秋田エミシは平安期で凝灰岩の耐熱性を知っていた…生きていた証、続報21

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
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生きていた証…竈探しである。
北海道の発掘調査報告書に抱き合わせで、たまたま発注した秋田の発掘調査報告書だったのだが、何やら怪しい話が載っていた。
ここ、扇田谷地遺跡は、秋田県三種町(旧八竜町)の扇田谷地にある。
秋田市八郎潟の北辺り、米代川の南に位置する。
この辺は古代~中世での製鉄,鍛冶跡を含む遺跡が散見される地域。
扇田谷地遺跡も精練炉&鍛冶跡らが検出され、平安,中世にかけての遺跡である。


「なお、文中で使用した「鵜川石」とは、遺跡西方に路頭する白色凝灰岩の鵜川地区での俗称である。四角く加工されたものが多く、その用途等については、不明である。近代から現代では家の土台石として使用されていたという。」

「SX49竪形炉やSX48、SX20工房跡、SX20工房跡周辺のA・B区間の沢では凝灰岩が部分溶解したと思われる碗状の物質が確認されている。竪形炉の壁体に比べ厚みが薄いこと、竪形炉壁体の内部に鉄滓の付着がみられなかったことをふまえれば、その内部に凝灰岩もしくはその風化物を素材とする容器状の設備や道具があったと推定される。木炭を熱源とした場合の到達可能な温度を考察すれば、その中で銑鉄が造られていた可能性がある。」
「遺構内およびその周辺は凝灰岩に恵まれている。その中には少量の鉄チタン磁鉄鉱も存在する。凝灰岩もしくはその風化物を使って鋼精練に必要な設備を製作し、鉄チタン磁鉄鉱に富んだ凝灰岩風化堆積物を用いて酸化鉄を含むスラグを製造することは容易であったと思われる。このような出土遺物の形状と組成、および遺構の立地状況を考慮すれば、遺跡内で鋼精練が実施されており、SB78掘立柱建物跡付近から検出された銑鉄製遺物はその素材、そしてSX48工房跡で見いだされた鋼はその脱炭素生成であった可能性が高いと筆者は考える。」

「検出した遺構・遺物を見ると、遺跡の利用度が最も高かったのは平安時代であることがわかった。平安時代の遺構群で特筆すべきものとして鉄関連炉があげられる。鉄滓の分析により、銑鉄から鋼を製造する精練炉であることが判明した。文中で使用した白色凝灰岩「鵜川石」は、炉構築材として用いられた可能性も分析の結果明らかになっている。」
「以上の事から、扇田谷地遺跡は、平安時代の一時期には、鉄に関連した工人の集落として営まれていたと考えられる。」

「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ」 秋田県埋蔵文化財センター 平安11年3月 より引用…


解り難いかも知れないが、製鉄法の科学的プロセスを説明の上で、含まれる成分の必然性で、鋼精練の炉材として近辺の凝灰岩を使用した…としている。
当然、1000度を遥かに超える製鉄炉材なので、その耐熱性と加工し易い事を既にご先祖達は、この段階「知っていた」訳だ。
そして、元慶の乱以降、製鉄法は秋田城や払田柵から発し、米代川を登り伝わっていく…
つまり、
竪穴住居の竈←8世紀…
+熱に強いと言う知識←9世紀…
+石工による石の加工技術←14世紀…
=へっつい…

技術伝播を考慮すれば、大館へっついより、能代は早いとも考えられる。
じわじわ、竈の謎にも迫りつつ…
そういえば、凝灰岩フレークがあった北海道遺構があった様な…


因みに…
後の世、中世に至り、この辺一帯を掌握したのが、安東氏。
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現状、石工を連れてきたのは安東氏ではないか?と仮説し調べているので、場所柄的にはピタリと合致してはくる。


安東氏こそ、蠣崎氏を統べた大殿。
北海道に絡む話で、安東氏を無視するのは、真実から離れる事になる。
故に、竈の存在もあり得ると考える。
中世に竈、特に「へっつい」があったら、そこは…安東氏勢力圏と言える訳だ。


参考文献:
「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ」 秋田県埋蔵文化財センター 平安11年3月