https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/30/204530
では、続きをいってみよう。
今回は「オニキシベ2遺跡」。
前項の「上幌内モイ遺跡」の南西側にほぼ隣接する。
これがSNSで、北海道では数少ない「中世遺跡」があると教えて戴いた遺跡。
詳細が解らなかったが本命とも言えるもの。
先の史料同様、入手に当たっては旭川市「旭文堂書店」様にご配慮戴いたものだと改めて報告する。
感謝しかない。
ありがとうございます。
改めて基本層序…
0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…
この辺は、周辺とほぼ共通である。
遺構から…
・アイノ文化期…
平地式住居跡…1、土壙墓…4、集中区…2等で、平地住居には地炉跡と思われる焼土跡が3箇所付属する。
結論から言うと、この焼土跡(Ⅲb中位)の中のクルミ(2個)のC14炭素年代は1270、又は1280~1400年(2σ)である。
前項ではⅢb層上位が1400年前後、Ⅲb層下位が1200年前後なので矛盾はしてはない。
主な遺物は叩き石、小刀、鉄斧、棒状鉄片(H型に潰れた形跡ある角柱)等。
また、土壙墓からは、
1号墓…
小刀,短刀、鉄斧、鉤状製品、針、ニンカリ、腕輪、ガラス玉、白色金属円盤、古銭、木棺片、そして漆皿の塗膜片等。
1号墓には南東方向に墓碑跡と思われる土坑がある。
ガラス玉らはタマサイとして組み上がっていた事も考えられる。
人骨は無し。
特筆すべきは漆皿には「上下向かい鶴紋」と思われるスタンプ紋が残り、これが鎌倉~南北朝頃流通とされ、鎌倉市佐助ヶ谷遺跡に類例があるそうで。
この塗膜片のC14炭素年代は1258~1305年(2σ)。
また古銭の最も新しいものは景定元寶で1260年初鋳。
近世アイノ文化期の土坑墓に近い様相。
2号墓…
根穴撹乱あるが、男女不明の熟年、華奢な人骨を伴う。
墓碑跡と思われる土坑あり。
副葬は刀二振り等。
3号墓…
壮年男性と思われる人骨を伴う。
墓碑と思われる土坑あり。
副葬は装身具を伴う刀,小刀,刀子ら八振り、内耳鉄鍋、矢筒の残欠等。
この矢筒には九曜紋状に配置された銀主体の装飾がある。
又、内耳鉄鍋の形状傾向から13世紀後半頃を想定している。
4号墓…
熟年女性と思われる人骨を伴う。
副葬は小刀等三振り、針、古銭破片、黒曜石転礫等。
主体部の先が崩落し、墓碑跡らは不明。
これが中で最も新しいとしている。
黒曜石転礫は近辺の続縄文の遺構遺物が混じった可能性もあり。
と、言った感じで、C14炭素年代、内耳鉄鍋の傾向、古銭の最新初鋳らから与えられる遺構の構築年代は、概ね13世紀後半位ではないかと推定される。
と、すれば前項の中世年代の中間で大体、南北朝期位の遺構となり、アイノ文化期の始まりに近付いた事に…これは目出度い!
道南や余市の他に、北海道の失われた中世を示す遺跡に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
いや、ちょっと待った。
極単純な物理的疑問がある。
上記の様に1号墓は木棺に葬られたとされる。
これを前提に各墓の主体部の寸法を長軸×幅×深さ(cm)で示す。
1号墓…228×98×16
2号墓…204×90×40
3号墓…288×120×30
4号墓…202×70×38
この深さで「木棺に入れ」、棺上に「副葬をのせ」、埋葬可能なのか?
因みに参考…
手元の物で…
近世アイノ文化期の墓として有名な二風谷のユオイ・ポロモイ・二風谷遺跡の土坑墓で木棺無しで三層上面から37~50cm。
江別,恵庭古墳群でも概ね50~60cmは掘り込む。これも木棺無し。
さすがに1号墓の深さ16cmで埋葬出来るのか?
2~4号墓の傾向から考えても最低14cmほど浅いのも引っ掛かる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/13/213724
時代は下り、近世アイノの酋長は古い甲冑,挂甲,刀剣を所持、副葬されたのは知られた話。
勿論、1号墓に14cm足せば、墓の掘り込みはⅢ層の上迄達する。
実は「1号墓は近世に掘り込まれ、古い物を副葬した」…これを完全に否定可能だろうか?
難しいのではないだろうか?
物凄く単純な疑問。
何せ、この1号墓が最もアイノ文化的様相を保つ。
年代特定は慎重に行うべきではないだろうか?
だが、その疑問を残したとしても、南北朝期前後のC14炭素年代は勿論有効であり、例えば平地式住居の使用年代とは合致するであろうから、十分中世遺構だと言う事に疑義はないし、かなり貴重な遺跡であろう事は間違いないと考える。
ただ、村落を示せそうな様相はない。
・擦文文化期…
ここでは、竈を伴う竪穴住居が検出される。
実は、9世紀位の擦文の「竈付き竪穴住居」は、この2010年の発掘で厚真町としては初見なのだそうだ。
まだここでは、擦文の住居群は発見されてはいない事になる。
少々驚きだ。
この段階では、村落と言うより、キャンプ的要素が強いと言える。
細かいところはここでは割愛するが、厚真周辺では遺跡数が、縄文で増加→縄文後期で減少→続縄文で増加→擦文に入り減少→擦文中期以降で増加とある。
盛んに東北、特に秋田城と交流した時期に、この周辺は海岸線を除き人口が薄かった事になるか。
とりあえずここまでにして、折角中世遺構と言える物があるのだから、中世に特化して少々時代背景を重ねてみよう。
土坑墓の掘り方には疑義を持てど、焼土らから得られたデータがある。
本遺跡に於いてそれは概ね14世紀後半位としている。
なら、そこから今迄学んだ事で、北海道や北東北に関連するワードはあるだろうか?…ある。
①
新北海道史において、空白の中世を唯一繋ぐとしていた「諏訪大明神画詞」の成立は1356年とされる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
蝦夷管領「安東氏」への記載はあるが、道東側の記事は無かった様な…
記載内容はさておいて、少なくとも、北海道の情報を伝播されるルートとして、道南、余市、そしてこの厚真周辺と、細いなりに幾つかありそうだと言うことは間違いなさそうだ。
自然科学的分析では、刀剣ら鉄器のXRFデータ上、地金の供給先…つまり元になる砂鉄又は鉄鉱石の産地や精錬場所が日本列島中なのは間違いないが、擦文期とこの時期では異なると言う。
平安の津軽や秋田から、違う場所になっていると言う事の様だ。
そうなると、自ずと太平洋ルートの可能性が出てくるのではないか?
②
これを…
「建武二年(一三三五)二月三十日、北畠顯家は野辺地を伊達宗政に与え、その執行を師行に命じた。資料は残されていないが、師行は宗政に対して、野辺地の領地を受け取るならば代官を派遣するように要請したはずである。結果、宗政は領地を受け取り、代官を派遣することを決め、師行に伝えた。師行は、三月二十四日にその旨を国府に報告している。」
「南部師行-陸奥将軍府で重用された八戸家当主-」 滝尻侑貴 『南北朝武将列伝 南朝編』 亀田敏和/生駒孝臣 戎光祥出版(株) 2021.3.18 より引用…
年代的に、南北朝。
丁度、北畠顕家が陸奥将軍府で采配を取った時期と合致する。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
北畠顕家とは、こんな人物。
陸奥下向の目的の一つは北方の資源(富)を南朝方で確保する事もあるとの指摘がある。
で…
伊達氏の野辺地受領…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428
北海道対岸の野辺地の古代~中世…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
野辺地受領は1335年、14世紀中頃。
つまり、この時代の北海道の情報を諏訪大社に伝える事が出来たのは、何も蝦夷管領安東氏だけではないと言えるのではないか?
それはなにもここだけに非ず。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/15/174010
それは後に食器にも表れる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710
で、この後頃に安東vs南部や蝦夷動乱期へ至る。
③
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
南部氏の中の「三戸南部氏」の居城である「聖寿寺館」の築城が1300年代中庸とあるので14世紀中頃と合致する。
この「三戸南部氏」が南北朝期途中で北朝方に寝返り、元々の主家系統である「根城(八戸)南部氏」や最後まで抵抗した「七戸南部氏」の降伏後の処遇らで調整役として動いたとか…
「聖寿寺館」こそ、後の時代の工房跡で骨角器の中柄やシロシ?とも見える陶器らが出土している場所。それに先駆け、築城の時期が合致している様だ。
聖寿寺館では、鍛冶工房らから金銀銅らを精錬した坩堝らも出土している。
ここで、どうも根城,三戸南部氏の藤崎,十三湊侵攻や出羽への進出は、応永年間辺りには開始されている様だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/23/201045
上記①~③と厚真周辺の状況が今のところ直結する古文には行き当たってはいないが、対岸の北東北では、中央史に直結した南北朝の戦いに連動して諸将が動いていた。
当然、北海道と直接交渉を持つ土豪や民間商人らもそれに巻き込まれている。
何の影響も受けないとは考えられない。
しかも、北海道で出土している中世を示す遺物に武具が含まれるのも確かな話だ。
日本海ルート、太平洋ルート、それぞれを確保しようとしたのだから、それ相応に動いていたであろう事は想像せねばなるまい。
さて、どうだろう?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/29/165629
「厚幌1遺跡」の確認から始めた厚真町の発掘調査結果シリーズも断片的にはここまで揃ってきた。
村落までは辿り着かないが、ポツポツ中世の片鱗は検出する様だ。
実は、本書まとめの章では、各土坑墓はその方向から、北に位置する「ヲチャラセナイチャシ」の方角を向くとされる。
この周辺の検討のトリは、そのチャシ周辺遺跡にしようと思う。
参考文献:
「厚真町 オニキシベ2遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書4-」 厚真町教育委員会 平成23.3.30
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61.3.26
考古学雑誌第二十四巻第二号 「北海道の古墳様墳墓に就て」 河野廣道 日本考古学会
昭和9.2.5
「南部師行-陸奥将軍府で重用された八戸家当主-」 滝尻侑貴 『南北朝武将列伝 南朝編』 亀田敏和/生駒孝臣 戎光祥出版(株) 2021.3.18