実は「蝦夷の人々」の定義そのものがバラバラ…この際、「新羅之記録」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/17/211327
さて、この際なので「蝦夷日誌」に続けて、「読んでみる」シリーズを拡大しよう。

新羅之記録」…

今迄も「新羅之記録」を引き継いだ「福山旧事記」の「石狩〜胆振辺りには村や里があり人が住んでいた」との記事…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050

有珠善光寺付近で夜な夜な聞かれる念仏?の伝承の記事…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939

「新北海道史」にある、実はコシャマインの乱は有ったか無かったか解らないとの記事…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120

その記事を紹介してきた。
たまたま現代語訳本を入手したので、これを読んでみようではないか。
まずは「新羅之記録」とはなんぞや?
同書の解説を要約すると…
・北海道最古の歴史書と言われ、正法三(1646)年に松前慶広の六男景広が、それ以前寛永二十(1643)年に幕府提出した「松前家系図」を直して編纂したと伝わる
・同書原文は、松前景広の直裔「奥尻松前家」に伝わる「奥尻松前本」である(他に二種類見つかっている)
松前家始祖「武田信広」から三代藩主「松前氏広」へ至る家系と出来事を記述する
武田信広の祖先が「源新羅三郎義光」と設定されているので、園城寺(三井寺)の「新羅神社」に供え供養した事から、「新羅之記録」と名付けられたとされる
新羅神社は新羅三郎義光元服したとされる場所で、この義光流源氏には佐竹源氏、甲斐源氏、小笠原氏らが連なる。東北でも南部氏,浅利氏らが甲斐源氏や小笠原氏から分派している。

と言う訳だが、同書や今迄でも書いてきた様に、真偽の程は問題視されてきた。
何せ、始祖武田信広の出自から若狭源氏の家系図と整合しないや武田信広活躍のコシャマインの乱がこの新羅之記録のみしか記載されていない等々…
結局「他に記述ある古書が殆ど無い」為にこれを出さざるを得ないと言う事情も、含み置く必要がある。何せ武家家系図は活躍等を「盛ってる」のが当然の世界だし、出自が明確でなければ「藤原氏,平氏,源氏」辺りからの分派で書き換えされる事は往々にしてある。
平民(又は下級武士)から駆け上がった「豊臣秀吉」や、最後まで「勅勘」である蝦夷(エミシ)の末裔を貫き通した「秋田(安倍姓安東)氏」の方がむしろ少数派。

何より、新羅之記録は末裔がそれを信じ誇りにしている事は『尊重』しなければならなず、史実の追求とは切り離して考える必要はある。
往々にして、ここを平気に踏み躙り信頼関係を破壊した裏話は出てくる。
ここを忘れてはいけないと、筆者は考える。

さて、概略の説明はこの辺にして、上記にある「鵡川余市、村々里々」の付近を引用してみよう。

「そもそもその昔は、この国は上りに二十日程、下りに二十日程かかっていた。松前から東側は阪川(筆者註:ムカワのルビ)まで、西側は與依地(筆者註:ヨイチのルビ)まで人が住んでいた。右大将源頼朝卿が進発して、奥州の泰衡を追討された時に、糠部津軽より多くの人たちがこの国に逃げ渡って居住したという。彼らは薙刀を舟舫に結び付けて、櫓櫂にして漕ぎ渡ったという。このことから、この国の艋舴の車楷は薙刀の形をしていたという。奥狄の舟は近頃まで楷を薙刀の形に作っていた。今、奥狄の地にその末裔の狄となってそこに住んでいるといわれる。」
「また、実朝将軍の代に、強盗・海賊の仲間共数十人を捕まえて、奥州外ヶ浜(現青森市付近)に送り、狄の嶋に追放された。渡党というのはそれらの末裔である。」
「それ以外にも嘉吉三(一四四三)年冬、下国安東太盛季が小泊(現青森県中泊町)の柴館を落とされ海を渡った際に、あとを慕って大勢の人々が押し寄せたという。今において、その末裔の侍共がここにあるのである。」

新羅之記録【現代語訳】」 木村裕俊 無明舎出版 2013.3.15 より引用…

新羅之記録 上巻(第4章)の一節。
記事はこの後にコシャマインの乱の一節へ。
ポイントは、
①それまでも、松前鵡川余市には「人」が住んでいた。
源頼朝による奥州合戦により、津軽の糠部から多数逃げてきた。
薙刀を舟の舷に括り付け、その薙刀を楷にして漕いできた。それでこの国の舟は楷が薙刀型なのが伝統で最近迄そうだった。
④その人々の末裔は「奥蝦夷」の地に狄として住んでいる。
⑤鎌倉三代将軍実朝の代から罪人流刑の地とされ、その末裔が「渡党」である。
⑥南部の攻撃により、十三湊安東氏の「安東盛季」がここに逃れ、それを慕い多数の人々が渡ってきた。その末裔の侍が松前に居る。
こんなところか。
従来から述べて来た様に、
・「人」が住んでいた
・舟の伝統
ここは同様。
更に、
奥州藤原氏の残党は奥蝦夷地に入り「狄」として末裔がいる
・渡党とは「流刑罪人」の末裔
・後の松前家臣団となる侍達は安東盛季を追って来た
ここが新たな点だろう。
この様に、素直に読めば、
A,「狄」「蝦夷」と言われる人々を特定している
B,「渡党」も特定している
C,松前家臣団の由来を特定している
事になる。

では…
新羅之記録」にも影響しているであろう、「諏訪大明神画詞」がこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
再三出ているが、「渡党」「日ノ本」「唐子」の三種が居たとされているが、「新羅之記録」では「日ノ本,唐子」の記述はここ以外にも全く出て来ないと言う差異がある。
まして、新羅之記録では、後志〜胆振,日高は「人」が住み、奥蝦夷こそ「奥州藤原氏の残党」だと言う。
整合は取れていない。

次に…
松浦武四郎らの定義はこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/12/200407
手前が口蝦夷、奥蝦夷地が奥蝦夷の領域の上で、口蝦夷が奥蝦夷を駆逐、その中の道東〜千島の人々が「日ノ本(アイノ)」であるとしている。
但し、口蝦夷はヲキクルミを神とし、日ノ本はヲキクルミを悪党野郎と恨む。
確かに、源義経を討ったのは藤原泰衡だが、父藤原秀衡は主君とせよと遺言する。
しかも、渡党を流刑罪人の末裔と新羅之記録では断定記載する。
これも微妙に辻褄が合わない。

因みに…
考古学的にはこう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
擦文文化は続縄文集団と陸奥エミシの合作。
直前まで検出されるオホーツク文化の痕跡は、擦文文化集団の拡大で同化し九世紀頃には消え失せる。
クレオールとされるトビニタイ文化を含めても、十三世紀を前にして痕跡は消える。
これも微妙にそれぞれと合致しない。

ついでに…
北海道中世史の研究者、海保嶺夫氏は著書「中世の蝦夷地」において、
松前氏は中世蝦夷の「一類」である「渡党」蝦夷に明らかに由来する豪族」と位置付けた上で、幕藩制期で「和人大名に位置付けた」と、渡党=和人の意味で使ったとする。
だが、「新羅之記録」にあるように、松前氏は「渡党とは流刑者の末裔だ」と表現し、海保氏はそれを受け「渡党は西国から渡った(流刑された)人々」として、元々道南〜北東北に居た人々は縄文からの繋がりを考えると渡党には含まないだろうとしている。
この認識なら「渡党」は極少数の流刑罪人に限定され、圧倒的に数が足りず文化に影響を与える様な要因と成得るのだろうか?
少なくとも「諏訪大明神画詞の渡党」の様に、独自文化を持つ程の勢力になるのか?
ここはその辺と整合しなくなる。
また、考古学的見地とも微妙ではないだろうか?

見ての通り、文献や時代により、また研究者の見解により、北海道に住んでいた人々に対する定義はバラバラで微妙に違っている。
結局、この辺が詰められて居ないので、ハッキリした定義がない故に、議論になろうハズがない。
何せ「渡党」だけでも、これだけ違うのだ。
ある人が「渡党」と言っても、他の人が言う「渡党」と合致しているのかがハッキリしないのだから。
その点だけでも
不完全な新羅之記録?
龍が飛ぶ諏訪大明神画詞?
考古学に基づく?
等、土台を設定せねば、議論になるはずもない。
まぁ色々論文も出てるだろうから、議論したくば、ちゃんと整理すべきだろう。
で、この辺の年代がアイノ文化期のスタートに当たるのだ。
文献も見解もバラバラだから、アイノ文化が何時何処でどんな人々が作ったのか?定義不能になる。
それぞれ原文を読めば、バラバラなのは一目瞭然。

まぁこういう事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
何も解らない…
定義すら出来ない…
何が何たか議論も出来ない…
これが現状なのではないか?

まぁ、直近の地方史書でも、「ハッキリ解らない」として、研究者が定義付けする事が出来ない状況で、某議会は「某議決」を行い、「某推進法」を可決したした…と。


さて…
中世北海道に住んでいた人々は、何者なのだ?
それがどのように変遷し、近世,近代に至るのだ?
それを「何をもって立証」するのだ?
恐らく、責任を持って説明可能な人物は居ないかと。
では、その「議決」と「法律」に対して、責任を負うのは誰だ?

協会?
教育委員会
学会?
自治体?
官僚?
政治家?

まぁ、我々グループの学びには関係無い話。
が、一国民として「知る権利」はメンバー全員が持っている。
誰が質問に答えてくれるのだろうか?
他の歴史探求との違いはここ。
「議決」「立法」「予算の遂行」…
誰かが、責任を負わなければならない点だ。


各著書,論文は、これら原文が理解されている事を前提に著される。
だから、原文を並べて読めと、我々は言う。
一目瞭然なのだ。
今に至っても、整合はされてはいない。






参考文献::

新羅之記録【現代語訳】」 木村裕俊 無明舎出版 2013.3.15

「中世の蝦夷地」 海保嶺夫 吉川弘文館 昭和62.4.1