生きてきた証、続報37..そもそも「かまど」とはなんぞや?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/24/203100
ここら辺で、原点回帰してみよう。
筆者のミッションには、中世「竈」探しがある。
スタートは、生活習慣を追い始めた時に、余市「大川遺跡」で近世だが「置き竈(むしろ七厘やコンロか)」の出土事例を見つけた事。
古代竪穴住居(奈良,平安・擦文)では、竈と地炉(囲炉裏)の併用迄至っていた。
それが北海道の近世掘立では囲炉裏のみ…
調理し難いと言う極めて主婦感覚から、東北の事例を当たれと言う事になった。
本州勢は、そんなもん「土間に竈、台所に囲炉裏」と言い切ったが、実は蓋を開けたら「東北で竪穴→掘立化の過程で竈の痕跡は一切消える」と言う考古学的事実に至った。
つまり、中世にどうやって米を炊き、どうやって餅米や酒米を蒸したのか立証出来ていないのだ。
ここは米王国東北の名に掛けて、クリアすべきミッション化して「しまった」と。
勿論、直接専門家にも尋ねたが、考古学的物証は一切無い。
物証的には、秋田の事例で貝焼き鍋用小型コンロ「貝風呂(キャフロ)」、北秋田浦田の「浦田七厘」、大館十二所の「へっつい」ら、それと同時に県内各所で石の竈が作られた事までは追えたが、これがどの時代まで遡れるのか?が解らない。
技術的傾向では、石工の痕跡は南北朝位、屋外の(産業用と考えられる)「カマド状遺構」は検出があり、饅頭型の土の竈だろうが、石竈だろうが、素焼き土竈だろうが製作可能だと言う背景には辿り着きかけている。
これが一連の「生きてきた証」シリーズの概要。

と言う訳で、新たな証拠探しも含め、そもそも「かまどってなんなの?」へ戻ってみよう。
技術論から言えば、断熱性の高い石や土で囲い込み放熱を防ぎつつ、下部で火を燃やし、熱を上部の鍋や土器に集中させて高火力を生み出す火器…と言えるか。
放熱が上部に集中するので、小型に出来るし、基本的な発想は製鉄炉や須恵器(陶磁器)窯と同系譜なのだろう。
では、引用…

「では、カマドはいつごろ、どのようにして誕生したのだろうか。一説なよると、五世紀(古墳時代中期)に朝鮮半島からやってきた渡来人が伝えたのではないかといわれている。渡来人はほかにも「韓竈」と呼ばれる移動式のカマドを日本にもたらした。」

「しかし、一方では、朝鮮半島から伝来する以前に日本でもカマドがつくられていたとする説がある。~中略~カマドがつくられる以前には、竪穴住居の土間に設けられた屋内炉で煮炊きをしていた時代があった。朝鮮半島からカマドが伝来するのは、五世紀ごろで、それ以前の弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、日本でもカマドの原形らしきものが屋内炉のなかにつくられるようになり、それが発展してカマドになったのだという。竪穴住居のなかにつくられた屋内炉からカマドが分化したとする説である。だが、国内で発生したと思われるカマドのほとんどは未完成の状態で出土する。そのことから、カマドの完成にはやはり外来のカマドの影響が大きかったと考えるのが今日ではほぼ定説になっている。」

「もとの人間の文化史117・かまど」 狩野敏次 (財)法政大学出版 2004.1.15 より引用…

割と「渡来人による」が巷で信じられている話だが、考古学がそれをアップデートしてきて「和製カマドの萌芽+外来技術のトドメ=カマド誕生」と言う。
この和製カマドのプロセスは、

①地炉へ支脚を置く
石や土製支脚を三点置き、土器の底を地面から浮かせる
②放熱の防御
土製支脚らの周囲に土で壁を作り、放熱を防ぎ出す。更には地炉の周囲に馬蹄型に土を盛り、炉全体を覆いだす。
これらの装備をつけた炉を「類カマド」と呼ぶ。
※前者:千葉県高野台遺跡,埼玉県大山遺跡等
後者:群馬県歌舞伎遺跡等
③位置の移動
地炉はほぼ竪穴住居の中央に置かれるが、それが壁際へ移動し始める
大阪府観音寺山遺跡等
④天井部分の構築
粘土で天井を付け始めた可能性が不明瞭ながら出始める
宮城県宮前遺跡
⑤煙道の設置

ここで、カマドがほぼ完成。
①~③迄はほぼ五世紀より前。
④以降が五世紀前後で、須恵器窯が既に成立し始め、煙道はその影響も示唆されているとの事。
煙道は、燃料と共に火力調整にも使われたと考えられ、①~④までは完成品での検出は難しい様だが、⑤以降は完成品として検出されるケースが多くなるとの事。
④では場所により、壁から離れたりする物もあり、紆余曲折しているのかも知れない。
⑤前後で福岡周辺では、陶質土器や初期須恵器がカマド周囲から出土、朝鮮半島三国時代で作り付けのカマドが検出されており、その後、古墳時代中~後期(4~5世紀)位から竪穴住居のカマド保有率が跳ね上がり、それが須恵器の伝来とほぼ重なる為、カマド完成の最後のピースとして渡来人の影響はまず間違い無さそうである。
同書での推定は、元々竈は2系統。
類カマドから発達した和製カマドと完成し持ち込まれた外来カマドがあり、より完成度の高い外来系に和製カマドが吸収融合されて行ったと考えている模様。
これが、作り付けの竪穴住居の竈完成プロセス。

それとは別に、陶性土器で作られた移動式竈「韓竈」が伝来。
これは出土状況らから、ほぼ祭祀用として使用され、一般調理用として作り付けの竈、ハレの日用として移動式が使われたと言う訳だ。
この違いは何故起きるのか?
米の調理法として、
①煮る
これを「粥」と言い一般的に食べた
②蒸す
これを「強飯」と言いハレの日に食べた
竈は単なる調理道具だけの意味合いではなく、祭祀具としての用途はあった。
事実「延喜式」には韓竈を使った祭祀の記載があり、造酒式では「新嘗祭」で韓竈2基で白酒,黒酒を醸造する規定があるとの事。又、ミニチュアのカマド型土器が奉納されたりしている様だ。
これは更に古代からの火への信仰が関与するので、また別の機会に。
煮て「粥」として食べられたと考えられる根拠は、実は「おこげ」。
甕型土器の底に「炭化米」が付着する事がある。これが粥を煮て付着したとされている。
秋田城でも酒の醸造は行われており、以前報告した様に「大工への支払いを酒で行う」木簡が出土している。
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秋田城跡歴史資料館の展示パネルより。
だが、通常は酒の醸造時の酒粕を湯で溶いて「粕湯酒」として飲み我慢していた様だ。
但し、同資料館へ確認した限りでは、秋田城跡では甑の出土はあるが、現在まで韓竈は検出は無し。作り付け竈が濃厚となる。
ここまでが古代。

中世では?
ここからが東北での出土例が途絶える。
但し、東北では竪穴住居が部分的には江戸初期迄使われたのは概報。
問題は町屋や掘立住居の場合。
では、本州での別の地域では?
さしもの本州でもさすがに現存は難しい。
だが…
①平安末
信貴山縁起」
②鎌倉期
春日権現験記絵」
③十五世紀
「福富草紙」
これらでは土間に設置土饅頭型土竈が描かれており、竪穴→掘立化でも土間上にそのまま竈が浮上した事が解っている。
但し、②は少々小振りで煮炊き用が示唆されるが、①(別棟の釜屋),③(土間)は大型の物でこちらは祭祀用等が考えられる。
何せ描かれている段階で煙が無い上に、土間(地炉)又は床上(囲炉裏)で煮炊きしている様が書かれているのだ。
つまり、祭祀用が韓竈→大型土竈へ変遷したと推測されている。
祭祀も一般に広がる過程で、規模が膨らみ小型の韓竈では蒸す量が間に合わなくなったのか?
ここで、移動式竈は祭祀用としての役目を終える。
又、地炉では五徳らが登場し、移動式地炉が何処でも使える様にもなってくる。
ここで、大型竈(祭祀用)と地炉(囲炉裏)の併用となる。
東北では痕跡すら無いが、畿内や関東ではこの様なスタイルで調理が行われたと考えられる。

では、移動式竈はどうなるのか?
ここでそれを証明する出土遺物の登場となる。
草戸千軒遺跡の大量の移動式竈や一乗谷遺跡の移動式竈。
そして…

神崎宣武氏によると、草戸千軒町で使われていたような移動式カマドの形式は、近年までもちいる船竈によく伝わっており、また漁村の民家、たとえば志摩半島の民家などには台所の板の間に火床をつくり、そのような移動式カマドが置かれている実例が残っているという。韓竈にはじまる移動式カマドの伝統がつい最近までこうしたかたちで残されてきたのは興味深い。「洛中洛外図屏風」には、草戸千軒町野茂のとは違うタイブの移動式カマドが描かれている。寺社の門前にカマドを置いただけの臨時の店が出ていて、カマドには蓋をした鍋がかけられている。立食いの一膳飯を食わせる店のようで、客の男が立ったまま飯をかき込んでいる。カマドは移動式だが、草戸千軒町のものとは違って筒状ではなく、むしろ土間に築いた土カマドにかたちが似ている。土饅頭型の土カマドをそのまま移動式にしたようなかたちで、大きさも同じくらいである。大量の飯を煮るにはこの程度の大きさは必要なのだろう。」

「もとの人間の文化史117・かまど」 狩野敏次 (財)法政大学出版 2004.1.15 より引用…

移動式カマドは、祭祀具としての役目を終えた後、生活具,調理道具として変遷の道を辿る。
ここで筆者はほくそ笑んでしまった。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/20/192432
やはり最大の需要層は船乗りだろう。
そして、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/06/201505
十三湊も秋田湊も畿内とは日本海ルートで直結されていて、それを統べたのは安東氏。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
それら船竈らの名残が貝焼きに必須な貝風呂(キャフロ)に変容し、秋田に大量に残ったり出土する…これでどうだろう?
秋田から安東(秋田)氏が離れ宍戸へ移封された段階で造船需要は落ち込む…これが変容の要因とは考えられないであろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
大型船造船ドックの存在は、南部信直公が教えてくれた。
この場合、ドック所在地は秋田湊又は檜山であろう。 https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121
何せ、秋田の風土には適合しないハズの瓦であるが、瓦職人が居た痕跡は算用状に残されている。
大型の物は、土竈の他にへっついとして伝承された…
ここまでで概ね戦国期位迄なら、説明可能。
洲崎遺跡が、草戸千軒遺跡や一乗谷遺跡と決定的に違う点は何か?
草戸千軒遺跡は災害により、一乗谷遺跡は戦乱によりそれぞれ突然廃絶の運命を辿る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026
しかし、洲崎遺跡は何らか自主的移住により廃絶される。生活痕があれだけ残ろうとそれは一部に過ぎない。
時期不明のたった1つの貝風呂(キャフロ)ではあるが、可能性は「0」では無い。
これで、秋田県下に異常な程貝風呂が存在する理由ごと説明可能となる。
ロジックとしては成り立つ。


さて、竈とはなんぞや?
ここをもう少し掘り下げていこう。








参考文献:

「もとの人間の文化史117・かまど」 狩野敏次 (財)法政大学出版 2004.1.15
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