生きてきた証、続報41…我々の「非効率」という疑問に対する答えは、複数掛口を持つ「竈」の存在か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/31/103453

さて、続けよう。

前項に書いたこちら。

https://www.pref.tottori.lg.jp/263233.htm

鳥取県のHPより「謎のかまど~「湖山池南岸型」移動式かまどを考える~」  より。

それがどんなものか?の結論を言えばこうなる。

ほぼ完全に復元出来たものがこちら。

焚き口は一つだが、上の鍋,釜を掛ける掛口が二つある。

HPにある様に、この二つの掛口は炊飯用とおかず用に使っていたのではないかと想定されている。

と、言う訳で、まずは「湖山池南岸型」の移動式竈について学んでみよう。

「高住牛輪谷遺跡」発掘調査報告書の登場。

ここは鳥取平野西で、湖山池南岸型に位置し、国道9号線改築工事に伴って平成23~24年にかけて発掘された。

周辺は縄文以後、弥生期の墳墓群,玉作工房、古墳期の前方後円墳ら、古代は律令下で因幡国高草郡に関わる遺跡、中世の山名氏山城や墳墓群ら、人々が住み続けた痕跡を残す。

 

では基本層序から。

Ⅰ         表土  水田耕作土  1m  

Ⅱa      黄灰~灰色シルト~荒砂  

Ⅱb      シルト~細砂

Ⅲ1a   灰~オリーブ黒色シルト~細砂

Ⅲ2a   黄灰~灰色シルト~細砂,白色礫含む

Ⅳa     黒褐色~黄灰色シルト~粘土

Ⅴa      灰白色~黄灰色の細砂混じりシルト~粘土or細砂

この中で主に、Ⅱa,bには鎌倉期中心に弥生後期~中世遺物が、Ⅲ1aでは僅かに古代~中世、Ⅲ2a,Ⅳaに弥生後期~古墳前期の遺物が検出される。

特に弥生後期~古墳前期の掘立柱建物跡、土坑や溝跡らの遺構、亀甲型,切妻型の陶棺、中世(13世紀以降)の瓦質鍋,土師質羽釜、9~10世紀頃と思われる底部に「✕」が掘られた須恵器らもあるが、今回はこの「移動式竈」に特化してみる。

平成24年度A1地区で掘立柱建物跡らが検出、丘陵傾斜地の為に遺物は遺構内と言うより包含層遺物となるが、主に古墳期後期後半の杯ら土器類に混じり、写真の様な移動式竈が出土した様だ。

本体は高さ33.6×底部径36×掛口径30.4cmであり、正面を焚き口とした時の右後方に付属掛口部が取り付けられ、長さ24×巾24×高さ22.8cmとある。

復元出来た移動式竈の他にも破片は検出、それらは掛口上端には粘土紐で4つの爪が付けられ、七輪やコンロ五徳の様に鍋,釜を受けた様だ。

破片数は24年度の土器観察表内で31点、一点だけでもほぼ復元出来たのはかなりラッキーなのかも知れない。

総括では製作方法復元もしているが、敢えて割愛。

また、掛口形状では、写真の復元品は直立しているが、因幡国では内傾気味に直立が主、出雲では頸部がくの字型又は如意型、伯耆西は直立,くの字型,如意型と、同じ山陰地方でも用いられた竈に地域柄があるとの指摘がある様だ。

 

さて、今回述べたい事は、この「湖山池南岸型竈」の史料入手と紹介ではない。

前項で紹介した、古墳後期~古代(平安)で強飯(蒸し米)期の西日本での竈と鍋,釜の関係はこれ。

では、若干遅れて竈伝播した東日本では?

実は、こんな形の物が検出されているそうだ。

支脚が左に遍在する事から、土器が2個掛けされ固定されていて蒸し用掛口が二つあったと推定される。

これは平安期になると、一個掛け・掛け外し可能な形に転換し、西日本同様になっていく。

 

「中世の火処について「東日本は囲炉裏が多く、西日本は竈が多い」という説が提示されたことがあったが、その後の研究により、東西日本ともに「炊飯は竈、オカズ調理は囲炉裏」という使い分けが明らかになりつつある(木立2013)。絵巻物に描かれた中世の竈は、屋外の竈屋か屋内の土間に置かれるため、地面の赤変から発掘調査時に認定出来る可能性がある。一方、14世紀になると低い板囲みの壇上に置く例が増えるため、地面に赤変面がのこりにくくなる。なお、囲炉裏は板床間にもうけられ、主にオカズ調理用だった。

このように、東日本における「煙道付き竈に長胴湯釜を2個掛け・固定」(5世紀後半〜8世紀末)⇒「煙道付き竈に1個掛け(掛け外し)」(9世紀〜11世紀)⇒「煙道なし竈」(中世〜現代)という火処構造の変化は、西日本における「煙道付き竈に1個掛け」(5世紀〜6世紀末)⇒「煙道なし竈」(7世紀〜現代)という変化から1段階遅れて進行した結果と言える(表1)。そして、煙道付き竈は煙道なし竈に比べて長時間強火加熱(蒸し・茹で調理)に適することから、各時期において「東日本の方が西日本よりも長時間強火加熱の必要性が高かった」といえる。」

 

「東西日本間の竈構造の地域差を生み出した背景」  小林正史/外山政子  『石川考古学研究会々誌 第59号』石川考古学研究会  2016.2.29  より引用…

 

この変化過程に於いて、2個掛け竈が存在→「炊飯とオカズ調理の並行作業」を行い、効率化を経っていたと言えるのではないか?…我々が言いたいのはここである。

つまり、当初からメンバーが言っていた、

「竪穴住居の最後は竈と囲炉裏(正確には地床炉)の二つの火処が有った。何故それが囲炉裏一つになるのか?。主婦目線では非効率。」

この疑問に対する答えは、「湖山池南岸型移動式竈」や東日本の煙道付き2個掛け備え付け竈の存在で出ていたのかも知れない。

北海道〜東北は、その寒さ故に「竈+地床炉」の必然性が高くなる。

端から火処が二つになる素養は強い訳で、当然、炊飯とオカズ調理は並行して行う事が出来る様になって行くであろうし、寒冷期に入る平安期なら言うまでもない。

故に、竈の存在が消えた段階で火処が一つに統合されるのは「非効率且つ理に適っていない」と言う事。

平安末〜江戸期迄の間、「竈が無かった」事自体がやはりおかしいと考える訳で、それは特に寒冷地であればある程疑義が強くなって然るべし。

どうやって暖を取りつつ、調理を進めるのだ?

 

2回に渡り、竈について2010年以降の知見を加えてきた。

興味深い「湖山池南岸型移動式竈」は近辺の他の遺跡でも検出されている様で、高住牛輪谷遺跡もその後の発掘でも検出はある様だ。

また、竪穴+煙道付き竈と平地+煙道なし竈の両方が検出される事例は群馬県黒井峯遺跡にあり、その変遷過程が解ると言う。

黒井峯遺跡は榛名山の噴火による火砕流と火山灰によりほぼ瞬時に埋め尽くされ、噴火直前の集落の状態でパッキングされた事例でありその経過が見られる。

 

さて、如何だろうか?

今後も、これら竈と食文化、鍋,釜の関係らは追っていく。

当然、東北の事例の確認が出来て来れば、こんな疑問に辿り着くハズである。

「何故、北海道では竈が消えたのか?

何故、北海道ではそんな非効率な事態になったのか?」…と。

無いのだ。

中世以降の渡島半島を除く地域には竈は無いし、絵図にも描かれず、再現チセにも無いのだ。

非効率だと…思わないか?

 

 

 

 

 

参考文献:

「高住牛輪谷遺跡Ⅰ -一般国道9号線(鳥取西道路)の改築に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 ⅩⅢ-」  鳥取市教育委員会  2014.3.24 

 

「古代の米蒸し調理から中世の炊き干し炊飯への変化」 木立雅朗  『日本考古学協会第79回総会研究発表要旨』 日本考古学協会  2013.5.25

「東西日本間の竈構造の地域差を生み出した背景」  小林正史/外山政子  『石川考古学研究会々誌 第59号』石川考古学研究会  2016.2.29

「もとの人間の文化史117・かまど」 狩野敏次 (財)法政大学出版 2004.1.15