https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/22/112144
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、外伝−2…山形県の「ケルン(ケールン)?」と「天神山の石組遺構」についての備忘録」…
ここに繋げて。
鶴岡市「神社口遺跡」13世紀を確認中に見つけた「ケルン状」の文字。
これ同様に気になるワードはかなりある訳で。
それは「中世墓」の資料を集めた文献故、関連事項が満載されるので極当然でもある。
今回引っ掛かってしまったワードは「石垣状遺構」。
秋田県の項目を確認中に、大内町「茂竹沢遺跡」にそれがあるとの記事。
今回一連の中世墓の墓制は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501
「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…
勝山館と夷王山墳墓群を直接見て、おかしいな…と思った事から
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう…」…
こんな風に文献を入手したと言う経緯。
先行していたのはあくまでも…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/03/202005
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-6…北海道〜北東北での出羽三山信仰の信仰圏の構造は?」…
余市の茂入山の石積みに至る系譜であり、たまたま信仰の視点からも何となく出羽三山信仰を追っていただけの事。
重複する部分はあるにせよ、元は別視点からの事で、たまたまそれが一致して来そうなだけ。
ただ、切り離す必要もないのかも知れない。
地の土豪は地方領主であると同時に、館神や別当寺を中心とした宗教的中心人物でもありそうだからだ。
さて本題、「茂竹沢遺跡」。
山内村(現在は「横手市山内」)と言う段階でそそられるものがある。
遺跡最寄りの「相野々駅」にマークして…
左上が「払田柵」。
峠越えして、西和賀町から北上市へ抜けて南に下れば鎮守府胆沢城。
紫マークが国道107号。
この辺が出羽と陸奥を結ぶ古代の街道ではないかと言われるルート。
つまり、山内は出羽から陸奥へ向かう玄関口の一つとも言える。
この付近は東北自動車道へ繋がる「秋田道」を作る時に結構な数の遺跡が見つかっている。
「茂竹沢遺跡」もその一つ。
周辺には「和田城」を含めた中世城館も幾つかあり、交通の要衝だった事を窺わせる。
基本層序から。
Ⅰ層…黒褐色土の表土で30cm程度の円礫露出もあり
Ⅱ層a…黒褐色土で近世以降の堆積土と考えられ、この下面が生活面の様だ。
Ⅱ層b…黒褐色土で縄文以降、中世迄の遺構が検出される。特にⅡ層aとⅡ層bの間には中世の盛土跡が検出される。
Ⅲ層…褐色土、漸位層。
Ⅳ層…明黄褐色、地山。
以上。
縄文期の竪穴住居跡ら縄文遺跡も検出するが、ここは中世に特化して報告する。
実はここ、単に石垣状遺構が検出された訳ではない。
①整地地業…
建物を建てる為に北西側を削り、その土を東南側へ盛土する整地地業の痕跡がある。
②石垣状遺構…
これが本命、3基検出。
・SQ09
a,b,cの3本に分かれ、全長で15m程度。
aは15~30cm、bは35~50cm程度の川原石を20cm程度積み上げる。
aとbの間は八の字方に開き、出入口を想定している。
cは後に延長された可能性あり。
・SQ10
20cm前後の川原石を使い、高さ15cm、長さ4.8m(明確な部分)程度。
・SQ26
これも3本に分かれるが、盛土下部より検出なので、SQ09より時代は古くなる。
SQ09同様で全長約10m程度。
③溝跡
整地地業地の西〜北に多く、整地や建物に関連すると考えられる。
④柱穴群と建物跡
柱材や礎石と思われるものを伴う様だ。
溝跡らから5期位に分かれる事が想定され、柱穴が複数あるので建て替え等も考えられるが、概ねの建物を復元すると、
この様な形が想定される様だ。
その他遺構は、
⑤土坑
⑥敷石遺構
⑦集石遺構
等。
遺物の陶磁器の年代より建物の年代は概ね16中〜18世紀迄存続したと想定される様だ。
中世後期〜近世中期といったところか。
さて、この建物は一体なんであろうか?
遺物が陶磁器片らしか見つかっておらず、明確に性格を示す物は無く不明との事。
唯一のヒントは、19世紀初に菅江真澄が山内を訪れた際、この周辺で「寺ノ跡」と記述してるとの事。
位置関係ではほぼ合致する様だが、それでもその時点で「いかなる寺とも古老の伝えもなし」だそうで、伝承は途切れて居た様で。
現状学べたのはここまで。
さて、勿論現地確認は出来てないが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/29/062033
「余市の石積みの源流候補としての備忘録−1…秋田の中世城館にも石積みは存在した」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/22/151738
「余市の石積みの源流候補としての備忘録−2…山形の中世城館にも石積みは存在、そして…」…
斜面を平滑→石積みで土留…
こんな使い方をしていた様だ。
それも出入口側に局部に施すのも同じ。
ここは、斜面平滑の土留なので、出入口は低地側になるという地形特性上か。
当然、この高さなら防御性は極低いので、居館や寺社に限定されてくるのだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/21/210704
「そもそも「石垣」とは?…改めて「石積み構造物」を学んでみる」…
「垣」と考えれば、石積み,石塁も土塁,空堀も生け垣も、聖域と俗世を分ける境界とも言える。
建物裏側の溝(空堀)と合わせて結界と意味を込めたなら、菅江真澄が「寺」としたのも納得ではある。
まずはここまで。
この土留としての民生での石積み,石塁も、何時頃から拡散したか?らを突き詰めれば、修験者が伝搬したと仮定して、その宗教圏との整合が出切れば案外編年指標になるかも知れないな…と、考えさせられた。
さて…
「言葉遊び」を最後に。
言語学の研究を尻目に、「ナイ」「ネイ」の地名を持ってして「アイノ語」だと言う話がSNS上に流れてくる事がある。
ただ、それは研究上では当てにならない話だと聞く。
当然だと思う。
例えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
「言語研究からの視点…金田一京助博士が記す「北海道と北東北で会話出来た事例」と「金田一説の結論」」…
津軽藩士秋元と四郎三郎の会話の一説。
金田一博士は、津軽一統志ら古文を熟読し、言語学と文献史学を組合せて「ドドロップ(トド松)」は江戸初期迄は津軽や道南では通用し、後に消えたと指摘する。
で、秋元に帯同した四郎三郎の言葉は、東蝦夷地では通じなかった訳だ。
言語に時間軸を与える事が可能なのは文献史学の研究。
これを使い分ける知識がないとムリな話だろう。
こと地名の場合、何時からその地域がその地名であったか?を確認しないと話にならない訳だ。
地名は変わる。
現代でも古地名が消えていく。
地名で判断するのに研究者が消極的になるのは極当然なのだろう。
折角そうだと思うなら古地名を確認し、それとアイノ文化創成時点との文化差らを見てみるべきだろう。
仕込みを…
1枚目の写真、敢えて近隣の駅名を出した理由。
あれ「アイノノ」と言う。
駅周辺の集落が「アイノノ」。
単に文献史学的要素を考えなければ、「アイノ・ヌプ」が訛って「アイノノ(アイノの野)」が成立してしまうのだが…
「ナイ」「ネイ」よりダイレクトにそのままを示してしまうが、良いのか?
勿論、これは「言葉遊び」。
相野々の意味や何時頃から使われているか?等は全く調べていない。
と言うか、何を言いたいか?…
『ゴロだけの言葉遊びは止めて、語源の整合位やったらどうか』
こう言いたい。
筆者は何度も言うが、「アイノ文化」には全く興味が無い。
どんなプロセスでそうなったか?だけ知りたい。
そんな筆者でも、この程度は考察可能。
①アイノ文化で使われた単語には本州で使われた単語からの「借用語」(カムィ,イナヲ,マキリ等)が多い…
②古来、山岳信仰では「山言葉」や「忌語」が使われた。
歴史的由緒が高い「月輪寺」様の公式アカウントより
https://twitter.com/tukinowatera76/status/1641781247721762816?t=mtul-kBKCRMWKggFooEWAA&s=19
水→ワッカ
これはアイノ語と整合。
③「借用語」を教えたのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/02/201220
「北海道中世史を東北から見るたたき台として、北陸編のあとがき…ならば「方形型火葬墓」を並べてみよう」…
聖なる山を探し歩く「修験者,行者」ではないか?
如何であろうか?
まぁこんなのは、先行研究があるだろう。
こんなものは、気付いて極当然だ。
因みに、筆者の経験談。
祖母や母に言われたものだ、「あっこ飲め」「あっこ飲まへれ」と。
自分の子供が赤ん坊の時に、何気にそれをそれを使っていた。
「あっこ飲むか?」…と。
「あっこ」とは水の事。
まぁ中間音をバンバン使う東北弁。
発音すれば「ワッカ」も「あっこ」もごちゃ混ぜ。
まぁ筆者的には「聞き取りの問題」だろうと理解している。
筆者にしてみれば「往古の北海道系住民は、我が先祖の友人」に過ぎない。
特別なものと一片たりとも思ってはいない…と言う事。
秋田県中央沿岸部は中世では「上国湊安東氏」の統治下。
北海道道南日本海沿岸部〜後志〜石狩低地日本海側は「上ノ国」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
「日本海航路は開かれた世界…「島原の乱」「シャクシャインの乱」と象潟の蚶満寺、そして秋田県民との不思議な繋がり」…
だから、秋田県沿岸からは「行ってくるわ🖐」感覚で北海道にいけたのでは?
別になんて事はないし、殆ど矛盾も無いが。
北東北人も嫌われたもんだ…
当然か…
「新参者」は古くからの地域間交流なぞ知らんし、知ろうともしない。
それは、開拓使だけの話ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/06/101544
「サムライ魂を持つ助っ人…極近代の札幌と鶴岡の関わり」…
杓子定規の黒田に対し、何故松本十郎が激怒したか…筆者には解る気がする。
幕府の主要港酒田は、庄内だからな…
と、いうところで、御開に。
とっぴんぱらりのぷ…
参考文献∶
「中世墓資料集成−東北編−」 中世墓資料集成研究会 2004.3月
「秋田県埋蔵文化財調査報告書第223号 東北横断自動車道東和秋田線発掘調査報告書ⅩⅢ −茂竹沢遺跡−」 秋田県埋蔵文化財センター 平成5.3月