時系列上の矛盾…明治の北海道民は、真の北海道の姿を知っていた

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/12/194452
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/13/143533

引き続き、北海道の発掘調査報告書の検証である。
筆者は、札幌「C504遺跡」の発掘調査報告書も入手した。
これは読んでおきたいと思っていた。
何故ならば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154
これこそ、我々の原点の1つであり、筆者の原点、秋田の新城窯で焼かれ、秋田城経由で北海道へ渡った須恵器が出土した遺跡だからだ。
筆者にとっては、特別な意味を持つ。
開いていきなり驚く。
札幌桑園の直ぐ側ではないか…
これは出羽国繋がり…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544
庄内の侍魂を持つ人々が助っ人…

さて、開けて直ぐに、筆者は驚愕しぶっ飛んだ。
事前に読んでいた「楠遺跡」より…

「付近の人々の話によれば、開拓当時このあたりは一面に笹や灌木が茂っており、調査区付近にはいくつものぬぼみがみられたという。これらのくぼみは、おそらく今回の発掘調査で明らかにされた竪穴住居跡が埋まりきらずにその当時までのこっていたものと考えられる。」

美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日 より引用…

ありゃ?とは、思っていた。
何故ならば、平安期末程度から誰も住まなくなったなら、氾濫を繰り返していたとしても、凹みが残っている?
実は、後の時代の盗掘?と疑われる、正体不明の溝跡も検出されてはいる。

さて、頁を開いて驚いたのは?

「旧琴似川は、河川の切り替えや近代以降の都市開発によってその面影をほとんど残さないが、明治20年代末に高畑宣一氏により記録されたとされる擦文時代の竪穴住居の分布図や、その後の調査、研究により擦文時代の遺跡が旧琴似川沿いに分布する様子が認められ、擦文時代の集落形成に大きな役割を果たしたと考えられる。」

「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日 より引用…

ありゃりゃ…
まともに発掘していなかった年代に、何故擦文住居跡があったと解るの?

おかしいと思っていた…
平安に廃絶されたなら、何故痕跡が地表面から解ったのだ?
何故、原野なのか?5~6百年あれば、林森になっていてもおかしくない

「楠遺跡」には、アイノの遺構は無い。
竪穴の住人は擦文期終わっても普通に暮らして無ければ辻褄が合わない。
で…
これは、擦文文化人の事になる。蝦夷とすら書かれていない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050
村々里々に住む人々…
旧琴似川沿い一帯ほぼ全てが擦文遺跡と言える程、遺跡だらけなのだ。
七頁の第6図を見れば、それが納得出来る。
この中には、H317遺跡すらカウントされてはいない。まだまだ擦文遺跡は分布する。

つまり、幕末~明治の人達は、そこに北海道の人々の先祖が住んでいたのを知っていたんだろう。

そして後、河野廣道博士や後藤寿一博士らは、それらを知っていた上で、その人々が何者なのか?アイノとの関連は?そんな視点で、発掘をしていたのでは?
皆知っていた。凹みを掘れば色々出る。
掘り出された刀剣らを自腹きってまで買っていたのは、このためだろう。
故に、鉄器が本州由来ならば、北海道は朝廷や武将の施政下にあると言いきれた…
筆者的には、至極納得である。

なんだこれは。
本当にファンタジー
何故それらが伝承されていないのだ?
おかしいではないか。

はっきり書いておく。
札幌の古代~中世の真の姿は、現道民こそ全く知らない。
明治の人は知っていた。
道庁所在地になったのには意味があった。
行き当たりばったりじゃない。
そこに都市であろうと言う痕跡があったから、伝承があったからだろう。

知らぬは、現代人のみ…



参考文献:
美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日
「札幌市文化財調査報告書77 C504遺跡」札幌市教育委員会 平成17年3月31日