墨書礫とはどんなもの?、あとがき…見つけた!秋田と信州の繋がり

前項に続けてあとがきである。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2026/05/18/200937

「墨書礫とはどんなもの?…「ユクエピラチャシ」の墨書礫に対する考察、そして出羽の状況」…

 

関連項は「大野土佐日記」に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/12/185541

「北海道弾丸ツアー第四段、「知内編」…採金は何時から?そして偽典とされる「大野土佐日記」とは?」…

飛島の謎に、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/19/065526

「舘岩の「石塁」&解読不明碑…飛島の謎-その2」…

善光寺に有珠善光寺、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/07/08/160010

「この際、本家本元を見てみよう…「信州善光寺」での見たまま感じたままの備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/23/185652

「北海道弾丸ツアー第五段、「噴火湾岸編」…三官寺コンプリート!、火山灰層の厚さ、「方形配石火葬墓」や「畠の畝」の地元評価、そして「タテシロシ」」…

そして、諏訪大明神絵詞である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440

「負けじと三度「諏訪大明神画詞」を見てみよう…実は「諏訪大明神書詞」とは?」…

 

これだけ見れば、墨書礫に大野土佐日記、飛島、善光寺に諏訪大明神絵詞…

なんやねん?なんも関係ないやろ…と、思いがちである。

いや、実はそうでもない。

そもそも論、何故諏訪大社縁起に津軽大乱や安東氏、そして蝦夷が千島の記述があるのか?、そして誰がそれを伝える事が出来たのか?…

疑問に思わないか?

今迄も各地を闊歩し峰入りしていた羽黒修験なら…と漠然と書いて来たが、割とあーそうなのねと納得出来る人々が居た。

先ずはここから説明せねばなるまい。

由利本荘市郷土資料館のパネル。

秋田県は秋田藩領からそのまま移行した訳ではない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/24/152415

「「秋田日記」に記された、江戸期のラテンのノリの秋田の姿と「佐竹公骨抜き化作戦」…東北史のお勉強タイム、その3」…

奈良期から秋田城ら国衙が古書記述ある秋田。

江戸期に秋田藩を治めた佐竹氏は謂わば「新参者」。

パネルの通り、その前は北は我々が論ずる安倍姓安東氏、大仙〜仙北は戸沢氏,六郷氏,本堂氏、横手盆地が小野寺氏…みたいに中世は小分けになっていた。

これ、義務教育らではサラッとで各地域の地元史教育ではガッツリやるが、他地域の事は詳しく解らん方が多い。

では、今回回った地域は?

関ヶ原後に旧安東領をベースに、大仙〜仙北は全て移封、横手盆地は小野寺氏は改易で佐竹氏領に組み込まれる。

では由利本荘,にかほは?

ここは中世では由利十ニ党と呼ばれた複数の小領主が一揆を組みながら北の安東氏、東の小野寺氏、南(鳥海山隔てた庄内)の大宝寺(武藤)氏と渡り合っていた。

時と場合により、どちらにつくか決めたり自分達の中で戦ったりだ。

この地域、関ヶ原後には一度最上義光領に編入されたが、最上騒動で最上氏は改易。

その後は最終的に岩城(赤尾津)は岩城藩として岩城氏(佐竹義宣の弟から)、由利本荘は本荘藩として六郷氏、矢島は矢島藩として生駒氏が治めた。

これが前提。

で、中世に戻ろう。

12〜13世紀辺りの由利本荘、

梵鐘鋳造なんかをやっていた地域だと解っている。

奈良〜平安の秋田城の時代らでは「由利柵」があったとされ、秋田湊と接続されていたのは想像に易しい。

で、鎌倉幕府が出来た頃、ここを治めたのが由利惟平だが、和田合戦に連座して所領の多くを没収された。一部は息子の惟久が継ぎ後に滝沢氏を名乗り治めた。

他の地域は「大弐局」に地頭が任される。

さて、この大弐局…

鎌倉幕府2代将軍頼家と3代将軍実朝の教育係をやった人物。

父親が加賀美遠光、母親は和田義盛娘とされる。

で、大弐局はその地頭職を兄の子、つまり甥に譲っている。

さて、ここで今回の矢島訪問と結び付いてくる。

「秋田県文化財保護協会・地域文化財保護協会誌掲載記事から 第28回   根井家由来書から見た信州と由利郡の氏族関係」によると、前項の「根井館」の館主根井氏は割と謎多き人物だった様だが、その家系図「根井家由来書」が秋田県外で見つかり、参考に研究を進めた模様。

大弐局に地頭職を譲られた一族が分岐していき由利十ニ党の多くを占めていく。

主には小笠原姓。

ここで加賀美遠光でピンと来た方は、当ブログを読み込んでいる。

加賀美遠光は元々甲斐源氏の祖新羅三郎義光の孫とされ、この次男が小笠原長清。

大弐局は、兄小笠原長清の七男小笠原(大井)朝光を養子にして由利地頭職を譲る。

ここを起点として、大井氏を筆頭に由利に土着して仁賀保氏、岩屋氏、小助川氏等由利十ニ党が形成されていく。

小笠原(大井)朝光は武功により信州佐久の大井荘の地頭だった様で、それに伴い根井氏も由利へ…。

と、言う訳で、ここで信州と秋田(由利郡)の節点が出来る。

ここで、小笠原(大井)氏が拠点を置いたのが矢島。

ここ、鳥海山大物忌神社の入口の1つ。

大物忌神社は出羽一之宮で月山神社を合祀する。

この当時、出羽三山は蜂子皇子伝承の羽黒山,月山,そして鳥海山で、湯殿山はあくまでも月山奥之院だった様で。

ここ迄で、信州と秋田、そして(広義の)羽黒修験が結び付く。

前述の通り、由利柵以後中世も京船夷船が集まった三津七湊である秋田湊〜赤尾津〜由利(本荘)〜象潟(まだ象潟湾)…と結び付いていただろう。

故に秋田県内で貿易陶磁器はあちこちで出土する。

さて、関連項として挙げた項を見て欲しい。

何故、津軽や蝦夷が千島の状況を信州に伝える事が出来たのか?

信州に本領を持ち、由利地頭職も務める一族なら伝える事が可能だろう。

当然、情報媒介は各地を闊歩した羽黒修験に託せば良い訳で。

飛島の項で書いた様に、仁賀保(小笠原)氏は大宝寺(武藤)氏の隙をついて飛島を落としていたりする。

湊を持つ=(規模は別にして)水軍を持つ…この段階では。

また、信州佐久は甲斐より村上との結び付きが強いとか。

越後でも村上や佐渡の一部は羽黒修験が広がっていたとか。

そのうち纏めようと思っていたが…

https://x.com/i/status/1795745220489044118

信州には江戸期段階で羽黒修験の霞(旦那場)があったそうだ。

これは根井家由来書によれば、根井氏が延宝年間に矢島を引き揚げ信州松代の真田氏の家臣となった事も考慮すべきなので、それ以前どうか?の確認も必要だろう。故に根井家由来書は秋田の矢島ではなく、信州佐久に残されていたと…。

関係は未知数だが…

松代真田氏とも江戸期では、

https://x.com/i/status/1576418654110904322

こんな繋がりはあったりする。

鎌倉期以降ならこんな繋がりは見つかったので、少なくとも秋田湊から由利本荘経由で信州へ情報を流す事は可能だろう。

諏訪大明神絵詞も全くの想像で書かれたものと考える必要は無くなった。

タイミング的にも問題無いであろう。

しかも後代だが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

「日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…

蚶満寺の檀家の人物が複数寛文九年蝦夷乱で犠牲になっている。

それまでは割と自由に行き来出来た様だ。

まだ、河村瑞賢による西廻航路が出来る前ではあるが。

ルイスフロイスの書簡も

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/24/204753

「蝦夷衆交易の目的地「大なる町アキタ」…この際、ルイス・フロイス書翰も見てみる」…

伊達ではあるまい。

情報媒介が羽黒修験であるなら、諏訪大社のみならず善光寺も参拝対象。

出羽を中継するなら、善光寺から分祀して有珠善光寺が建立されても不思議でもなくなっていく…媒介が羽黒修験ならば。

有珠善光寺でお聞きしたが、未だに有珠善光寺で行事あらば羽黒修験の方が参加していると。

全く信州との繋がりが解らなかったが、何の事はない。

秋田の歴史を追えば、繋がりが見えて来た。

古の北海道の民が目指した最終地点が秋田湊である以上、繋がりの可能性は延長すべきだろう、と言うか、矛盾が消える。

 

さて、実はまだある。

大弐局の兄小笠原長清、この兄妹にはまだ知った様な兄妹がいる。

加賀美遠光の三男は「南部光行」だ。

これ、大弐局の人となりと重ねると?

大野土佐日記…

勿論、荒木大学なる人物がそのものズバリ本物であるとは思えないが、物語的にはピースは揃う。

鳥海山(と言うより大物忌神社)を挟み、北の由利郡には大弐局、南の庄内には武藤(大宝寺,小弐)氏。

武藤氏は筑前(つまり九州)と繋がりが。

大弐局は2代将軍頼家と繋がりを持つ。

大弐局から頼家へ上納したり、採金依頼があっても話としては通じてくる。

当然、阻止,奪取しようとするのは北条義時だろう。

又、南部光行が糠部を拝領したのが事実ならば、小笠原氏のみならず南部氏にも連絡可能。

この時代、八幡平に陸路は無く、糠部と連絡するには太平洋側の海路か?それとも出羽から能代→大館→おいらせのルートになるだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/24/120855

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる」…

方形の中世城館は鎌倉御家人の入った所に集中する傾向。

陸路で連絡するとしたら、こんなルートだろう。

将軍家と後の得宗家が地の御家人に使い、利権争いをしていたら…?

似た事件は起こりうる。

まさか古書にそんな争いを書く訳にはいかないであろう。

堀子も甲斐から連れずとも羽黒修験で対応可能。

これらから、鎌倉初期なら人材的ピースは揃い得る。

 

如何であろうか?

津軽大乱の時点で、古書記録等で小笠原(大井)氏等が援軍として従軍していれば、それを経由し信州へ情報を流す事が出来るのは可能性として十分あるのは解った。

その他事件らも荒唐無稽と言うには人材が揃い過ぎ。

現状は先ずはここ迄。

我々はネットワーク論。

それらのネットワーク確認でまた何か?出てきたら掘り下げるだけ。

まだまだ気が付かない端末や媒介はあるだろう。

何気にピースははまっていく、それが事実に近いなら。

 

参考文献:

「秋田県文化財保護協会・地域文化財保護協会誌掲載記事から 第28回   根井家由来書から見た信州と由利郡の氏族関係」『地域文化財保護協会発行「舞鶴」第35号』  昭和52.12.7

墨書礫とはどんなもの?…「ユクエピラチャシ」の墨書礫に対する考察、そして出羽の状況

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122

「北海道には文字がある、続報8&時系列上の矛盾…最大級「史跡ユクエピラチャシ跡」とは?、そして消えた「墨書礫」」…

久々の更新である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

「羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

宗教具としての和鏡。

この辺から他に広げた事になる。

筆者はユクエピラチャシで出土した墨書礫が非常に気になっている。

これが以前見た秋田の「矢島郷土資料館」の墨書礫、と言うより「一字一石経」。

この他ににも数か所で確認していた。

但し、少々引っ掛かかる部分も…

なので、ユクエピラチャシの墨書礫が何を意味するのか?、この墨書礫,一字一石経とは何か?、これを報告しよう。

 

①ユクエピラチャシの墨書礫…

前項の通り、概報のみに記述がある墨書礫。

書かれるも文字は「西」「金」の二文字。

出土位置らは記載無く不明…ここ迄。

仮に一字一石経だとすれば、既視感のある字でもある。

じゃ、一字一石経だとして、これは何のお経なのか?…解るハズ無い…と、思ったらいきなり候補が出てきた。

Google検索かけるとAI判定される。

ギャグみたいな話ではあるが、この「西」「金」の組合せがあるお経は…

「仏説 阿弥陀経」だと。

今のところ、東北では、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836

「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」…

10世紀には南無阿弥陀仏が伝わっていたであろう事は概報。

では阿弥陀経にこの文字がどの位使われているか?

この際、家にある「真宗在家勤行集 全」で数えてみた。

・「西」…

従是西方

西方世界

2箇所。

従是西方  過十萬億佛土  有世界名曰極楽

とあるので、遠く離れた西方に極楽と言う名の世界がある…と言った所か。

・「西」

金沙布地

金剛瑠璃

亦以金剛瑠璃

黄金為地

4箇所。

極楽がどんな場所か?、金銀瑠璃で包まれた様な光輝く世界…と言ったところか。

阿弥陀経と言えば、葬儀らでメジャーに読まれるお経。

ユクエピラチャシの墨書礫が一字一石経だとしたら、一字一石経が経塚で見つかったりする事から法華経と並んであまりにピタリで納得してしまった。

と言うわけで、山形、秋田を巡りつつ、一字一石経とは何か?学んでみよう。

 

②一字一石経とは何か?

少々別件があり、筆者は山形の高畠町の郷土資料館→県立うきたむ風土記の丘考古資料館へ。

ここでもいきなりである。

一字一石経。

これは18世紀のもの。

ここで学芸員さんへ質問。

「西」「金」の墨書はあるか?

答えは「思いつかない」…だ。

とは言え、西国浄土や金剛界曼荼羅等ありそうな文字だと。

こんな話をしていたので①での検索に至った訳だ。

ここで同時に面白い事をご教示戴いた。

この一字一石経、行われた時期が概ねハッキリしているそうだ。

①平安末〜南北朝期…

②江戸後期…

で、鎌倉期位をピークにして一度廃れてしまったものが何故か江戸期に復活し再隆盛したとの事。

その場では理由はハッキリしていない様な話であった。

この辺をうきたむ風土記の丘考古資料館発行の「埋められた経  こめられた願い-やまがたの経塚-」で学んでみよう。

山形県では経塚は3種類に分類している。

①埋納の経塚…

主に地下に石等で小型石室を設け、紙本経を納めた経筒を須恵器や石製の容器に収めて厳重密封の上で埋めて、円形,方形の塚を築いた物で、銅鏡,銭貨,刀子,仏像等が同時に納められる事あり。

主に12〜13世紀。

②納経の経塚…

六十六部の法華経を書写し小型の経筒に収め、各霊場を巡礼しながらそれを一部ずつ納める「廻国聖」が16世紀にピークを迎え、それに伴い寺院や経筒を直に地中埋納したもの。

③礫石経(一字一石経)の経塚…

17世紀以降に各地に広がり、埋納の経塚の様に経典保存と言う趣旨より村内安全や豊作祈願、長生祈願等の願掛の為に地中に埋めたもの。

前述の通り、当初は江戸期と考えられたが、発掘調査が進み平安期には既にあったのが解った。

中世以前の物は、

・信仰の山の山頂に納める…

・寺院のお堂又は墓に伴い納める…

概ね2種類ある様だが、江戸期は寺社内に納める事が多い様で、後者はその先駆けの可能性も考えられる様だ。

中世の物の実例見ると、

天童市「高野坊遺跡」、1311(応長元)年で願主,目的らが記載された墨書礫があり、その背景がハッキリしている。

時宗一向派の動向を知る資料にもなる。

と言うか、一字一石経とは言うが複数の文字が書される事もあるのが解る。

さすが時宗、阿弥陀経に関連すると考えられる。

この「高野坊遺跡」は方形に掘られた土壙底部に埋められていたが、土盛りの塚を伴う場合もある。

土盛りの有無と墨書礫の有無には明確な関連性は見えていない様だ。

飯豊町「郡の神経塚」では明確な土盛りが2基あるが、墨書礫があるのは片方のみだと言う。

故に土盛りや経塔があるなら経塚だと端から解るが、土壙内に納められた場合は土木工事らでたまたま見つけられるパターンになる。

筆者が和鏡探しの特別ミッションの時にも

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045

「秋田の石積み構築年代上限と「和鏡探し」の特別ミッション…秋田県南を回れ!、そして宗教的背景を探れ!!」…

庄内の事例を紹介していた。

では秋田の事例を再確認の為に、先の和鏡の逆回りで「矢島郷土資料館」→「羽後町郷土資料館」→「雄物川郷土資料館」→「後三年合戦金沢資料館」の順で墨書礫,一字一石経を確認してみた。

矢島の事例は最初の写真通り…ある。

発電所ダム建設周辺での出土と「根井館 八幡神社の床下」からのもの。

発掘で出土した訳ではないので、明確に年代特定は出来ない模様。

では湯沢市羽後町は?…ある。

資料館に展示していたが、ここは写真NG。

館員さんに確認したところ、なんとたまたま別件で資料確認していたら記述がある文献を「今現在」見ていたそうで、コピーを戴く事が出来た。

羽後町「三輪十三本塚」と言う経塚群で、昭和35年9月に運動場拡張工事で消滅するのに伴い発掘をしたとの事で、「秋田考古学第16号」に記述がある。

元々は13個の経塚があったそうだが、1〜5号は明治で破壊、6,8,9,11,12,13号は盗掘紛いで破壊されており、その時点での現存は7,10、で10号墳を発掘し7号は保存と考えていた様だ。

資料館の展示は9号のもので、銅銭10種34枚、小さな金片、一字一石経。

では10号墳は?

「二、十号墳の発掘

十号墳は径七メートル乃至七メートル二〇、高さ一メートル二十二の円丘状をなしている。

この頂部に方二メートルのピットを設定し、これを掘り下げた。

土質は黒色の徴細な腐植土で頂部から六○種の深さで小石の塊に達した。この部分を清掃し周囲の黒色土を基盤の黄色粘土層まで掘り下げたがピット内の他の部分に遺物の包含なく、墳丘のほゞ中心部の西寄にある径六十一六十五センチメートルのほゞ円形の小石の塊が納入品のすべてあることが考えられた。

この表面の黒土を掃うと小石がぎっしり集つて現われ、その表面を一重はいで行くとその下にやゝ大きい長さ二十巾八センチメートル。石が中心に現われ、その北側に緑色の銅銭が見え、その中に白色の骨片らしい小片が現われその周囲及び下には小石が固つていた。

この小石の層は約十六センチメートルの厚さで終りその下は二十五センチの黒色土で基盤の黄色粘土層に達した。」

「羽後町三輪十三本塚調査報告」  奈良修介  『秋田考古学第16号』 昭和35.11.18   より引用…

遺物は宋銭13枚、火葬骨、そして鮮明ではない一字一石経477個との事。

9号10号共に一字一石経に共伴した銅銭が宋銭の年代から鎌倉期に造営されたものと考えられている。

山形の古い方と時代背景は一致している。

さてでは、雄物川郷土資料館、後三年合戦金沢資料館は?

ここには経塚や経筒の展示がある…だがなんと、「事例は無いし聞いた事も無い」と…

冗談かと思ったが、片方で「一字一石経は江戸期のもの」と言ったので本当に平安末〜南北朝位の時期のものがある事を知らないのだろう。つまり本当に事例は無いと言う事になる。

実は最初に書いた様に一字一石経については引っ掛かかる部分があった。

矢島の事例を見ていたから存在は知っていたが筆者はそれを他県で見る事が多く、秋田県内であまり見た事が無いのだ。

鳥海山麓〜奥羽山脈に向かう山塊や湯沢にはある。

が、横手盆地へ北上する過程で事例が消える。

ついでに県の埋文で伺ったが、やはり一字一石経は中世位と江戸期に分かれるのは知っておられた。

ただ、今迄着目される事が少ない(実績が少ない)事から墨書土器の様に資料集成されていないだろうとの事。

またコアなところを突いてしまった様だ。

これ、青森迄北上すると、経塚そのものが弘前や平川に限定されてくる様だ。

某館長さん曰く、恐らくあるとは思うが、発掘事例を聞いた事が無いと。

 

纏めてみよう…

・一字一石経は、平安末〜南北朝期位の末法思想や時宗拡散時期、江戸期の2期に集中して行われた…

・造営方法が塚としての一様な傾向を持つ訳では無く、前者では信仰の山、後者では寺院や墓に伴う傾向あり…

・法華経や阿弥陀経が多い…

・どうも一定の伝搬ルートがありそうだ…

こんな感じだ。

ではユクエピラチャシの事例に重ねれば?

仮に前者の時期とするなら、ユクエピラチャシの廃絶は14世紀の火山灰被覆で起こるので、時代背景的には合致する。

また後者の時期としても、近世で何らかの再利用がされている様なので、これも合致。

出土位置が解らぬから断定はムリだろうが、どちらでもあり得て且つ矛盾は無い。

但し、どちらであれそこに一字一石経を知る者が到達していた…これだけは間違い無さそうだ。

また、山形の事例にある様に、中世なら阿弥陀経→時宗門徒であってもおかしくはない。

網走の時宗の板碑も全くフロッグではないと言う事に。

 

さて、如何であろうか?

あくまでも可能性のレベルである。

但し、時代の社会背景的にも、ユクエピラチャシの運用時期的にも、仮にかの墨書礫が一字一石経であったとしても矛盾は無さそうだ。

しかもだとしたら、「阿弥陀経」を書いた物の可能性が高いだろう。

鎮魂の意図や自らの死後に西方浄土と言う極楽へ向かう為の祈りと考えれば、平安末〜南北朝期であろうが江戸後期であろうがどちらでもピッタリ。

ユクエピラチャシは全てを発掘した訳でもないし、一部崩落し失われている。

土壙墓や一字一石経の経塚が眠っていてもおかしくはない。

あくまでも可能性。

 

ここで1つ追記しておこう。

矢島の根井館 八幡神社…

ここでピンときた方は、当ブログを読み込んでるとお見受けする。

実は初見ではない。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033

「余市の石積みの源流候補としての備忘録−1…秋田の中世城館にも石積みは存在した」…

既に到達済。

根井館の石垣…

根井館の八幡神社にも…

そう。

石垣があった中世城館。

で、あれば、石垣諸共一字一石経が山塊沿いに伝搬していてもおかしくはない。

なかなか香ばしいではないか。

可能性…とは言え、その伝搬ルートや宗教の動き、その他遺物の傾向らが一致してくると段々と無視出来なって来るだろう。

うきたむ風土記の丘考古資料館の学芸員さん曰く…

「少なくとも、仮説が正しい…仮説が正しくない…二案検証する必要はあると思う」

同感である。

と言うか、我々はずーっとそれをやっているだけなのだ。

 

 

参考文献:

「真宗在家勤行集 全」  永田文昌堂  昭和51.6.20 

 

「第12回企画展  埋められた経  こめられた願い-やまがたの経塚-」  山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館   2004.10.1

 

「羽後町三輪十三本塚調査報告」  奈良修介  『秋田考古学第16号』 秋田考古学協会  昭和35.11.18   

2年連続北紀行→南紀行②…氷見で「石動山信仰」の痕跡を探せ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2025/08/18/193350

「2年連続北紀行→南紀行①…鶴岡で「例の物」の類似品を探れ」…

続き、氷見編である。

何故に氷見?

以前、富山で「氷見に「石動山信仰」の展示があった様な…」と言う情報を貰っていたから。

が、本命で言うなら現地「石動山資料館」の方が充実してるであろう。

なので事前電話してみた…が、誰も出ない。

能登地震で一時休館していて再開した情報が見当たらない。

で、氷見へ‥

そう、石動山信仰の情報が欲しかったのが理由で「氷見市立博物館」を訪問。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/13/193151

「錫杖の拡散の様子を見てみよう…奈良,平安(擦文文化)期の宗教要素様子を追う為の備忘録、そして「石動山」登場!」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…

方形配石火葬施設や錫杖に関連し、石動山、白山、医王山ら北陸の修験がポツポツ登場する。

その一つ目として石動山を選んだ訳だ。

結論から言おう。

石動山信仰関連の展示は殆ど無かった。

手掛かりとして

文化財系の報告書は入手出来た(まだ未読)。

この辺を前提に報告しよう。

目的の物は無かったが、この周辺も非常に興味深いのだ。

 

①位置関係…

地図パネルより。

氷見に対して石動山は北側で、実際は石川県にある。

学芸員さんに確認したところ、氷見側からの登山口が江戸期隆盛していたとの事。

 

②横穴式中世墓と藪田石…

横穴式中世墓は今迄も関東の「やぐら」と、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/24/190914

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−7…南関東はどう?「関東編(2)」を確認」…

宮城県松島の瑞巌寺周辺、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/23/213155

「「瑞巌寺境内遺跡」にスタンプ紋漆器はあるか?…いや、鎌倉との関係はそんな甘い話ではなさそうな…」…

で確認済、勿論中世墓シリーズで北陸にもある事は把握していた。

で、これが氷見のそれ。

「藪田薬師中世墓」である。

ここは室町(15世紀位)期に古墳期の横穴式古墳を拡張造営され、石造物,土師器,古銭,火葬骨らが発見された。

これがその石造物。

これ、現物と聞いて驚いた。

真っ白な石、しかも宝篋印塔らの角が出ていてあまり風化している様に見えないのだ。

特別展図録「薮田石の形 -石造物が語る中世-」 によると、灘浦海岸付近で産出する薮田石を使っているそうだ。

納められてからあまり時間を置かずに封印されたと言う事か。

この白い石造物は氷見だけでなく、射水,砺波,五箇山,立山富山県一帯で使われた様だ。

種類も宝篋印塔から五輪塔,板碑,仏像,神像,狛犬,灯籠,古墳の石室、高岡城石垣ら多岐に及ぶとある。

因みに宝篋印塔は関東型,関西型に分かれるそうだが、氷見で関東型は見つかっていない様だ。

板碑も頭部の三角加工や二本戦は無く、関東(武蔵)型ではない様で。

薮田石は主に中世、一部近世初期迄石材として利用されたが、加賀藩が戸室石を藩管理化にした辺りで石材としての役目は終えた模様。

 

③見慣れぬ縄文土器

ズバリこれ。

朝日貝塚出土。

これ、紋様が螺旋状に巻かれて施されている。

筆者の居る秋田は円筒土器文化圏と大木式の交わるところ。

あまり見ない紋様で、何気に見入ってしまった。

因みに、

右下の磨製石斧、一つアオトラ石っぽいが、質問は失念…

 

④和船…

氷見と言ったら「氷見のブリ」。

場所柄、和船の研究が進んでる様で、展示が充実してる印象。

で、今迄も船について取り上げて来たが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/12/105552

「我が国の「船」とは?…その変遷や特徴を学ぶ」…

これが刳舟の構造。

氷見ではドブネ,テントと言われる準構造船がこのその構造。

オモキと言う丸太を刳り抜いた部品の間にチョウと言う板を組み合わせて、丸木船から船幅を広げていく様に進化していった様だ。

 

石動山の他への影響…

学芸員さんから聞いた情報。

ここでも少し触れたが石動山は最低2度焼かれている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」

1,南北朝期に南朝方に付き、北朝方に焼き尽くされた。

2,戦国期に前田氏と上杉氏の激突の際に上杉方に付き、前田方に焼かれた。

である。

で、都度復興されたのだが、2の時には天皇からの勅命で始まるが、その際都らから僧や宮大工が呼ばれた様だ。

復興後に宮大工らは五箇山に移り、各種建築をやったらしい。

技法にそれは現れ、獅子舞ら伝統芸能も合わせて伝わったと。

宗教の拡散に合わせて建築技術も伝わった例だなと聞いていた。

 

如何であろうか?

本命の情報は得られなかったが、氷見市立博物館も興味深い展示が色々あった。

地域性の差も交流痕跡も両方見られる。

石動山や白山へは今後もアクセスする事になるだろう。

先ずはここから…

 

参考文献:

「薮田石の形 -石造物が語る中世-」  2008.10.17  氷見市立博物館

2年連続北紀行→南紀行①…鶴岡で「例の物」の類似品を探れ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2025/07/19/090137

「北海道弾丸ツアー第7弾、「千歳編」…これが末広遺跡の「錫杖」!、そして…」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/07/08/160010

「この際、本家本元を見てみよう…「信州善光寺」での見たまま感じたままの備忘録」…

さて、北海道から戻った筆者…

去年やらかした北海道→信州善光寺パターンが何故か思い出され、気になっていた場所へ行ってみようとなってしまった。

まぁ「思い立ったが吉日」を地でやるのが信条。

山形の鶴岡経由富山の氷見へ探索に向かった。

ずーっと引っ掛かっている出羽三山信仰と石動山信仰のヒントが欲しかったからだ。

では途中の庄内、氷見でのそれぞれの状況を2回に分けて報告しよう。

 

①方形居館「藤島城」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/14/053254

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?③、あとがき…では、山形で「方形居館」はどう捉えられているか?、そして北海道事例は?」…

東北で中世城館の研究が進んでるのは山形。

その辺の事例と北海道の比較をしたりしていたが、南紀行でふと思いついて立ち寄った。

鶴岡にある「藤島城」。

それこそ方形と言えばここ見てるよなとふと思い出した。

パネルの通り、藤島川と堰で前後を固め、内郭手前に更に水堀、更に郭を方形の土塁で囲う平城形態で、出羽柵の府城や南朝北畠顕信(北畠顕家の弟)の居館の伝承があり、室町〜戦国では

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312

「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…

出羽修験寺別当の土佐林氏の居城だったりした場所。

なかなか立派な本丸土塁が今も残される。

土塁の上から覗くと結構な高さだと解るだろう。

中央には八幡宮があり、

土塁の上には江戸期位の庚申塚等があり、

城としての機能を失った後は信仰の場として残ったと考えられる。

方形居館は北東北日本海側では少数派。

現状は鎌倉御家人らと関係が濃い場所に分布してそうなので、ここもそうなのかも。

少なくとも武藤(大宝寺)氏は鎌倉御家人としてこの地に入り、土佐林氏は代々その家老らしいので関係はある。

改めて少し納得である。

 

②「例の物」…

何気に気になり鶴岡市羽黒町の「いでは文化館」に立ち寄る。

理由は次項で。

で、例の物…とはこれ。

厚真の螺旋状鉄製品。

首周辺に置かれた事から、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/07/08/160010

「この際、本家本元を見てみよう…「信州善光寺」での見たまま感じたままの備忘録」…

善光寺の仏像より「瓔珞」か?と思ったが…さて。

同館に羽黒修験がどんないでたちなのかの展示がある。

イメージしがちなのはこんな感じだろう。

実はこれは信者を導く「先達」の格好。

錫杖や鉄斧装備なのは概報。

そう、鉄斧は木こりでなくても羽黒修験の先達でも説明は付く。

では一般信者は?

こんな白装束だそうで、赤矢印の部分がこれ。

「注連」と言う。

早い話しめ縄。

この様に依る、編む、結ぶ事で構成される。

少し、宗教的世界観上で近付いてきた気がする。

これが羽黒修験の在家信者のいでたちだからだ。

何せこれだ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702

羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…

鏡の信仰。

どうだろう?

 

③小屋…

実はいでは文化館に立ち寄ろうと思ったのはこれ。

これが何か?

「チセ」?…と答えたらNGワードを踏んだ事になる。

これ実は月山の山小屋を復元したもの。

頂上の様な風が強いのに遮る物が無い場所では周囲に石垣を施している。

内部はこう。

木組みは縄状の紐で繋ぐ。

実は羽黒修験はこんなノウハウを持つ。

国宝五重塔、他の五重塔は瓦屋根を持つが、ここは木っ端吹き。

で、仏が宿るとされる心柱はなんと藤蔓で結わえる事で固定される。

結ぶ結わえるノウハウを持って居たと言う事になるんだろう。

因みに、これが旭川市博物館の再現チセ内部。

先に旭川の再現チセを見ていたので、どんなものかと興味が湧いた訳だ。

その内、これらの建築手法の対比論文を読んでみたいものだ。

 

④妙見信仰…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836

「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」…

千葉氏系の居る場所に妙見信仰有り…

ここは?

実は、五重塔にかつて祀られた本尊は関係ある様だ。

明治の廃仏毀釈で神社として今に至る羽黒山、今は五重塔には大国主大神が祀られる様だが、神仏習合時代は羽黒山本地仏である聖観音菩薩、脇侍として軍荼利明王妙見菩薩が祀られていたとある。

勿論、出羽三山は八宗兼学で全宗門を学ぶ場だが、羽黒山の参道〜本殿脇迄の間に我が国にある全ての神社のお宮がありその中に妙見神社もあるのは知っていたが、五重塔の観音三尊の中に脇侍として居るとは認識が無かった。

現状の五重塔戦国大名最上義光の時代に再建されたものを改修を重ね維持している。

 

さて、如何であろうか?

なんとなく月山の再現山小屋を見てみたいところから、「例の物類似品」に至った。

瓔珞にして注連にして、首からかけるもの。

去年外されていたこのパネル、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803

「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…

「火の儀式に修験の影響有り」、これが成立してくれば、コイル状鉄製品を連ねた「例の物」は瓔珞,注連でも矛盾は無い訳だ。

当然、大陸系の腰飾りで発生する「首周辺に副葬」の矛盾は消え去る。

 

では次の項で氷見での見聞を報告しよう。

 

 

 

 

 

 

北海道弾丸ツアー第7弾、「千歳編」…これが末広遺跡の「錫杖」!、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2025/07/18/205934

「北海道弾丸ツアー第7弾、「旭川編」…探し物を探せ…」…

さて、増毛,留萌→旭川と回った弾丸ツアーも最後の訪問地…千歳である。

限られた時間の中で何が可能か?…

結構ムリは出る。

とは言え、踏み込む又は通過出来ていない場所も既にオホーツク方面と道北のみになってきた。

積み重ねればこんなものだ。

では…

 

千歳市埋蔵文化財センター…

先ずはビビちゃんをどうぞ🙇

ここを訪れるのには目的があった。

夏の特別展「ちとせの擦文」、これが開幕するのをSNSで知った。

展示の有無は解らないが、末広遺跡の「錫杖」が展示されていれば是非観たい…この一点。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/13/193151

「錫杖の拡散の様子を見てみよう…奈良,平安(擦文文化)期の宗教要素様子を追う為の備忘録、そして「石動山」登場!」…

これの他、今迄何度か紹介したものだ。

で、ミッション完了…

これが末広遺跡の「錫杖」の頭。

これが観たかったのだ。

流石に杖の先に取り付けるのでそんな大きな物ではない。

時代背景を重ねれば、平安期の修験者の北上を示唆させる物。

貴重な一品だと思う。

北海道に往古仏教は伝わっていないと否定するのはナンセンスだと思う。

明治迄我が国は神仏習合

民間の在家は神仏両方を崇める。

密教要素を持つそれを否定するのはムリがあると考えるのは筆者だけだろうか?

 

その他ちょっと気になったところを。

この擦り切り痕がある縄文期の礫だが、北海道〜北東北ではこれが顕著とか。

単に割るだけでなく、アオトラ石等もこんな風に加工したと教示戴いた事がある。

これは秋田県立博物館のアオトラ石の巨大石斧。

こんな感じで割と直線的な輪郭で板目みたいな石の紋が出てる。

単に割り磨くと言うより、擦り切り整え磨いたのかな…と言う印象を持っている。

これもなんとなく納得。

以前訪問時は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/08/110448

「北海道弾丸ツアー第三段、「千歳篇」…「キウス周堤墓群」は土塁の如し、そしてまとめ」…

擦文〜中世の展示が少なく残念だったが、特別展とはいえ末広遺跡等の貴重な遺物が見られて有り難かった。

この後、フライト時間を気にしながら家族から指定された土産入手に遁走したのは言うまでもない。

飲食らの時間を割いて走り回るのがこの弾丸ツアーの常。

そんなケアもしないと文句無しで家を空ける事って訳にはいかない。

 

さて、如何であろうか?

今回は相互フォロワーさんや他のメンバーが紹介してくれていたり、論文等で先に取り上げた物の現物を確認する…こんな趣旨が主になっていた。

留萌の星兜や千歳の錫杖、旭川の探し物等だ。

神居古潭の竪穴跡以外はほぼコンプリートで現物確認が出来たのが最大の成果だろう。

また、アイノ系の年代観に関しても、以前文献で読んだ事や他地域でレクチャー戴いた事との整合が取れた部分もまた成果だと思う。これについては、昭和30年代の世相らと重ねれば何故そんな風潮になったかは解るだろうし、筆者的には成る程なと思う次第。

こんな風に事実関係を積み重ねれば、自分なりに納得出来る歴史観を得るのは可能なのだろう。

現物を観て、教示を受け整合し検証する…整合が取れると言う事は皆知っていると言う事に他ならない。

なら…

それを歪めているのは誰?

大人の都合でそれをやるのか?

学術研究とは何か?

少し考えてみるのも良いのではないだろうか。

 

最後に、今回もレクチャー戴いた方、情報くれた方、文句言わず旅に出してくれた家族ら、関わってくれた全ての方に感謝する。

ありがとうございました。

さて、次回は何処へ…?

 

 

 

 

北海道弾丸ツアー第7弾、「旭川編」…探し物を探せ…※1追記あり

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2025/07/17/212943

「北海道弾丸ツアー第7弾、「増毛,留萌編」…北に向かい中世武具を目指せ!、そして…」…

さて続けよう。

留萌から当日の内に旭川へ、そして一泊。

さすがに道内第二の都市で広い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/21/070725

「北海道弾丸ツアー第五段、「道東編」…行ける東端「納沙布岬」へ行ったれ!、そして「チャシ」を見てみよう」…

コロナ禍以降に閉店が早まった根室ら他の都市と違い、平日にも関わらず夜でも人が動き食事や一杯やるのに開いてる飲食店を探し回る必要は無い。

この経産格差をどう捉えるべきか?

と、大通りから一本外れ細い小路に入ると割と一方通行が多い感。

たまたま宿が駅近くなせいだろうか?

もとい…

 

神居古潭

博物館らが開館する前に立ち寄った。

目的は竪穴跡を見てみたかったから。

が、そんな事よりむしろ、

この橋を見ると昨年殺人事件があった場所…を連想される方も多いかも。

前述の平日夜でも人が動く、見た限り若そうな方々も居た訳で、考えさせられたのはそんな事。

そういえば裁判はどうなったのだろうか?

脱線しがちだがもとい…

竪穴跡は?

残念ながら、現地の方々に止められて断念。

至るルートにヒグマの糞が検出されているそうだ。

物音に敏感で複数人数でワイワイ入るなら別だが単独行なら止めた方が良いと。

また何故か筆者を狙う様に蜂に纏わりつかれ、暗示ではないだろうが遠征でムリは禁物。

 

旭川市博物館…

目的地の一つ。

ここには河野常吉、広道、本道氏等河野家で収集した「河野コレクション」がある。

例えばこれはそうだと思う。

恵庭の和同開珎と帯金具。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335

「㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」」…

河野広道博士が江別や恵庭の古墳群発掘に携わったのは概報。

戦前から北海道考古学をリードした方。

ただ、気が付いたであろうか?

年代記載が無い。

これは北海道系と樺太系…

収集年代が無い。

で、ニブフ,ウィルタ系の衣服。

ここには昭和7〜昭和15年樺太で収集とある。

あら?

と言う事で、「北方系では収集年代と収集場所の記述があるが、北海道系の収集は何時何処で?」と質問してみた。

受付の方は解らすなので学芸員さんに確認📞…

本日は詳しい担当者が不在ではっきり解らないとの回答。

故に折角なので「この北海道系は河野コレクション?」とたずねてみた。

河野広道博士の収集なら、上記の昭和初期位でもおかしくない。

ここで、直接担当ではないが学芸員さんの登場となる。

・一般に北海道で年代記述が無い事がある…

・北方系は年代場所が記述されるが北海道系のそれが無い。

・折角遠方から学びに来たので質問したが、これ展示で年代表示するだけでわざわざ質問する事は無いし、学芸員さんの手を煩わせる事も無い。

・気になったのは以前二風谷や胆振でレクチャーされたが、魚鱗紋は昭和30年代以降。で、それとそれ以外が混ざっていたので気になった。

・河野コレクションなら上記年代位で合致しうる。この衣服は河野コレクション?

こんな感じ。

これに対して、

・直接担当者が不在ではっきり解らない。

・指摘通り、ここには河野コレクションの展示はある。だが、どれがどれか?は解らない。申し訳ない。

・気になる様なら直接担当者が居る時に再度質問して欲しい。

・確かに表示すれば来訪者に質問させる手間を掛ける事はないので、直接担当者の方には指摘内容を伝える。

道外なので頻繁に来るのはムリなので、必要に応じて電話又は手紙、メールで再度質問させて戴く事にした。

ぶっちゃけ、かなり恐縮され次第に頭が下がって来た様なのでこんな風に打ち切った。

そうなのだ。

来訪者は旅の貴重な時間を質問に裂く事になる。

学芸員側は忙しい中で時間を取られる。

表示するだけで解消可能なのだ。

それなら質問するなと言うか?

これに付いては、そんな事を言いそうな学芸員さんに会った事はないので否定しておく。

筆者が会った事がある方々は概ね誠意を持って対応し、「また学びに来てください」と付け加える方々ばかり。

こちらからも出典、何処の資料館等情報を出す様に心掛けている。

無碍にされた事は一度も無い。

まぁ、こんな会話があった事を記載しておく。

展示自体は館内に再現チセを設けたり、上記の様に北方系と比較出来る様に展示したり、先駆者の発掘品があったり素晴らしいと思うが、年代記載が無いと同様にこんな展示があった。

聖徳太子絵伝」…

おいおい…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

距離と時間をすっ飛ばし前後を繋げる「キング・クリムゾン効果」は止めておくべきだが。

この矛盾に気がついていないのか?

師匠が至る事の出来なかった領域や判断ミスや間違いを糺すのは弟子達の務めと心得るが違うのか?

これについては直接担当者が不在なので指摘してはいない。

それに時間も残り少ない。

次へ… 

 

③川村カ子トアイヌ記念館…

ここは川村カ子ト氏含む川村家関係の方々の私設資料館。

外には再現チセが。

川村カ子ト氏、男前だ。

使用感がある展示も。

折角なので旭川市博物館同様に収集年代をこんな形でたずねてみた。

「これは川村カ子ト氏が収集したものですか?」と。

答えは「色々混ざってるので解らない」との事。

なので、

こんな熊のコレクション見た事無いので、年代別に変遷が解る様にしたら素晴らしいと思うと伝えたところ、「多くは来訪者等からの寄贈品」で…との事。

皆さんはどう思うだろうか?

一応、書いておく。

・動物らを木彫りするのはタブー視されていた。

・明治初期位から観光土産として熊も作られ始めた。

・当初は出来が悪く、ワニクマ,ブタクマと呼ばれた物を若手中心に改善して今に至る。

トンコリは昭和30年代以降。

トーテムポール的なものも砂澤ビッキ氏の提案で作ってみた様だ。

 

※1追記…

初版を書いていた時に直上の「トーテムポールと砂澤ビッキ氏の関係」についてのパネルを失念していたが…

これである。

2代目館長川村カ子ト氏が亡くなり落ち込んだ近文、砂澤ビッキ氏発案でトーテムポールを作ったとあった。

川村カ子ト氏が亡くなったのは1977(昭和52)年なので、近文でのトーテムポールはそれより後になる。

ここで…

 

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417

「この時点での公式見解-28…「旭川市教育委員会のスタンス」と、旧「旭川市史」に記された「ムックリ,琴は本道アイノの文化に非ず」との関係」…

この辺は旧旭川市史と合致している。

展示にあるように本来知れた話なのだ。

事実は事実。

昭和30年代に砂澤ビッキ氏ら若手作家の活躍と共に、ルネサンス的に制作範囲の拡大があったのだろう。

そこで魚鱗紋やトンコリ、トーテムポールが生まれた…

こんなところか‥納得である。

では次へ…

 

④「外アイヌ」の地蔵様…

ある意味、これが旭川を訪れた本命。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/11/10/203035

「「現代の送り場」はどんなものなのか?…近代,現代アイノ文化遺跡を見てみよう②」…

ここで触れた地蔵様を自ら是非拝みたい…これが目的。

信仰対象故、場所等は割愛する。

実は初め見つけられなかった

で、鹿さんと遭遇…

後ろを振り向いたら…

お地蔵様様。

こんな出来過ぎた偶然があると、感謝も2倍。

「外アイヌ」…

ここで一応…

川村カ子トアイヌ記念館の展示。

川村家の方々のご先祖は元々湧別に住んでいたが、上川地方に移った…と。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733

「この時点での公式見解-29…ムックリの理由と「シロシ(家紋)に見る移動の痕跡」、そして伊達氏の影」…

この辺も旧旭川市史と合致。

そしてゆうへつ(湧別)は

「ゆうへつ(湧別、是より北高麗に渡る)…」…だ。

ここが往古、大陸、樺太や千島との玄関口。

この辺の年代観は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

「この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b」…

幕別町白人コタンや帝政ロシアの南下と合致。

と言う訳だ。

少なくとも国後島や道東らメナシ衆がオホーツクに至っても往古は湧別が入口になるのだろう。

古書と突き合わせればそうなる。

これらは博物館,資料館展示や地方史書を確認すれば解る事。

別に隠された謎でもなんでもない。

 

如何であろうか?

まぁ、概ね今迄学んで来た事の裏付けは各展示らとの合致でとれたものと考える。

だから言っている。

「皆さん、知っている」…と。

北海道弾丸ツアー第7弾、「増毛,留萌編」…北に向かい中世武具を目指せ!、そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2025/04/16/174316

「北海道弾丸ツアー第六段…思い立ったが吉日Part2松前編」…

久々にブログ更新である。

それもそう、筆者はまた一泊二日の北海道弾丸ツアーを敢行した。

今回の目的地は、増毛,留萌、旭川、そして千歳。

なかなか妙な組み合わせだと思われるだろうが…まぁ取れる時間と費用がそうなら、可能な枠の中でどうするか?…最大限の効果を狙うしかない。

では初日午後からの状況をレポートしよう。

 

①増毛…

増毛を目指した理由はこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/19/193917

「幕末に増毛,宗谷らは久保田藩…忘れ去られた分割統治」…

幕末の二次幕府直轄段階で北海道は東北諸藩に分割統治されたのは概報。

増毛は久保田(秋田)藩の元陣屋が設置された場所。

勿論、陣屋が残る訳ではない。

だが、どんな処か訪れてみたいと思っていた。

今は元陣屋と言うコミセンとなっている。

浜から見ると丘の上で、その時代なら往来する船や浜で働く人々の姿がよく見えたのではないだろうか。

残念ながら中に入るだけの余裕は無い。

当時を偲ばせるパネル…

コミセン自体も陣屋風の作りになっていた。

通過程度なのだが、筆者にとってはそこに至る過程も学び。

次へ…

 

②留萌…

留萌を訪れる最大の目的は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/134005

「留萌の星兜杏葉残欠、実はこんなにイケていた!…北海道中世武具の謎-その3」…

言うまでもなく、今迄何度も紹介した中世武具を見る事。

では…

これが星兜、杏葉残欠、復元大鎧…

やっと会えた。

なかなか立派…

勿論、これが誰の物か?特定可能な共伴物らは無い。

故に…

2説ありとちゃんと表示している。

筆者は前者とみている。

理由は簡単。

これより後に中世武具は更に発掘で検出数が増えている。

更に…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/13/213724

アイヌ酋長は刀剣も持つ…中世武具の謎-その2」…

立派に復元されたのも、こんな事例もあるからだろう。

金銅兵庫鎖は当時武将級で流行っていたもので、その辺の土豪が持ち得る物ではない様だ。

杏葉残欠もなかなかゴツい。

それらを踏まえれば前者であってもおかしくないだろう。

そんなこんなで、ざっと見学を終えた時には入口案内にあった閉館時間午後5時に達しようとしていた。

と言う事で宿に向かう事になる。

 

③地形…

筆者は移動はレンタカーで自ら走って「見る」のが信条。

それが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/24/200132

「北海道弾丸ツアー第五段、「地形編」…北海道横断で見た事、感じた事、そしてまとめ」…

こんな考察に繋がる。

これを見て戴きたい。

周辺のグーグルアースである。

丘珠空港近くでレンタカーを借り北上、石狩→厚田→浜益→増毛→留萌と進んだ。

道東や道南らで、「海迄台地が迫り出し、海岸は絶壁」…これがどうか?だ。

これが通ってきた道の特徴が出ていると思って、厚田の道の駅から南側を写した写真。

岩盤っぽい感じではないが、やはり崖が海迄迫り出している。

暑寒別岳がそびえる為に、湿地だったであろう石狩を過ぎると山道っぽい道で海岸ギリギリに道がある訳ではない。

厚田〜浜益間と浜益〜増毛間は、海岸沿いの平坦な道はそれら町の周辺だけしかなく、まるで湊町同士が繋げられる気がしないのだ。

では…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327

「北海道開拓は明治政府?江戸幕府松前藩?、「否」…「蝦夷日誌」に記される、場所支配人,土地の民衆,出稼や移住者達の総力で行われた姿」…

開削山道と今の国道が一致するか解らないが、⑦,⑧の厚田領の部分が厚田〜浜益間について松浦武四郎が残した文である。

現在でこそ重機でトンネルで繋いだりしているから車で走れるが、これを人力で通すとなるととてつもない労力だったであろう。

当時、周辺の人々が総力戦で開削山道を作ったのを幾分か体感出来た。

浜際は断崖、丘の上は原野に山道…

簡単に道を広げられるハズもなし。

ここでも何故最上徳内松浦武四郎が船で移動→河川を遡り奥へ…この理由も解ろうもの。

別に明治からではない。

江戸期には既に町村と町村を陸路で繋げる作業は既に行われていて、それは記録に残されている。

自ら走ってみたからこそ、その大変さの一部を垣間見る事が出来た。

 

さて、如何であろう?

北海道開拓を偲ぶ…

そんなん明治からではない。

しかも周辺の皆の力で進められたのだ。

本当にそれを偲ぶと言うなれば、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

メンテ放置でボロボロにした挙句に取り壊し、それで基本コンセプトをぶち壊す様な事にはならないと思うのだが…。

まぁ、筆者は余所者故にここまで。

でも一言だけ。

発想がチャラい…

現地を走ってそう思う。

 

さて、次へ…