生きてきた証、続報40…米の炊き方,土器変容,竈の地域性らから見た中世の竈の存在の可能性

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/06/202938

さて、「中世、竈はあるか?」…このテーマも40項。

最近の研究知見を混ぜていこう。

まず、きっかけはこちら。

https://www.pref.tottori.lg.jp/263233.htm

鳥取県のHPより「謎のかまど~「湖山池南岸型」移動式かまどを考える~」。

一部地域で土質の移動式竈が集中的に出土したと言うもの。

ここにある、湖山池南岸型や東日本にある2個口の竈は北海道~東北ではあまり見ないと思う。

勿論、そのものも後で取り上げるが、まずはその前に、前提となる最近の研究について書こうとおもう。

ぶっちゃけ、HPで引用された文献の幾つかを取り寄せてみたが、石川県らの研究で、米の炊き方の再現や変遷、伴う土器変遷らが少しずつ解明されてきた様だ。

その辺、二題を紹介する。

関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/12/185112

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/17/190904

当然ながら、「竈とはなんぞや」「竈と釜、囲炉裏と鍋の関係」である。

 

①米の炊き方の変化

木立雅朗氏、小林正史/外山政子氏らによる検討である。

その昔、米をどうやって調理したか?知っているであろうか?

ここがスタートライン。

 

弥生,古墳期…

・湯取り法による。

米を大量の水で「茹でる又は煮る」

→余ったお湯(煮汁)を捨てる

→土器をオキ火の灰の上に転がし、予熱による側面加熱で蒸らす

※この辺は土器に残るススコゲや炭化米による解析で概ね解ってきた様だ。

又、小型土器にはオコゲが付着した物があり、お粥の様なものは作られていた様だ。

 

古墳期~奈良,平安期…

・米蒸し調理による。

米を甑で「蒸す」

→余りのお湯が出るハズ無し

※ここで竈+釜+甑のセットが出現する。

 

平安中期…

・炊き干し法による。

米を適量の水で「炊く」

→余りのお湯は無し

※平安中期~現代に至る、我々がやる「炊飯法」が確立される。

と、変遷する。

古書上、炊き上がったご飯は、

強飯…

「蒸した」ご飯の事

固粥…

「炊いた」ご飯の事

姫粥…

所謂「お粥」の事

こう識別された様だ。

つまり、上記に当て嵌めると、

固粥→強飯→固粥と変遷した事になる。

それは何故か?

木立氏によれば、その辺が土器変遷らで解るという。

A.固粥→強飯

これは、竈の拡散と直結する。

古墳中期以降、長胴土器が朝鮮半島から入る。

これが「釜」である。

竈にかけて、上の口と支脚で受ける訳だ。

釜の上に土師質又は後に植物性の甑(セイロ)を掛けて蒸した。

こうみると、渡来人の影響はあるのかも知れない。

B.強飯→固粥

平安京の遺跡では、奈良期迄主流を締めた長胴土器の釜が出土しなくなると言う。

代わりに出現するのが球状土器。

土器の使用痕を見ると、球状土器の内面のオコゲに「粒状剥落」が見えてくる。松島真弓氏の土器による炊き干し法の再現試験での「粒状剥落」と酷似し、概ねこの土器の使い方により強飯→固粥化が起こると推定されるそうだ。

また、平安京では鉄器の煮炊き具化も同時に進行していき、11~12世紀では土師質煮炊き具が一時著しく衰退する(12世紀に一時復活は武士や中下層民衆流入による)。

ここで、火処は何を使ったのか?

大阪府余部遺跡の羽釜状土器。

鍔の下には比熱痕やススの付着があるが、鍔より上には殆ど無い。

これは中世の京や草戸千軒町遺跡との共通性で、囲炉裏ではなく竈を使っていた証左であろう。

つまり、竈+球状土器、後に鉄鍋と変遷したと推定される。

 

②竈の地方差と米の品種交代

ここからは小林/外山氏が福井県考古学会会誌で纏めている。

竪穴→平地住居の変遷は、西日本が東日本より早く、備え付け竈も煙道付き→煙道無しと変遷する。

ここで問題になるのが米の品種。

弥生期以降の熱帯ジャポニカ米は粘り気が弱く、長時間加熱を必要とする。

中世以降は粘り気が強い温帯ジャポニカ米へ変遷し、比較的短時間加熱で炊き上げる事が出来るようだ。

全国から租税徴収された米は、その過渡期では混ざる事が予想される。

これを往古からの固粥の炊飯方法で炊こうとすると?

上手く炊き上げるのはムリなのだ。

水の量も茹で時間,蒸らし時間らが都度バラバラでは調理出来ない。

これを強飯の炊飯方法なら?炊飯可能。

 

又、粘り気がある温帯ジャポニカ米では、短時間加熱可能な事を利用し、竈の高火力と相まって茹で汁を捨てる事なく炊き干し法で炊き上げる事を可能とした訳だ。

同時にこれは、土器との相性を悪くする。

内面にオコゲらが付着してしまい、米をよそう時に土器迄剥離しかねない上に、強加熱の為に土器の底が保たない。

よって鉄器の鉄釜,鉄鍋が必要となった…こう推定する。

米の品種交代は、プラントオパール分析でも裏付ける事が出来る様だ。

土器痕跡や米の品種らの視点から見た米の炊き方らの変遷はこう結論を述べる。

平安中期~中世で、我々が食するご飯の完成である。

以上がざっと論文を要約した内容。

この内容からすれば、従来言われている「西日本→竈、東日本→囲炉裏」という解釈に一石を投じる事になる。

土器のススコゲ跡らのデータ収集には東日本の土器も含むからだ。

また群馬の「」らでは、「竪穴住居+煙道付き竈」と「平地住居+煙道無し竈」が並立して検出される事例を紹介、同時に中世描かれた絵図には囲炉裏で調理しつつ、戸外らに大型の竈を備えた竈屋が描かれる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/13/053204

これら鑑みて、これら研究からの結果では、検出は少ないが「温帯ジャポニカ米+竈+炊き干し法」確立以降は同様の炊飯を東西に関わらずやっていたであろうと考えている様だ。

つまり、中世には全国的に竈は使われていた…以上!

…で、終わったら、北海道~東北は?となる。

 

少し考察してみよう。

・東北

→中世竈は検出されていない

・北海道

→中世竈の検出は無く、アイノ文化では竈は使用は無い

これが通説。

だからこそ、我々は竈を探すに至った訳だ。

さて、構築技術面の視点から。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/04/155803

秋田での事例を見れば、構築技術は失われず、むしろ「かまど様遺構」として産業用で利用された形跡はある。

まして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/18/110138

家庭内手工業の延長として、近世迄には「浦田七輪」「大館へっつい」「貝風呂(キャフロ)」らは商業ベースで流通している。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/16/123121

そうでなければ、秋田にある「貝焼き文化」と成人儀式には至らない。

この「かまど様遺構」は青森も同様。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/05/204149

ついでに、石を積み上げた竈まである。

土間の土竈が検出していない「だけ」で、文化的ロストがあった訳ではない。

屋外の竈屋については、唐松神社では味噌用の大型竈が竈屋にしつけられ、湯立神楽らで使用した事は聞き取り済。

実は古くからの農家には竈屋があり、日常の屋内竈とは別に味噌作りら産業用的に使用されていた。

この辺までは、今回取り上げた論文と符号していたりする。

なら、何故検出しないのか?

これはある程度簡単。

何せ竪穴の備え付け竈はほぼ百%「廃絶儀礼」が行われ、原型を留めていたものはほぼ無い。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/194307

近世の石の火処もバラバラにされ、池に沈め魔除けの桃?を…これも廃絶儀礼とすれば、こと火処の管理に関して我々のご先祖達は、かなり厳格且つ宗教的に扱っていた事が容易に予想出来る。

故に廃絶儀礼を行い痕跡を消し竈神を鎮めてから、新規構築や家の建て替えを行ったのであろう。

では、米…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/20/203914

陸奥と出羽は延喜式の時代から米の大産地。

当然北限なので、寒冷地にも適応した温帯ジャポニカ米となるであろう。

一度、弥生期に拡大した稲作は古墳期に縮小し、朝廷の古代城柵北上と共に再度拡大していく。

ここで、東北の穀倉地帯の完成である。

古代→中世の温帯ジャポニカ米への変遷は、こんな稲作の再北上で起こっていく…と、言うのはどうだろう?

当然、この「北の米」は都を含めた畿内域や北海道へ供給される。

西日本より寒冷地な常陸陸奥,出羽の穀倉地帯化が、粘り気の強い温帯ジャポニカ米の拡大の原因…で、説明はついてしまう。

更に食器…

この米の大産地化をある意味裏付ける。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139 

畿内各地と都の食器文化は一致しない。

鉄鍋+漆器椀らの使用はむしろ「平泉の食器文化」と一致する。

平安期でこうなる。

安倍,清原氏、遅くとも奥州藤原氏が供給したであろう米、鉄鍋らが都の食文化を支えていたのではないか?

なら、都の強飯→固粥への変遷には、これら東北の食文化が影響した可能性すらある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/24/203100

まぁ秋田にすれば、江戸期でもこんな感じ。

白飯、いや酒や食べ物への執着は、ある意味独特だ。

それを産むのも、古代からの伝統なのかも知れない。

 

さて、なら北海道は?

はい、見事に鉄鍋+漆器+米は東北から…なのだ。

勿論、竪穴住居を使った擦文文化期ならば、なんの問題も出ない。

アイノ文化期は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543

織豊~江戸初期の状況はこの様に、元々蝦夷衆は十三湊や秋田、後に松前へ金銀を持ち、それと「米と木綿着、鉄,鉛」を交換しに来てきたと。

米は北海道へ持ち込めば4倍の値が付く程貴重、それでも売れたと。

では、この蝦夷衆はその米をどう調理したのか?

ここは筆者的には謎。

但し、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105

遺物から捉えられる擦文文化期の食べ物痕は、肉食と言うよりはむしろ米を含めた穀物+魚、特に西側で顕著で本州とあまり変わらないというのも事実なのだ。

なら…?

 

さて、如何であろうか?

上記論文や古代&近世の状況、移動式竈の実績を鑑みれば、むしろ中世に竈が無い方がおかしいと考えるのだが。

少しずつ、謎に迫っていこうではないか。

そして、竈が見つかった段階で北海道~東北の関連史はガラリと様相が変わり得る。

仮に北海道に「竈を知る者と知らぬ者が居たとしたら?」、竈を知る者をアイノ文化として扱えるのか?

食文化が全く違う危険性を持ってくる。

我々が東北史としてではなく、北海道~東北の関連史として「竈」を探し続ける理由はこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/02/192531

メンバーのたった一言…

「竪穴住居の最後は竈と囲炉裏(正確には地床炉)の二つの火処が有った。何故それが囲炉裏一つになるのか?。主婦目線では非効率。」

何故そんな事になるのか?

我々は答えられなかった。

そして現状は誰もその答えを持ってはいないだろう。

これが我々が知りたい、リアルな日本通史であり、先祖の姿である。

 

 

 

 

参考文献:

「古代の米蒸し調理から中世の炊き干し炊飯への変化」 木立雅朗  『日本考古学協会第79回総会研究発表要旨』 日本考古学協会  2013.5.25

 

「東西日本間の竈構造の地域差を生み出した背景」  小林正史/外山政子  『石川考古学研究会々誌 第59号』石川考古学研究会  2016.2.29

 

「もとの人間の文化史117・かまど」 狩野敏次 (財)法政大学出版 2004.1.15