それはSNS上の話…
フォローさせて頂いてる方の「札幌の桑園と言う地名に東北が関わる」…これが起点。
面白そうだと直ぐ調べる。
開拓使黒田清隆らが計画した養蚕事業で、元鶴岡藩士の判官松本十朗が、養蚕開拓中の元鶴岡藩士達を招聘、1875年6~9月の3ヶ月で21万坪を開墾し桑の木を植樹、帰還している。
ならば、その元は?
近い?と直ぐに行ってみたくなるのが、筆者の悪い癖である。
「サムライゆかりのシルク」として日本登録され、その一部は鶴岡市で「松ヶ丘開墾記念館」として公開されている。
発端は戊辰戦争。鶴岡藩は幕府側で参戦した為に逆賊の汚名を着る事に。それに奮起した旧藩士達は、刀を鍬に持ち替え1872年から開墾開始、同時に群馬迄赴き養蚕のいろはのいから学び1875年に10棟の大蚕室建造する。その過程では、維新の鏡として、西郷卿や大久保卿から大絶賛を受け、逆賊の汚名は完全に晴らした訳だ。
勿論、地元資産家の援助や旧藩士斉藤外市ら絹織機の発明らと共に殖産に成功、今に至る。今も鶴岡シルクとして高品質への追及を続ける。
さて、北海道…
彼らの内152名が北海道に出向き、開墾を行った訳だが…気付いた方も居るだろう。
そう、大蚕室建造の年に出向いている。つまり、これから養蚕発展矢先に時間をこじ開け、北海道迄助っ人ととして参じたと言う事だ。彼らには地元で仕事を立ち上げて行く任務がまだ残っている。
SNS上では、何故北海道に残ってくれなかった?みたいな話もあったが、理由はこれだろう。
侍魂を鍬に込めた助っ人軍団だったと言う事。さすが、酒井殿の藩士…感服。
筆者が気になったのは、桑園のその後…
あまり詳しく検索出来なかったからだ。
一応調べた中では、開拓使の元で進められたが、1879年までに気温差で桑の木は全滅。その後、自生の山桑へ植え替え48万坪まで拡大に成功したが、1879年に養蚕協力を条件に分譲、一部を森源三氏が購入し建てた建物が、後の知事公舎として残る…
現状、現場がどうなっているのか?筆者には知るよしもないが、ネットやグーグルアースで見る限り、桑畑の跡は見当たらず。
公舎ともう一ヶ所石碑が立つらしいが…
殖産に失敗したか…
なら、彼らを招聘した松本十朗は?
直後に、樺太千島交換条約の際の樺太アイヌの処遇で、黒田と衝突し北海道を去る。
故郷鶴岡で一介の農民として、余生送ったとか…
筆者的には少々引っ掛かりが残る結末…
まぁでもこれも歴史。
これも北海道と東北を繋ぐ関係史にはかわりない。
※容量都合で写真アップ出来ず。
いずれ編集のつもりです。