「松前旧亊記」の記述…実は松前氏は元から村が有るのを記している

下記は、先に書いた「義経伝説とアイヌ酋長の至宝」で入手した「北海道留萌市出土の星兜鉢および杏葉残欠について」と言う論文の中にある引用文である。
北海道に中世の武具を持ち込み定住し得る武将達の動きとして、奥州藤原氏が有り得る事の根拠として引用された「松前旧亊記」の一節である。

※注意…改行は解り易くする為、筆者がつけた物

文治五年七月十九日
鎌倉将軍右大将頼朝卿奥州泰衡を追討し給ふ節
津軽糠部与人多く此国江逃渡る
彼等薙刀を船舫に結ひ付櫨楷をして櫂渡る
其当国の船舶車櫂の根本なり
其与東の方阪川西の方与伊地百四拾里程之村々里々人民居住。

との事。
平たく言えば、鎌倉方の奥州藤原氏追討軍からの見分として…
薙刀を船に結び付けていた
②これが北海道における船(水軍)の原型
③東は阪川と西の与伊地の間の百四十里の地域には村や里に人々が既に暮らしていた
と言う事の様だ。
ここでこの村や里の地域を特定してみよう。
阪川…ここに該当する地名は不明。
だが、仮に与伊地→余市だ仮定して、古代~中世に使われた「小道」での距離単位での一里=約0.6キロを与えると
140(里)×0.6(/一里)=84km
となり、グーグルアースで簡易的に距離分トレースさせると、南は伊達から東,北はほぼ石狩平野一帯を指し示す。
ここに遺跡の出土実績を重ねると、現状所謂終末古墳群のある江別,恵庭や中世の武具が主に出土している地域と合致してくるのだ。
そう、朝廷勢力として北海道へ渡ったであろう東北のエミシと奥州藤原氏…つまり東北人が居る可能性を持つ地域と見事に重なる。

どうだろう?
考古学での遺跡の現状と古書の記載が合致している例。
蠣崎(松前)氏は、自分達が北海道に入る前から石狩平野付近には、既に村や里を形成する程人々が住んで居た事をちゃんと記していると言う仮説は成り立つ。
蠣崎(松前)氏は、それが何者なのか?北海道における「水軍」の意味を知っていた事を示唆させると言う訳だ。
勿論、時代背景としては平安末期の話。まだアイヌ文化は出来てはいない。
それどころかここでは、「蝦夷」とすら記述せず、「人々」と書いている。
更に、この人々が、アイヌ文化を作ったと言うには少々無理が有る。
何故なら、「文化は高い方から低い方へ流れる法則」が、巨大な壁として立ちはだかるからだ。
この人々は「文字」を持ち、「仏教や神道を信仰」し、「和歌」すら読む。
よって、アイヌ文化を持つ人々には成り得ない。
これで「石狩平野におけるアイヌの先住性」は棄却される。

仮に、この人々が後にアイヌになると言うのであれば、明確な理由が必要となる。
勿論、このブログの中には、そうなった場合の「明確な理由」も仮説が立てられてはいるが…

知っていたんですよ…
松前の人々もアイヌの酋長達も…アイヌとは何なのか。
知らぬハズは無い。こういう風に書いているのだから。


引用文献
考古学雑誌71-1 北海道留萌市出土の星兜鉢および杏葉残欠について 福士廣志 1985年9月