時系列上の矛盾&生き方ていた証、続報30…まだまだあった伊達市「有珠4遺跡」に広がる「はたけ跡」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/15/205140

前項に続き、畑の畝の存在について進めてみる。
たまたま、前項の資料と同時期に別の思惑で入手した発掘調査報告書なのだが、ペラペラ捲って驚く…
ここにも畝状遺構が記される。
虻田町に程近い「伊達市有珠町」にある「有珠4遺跡」である。
ここも「有珠貝塚」らと共に、墓跡が検出されるのが知られており、その墓の発掘をメインにして行われた模様。

まず基本層序…

Ⅰ層:近現代の埋土・撹乱、約1m
Ⅱ層:us-b(1663年有珠火山灰)
で内部二層有り、約60cm
Ⅲ層:a…Ko-d(1640年駒ヶ岳火山灰)混じりの黒色土
b…aとcの間の黒色土
c…B-Tm(946年の白頭山火山灰)混じりの黒色土
d…c層下の黒色土
Ⅳ層:風成堆積砂層

と、編年指標が三層検出。
では、引用してみよう。


「1640年以前のはたけ跡(第79図)」
「当該期のはたけ跡はKo-d火山灰に覆われ、さらにその上にUs-b火山灰が堆積している。調査区北東側で確認された。畝全体にⅢa層の堆積が認められ、構築面はⅢb層上面と判断される。畝の全長は8~10m前後である。心心間距離は約1mほどで、畝頂部と畝間底辺の比高差は5~10cm前後である。調査区外まで広がるものや撹乱されている部分もあるため正確な耕作の単位は明らかでないが、最大19列の耕作の単位が認められた。畝の方向はおよそ南北方向と東西方向の2方向が認められる。平面図を作成後、掘り下げを行い、下位の遺構・遺物を検出するとともに、他のはたけ関連の痕跡の確認に努めた。一部、畝が明瞭に検出され、かつⅢ層の層厚がやや薄い箇所においてのみ、耕作・作物痕と思われるⅣ層起源の砂の巻き上げが見られた。はたけ跡が重複・交差した箇所も見られたが、それらの先後関係は明らかにできなかった。また畝の切り返しも確認されていない。耕作・作物痕については、Ⅳ層上面で確認し、特にはたけ跡が見られなかったD・E-7・8グリッド付近で検出されたもののみ記録をとり図示した。」
「はたけ跡自体に伴うと判断できる遺物の出土はない。」
「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日 より引用…

「1640~166年のはたけ跡(第80図)」
「当該期のはたけ跡は、当初撹乱部の壁断面にて確認された。Ko-d火山灰を掘削している状態が確認でき、かつ畝をUs-b火山灰が直接被覆している状態であった。畝を検出するために、まずUs-b火山灰を水平に掘り下げ、畝の頂部がやや露出される段階まで掘り進めていった。次に畝間に溜まったUs-b火山灰を畝頂部より低いレベルにするように除去していく。」
「Ⅱb層の除去後、Ⅲa層混じりの黒色土が縞状に確認された。調査区南端から南西部に広がっている。はたけはⅡb層に直接覆われており、畝の肩が崩れずはっきりとその輪郭を留めていることから、Us-b火山灰降灰直前の、はたけ使用時の状態に近いものと考えられる。構築面はⅡa層上面と判断される。畝間の全長は現存最大で9.6m、幅0.6mである。短いものでは4~5mのものも見られる。心心間距離はおよそ1mで、畝頂部と畝間底辺との比高差は10cm前後である。畝および畝間が平行して存在する一枚のはたけは畝の数で最大12列である。畝の方向はおよそ南北方向と東西方向の2方向が認められ、これらが隣り合って存在する。切りあう箇所が認められなかったたま、それらの先後関係は不明である。土層断面の観察から、一度の切り返しがあったと考えられる。また新しい畝の端部に見られる楕円形の窪みは、古い畝間が埋まりきらなかった状態と判断した。」
「はたけ跡自体に伴うと判断できる遺物の出土はない。」
「層位的検出状況から、Ⅱ期(1640年の駒ヶ岳噴火から、1663年の有珠山噴火まで)の遺構と判断される。」
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「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日 より引用…

調査区外にも伸びる事も示唆させているので、なかなかの規模である。
残念ながら、はたけ跡に直接関与する遺物ななく、その状況は不明。
さて、この「はたけ跡」、何を栽培していたのか?
土壌に含まれる花粉や胞子分析をやっているが、残念ながら畝上,畝間からのそれは非常に数が少なく、むしろ畑周囲の野生植物に由来したもの。
追肥寄生虫卵も未検出。
だが近辺土杭からは、ヒエ、マメ、スモモ、カキノキ属が栽培植物として検出。これらは擦文文化期に持ち込まれた出土例がある模様。
特にカキノキ属はこれで「勝山館」に続き二例目。
植物遺存体調査から考えられるのは、ヒエら穀物やマメ類と言う事になるのか。
少なくとも、江戸初期段階で、これだけの耕作をする集団が、有珠湾周辺に住んでいたのは間違いがない。
まぁ墓の調査がメインなので、詳しい事は記載がないのは、高砂貝塚と同じ。

で、何故1640年と1640~1663年で、畑を作り替えたのか?
この墓跡にある一文を…

「1640年の駒ヶ岳噴火に伴う津波堆積物と思われる粗砂層が人骨下位に確認された。」

「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日 より引用…

つまり、1640年よりずっと前からここで耕作し墓に葬られる生活が営まれていたが、津波の直撃を受け、新たに畑の作り直しを余儀なくされた…とも、取れる訳だ。
天災は恐ろしい。

さて、ここに暮らす人々はどうなったのか?
実は、1663年以降にも、土杭や柵列遺構は検出されるが、はたけ跡が新たに作られる事はない。
それらの土杭は「有珠場所」に起因すると推定され、この一帯に耕作地が復活する事は近代まで無くなっている。
故にどうなったのかは不明。


ところで、この報告書はこれらが「アイノ文化」と断定した上で書かれている。
でも、我々的には本当にそれが「アイノ文化の人々」と証明出来ますか?と問いたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
元々、消去法でアイノとされたのだから。

むしろ我々なら…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/21/041328
前項でも添付したこの状況を鑑みれば、

①栽培種雑穀を受け入れた「擦文文化人」の末裔
②江戸初期に入った、キリシタンを含む金堀ら「本州から来た人々」
松前支配を嫌った「安東方」の人々
こんな人々が単独、混生していてもおかしくはない。


尚、この有珠~洞爺湖一帯では、後に鉄山や硫黄山の鉱山が作られる。
つまり、②の選択肢も充分にあり得る。
そして、追加背景として…
鬼菱とシャクシャインの衝突は1658年位迄は遡れる。
この人々が、アイノ文化を持つ人々か①~③迄の人々なのか?混生を含めると、断定出来る決定的要素は無い。
何せ古書上オリジナル表現は全て「蝦夷」、胆振~日高~十勝の遺物でも、アイノ文化と断定出来るものは「シブチャリチャシ」ですら出土していない。
本州で作られたものがメインなのだ。
少々嫌らしいであろうが、この背景も付記しておく。
少なくとも断定可能なのは、「耕作を行った人々の存在」のみ。
それが従来から伝わる「アイノ文化は耕作をしない」…これと相容れない事実だと言う事だけ。
恐らくここだけではない。
有珠湾周辺には、豊かな耕地があり、一部の人々はそれを知っていたであろう事だけ。
そう、擦文~江戸初期降灰迄の一定期間の実績として。


参考文献:
「有珠4遺跡発掘調査報告書」 伊達市噴火湾文化研究所 平成21年3月31日

時系列上の矛盾&生きていた証、続報29…東蝦夷地は旧虻田町「高砂貝塚」にある畑地の畝の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141
さて、ぼちぼちゴツいところも暴露せねばなるまい。

グループ内ディスカッションでも、よく話題に上がるのは「食い物」の話。
先祖が何を食っていたのか?これはむしろ、子供や主婦ならば、最も興味示すところだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
擦文(平安)期迄で、五穀ほぼ栽培種にとって代わるのは解った。
なら畑は?
実は「八雲町」や旧「森町」で田畑の「畝状遺構」が検出されるのは知っていた。
だが、我々が欲しいのは「蝦夷地」でのそれ。
あちこちの発掘調査報告書でも、植物遺存体や炭化種子で、それを示唆させる報告はみているが、畝状遺構らの引用はほぼ無い。
が、何気に探しまくると、あったりする。
そこは、旧「虻田町高砂貝塚遺跡」。
実はこの発掘、元々はそこにある縄文墓から人骨を検出し、縄文人の骨格らをしらべるのが最大の目的だったのだが…
発掘チームとしては「迷惑な人為的撹乱」に過ぎないく、殆ど記事の記載がないが、引用してみよう。


「今回の発掘において28基の墳墓が発見されたが、そのうち撹乱をうけた墳墓は半数に近い12基に達している。これらの墳墓の上部には、有珠火山灰c2層が保っているので、撹乱は火山灰c2の降灰以前とみなされる。」
有珠山火山灰c2の降灰年代は不詳とされているが、有珠山の噴火記録には1611年(慶長16年)の噴火がある。その後1663年の火山灰b2の噴出まで噴火記録がないので、火山灰c2の降灰は1611年を降ることはあるまい。」
「E~G区では火山灰c2層下面は波状の曲線を描き、黒土層の上面は90cm~100cmの間隔をとった畝が、東西の方向をとって並列し、さながら畑地の様相を呈していた~中略~。畝状の構造は明らかに人為的なものであり、墳墓の撹乱にかかわりをもつとともに、農耕によるものとすれば、一つの問題を提起することになる。」
「第Ⅲ層の黒土層に人為的な撹乱がくりかえされたとすれば、火山灰c2層直下の10cm内外の部位にある。高砂縄文人の生活面および墓壙を被ることは当然であり、G9号とG5号墳墓はその好例である。G9号は用途不明のP3ピットの堀込みにより、墓壙は半ば以上が撹乱消失している。G5号では上半身の埋葬が浅かったため撹乱により消失し、埋葬の位置がやや深かった下半身はかろうじて骨格の位置をとどめていた。また、G6号墳墓の如くG5号墳墓の構築による撹乱もある。」

高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2」 札幌医科大学解剖学第二講座 昭和62年6月25日 より引用…


さて、畝状遺構は添付通り。
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有珠火山灰Us-c2は降灰年代不詳だが、後のUs-bは1663年確定。
その直近前は、1611年の噴火記録があるので、それから下る事はまずないだろうとの事。
つまり、1611年より遡る時代に繰り返し畝を作り、高砂縄文人の墓をぶっ壊していたっていうオチ。
大きく範囲をとれば、縄文~1611年の間で、1611年に極近い時期に畝作って農地にしていた可能性が高いって事だ。
その趣旨故に、文面からは不満タラタラですが、俺的には小躍りである。
何せ、旧虻田町は「蝦夷地」なのだ。


耕作を知る人達がここに居た事だけは可能性大。
百歩譲って、耕作しない人達が居たとしても、耕作はしなかったとされる「アイノ文化の人々」と、仲良く共生してたって事になるのだ。

さて、これはどんな人々?
我々は既に「菅江真澄」から学んでいる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939
そう、夜な夜な念仏?を唱える人々。
これなら、擦文文化を持つ人々の直系としても、なんら違和感が無い。
何しろ畑作をし、貝を採ったり魚を捕ったりして暮らしたであろうからだ。


何故、これらが発掘調査報告書らで引用されぬのか?
また、何故「有珠善光寺」の開基伝承が史書上無視されるのか?
恣意的と考えても矛盾無し。
何せ文字が無いのに、「考古学」的アプローチを無視し、アップデートしないのは、目論見があると勘繰られてもおかしくはない。

この辺…
実は伊達市のスタンスに疑問を持っていたので、バックボーンとしての学習をしてからと考えて、有珠湾周辺の発掘調査報告書は棚上げしていたのだが…
ぼちぼち出番だろう。
少し掘り下げていく。


参考文献:
高砂貝塚 噴火湾沿岸貝塚遺跡調査報告2」 札幌医科大学解剖学第二講座 昭和62年6月25日

奥尻島「青苗遺跡」あとがき…博物館,資料館には、災害史を展示すべき

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/11/185141

https://twitter.com/F34fC9F4NEMW5e2/status/1381197787673501697?s=19
早速教えて戴けた。
この場を借り、改めて感謝したい。

13世紀に、奥尻島南岸付近震源地震が発生し、津波に襲われた模様。

秋田城廃絶は、11世紀頃の天慶の乱辺りとされる。
物流拠点としては、概ね役割を終えた頃だろう。
そこへ津波が襲い、港湾設備が壊滅的被害を受ければ、当然ながら放棄せざる終えぬ状況に…正にトドメの一撃、故に中世以降に復興されず放置されたが、合理的な解釈だろう。
天災は恐ろしい。こんな一撃で環境を変えてしまう。

実は筆者は、秋田県内フィールドワーク中に、某資料館で水害がなかったか?について話をさせて戴けた事がある。
国内でも、大雨による洪水被害があり、注目された頃だった。
詳しくは展示されておらず、質問したと言う経緯。是非災害史を展示すべきと言う提案に対し、長い目で検討したいと言う事だった。

これは何も行き掛かりで提案した訳ではない。
天災の痕跡は地層に残される。これが考古学的編年経過の指標となる。
更には、こんな災害の際、ご先祖達は寺社を建立し、神を鎮める為の祈祷や神楽を奉納し、それが地元の獅子舞,剣舞ら伝統民俗芸能で伝承されるケースがある…つまり民俗学や宗教学へも直結する。
ご先祖達は、後の子孫が1人でも生き残れる様に、メッセージをちゃんと与えてくれている訳だ。
「一度ある事は二度目が有り得る」と言う事…地形がそうなのだから。

確かに、災害リスクは、地価に影響したりするので、あまり有り難くはないと考えがちかも知れないが、逆に捉えれば、後にそこに人が住み、神楽奉納する歴史があり、資料館がある…天災に立ち向かい復興させ繁栄にさせた歴史でもある。
実に誇らしいではないか。
何時来るか解らぬリスクでも、少しずつ備えを行う防災感覚を養うには、最強の教材だと、我々は考える。
教育に携わる方々には、それを強く提案したい。


そして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842
昨今報告している「火山灰の壁」…
北海道の遺跡の地質は今回の奥尻島も含め、火山灰ベースである事が多く、それが植物の力で腐植土化している様に説明されている。
火山活動と、切っても切れない縁がある。
特に、擦文文化層は大体、大規模降灰直前の豊かであろう「黒色土層」から堀込まれている。その時は豊かな大地であったであろう。
そこから、降灰→待避→再入植を繰り返したと考えたら合理的だ。

改めて…
博物館,資料館には、災害史を展示して、ご先祖達がどうやって天災に立ち向かったが学べる様にすべき。
それがご先祖達から我々へのメッセージであり、我々がまだ見ぬ子孫達へ送るメッセージになる。
1人でも多くの子孫の命を救い、少しでも長く繁栄を繋げていく為に。
これが歴史から学べる教訓。

我々は強く提案したい。

時系列上の矛盾&生きていた証、続報28…奥尻島「青苗遺跡」に見える「鉄製錬」と「朝廷」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/18/110054

筆者が奥尻島「青苗遺跡」を知ったのは、歴史の勉強を始めて直ぐ位の頃。
相互フォローの方からそれを教えて戴いていた。
面白そうな話を伺っていたが、なかなか見る事が出来なかった。
せっかくなので、この機会に改めて取り上げてみようかと思ったので、発掘調査報告書を入手してみた。
発掘そのものはかなり古くから行われていた様で、最近のものはネットの「全国遺跡総覧」からダウンロード可能。
だが、関連書籍を並べないと理解不能な筆者的には圧倒的に「紙媒体」派。
1981年版発掘調査報告書を入手したが、核心部分がこの発掘より前の様で、まずは最も古そうな所から下ってみよう。
その「核心部分」とは鉄製錬の痕跡である。

「北海道志などの文献によると、享徳三年(西暦一四五四年)、武田信広が上陸してから明和四年(西暦一七六七年)まで、定住者がなく、和人や夷人がトドや魚などを一時滞在して捕穫して帰つたらしい。奥尻島に遺跡があることは、昭和六年十月の深瀬春一氏の調査で明らかになり、貝塚、住居跡、遺物包含地の所在の概報を「旅と伝説」(第四巻第十二号)の"奥尻島紀行"に報告された。遺跡の調査は、昭和二十七年8月東京大学人類学教室鈴木尚教授らの調査団によつて、青苗の貝塚の発展がなされた。」
「鞴の口 奥尻島釣掛にある奥尻中学校で、数日前生徒が青苗貝塚から掘つて来たと言う資料をみた時、まだ新しい土の付いた鞴の口を遺物の中から発見した。鞴の口は縦に割れたもので、完形の五分の三のものであつたが、荒い砂混りの粘土で造られ、焼けて赤褐色になつている、長さ一七糎、円筒形で先端がやゝ細く丸味を帯びている。先端の内径約二・五糎、基部外径約八糎、内径約五糎のもので厚さ一・五糎である。」
「こゝで概略を紹介した遺跡はおもに東海岸であるが、北西部、西部、西南部は未調査である。奥尻島擦文式文化の上限に、続縄文の数形式があると考えられる~中略~特に南部は縄文の遺跡が数多く、住居址群が存在しているので、奥尻島の先史時代は予想以上に多くの課題を残していた。」

考古学雑誌 第四十一巻第二号 「北海道奥尻島遺跡調査概報」 千代 肇 昭和三十一年 より引用…

恐らく鉄精練に関する第一報はこの鞴(ふいご)の羽口。
残念ながら、生徒が掘ってしまった様なので出土詳細は不明…ここが難しいところ。
生徒にすれば、興味と善意で掘ったのだろうが、本来は専門家の指導の元で行わねば出土状況が不明となってしまう。
少なくとも、鞴の羽口あらば、鍛冶の痕跡が想像可能、ここから鉄関連遺構、そして鉄滓の検出に繋がる…のは良いのだが、筆者的には更なる疑問が巻き起こる。
何故、そんな重要地点を放棄廃絶するに至ったのか?
復興の痕跡が見えないのか?
古書上、中世~江戸期には定住者無し。
そんな拠点を放棄するのはどうなのか?


と、言う疑問を持ちつつ、取り敢えず1981年版発掘調査報告書にいってみよう。
基本層序は次の通り…

Ⅰ層…Os-a 15cm
Ⅱ層…乙部層
Ⅲ層…Os-b 5cm
Ⅳ層…Ko-e 6cm
Ⅴ層…Os白ハン層
Ⅵ層…奥尻ロームA 20~30cm
Ⅶ層…奥尻ロームB 30cm
Ⅷ層…奥尻ロームC

遺構や遺物の出土する所謂文化層は、
Ⅲ層~Ⅳ層…擦文系土器を中心
Ⅵ層…続縄文系土器を中心
にして検出される。
実は、この段階で少々引っ掛かる。
それ以前の1976年位から所々近辺の発掘が行われていて、1981報告の現場より高台では11層に分かれている。
ざっと言うと、この現場のⅡ~Ⅲ層辺りにが撹乱されているのか、細かく分かれて居たものが混ざってる?
厳しいと思われるのが、
Ⅱ層、乙部層…由来不明の火山灰
Ⅲ層、Os-b…古代~中世の火山灰
Ⅳ層、Ko-e…三世紀位の火山灰
と、一番知りたい古代~中世辺りに当たる事。
その辺を踏まえて、下記引用を。

「焼土の断面はレンズ状であり、広範囲焼土は10cm~15cmの厚さで、赤橙色を呈している。小範囲の焼土でも厚さ1~2cmを測る。こうした状態は、可なりの高温と相当時間の燃焼が行われたものと解釈でき、その目的は、土器の焼成、鉄の溶解、鍛造などに自ずと限定されてくる。」
「溶滓、いわゆるフラッグと鉄滓が~中略~3ヶ所に集中的に出土する。(1)は塊状の鉄滓230g、溶滓435gと羽口を出土した。溶滓の分布から、或いは(2)のものかも知れない。(2)は焼土を取巻いて鉄滓360g、溶滓1225gと羽口を出土した。溶滓は小石大のものが殆んどで、分布は鉄滓出土グリッドに濃く円状に広がり、外縁になるにつれ薄くなる。(3)は鉄滓960g、溶滓593gと羽口破片3点を出土した。」
「(筆者註:遺構の「弧状溝」)発掘区の南側に弧状の溝がある。~中略~総延長19.8mのものである。~中略~この溝の弧内、C-10区に焼土があり、周辺から大型深鉢形土器、台付浅鉢形土器、杯形土器、勾玉の石製模造品、把手、羽口、鉄滓などを出土している。」
「また、鉄滓の形状から、精練が行われたか、或いは、小鍛冶程度のものであったか、遺構が焼土だけであり、貝塚台地の製錬遺構をもってのみ、判断する事は困難である。」
「焼土と配石を伴う遺構は、本調査以前のものを加えると、発掘区の西北150mの墓所前三叉路と北50mにある青苗貝塚およひ台地を結んだ、広い範囲に分布する事になる。それが鍛冶址なのか、小規模な製錬が行われたものなのか、即断することはできないが、多量の鉄滓、溶滓、鉄製品の出土は、そこに鉄に関する大規模な生産遺構が存在したことを意味している。」

奥尻島青苗遺跡」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1981年3月 より引用…

1980年版概報もダウンロードしてみたが、この製錬遺構の写真や詳細は、まだ確認出来ず、また、これの鉄滓らの組織観察等の報告に辿り着けていないので、小規模でも鉄製錬に成功していたのか?ははっきり解らずであるが、小規模鉄精練にtryした痕跡、鍛冶を行ったのは間違いないだろう。
何せサクシュコトニ遺跡では、温度が低く、上手くいかなかった形跡。それが何故かが解れば、何故これだけの素地を持ちうる北海道で近代迄製鉄が成功しなかったのか?それが紐解てくると思うのだが。


さて、こう書くと、直ぐ「アイノによる製鉄」だと短絡的に言う方がSNS上だと直ぐ沸いてきたりする。
だが、それはない。

「青苗遺跡で検出された墳墓は、遺体の周囲に 2 段以上の石積みが確認されていることから、扁平な石を長方形に囲んで構築した石組墓と推定している。掘り込みはないため、遺体は地表面に置かれ、その上に盛土が行われたようである。人骨は頭蓋骨と下肢骨の一部が残存し、頭位を西方に向けた伸展葬と推定されている。その頭部南側から鉄刀、胸部付近から玉類(丁字頭勾玉・水晶製切子玉・平玉、ガラス製小玉)が出土した2)。また、ガラス玉が溶着していることから、埋葬時に行われた着火儀礼あるいは火葬された可能性が指摘されている3)。石組みという墓葬構造の特殊性や共伴土器がない点などから、この墓及び副葬品の時期については見解の一致をみていない。」
「小嶋芳孝は、この墓の年代をガラス玉や水晶切子玉などから 7 世紀代と推定した4)。また、埋葬時に行われた着火儀礼について、6 世紀後半から 7 世紀前半にかけて北陸・近畿地方でみられる点に注目するとともに、大陸の靺鞨や渤海に代表される北方系埋葬儀礼の影響を受けた可能性を指摘した。瀬川拓郎は、奥尻島を『日本書紀』斉明六年(660)三月条にみえる「幣賂弁嶋」と想定した上で、青苗遺跡の墳墓は本州から渡ってきた古墳社会の人間の墓と捉えている5)。その被葬者については、阿倍比羅夫の遠征に同行し、幣賂弁嶋で粛慎(オホーツク人)と戦って死んだ能登臣馬身龍の可能性を推測している。笹田朋孝は、北海道の鉄文化について検討するなかで青苗遺跡の鉄刀についても触れ、ガラス玉・ヒスイ製勾玉・直刀などの共伴遺物から本州の古墳文化の産物と評価する6)が、詳細な年代については述べていない。最近、大賀克彦が青苗遺跡出土の玉類について検討している。従来、この玉類の流入時期については5~7 世紀と捉えられてきた7)が、大賀は同遺跡出土玉類のなかに真球形を指向して製作された水晶製丸玉が含まれている点を重視し、墳墓の埋葬時期を 8世紀以降とする見解を提示している8)。以上のように、青苗遺跡の墳墓出土副葬品の年代については、古墳時代後期から奈良時代にかけての比較的幅広い年代観が提示され、本州の大和政権あるいは律令国家の影響を受けたものと捉える点で共通する。」

「北海道青苗遺跡出土鉄刀のX線画像解析」 小嶋/中澤/稲垣/高橋/中村 2016年 より引用…

同論文では、石組墓に副葬されたこの直刀のX線画像解析によれば、その形状から7世紀後半~8世紀前期の本州系の物と概ね特定されだ。
上記の通り、瀬川氏によれば「阿倍比羅夫」に帯同した方ではないか?と仮説する。
北方影響を考えつつも、小嶋氏に至ってはむしろ、その上他の副葬の勾玉や水晶,ガラス玉の特徴は、東北と言うより畿内~北陸に近いともしている。
北海道地盤の土豪と言うよりは、この墓に眠る人物は、畿内~北陸出身の人物説が現状有力。
そうならば、むしろずっと朝廷に近い拠点だった可能性が出てくるだろう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8B%97%E6%96%87%E5%8C%96
wikiでは、青苗文化は「擦文文化と本州文化のクレオール」的な書き方をしているが、上記の通りむしろ朝廷色か濃くなる。
実際、擦文土器は土師器の影響で生まれた事が解って来ているので、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
東北豪族より、むしろ朝廷の拠点「津軽渡島津司」に近いものと考えるのは如何であろうか?
出土刀剣的には、この直刀の後に、北海道~東北では見慣れた「蕨手刀」へ変容していく訳だ。
ここで石帶が出土すればそうなってきたであろうが…


処で、筆者が感じた疑問に戻ろう。
仮に朝廷の何らかの拠点とした場合、何故この場所が前述の通り、中世以降定住者が居なくなり、廃絶されたままだったのか?
SNS上で意見を伺った中で、10世紀位にはピークを迎え後廃絶された…と。
時代背景を考えると、9世紀半ばの「元慶の乱」後、東北では土着土豪の力が台頭、安倍氏清原氏に権力が集中してきて、奥州藤原氏がそれらを束ねる。
故に、北海道からの産物らは朝廷拠点の「秋田城」から、それら土豪へ取り扱いが変遷する。
しかも、土豪らの財力の増大での船の大型化により、航続距離の延長が起こる。
更に、層序に見られる様に、火山灰の撹乱…つまり津波や火山噴火ら天災によりダメージを受けているだろう(少なくとも1300年代には津波の伝承あり)。
それら複合の理由で、狩場や風待ち湊以上の役目を終えた…と考えれば合理的かも知れない。


ここも古代日本海ルートの湊の一つであろう事は想像に易しい。
但し、中世以前に廃絶、静かに眠りにつく…現状我々が思うところはこの辺。
また気になる点については、報告してみようと思う。


参考文献:
考古学雑誌 第四十一巻第二号 「北海道奥尻島遺跡調査概報」 千代 肇 昭和三十一年

奥尻島青苗遺跡発掘調査報告概報」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1980年3月

奥尻島青苗遺跡」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1981年3月

「北海道青苗遺跡出土鉄刀のX線画像解析」 小嶋/中澤/稲垣/高橋/中村 2016年

㊗️二百項…時系列上の矛盾を教えてくれた「江別,恵庭古墳群」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/27/180553
我々は物証第一である。
何故こんなに拘る様になったか?
理由がある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/231857
北海道には文字がある…こう言い始めた時、筆,硯、そして刀子,砥石がsetで出土していないか確認したかった。
勿論、全て現状も揃ってはいない。
が、刀子&砥石は探す事が直ぐに出来た。
それは「考古学雑誌」に「恵庭古墳群」を発掘した当初の概報が載っていて、発掘同時の状況を見る事に至った為。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/114329
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/10/052507
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150
後に、この様に我が国考古学創成期の博士達からの警鐘を知ったのも、同一文献に載っていた話を読む事に至ったからだ。
この際、記念として「恵庭古墳群」発掘同時の報告を引用してみよう。


「古墳群は室蘭街道を隔たる約一千五百米、茂漁川左岸の段丘上、現今手小氏所有地(~中略~)にある。以前は数十基を数へたであらうが、その半はは耕作のためにその形を失つてゐる。段丘の端に近い未墾地の十数基及び耕地の数基が昨夏私達の調査したものである。」

「1、第一号墳 墳丘の牟は既に掘返されていて原形を止めなかつたが、円形のものらしく、残存のまゝで径六米二〇糎、高さ約五〇糎、封土中墳丘上より二五糎のところに高杯形土器の破壊されたるもの一、他の遺物は墳丘の頂きより深さ五〇糎の所にあり、中央より南方にあたつて土器三個が一線に七〇糎の間に置かれ、その北西一米の所に刀一、その中へ二〇糎離れて刀子一、刀子と土器の中に鑷子、外に手砥石二を出す墓廣は明らかでない。」
「2、第二号墳 前略~南東の壁に近く刀二、刀子二が底に縦に置かれ、その柄頭に近くと鞘尻に近くとに各一個づゝの銙(筆者註釈:帯の装飾品)があり、刀群の内側に三個の飾鐶と一個の鑷子が縦に一線に、その北方にして北東の壁に近く飾鐶一、○一、円形の薄板状のもの一を置く」
「6、第七号墓 前略~C、鉄斧(第五圖17) 圖の如く土器と反對の側にあり。~中略~e、錐状鉄器 ~中略~ f、鎌(第五圖18)」
「第九号、第十号墳は河野博士の調査によるもの。」

「第四号墳墓 古墳群の中にありしもの、~中略~ a、鑓鉋(第五圖27)」

「両古墳出土品に於ては何れも蕨手刀.直刀.所謂唐様刀等を出土する所に於ては同一であるが、江別古墳に於ける勾玉の出土は全く類例を見ない。この此の勾玉は十四個出土しているが、琥珀製のもの一個のみにて他は石英岩製であるしかも、その悉くが勾玉の退化形とも申すべきもので、本州に於ては古墳時代の末期のものとされているものである。」
「恵庭古墳出土の刀子に於ける鹿角製装具は、これを本州に於ける出土品によつてその年代をたづぬれば、大體六朝時代のものとされている。即ち此が國に於ける大和時代より奈良時代にかけての頃に當る。北海道に於けるこれら装具が若し影響を本州に受けたものとすれば、此の時代より更に一-二世紀を下つて考へるのが至當であらう」

考古学雑誌第二十四巻第二号 「胆振千歳群恵庭村の遺跡について」 後藤壽一/曽根原武保 昭和九年 より引用…

実は、恵庭古墳群とは、饅頭土を伴う終末古墳と土坑墓の複合遺跡なのだ。
どうも、饅頭土にばかり焦点が行きがちだが、ある程度の場所の違いあれ、一部は重なる様に掘られている。
出土遺物も、勾玉らはなくむしろ鉄器、蕨手刀や直刀,刀子はいざ知らず、それも鉄斧や鉄鎌、錐状鉄器そして鑓鉋(やりかんな)ら、まるで大工集団の様な遺物が出土している。
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https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
奇しくも、筆者の原点「秋田城&C504遺跡」にあるように、建築資材の加工痕のみならず、「恵庭古墳群」では大工道具現物が出土していた。
あまりこれらは、現在現況されてはいないが、「大工集団」は確実に居た。
別にその辺の木を斬り倒して簡易的に建物を建てていた訳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331
我々が、こんな大それたた事を書くのには、こんな背景がちゃんとある為だ。


古代の北海道が未開?
そんな訳はない。
農耕、漁業、そして大工や信仰、文字…
実は分散こそすれ、大概の物はちゃんと伝わっている。
これらを頭の片隅に入れておいて戴きたい。

北海道は未開に非ず…


参考文献:
考古学雑誌第二十四巻第二号 「胆振千歳群恵庭村の遺跡について」 後藤壽一/曽根原武保 昭和九年

「江釣子古墳」等に見える終末古墳の考古学的見地…絶対に北海道の教材には載らない「真の北海道~東北の姿」

やっと雪も溶け、北国も春の便りが少しずつ出てきた。
もうすぐフィールドワークの季節。
北海道の方々が、江別や恵庭古墳群の話をされていた。
せっかくだからここは、考古学者がそれら古墳群を、どんな風に捉えてるのか引用してみよう。
この引用を見てから江別や恵庭の古墳群見ると、多少見え方が変わってくるのではないだろうか…


「これまでの研究によって北東北の古墳には、岩崎古墳群のような主体部が竪穴式の土壙タイプと江釣子古墳群のような川原石積みの石室タイプがあるということが明らかとなりました。前者には北海道の江別市後藤遺跡、対雁町村農場遺跡、恵庭市茂漁遺跡なといわゆる北海道式古墳も該当します。」
「北海道式古墳とは、千歳市ウサクサマイ遺跡のように続縄文文化(後北・北大式)の伝統である屈葬を基本とする土壙墓(円形・楕円形・隅丸長方形で、底の隅に円柱状の穴があり、壁の袋状の穴に土器を副葬するのが特徴)に併行、もしくは後出関係にあり、北東北の古墳の影響によって伸展葬に変化したと考えられる高塚墓です。」
「年代は8~9世紀前半とされ、副葬も土師器・須恵器・蕨手刀・直刀・刀子・鑷子(筆者註:ピンセット状の鉄器)・鎌・鉄斧・環状装身具・銙帯・金具・砥石・勾玉などがあり、北東北とはほとんど変わりません。同期の住居にはカマドがあり、農耕も行うなど生活内容も前代と大きく変化しています。北東北から人々の集団移住の可能性も考えられ、本州文化の強い影響による社会変化を物語っています。」

江釣子古墳群とその時代-古代北東北の自立と個性への道-」 北上市博物館 平成10年3月25日 より引用…


以上の通りで、特に噛み砕く必要もなく、簡潔な説明。
北上市奥州市は、「阿弖流為の戦い」で幕を閉じる38年戦争の真っ只中の地域なんで、その歴史的解釈は北海道に負けず劣らず独立論的「赤い指向」だと言う事は、我々から見ても否めない。
しかし、それでも北海道式古墳と江釣子古墳群との共通項が多過ぎてこんな表現にならざる終えない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/24/172128
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647
これら古墳群の後に、土師器の影響で擦文土器が生まれたと特定されてきたのも、同時期の古墳の研究結果らと突き合わせ、時系列的に並べていった結果。
もうこの辺は既に、考古学的には特定されつつあるのだ。

ところで、筆者は時折「北海道の方が秋田より、都に近かった」と呟く。
これは、秋田側にはこの高塚墓が現状発見されてなく、周坑のみとかはっきりしないものしか検出されていない為。
つまり、秋田城が出来る前に北海道に入った土師器集団は、陸奥国側の人々なのだろう。
秋田県南一部に周坑を伴う「蝦夷塚古墳群」らはあるが、秋田全域に都の文化が急速に広がるのは、秋田城の影響で海側からの文化流入が激しくなる頃から。
この古墳,飛鳥期に都からもっとも遠いのは秋田近辺と言う事になる。

北海道が未開なんて言ったら、続縄文の人々と一緒に道央を開拓したであろう「岩手蝦夷(エミシ)」の人々に怒られる。
何せ、次々時代に奥州合戦後に於いて、余市鵡川迄は村々里々…鎌倉方武者が驚いて記録する位。
それだけ、開拓されていたし、それらは
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
余市「大川遺跡」等や札幌「サクシュコトニ遺跡」ら、擦文文化期遺跡で立証可能だ。
考古学者達に見える「真の古代北海道の姿」は、こんな感じであろう。
だから、言葉「すら」通じないなんて事はこの段階では有り得ないのだ。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1198717518061301760?s=19
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1230595229901672448?s=19
因みにこれが、筆者がフィールドワークした時の「江釣子古墳群」と「北上市博物館」所蔵の展示品の一部。
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パッと目で北海道で不足なのは「馬具」位。
だが、土器もそれぞれの物が有ったりするので、交流が如何に深かったか解る。

念のため…
これが、秋田城が築城される前の姿。

だが、SNS上話した限り、殆どの道民の方はこの姿を知らない。
と言う事は、恐らく北海道の教科書や教材に載っていないのだろう。
勿論、ここまでとは、筆者も改めてこうして学んでみて理解出来た事。
まぁ東北でも、ちゃんとは載ってないし、はっきりは書かない。
触れる事が可能なのは、専門誌か、博物館,資料館のみだろう。


これが「真の北海道と北東北の姿」。
多分、教科書には載らない、考古学者的常識。
北海道には「文字が無い」設定。
なら、本来口伝等より信用に足りうるのは?…消去法なら考古学的見地や科学分析的見地だ。
それを無視するから「ファンタジー」になる。
これに気付かぬ方が、どうかしている。


参考文献:
江釣子古墳群とその時代-古代北東北の自立と個性への道-」 北上市博物館

余市の本当の凄さはこれ…「大川遺跡」の中世「港湾遺構」の片鱗

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/28/193339
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/042632
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529

関連項はこの辺だろう。
我々がホットスポットと考える「余市」。
今迄も文字(墨書土器,硯)、貿易陶磁器、火葬跡ら、他の地域では少ない本州との深い繋がりを示す出土遺物を紹介してきた。
だが、本当の余市の凄さは、実は中世の「遺構」を伴う事なのだろう。
北海道で抜け落ちた「中世」の姿を、確実に眼前に晒した「遺構」は道南では極端に少ない。
それが、遺物と完全に合致した形で余市「大川遺跡」では検出されている。
では、引用してみよう。

「遺構は、余市川南岸より65~80mを隔て、北東~南東方向に蛇行する大溝MO-10(幅2~3m,深さ0.8m~2m,断面逆台形,一部V形)を基軸とし、現河口より150mほどから東西約200m、南北約55m、約11,000m2の帯状空間をなす。河口に近い東辺に2列の柵列と東西を溝MO-1・2とMO-6で画された東半に3×4間(約50m2)の管理事務所とおぼしき掘立建物が復原でき、雨落溝より西には管理事務所に勤仕する近侍層の居住域とみられる小型掘立建物の柱穴群がみられる。これに西接した区画は、大溝と直交するMO-8と出入り口を開き断続して弧状に伸びるMO-12・3・4・9・7が300~350m2ほどの狭隘なゾーンを形成し、南辺を不連続な柵列で画する。ここの柱穴群にはC2群のように160cm間隔で、径22cmと30cmの太い柱根の遺存例が認められることから倉庫域の可能性を持つが、積極的な証拠はない。」
「遺物は、甕・壺=貯蔵具が欠落する点に問題を残すものの、ごく一部染付椀が15世紀後半ないし以降に下るとみられる以外ほぼ13世紀末から15世紀中葉におさまり、遺跡の盛期は道南十二館や日本海域の中核港湾町より幾分先行し14世紀後半~15世紀前半に求められる。大川中世遺跡の廃絶については、先稿で述べたように大溝でほとんど例外なく数cm~25cmほどの焼灰層が上部に堆積し、被火痕を有する中国陶磁・瀬戸陶器が総量の10%に上ることから、長禄元(1457)年のコシャマインの蜂起に連動した余市アイヌ集団の襲撃に求めうるかもしれない。」

「1994年大川遺跡発掘調査報告概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅳ」 余市町教育委員会 1995年3月 より引用…


「次に壕状遺構であるが大川遺跡の全体に走るものである。北東から南西方向にみられる基本となる壕状遺構MO-10は延長約180mにもおよび、直交して10~20mもの壕が見られるが今回の調査においても確認された。遺構に伴う遺物はなく、年代については明確にできなかったが、壕の一部において、壕の掘直しや切り合いが確認された。」
「以上のように概況を記してきたが、1989~1994・1998~2001・2003年度にわたる大川遺跡の発掘調査は今年で終了した。これまでの発掘調査による墓坑は約1200基を越えており、縄文時代晩期から近世・近代までの変遷についての膨大な資料が蓄積されている。今年度の調査をふまえると、大川遺跡における墓抗群はほぼ全体像が把握されたことになり、年代とともに墓域が移動していることが確認でき、墓域ごとの詳細な比較・検討が重要な課題と言える。大川遺跡は北海道小樽土木現業所による余市川改修および大川橋線街路事業に伴う緊急発掘によって約30000m2が調査されたが、現在は掘削され、その殆どは河川となっており、その面影は写真を含む記録でしか見ることができない。しかし、出土した遺物は約200万点もあり、今後も遺構・遺物の調査および研究を通して、大川遺跡の歴史的変遷について解明していかなければならないと考えている。」
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「大川遺跡(2003年度)」余市町教育委員会 平成16年3月26日 より引用…


以上の通り。
壕状遺構は、基軸のMO-10に直交する付帯壕状遺構は26本に及ぶ。
2003年の報告書において行われた壕状遺構に残る焼灰層でのc14年代測定結果は、
MO-10…550±60y.b.P.
MO-21…590±60y.b.P.
と、大体西暦1400年位を捉えており、出土遺物の編年経過とほぼ一致、パーフェクトに「中世遺構」である事が立証されたケースなのだ。
さすがに、十三湊遺跡の様な港湾都市とは様相が違う点は1994年概報でも記載あるが、中世以降の墓抗群や地炉跡らが出現するのは江戸後期以降の様なので、東南…つまり現大川町や栄町方面まで遺構が伸びていた可能性を示唆しないのは…何故?
栄町では「金銅兵庫鎖」「杏葉残欠」が出土しているのだが。
まさか、余市の町を全発掘なぞ不可能なので、対岸の「入船遺跡」や「栄町遺跡」、「フゴッペ遺跡」らと同一次元を繋ぎ合わせ、多層構造で解析するのが、古の余市町の姿を立証していく事になると思うのだが。

さて、面白い事に、火災跡の原因を「有ったか?無かったか?」はっきりしない「コシャマインの乱」に結びつけようとしてるが、視点が抜けていると考えるのだ。
新羅之記録が何処まで正確なのか?だ。
現状、道南十二館比定地では、戦乱の跡が無く、逆に大川遺跡に火災跡が残る。
実は元々の安東氏勢力圏がもっと北海道各地に延びていて、蝦夷蜂起で道南迄押し込まれた…
この場合、元々の支配域はもっと広かった事になるのだが…こんな可能性は全く考えていない様だ。
更に、こんな蝦夷蜂起の話をしながら、十三湊や秋田湊には、同時代「京船・夷船が入り賑わいをみせていた」とある。
勿論、昆布らが本州で切れた事も無いし、北海道でこれ以後の陶磁器らが切れてもいない…これも事実。この辺をどう捉えるのか?
この辺の考察がまるっきり欠落している。
相対的に考える必要があるのだが、何故のうなる?


まぁそこは置いておいても、この大川遺跡の壕状遺構群が、所謂「和人」に纏わる中世遺構群である事は、誰の眼にも明らか。
むしろ、こういう書き方をしよう。
「本州由来又は本州縁の人々が構築・運営した遺構跡」と。
擦文文化を持った人々が、既に本州由来の人々を含むのだから、こんな表現が良いと考える訳だ。
なんでもかんでも新羅之記録に合わせ、ストーリーを構築するのも如何なものか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
実際の史書上はこうなのだから。
北海道教育委員会が、新羅之記録は正確ではない部分が多いと認めているのだが。
登場する古書が少ない→登場する(和人が書いた)古書にストーリーを合わせる…では、ないハズだ。
むしろ、考古学的要素を引き上げねば、解明には繋がらないと思うが。


さて、こんな感じで余市の遺跡の凄さが解って戴けただろうか?
現状描かれる北海道史をひっくり返す要素を持つ片鱗を見せるのだ。
そして、茂入山はまだ発掘されてはいない
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447
余市ホットスポットである事は間違いない。


参考文献:
「1994年大川遺跡発掘調査報告概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅳ」 余市町教育委員会 1995年3月

「大川遺跡(2003年度)」余市町教育委員会 平成16年3月26日