈が薄く、露天掘りではないので採掘にコストがかかり、ペイしないので掘らないだけ。
何より、今、領海,近海含めた列島内では、地下活動により生成されている。
海中鉱山を掘る技術も無い。
故に採らない。
各種技術革新が進み、現在の各鉱山が枯渇すれば…あるいは。
故に「資源が無い国」ではない。
無いと教育してるなら、それはプロバガンダと言える。

上記を見てみても、南蛮吹きの炉らを別にして、基本的な原理は「対馬國貢銀記」とあまり変わらない様な気も…
ただ、それを証明する為の「中世の古書記載」や「遺構,遺物」が途切れる。
その辺も少しずつ探して行くつもりではある。





参考文献:

「平成二十五年度第一回鉱業博物館特別展 -阿仁の絵巻がつむぐ150年前の銅プラント-
図録」 秋田大学大学院工学資源学研究科附属鉱業博物館 平成26.3月

「錬金術」が「科学」に変わった時-2…明代の総合科学書「天工開物」と研究文献にある我が国の「古代銀精錬法」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/28/195614
西洋の科学書「デ・レ・メタリア」…
では、東洋は?
「天工開物」かも知れない。
1637年、宗慶星によって書かれたとされ、上,中,下の3巻に分かれたこの本の記載事項は、穀類、織物,縫製、染色、穀類処理、製塩、製糖、製陶、鋳造、造船,や車、鍛造、鉱山、製油、製紙、冶金,精錬、兵器、朱墨、醸造、珠玉に及び、正に総合技術書。
実は、漢字を持ち古代から書物の宝庫であるChina、こんな技術書的なものは数が限られるそうで。
で、佐渡鉱山ら、我が国の産業にも参考として影響を与えたとされる。
また、先に発刊された「デ・レ・メタリア」の影響を受けるとか…

では紹介していこう。
序文(譯註)から(旧字体は現状に変換)…

「天地の間には、物は萬を数え、事もやはりこれほどの数があり、それら一つ一つ完全につくりあげられているのは、全く人力でできることではない。このように物事が萬を数えるからには、それについての知識は数えられたり観察したりして得るにも、果たしてどれほどのことを知り得ようか。〜中略〜ところで世間には聡明で物知りな人々がおり、多くの人々から推称されるが、しかしこれらの人々はありふれた棗(筆者註:ナツメ)や梨の話を知らないくせに、古い話に出てくる楚萍(筆者註:「孔子家語」に出てくる食べ物)をあれこれと想像したり、平常使う鍋釜の製法も知らないくせに、昔あつたという莒鼎(筆者註:「左傳」に出てくるが詳細は書いてない)をとやかく議論したりする。また書工は好んで怪物の姿を描くが、ありふれた犬や馬は描きたがらない。だから鄭の子産や普の張華のような博学者でも、べつに偉大視するほどのことはないのである。」

「天工開物の研究」 薮内清 恒星社厚生閣 昭和28.9.30 より引用…

聡明な物知りや専門家、知識人と言われる人々も、案外身近な物や一般的にありふれた事は知らないと。
何となく、思い当たる様な…
で、これが総合技術書を書いた人物の序文。
いきなり序文の書き出しから、なかなか皮肉的。

では、我々が注目している「精錬」について見てみよう。
章の標題は譯註では「精錬」だが、原文では「五金」。
これは金銀銅鉄錫の五種類の金属を指す。
ここが、China的と言うか中世的と言うか、そんな解釈がある為。

「余はこう思う。人には十の等級があり、上は王公から下は最下級の役人に至るまで、その一を缺いても社会の秩序は成立しないのである。大地が五種の金属を生じ、天下と後世に利用されるのも、その意味はやはり同様である。貴重な金属は、千里でたまたまその産地を得るのであり、いかに近くても五六百里は離れている。しかし賤しい金属は、交通の便がやや困難なところでは、必ず廣く産出するものである。黄金の上等なものになると、その値は鉄の一万六千倍にもなるが、しかし、釜、鍋や斧の類が日用の役にたたなければ、たとえ黄金を得ても、値が高いだけで人々には無益であろう。」

「天工開物の研究」 薮内清 恒星社厚生閣 昭和28.9.30 より引用…

この「人の等級」は、王,公ら官吏の階級の模様。
金属も金を頂点に銀→銅と階級があるが、そこは官僚帝国「China」。
王も貴族も経理師も将軍も兵士も居なきゃ成り立たぬ…
「ぽい」と考えるのは筆者だけだろうか?
では…
「金」…
・性質
器具に仕上げればいつまでも変化しない。
窯で熱しフイゴで吹けば吹くほどその姿を表す。
柔かくて柳の枝のように曲げられる。
その上等下等を色で分けると、七青、八黃、九紫、十赤に分かれ、試金石の上にこすりつけてみると、すく見分けがつく。
非常に重い。
採取していくと採れなくなる。
産地間が離れる etc…
・精錬法
金に他の金属を混ぜて誤魔化そうとしても銀以外でやってはいけないそうで、金と銀の合金は、
①薄く伸ばし、小片に切る
②塊ごと泥土で包み坩鍋へ
③硼砂(ホウ砂)とともに溶かす
④銀は土に吸収される
⑤残った金に鉛を混ぜて坩堝へ
これで十の等級の金が取り出せる。
で、土の中に銀を引き出せば、分離可能…
金には等級があるので、銀以外だとバレて品位を下げ、値段が下がる為の様で。
⑤の工程は「灰吹法」の模様で、水銀アマルガムについての記述は無い。
金箔の作り方もあるが割愛。
ここではやはりアマルガムでつけるではなく、下地に漆を塗り貼り付けると記述されている。
山中,川中、それぞれ呼び名が違ったりしているが、基本的には「自然金」からの精製を記事している模様。

次…
「銀」…
・性質…
こちらは鉱脈を掘る様で、目安の石から辿り「礁(銀を含む意味)砂」の層を掘るとある。
窯で熱しフイゴで吹けば火花だけ増え見当たらなくなる(著者も意味が解らない)。
採鉱に当たっては官吏のチェック(やはり等級有り)は入る。
・精錬法…
①礁砂を選別し綺麗に洗う。
②窯は土で1.5mの台を築き、底にカワラケ片と炭灰を敷く。
③窯の傍らに煉瓦の塀を立て、フイゴを塀の背後に設置する。
④窯に礁砂を入れ、栗の木炭を積み重ねる。
⑤着火しフイゴで送風する。
⑥先の木炭が燃え尽きる所で木炭追加。
⑦礁砂が溶け塊状になるが銀と鉛が分離していない。冷やして取り出す。
⑧別の窯へその塊を入れ、内部を松炭で取囲み着火。フイゴ又は団扇で扇ぐ。冷やすと素銀は塊に、鉛は炭の中に溶け落ちる。
⑨素銀に鉛を追加して⑧を繰り返す。
⑧~⑨の工程(灰吹法)を繰り返す事で純度を上げていく。
金には銀を混ぜられる様に、銀の場合は銅と鉛は混ぜられる。
やはりここで金同様に、坩堝に入れ加熱する事(金の⑤)で分離可能とある。
但し、銀を取り出す場合、加熱時に「硝」を入れろとある。「硝石」の事か?
殆ど日本では産出せず、火薬作りには苦労したとあるが…
加賀藩らは古土法と言う精製法で作っていたとされる。
また鳥の糞から生成される「グアノ」から作る事も出来るとか…
グアノ…確か、尖閣諸島で採れる様な…幕末の薩摩…邪推はここまで。
ここでもアマルガムの記述は無い。
むしろ、銀の項の次に付記として「朱砂銀」との記載があったりする。

「いかさまの方術師が、錬金術で人を惑わす方法の中で、特に朱砂銀には愚人は惑わされ易い。その方法は鉛を入れた朱砂と銀と等分に坩堝に入れて密封し、三七二十一日の間温めると、朱砂が銀気を吸収する。それを火に通すと至宝となる。その銀をえり出しても、形は残つているかま、本質はなくて、石ころ同然の死物である。鉛を入れて精錬する時には、火につれてぼろぼろ砕け、さらに何度と火を通すと、ほんの少しも存しないで、朱砂と燃料の代償を損するだけである。愚者は欲に迷つていまだに無知であるから、合わせてここに記しておく。」

「天工開物の研究」 薮内清 恒星社厚生閣 昭和28.9.30 より引用…

あらら…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/16/192303
金の場合は「金:水銀=5:1」。
銀の場合はまた比率は変わると思うが、鉛を入れたり長期保存は必要ないハズだが。
実際、この著者は端から錬金術として語られたアマルガム精錬を否定している様なので、やり方そのものを間違っているのだろう。
現実、この辺りで既に、メキシコでアマルガム精錬は行われている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/17/162536
積極的にその手段を入手していた様には見えない。

さて、以上がChinaでの金と銀の精錬。
鉛を使った広義の「灰吹法」なのか。
実はこの「天工開物の研究」、発行された当時の研究者による論文がそれぞれの項目で入っており、後の時代の精錬技術の本らのと技術比較らが記述されている。
やはり「天工開物」の記載内容は割と原始的な方法と考えている様だ。
例えば、銀の⑧~⑨の部分、後の「西学大成」らでは専用の窯で、2つの排出口(底が斜めに切られる)で、自然と溶けた銀を回収出来る様な記述がある様で。
成程…
「天工開物」の記述と、江戸期我が国でやられた精錬技術も微妙に違う様だ。
そんな記述の中に、面白いものがある。
古代、我が国で行われた「銀」精錬法が古書にあるという。
「對島國貢銀記」の中の記述。

「松樹の薪を以て之を焼くこと数十日、水を以て之を洗ふ、魁は別にその率法を定む、其の灰は鉛錫と爲る。」

「天工開物の研究」 薮内清 恒星社厚生閣 昭和28.9.30 より引用…

上記、銀⑧~⑨の工程に近い。
この「對島國貢銀記」の記述、本書では10世紀頃とあるが、書を書いたのは11世紀頃の様で「大江匡房」が書いた物らしい。
ウィキの記述ではあるが、参考に。

日本書紀』によると、天武天皇二年(674年)に対馬島司忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が同国で産出した銀(しろがね)を朝廷に献上したとされる。さらに朝廷は対馬島司に命じて金鉱を開発させ、文武天皇五年(701年)に対馬から金が献上された。この結果、朝廷は元号「大宝」を定めた[1]。しかしこの金の献上については『続日本紀』では、対馬現地の開発者が捏造工作をおこなったものであり、実際には対馬から金は出なかったとしている。平安時代になると『延喜式』で対馬の調は銀と定められ、大宰府に毎年調銀890両を納めるよう命じられた[2]。

実際に対馬に於いて、我が国最初の銀が産出され、後に「延喜式」で銀の納品が定められているので、産銀していたのは揺るがないだろう。
対馬銀山は主に方鉛鉱だという。
基本原理は鉛銀残渣を熱し、先に鉛を灰の中に吸わせる広義の「灰吹法」と考えられている様だ。
で、この方法だと製鉄ほどに高温にする必要は無いので窯は要らないだろう。
地炉とフイゴでもいけるか?
何せ、江戸初期辺りでのフリース船隊航海記録の記述をみると、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544
カニはカネ…
シッシッはシュッシュッ…
似たような感じ。

また、想像を広げると…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一博士曰く…
「トド松をばこの辺の蝦夷はトドロップという」
何故か?上記の様に、精錬工程では「松」と指定している。
このトドロップを知ってる人は後に「居なくなる」…

まぁ、妄想,邪推はここまで。
古技術の一端はこの様なものだった様だ。
北海道の遺構には、何故か焼土跡が多い印象。
この中から鉄滓ではなく、鉛滓の塊でも出てくればビンゴとなる可能性はあるが。
これら、精錬の変遷を研究している書物は過去にないと言われた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/104946
勿論、金属を専門とする博物館でも聞いた事がある。
その時は、「一つの鉱山や専門の事象に対する研究から拾うしかない」と言われたが、それをチマチマやるしかないのかも知れないが。
あれから一年位。
技術史からのアプローチも筆者的には面白いのだ。
ジワジワと学んで行こうではないか。







参考文献:

「天工開物の研究」 薮内清 恒星社厚生閣 昭和28.9.30