https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/06/01/113707
「山形市「盃山遺跡」を探る「特別ミッション」…中世城館以外での石垣の登録事例の備忘録」…
さて、上記を前項として。
関連項は下記。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道、日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134
「和鏡特別ミッションの続報…「国見山廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702
「羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836
「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/23/205737
「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−3…螺旋状垂飾の年代特定は?、そして用途は?」
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/07/08/160010
「この際、本家本元を見てみよう…「信州善光寺」での見たまま感じたままの備忘録」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/09/27/205220
「「南無阿弥陀仏」を広めたのは誰か?…墓制拡散の担い手を探る為の備忘録」…
と、ズラズラ並ぶ。
表題の通り、今回は8〜9月に掛けて秋田〜岩手を回った事による報告である。
お題はズバリ「鬼の痕跡を探せ!」だ。
割とSNSでも「鬼」と言うと反応される方は結構居る。
「鬼」と書いてもかなり漠然としていると思われるだろう。
ただ、指令を戴いた段階で具体的なミッション内容はあった。
関連項にある「石垣」「和鏡」「螺旋状」「垂飾」ら修験の痕跡と思われるものを「鬼」と言うキーワードから探るのがミッション。
筆者の地元的には「ナマハゲ」は神の使いだし、岩手に行けば鹿踊や鬼剣舞は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道、日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…
どうやら羽黒修験が伝えたと伝書にある模様。
故に3度のフィールドワークをそれぞれで報告しよう。
①「鬼の隠れ里」とは?
ミッション①は、「男鹿の寒風山「鬼の隠れ里」」を探れ!だ。
これが「鬼の隠れ里」と言われる場所。
「このミニピラミッドのような巨石の塊が鬼の隠れ里である。伝説では、ここにいた鬼達がせっせと石を積み。 重ねて奥の間に寝泊まりしていた、となっています。鬼の隠れ里と呼ばれるのは、こんな由来からです。なお、石倉という別名もあり、他に弘法大師ゆかりの硯石や石碑などもみられます。」
この赤矢印が「硯石」で、
何故かこの岩の丸い穴から水が湧いていたりするので弘法大師縁…なんだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/18/183612
「実は「出羽三山」では金銀銅水銀、そして鉄が揃う…「月山鍛冶」の答え合わせ、そして技術や文化への宗教の関与は?」…
ここにして出羽三山の湯殿山宝前にして、弘法大師縁の地は温泉や泉が湧く話が多いと思うのだが。
実は訪問前にリサーチやディスカッションをしていて、この「鬼の隠れ里」は人口的に作られたものではないのは解っていた。
これ、
科学的調査が行われ、溶岩ドームなのが解っている。
こう見ると解り易いか。
赤矢印が「鬼の隠れ里」で、一帯が大きな噴火口、その中にある溶岩ドームになっている。
で、ミッション的には「似た様な物(模して人工的に作られた物を含む)はないか?」だが、残念ながらここだけの様だ…修験関係無しで終了…
いや、待った。
全くないとは言えない。
というのも、最初の写真で解り難いかも知れないが、頂上付近の立てた石に「南無妙法蓮華経」のお題目が彫られている。
新しそうなのでそんなに遡りはしないだろう。
だが、近々でも信仰対象となっていたのは間違い無し。
それもそのハズで、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/15/204214
「津軽,秋田に残る金石造文化財…紀年遺物に刻まれた安東氏の宗教観」…
男鹿の門前、赤神神社や五社堂らそこから寒風山,真山一帯〜北浦に掛けては元々修験の山でかつては安部姓安東(秋田)氏や佐竹氏の庇護の元、参拝らで隆盛していたのは確か。
更に、石を積むと言えば五社堂の鬼が積んだ999段の石段がピタリ、似た伝承もある。
そして、山の神の使いが「ナマハゲ」と言う訳だ。
なんだかんだ、鬼と信仰らを思わせる物はあるものだ。
まずはここまで。
②「鬼の館」とは?
ここ、北上市でのミッションは「鬼」の中から修験と関係ありそうな情報収集。
「鬼の館」とは、
https://www.city.kitakami.iwate.jp/life/soshikikarasagasu/oninoyakata/index.html
北上市和賀町にある「鬼」に関する資料収集と展示をしている地域民俗博物館。
国内,外から収集した「鬼」に関するものが並ぶ。
恐らく何故「鬼」に纏わる物を?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道、日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…
遠野〜住田を回った時にあったのが「鹿踊」の伝書、ここに羽黒修験が伝えたとあった。
ではここは?
展示解説シートより…
[由来]
岩崎鬼剣舞の享保17年(1732)の「剣舞由来録」によると、
(1)大宝年間(701~704)修験山伏の祖・役の行者(おづぬ)が大和国吉野川上流で水垢離をとり、大峰山で苦行し、その満願の夕暮れに踊った念仏踊りに始まり
(2大同年間(806〜810)には出羽国羽黒山で舞われ、その修験山伏によって広められ
(3)康平年間(1058~65)には安倍貞任・正任がこの踊りを好んで領内に勧めたそうです。
その後、
(4)延文5年(1360)には岩崎城主岩崎弥十郎が主君の和質政義を招き、城内で踊らせたところ、政義はおおいに喜び家紋の一つ「笹リンドウ」の使用を許可したといいます。 鬼剣舞は、中世の「念仏踊り」をもととしながら、近世初頭から中期までには現在見るような芸態が出来上がっていったものと思われます。」
これによれば、金峯山(役行者)→出羽三山(羽黒修験)→俘囚長安倍氏→岩崎氏(和賀氏)と伝播したとされる。
当然ながら、江戸期享保年間の伝書なので、何処まで事実関係がトレースされてるか?は史料批判が必要なのだろうが、興味深いのが羽黒修験と俘囚長安倍氏。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134
「和鏡特別ミッションの続報…「国見山廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…
国見山廃寺の発掘結果。
ここは安倍氏との関連が示唆されるが、同時に羽黒山の建物配置と酷似する点や、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836
「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/09/27/205220
「「南無阿弥陀仏」を広めたのは誰か?…墓制拡散の担い手を探る為の備忘録」…
10世紀後半には南無阿弥陀仏が久慈迄到達している可能性がある点。
妙に符号しているとも言えるのでは?
勿論、この伝書が書かれた時代にオリジナルの国見山廃寺はもう無い。
周辺に残る極楽寺らの寺宝や伝承のみだったであろう事は解る。
非常に興味深い。
さて、この和賀町には他にも資料館がある。
古民具の宝庫、「碧祥寺博物館」にも回ってみた。
だが、数ある信仰系の展示があるが、螺旋状,コイル状のものは見つけられず。
取り敢えず詳細は割愛する。
③「一方井家所蔵自光坊修験関係資料」とは?
盛岡市「自光坊」の一方井家に伝わる古文書で、盛岡市指定文化財となり「もりおか歴史文化館」に保存された。
この文書と関連伝承品を確認する…これがミッション。
「修験道とは、日本古来の自然崇拝・山岳信仰を基盤にして、外来の仏教や陰陽道、道教の教義儀礼とが融合することによって形成され、平安期後期にまとまった宗教形態を取るようになったものである。山岳で修行によって、超自然的な力(験力)を獲得し、その力を用いて、予言・託宣、除災招福、吉凶占い、滅罪、祓いなどを行う実践的な宗教が、修験道である。
中世末から近世初期にかけて、修験者は山岳から、 村々や町に定着し、「霞」あるいは「檀那場」と呼ばれる縄張りを持つようになった。村里に住みついた修験者「里修験・里山伏」は、村々の社堂の別当となり、祈祷を行い、守札を配り、まじないをするなど、 庶民の日常生活に最も身近な宗教者であった。
このころの修験道は、京都の聖護院を本山とする本山派(筆者註:比叡山系)と、醍醐寺三宝院を本山とする当山派(高野山系)との、大勢力に分かれていた(ただし、南部領内においては、当山派の勢力は微少であった)。また、出羽国羽黒山寂光寺を本山とする羽黒派は、盛岡藩内においては本山派に次ぐ勢力を持っていた。
江戸期の南部領には、およそ一千人を超える修験者がいた。江戸期の修験の有力な信徒は、一般民衆であ り、寺院が少ない盛岡藩にあっては、修験者の宗教世界において果たす役割は、大なるものがあった。
江戸中期の南部領内十郡の社堂は、およそ二七一四であり、そのうち寺院持ち社堂は、三三七であり、社人持ち社堂は四十、修験持ち社堂は六九二であった。
そして、俗別当持ちが一二四三、と数の上で他者を圧倒していた。この俗別当の多くは、修験者の流れを汲み、村の御堂の堂守となっていた(『御領分社堂』)。このような在地世界で活躍する数多の修験者の頂点に、盛岡藩筆頭修験自光坊が君臨していた。」
「自光坊の歴史 −一方井家所蔵自光坊修験関係資料と自光坊−」 誉田慶信 盛岡市教育委員会 令和2.3.31 より引用…
この様な概要。
結果を先に書けば「もりおか歴史文化館」の特性上、盛岡(三戸)南部氏に割と特化した展示内容で、宗教系の展示は薄い。
盛岡県立博物館には古代〜中世〜近世の伝世品も展示はしているから本文書レプリカ等は無く、探す装備品らは見つけられず。
上記冊子が成果となった。
一方井氏は一戸に土着した武士の一族で、「米良文書」の記録では南北朝位に糠部九戸の旦那と共に熊野詣をしたとされる。
この一方井氏が戦国期位に自光坊を起こし、現岩手町一方井村を拠点に活動していた様だ。
どうやら盛岡南部氏初代南部信直母がこの一方井氏の出身で、誕生時の加持を執り行い、成長過程では手習い読書の師だった様だ。
寺領200石、比叡山系の京都聖護院本山の本山派の末寺として紫波郡,田名部,鹿角の年行事を仕切っていた。
又、江戸前期では、藩主の代わりに岩鷲山大権現(本地仏は阿弥陀,薬師如来と観音菩薩)参拝を盛岡城下の羽黒修験他の修験寺院を率いて執り行っていたと記される様だ。
因みに、岩鷲山→巌鷲山→岩手山の事で、自光坊の山号が岩鷲山。
そんな関係から自光坊は岩鷲山大権現の別当を主張していた。
本文書では、盛岡藩から自光坊と共に別当を仰せつかったとする羽黒修験の大勝寺との間で別当や霞の取り合いで揉めていた模様。
この辺は、修験特有と言うか、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/153312
「同じ「出羽国」でも、鳥海山の裏側はどうだったのか?…「立川町史」に「庄内地方」の歴史を学ぶ」…
出羽国一之宮「大物忌神社」も吹浦,蕨岡らで山頂本宮がどちらが仕切るか?で揉めたり、出羽三山主峰の月山が地方公共団体の区割り上どの市町村に属するか?らで揉めると言う事は聞いている。
修験の場合、山そのものが御神体となるので本宮が何処に属するかが問題になる模様。
因みに出羽三山の月山は立谷沢川が流れる庄内町(旧立川町)になり、羽黒山が鶴岡市羽黒町になるそうだ。
岩手山も本山派と羽黒修験が争ったと。
江戸中期になると藩主代参が縮小していき、岩手山信仰の中心となる中宮は羽黒修験の大勝寺が勤め、自光坊側は譲歩して主には羽黒修験が仕切る事になっていた様だ。
自光坊は江戸前期では、岩手山以外に大峯,熊野,伊勢,富士,愛宕,八幡らの代参も勤めていたそうなので、譲歩しても権威が落ちる訳ではないのだろう。
何故、こんな争いになるか?
各寺院の収入の一つは里宮で徴収する「山役銭」だからか?。
いずれにしても南部藩の修験を二分した本山派と羽黒修験はそれぞれ自光坊,大勝寺を頂点としていたが、1689年には南部藩の意向でそれら以外も含めた修験を統括する「修験惣録」が置かれ、これに自光坊が就いた。
実は、筆者は糠部方面の修験の霞争いの話は某資料館で伺っていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/16/211012
「「牧」を示す「黒ぼく土」…「尾駮の牧」研究から中世北海道に馬がいたか?の検証の為の備忘録」…
文書的な精度上の疑問はあるが、室町期位には既に霞争いがあった記述はあるそうだ。
実際には南部藩のみならず幕府寺社奉行へも訴えを起こし、裁定により霞が奪われるケースもあった模様。
ここで南部藩は3年に渡る「山伏改」を行い、宗派帰属や俗人で事実上修験や巫女になっている者の整理らを進めたり細かいルール設定,どちらが何を担当するからを取り決め裁定し、宗派対立を沈静化させるに至り、その後も何度か山伏改の様な調査を実施している。
引用文の通り、南部藩に於いての宗派勢力図上は修験系が純粋な寺院,神社を凌駕しており、キリシタン宗門改へも波及しかねない宗派対立は放置出来ないであろう。
次も付記しよう。
「最後に、自光坊の広範な文化活動について付言しておく。修験者は、山岳の窟に籠もっての修行や密教的奥義の教学の世界だけにあらず、出産、医学、文芸、算術・本草学・芸能など、庶民の生活文化と深く関わっていた。そのため、誠に豊富な文芸・実学関係の史料・典籍を自光坊は集積し、所蔵していた。例えば「麻疹禁忌」には、麻疹の治療法や食べて良いものな どを記しており、本草学と医術をミックスした医書であった。「出産の日を知る法」は、修験者が出産に関わっていたことを示す。中世社会では、巫女や修験者が出産の場に立ち会っていたが、同じようなことは近世においても続いていたのである。」
「自光坊の歴史 −一方井家所蔵自光坊修験関係資料と自光坊−」 誉田慶信 盛岡市教育委員会 令和2.3.31 より引用…
単に護国や集団の安寧を祈祷するだけではなく、檀家の生活や文化,行事に密着していたのだろう。
「自光坊修験関係資料」には和歌集等も含まれているそうだ。
我々は以前から「宗教家は文化,技術の伝播者」と言う視点で製鉄や鍛冶等にも着目しているが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/04/195612
「東北で「鍛冶」が始まったのは?…最新刊でアップデート」…
それに留まらず、病気や出産,薬学、読み書きや和歌,芸能、算術に至る民俗,教養にも関与していた様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/25/082630
「㊗500項は、After GEWAの「秋田城介」…「三春町史」にある「安東(秋田)実季」のその後」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/14/194659
「対岸の状況はどうだったのか-3、あとがきの後日談…「姓氏家辞典」にある安藤氏、そして「修験道、日蓮宗、九曜紋」と言うキーワード」…
安倍姓、又は安倍姓安東氏が海や湊周りに点在し、且つ先達らに名を連ねるのも、秋田(安東)実季が薬学や和歌や書ら文化に精通していた事も案外フロックでは無さそうだ。
さて、如何であろうか?
残念ながら、修験の装備らとの関わりや螺旋状,ティアドロップ型の関与には近づく事は出来ては居ないが、南部藩の実情や修験者,山伏,巫女らが単なる宗教家ではなく、もっと生活に密着し文化,技術の伝播者であろう断片は見えるのではないであろうか?
列島内に点在する「御幣信仰」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
「秋田県史にある「柳田国男博士が記す御幣への信仰」…「イナウ」同様の物は日本中ある」…
そして、奈良,平安(擦文文化)期での祭祀具…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…
更には錫杖や六器?(佐波理の銅椀)ら…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…
火の儀式への関与性や和鏡やその広がり…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702
「羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/05/18/223836
「「九曜紋」と「南無阿弥陀仏」…二戸と久慈訪問での備忘録二題」…
南無阿弥陀仏や墓制を拡散したと思われる集団は?…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/09/27/205220
「「南無阿弥陀仏」を広めたのは誰か?…墓制拡散の担い手を探る為の備忘録」…
そして、信仰と言うなれば墓制の実態は?…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…
北海道と糠部の共通項や特異点たる「方形配石火葬施設」らを考慮すれば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720
「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…
その関連性は無視出来ないのでは?
少なくとも、そんな事も想定しながら確認する必要はあるかと思うが。
何故、北海道が孤立しているものと考えるのか?が、敢えて接続してみると疑問でしかない。
まぁ、我々は我々のスタンスで学ぶのみ…
参考文献: