生きてきた証、続報42…これが平地住居の「煙道無し竈」、驚愕の黒井峯遺跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/31/103453

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/02/121528

さて、話を続けていこう。

前項までで報告した「竪穴住居+煙道有り竈→平地住居+煙道無し竈」化…

我が国の住居事情の歴史とすれば、ある意味ターニングポイントとも言えよう。

それまでの「東日本→囲炉裏、西日本→竈」の通説や朝廷の支配領域、そして北海道で言えば「竪穴→平地」がアイノ文化の開始の指標の一つ(諸説有り)ら、変化を示すものとされている。

なら、この「黒井峯遺跡の平地住居+煙道無し竈」を見てみたくはないか?

 

では結論から。

「日本の古代遺跡を掘る4   黒井峯遺跡−日本のポンペイ」 石井克己/梅沢重昭  による。

これが覆土らをよせた竈本体。

黒井峯遺跡で検出された平地住居に設置された「煙道無し竈」。

石組み土台で土被せのほぼ煙道なし。

実は仕掛けはこれだけではない。

発掘過程。

竈の上には火棚を設置しその上には須恵器や土師器の甑、穀物らが置かれていた様で、それが竈本体の上に落下していた。

この須恵器らは口縁部が綺麗で全く使用痕が無い。よって祭祀用として保管されたと考えられる。

つまり、ボヤが起きれば竈に垂直落下して破壊しつつ覆い被さり、自動消火装置として屋根への類焼を防ぐ…

荒ぶる火の神を抑える「竈神」はこうして産まれたのか?とも筆者に想起させる構造。

前項迄でこう使われていたと想定された現物である。

なら、せっかくなので、この「黒井峯遺跡」とは?

そこも少し学んでみよう。 

 

黒井峯遺跡があるのは渋川市の奥の子持村
毛野国の外れの農村。
6世紀前半と推定され、周辺は弥生の痕跡が薄い様なんで、後代に開拓進出した様で。

毛野国」は、後に上野国(上毛野),下野国(下毛野)と呼ばれるの領域から那須地方を除いた辺り。

5〜6世紀位には、太田天神山古墳や帆立貝形古墳らが造営され栄枯盛衰しながら「毛野国」が出来ていった様だ。

古代に詳しい方ならピンと来たかも。
行田市の稲荷山や二子山らの古墳が5世紀後半〜6世紀末位。北武蔵に朝廷と関係が深い大豪族が新勢力として勢力を伸ばしていたのと同時代の様だ。

東国の勢力拡大の時期か。

この頃には既に上毛野国には鉄や青銅器,金工らの工人衆が豪族の屋敷内に招聘され活動をしていた痕跡がある様だ。

そんな中、榛名山は三度火山噴火している。

一度目は火山灰降灰(有馬テフラ)…5世紀

二度目も同様、火砕流伴う(渋川テフラ)…6世紀初頭

三度目は大爆発により火山灰だけではなく大量の軽石が堆積(伊香保テフラ)し、古代の「ムラ」をそのままパッキングしてしまった様だ。

その最大厚さは最大2m程度。

ニ度目〜三度目の噴火の期間は約20~30年と考えられ、ニ度目の噴火で火山灰被覆されたのを「ムラ」の住民達は復興させている形跡がある。

 

稲作や畠跡が検出する農村…

→火山灰(渋川テフラ)降灰…

→復興過程で草むらが出現…

→放牧地活用し、牛や馬を飼育…

→大爆発で軽石(伊香保テフラ)大量降灰し、復興断念し廃絶…

→2~300年後にまた人が住み始める…

こんなプロセスの様だ。

この2~300年後の人々の再居住は、隣接する「西組遺跡」の第一次調査で伊香保テフラの軽石層の上に平安期の火災にあった竪穴住居2軒が検出され、平安の羽釜(鍔付き瓷)らも出土。

これで、伊香保テフラ直下と上部に時間的ギャップがある事を立証したと言うもので、その間は居住者は無く全く放置されていたのが解ったという。

周辺の遺跡で検出された古墳期遺構は、

・竪穴住居

・平地建物(住居含む)

・高床倉庫

・家畜小屋

・道路

・高床倉庫脇の祭祀場

・道路に伴う祭祀場

・小区画に区切る畠跡

・掘り起こしたままの畠跡

・水田

・樹木跡

・水場跡

・屋外作業場

・放牧地跡と蹄跡

・籾殻捨て場         etc…

それも、伊香保テフラは約一日で降った様で、多くの遺物が生活していたままに保管されていた。

軽石で壊れたとはいえ、住居の柱や壁財,屋根の構造や土座(座っていた場所),家財道具迄ほぼそのままな為に、復元まで可能だったと。

また、祭祀場では稲穂が検出し、捧げていた事も解る。

また、水田の状況から、伊香保テフラは6月頃に降り注ぎ、その時間は農作業を行っていた日中(農具が住居内に残されていない)だったと推定出来た。

更に、家畜小屋と跡の北側には13.8×10×0.5mの窪地がある。

炭になった茅や藁、小型土器片らゴミ捨てもした様だが、位置らを考えれば糞尿溜めではないかと(最大七頭の家畜)推定。

人糞尿は鎌倉期位から利用されたとされる農業史での施肥技術…

わざわざ家畜糞尿を「溜めた」なら?

そうなのだ。

家畜の糞尿を肥料として使った可能性が出る。で、家畜小屋や溝、畠、溜め穴の土壌から残存脂肪を検出、黒井峯遺跡では馬、隣接の西組遺跡では牛、黒井峯遺跡の畠には馬糞が交じり、馬糞の堆肥が立証。

また、近くの白井地区で親子の馬の足跡が発見され、中型馬の木曽馬に近いものと判明。

ここまでくれば、正に「日本のポンペイ」、従来の古代通説を尽く破壊してしまった。

近世農業史の権威はこの遺跡を見て「江戸期の農村状況とほぼ変わらない」と呟いてしまったそうだ。

 

さて、何故発掘に至ったのか?

この地域は伊香保テフラのせいで稲作には向かず、コンニャク芋が特産だった様だ。

で、伊香保テフラが軽量ブロック素材として着目され、コンニャク芋栽培終了の冬に軽石を剥ぎ取る作業をしていた。

その過程で土饅頭状も盛り上がりが見つかり古墳では?(結果的には周堤を伴う竪穴住居)と、発掘に至ったそうだ。

これが伊香保テフラ直下であり状況把握の為に、当時ハイテク技術だったレーダー探査で遺構の位置を予め把握し、その後周辺を掘る方法が取られた。

また、大量の軽石は手で掘ると崩落を起こす為、樹脂封入で固める→バックホーら重機で一気に切り裂く…も導入され、樹脂固定されているので断面から横に立体的発掘も可能となり、残存する竪穴住居の柱や壁の構造を明らかにする事が可能となった様だ。

また、家畜小屋とされる建物の北側には

3カ年+αで周囲発掘し、後に国指定遺跡指定された。

驚愕である。

 

さて、ここで確認と考察を…

①平地住居+煙道無し竈

この黒井峯遺跡一帯が東日本として初めての古墳期「平地住居+煙道無し竈」検出となった。

この検出、災害と言う事情無しでは難しかった様だ。

床面の柱ではなく、壁を支える柱で屋根を支えており、壁に伴う凹や小さな柱穴、そして雨水が落ちた事による雨落溝に火山灰や軽石が入り込み、パッキングしてくれた事でその検出がある程度容易く出来た事による。

わざわざ柱穴(無いのだが)を探し復元する必要もなく、竈も含め検出可能だった為。

被災したご先祖には申し訳無いが、この災害が無ければ検出不能だったかも知れない。

また、完全に住居と解る遺構で、竪穴:平地=5:9。

ここが竪穴→平地への変遷過程だったのも明らかに出来た。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/31/103453

故に、これら論文の内容も納得である。

住居史+食物史の複合でどこまで攻める事が可能か?

手段として検討したいと思う。

 

②発掘方法

上記の様にここ黒井峯遺跡発掘では重機が使用されている。

この方法が使われたのは第三次調査の1986年11月から。

国指定遺跡になったのが1993年。

そして重機使用に際しては、遺構の位置をレーダー探査により事前確認した上で。

これは、

軽石崩落を防ぐ

・立体的発掘が可能となる

この二点を実現させる為に積極的に使用された模様。

では北海道…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/12/185317

以前から重機使用は報告してきた。

勿論、費用問題らはあるが、以降なら使える手段ではあるだろう。

検討された事はあるんだろうか?

まさか…そんな目的の記述は見てない。

上記にあるように、レーダー探査も複合して、伊香保テフラ直上,直下で遺構を確認し伊香保テフラ内には「人が住まない空白がある」…まで確認をしている。

同じ重機使用でも全く趣旨が違うのだ。

重機で表土を剥がす事例は東北でも、添付を書いた後に聞いている。

そこでも「やられてしまった」と。

ものの見事に遺跡が破壊されたと、悔しい顔をされていた。

我々みたいな素人が最も持ちやすい「火山灰だろうが、人が住んでりゃ遺跡あるんじゃね?」にならないのが、不思議なのだ。

更に、勉強して問題意識を持ってるハズの方々が「何故、そんなシンプルな疑問を持たぬのか?」…甚だ疑問。

資料館行って聞いてみればよい。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625

「そこは空白で解らない」と答えてくれるハズだ。

そもそも、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730

その天災の中で「生き延びる事ができるのか?」

生存不能なら、その人々が何処へ移動したのか?追えば良いだけ。

この場合、何らかの担保を取れば重機使用しても関係あるまい。

それをハッキリ出すべきではないか?

我々はそう考える。

勿論その時に、その一帯は人が住まない空白期間があった事もハッキリ出すべきだ。

予算の話はもう出来はしまい。

推進法による国家予算がついている。

新文化創生に使えて、文化ルーツを探る事に使えぬ訳がない。

全く別の用途で使用するなら、住民監査請求対象だろうね。

今の流行だ。

 

さて、「平地+煙道無し竈」の伝播の根拠とされた黒井峯遺跡の片鱗はこの様な感じ。

こんな人々も古墳群以降北上し、陸奥には大型古墳が造営される。

北海道にも片鱗はあるじゃないか。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914

井戸…

 

ゆっくり紐解いていこうではないか。

 

 

 

参考文献:

「日本の古代遺跡を掘る4   黒井峯遺跡−日本のポンペイ」 石井克己/梅沢重昭  読売新聞社  1994.10.25

 

「東西日本間の竈構造の地域差を生み出した背景」 小林正史/外山政子 『石川考古学研究会々誌 第59号』石川考古学研究会 2016.2.29