https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842
前項をこれに。
秋田に於いては食器の底らの刻印は、アイノ文化痕跡とは見做していない様だ。
では、青森は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
骨角器を含め、これらで「本州アイノ」と考えている様だ。
では、この「本州アイノ」とは一体どんなものなのか?学んでみようではないか。
その聖寿寺館へのフィールドワーク時に南部町の歴史研究会誌を入手。
その延長上で手に入った文献から一端を覗いてみよう。
①研究のスタートライン…
「「本州アイヌ」については、弘前藩庁日記(国日記)や盛岡藩家老席日記(雑書)・アイヌの村が描かれた絵図等の検討により、近世史からのアプローチが数多く行われてきた。特に浪川健治氏の一連の研究は東北地方のアイヌを題材として、様々な問題を炙り出し研究をリードしてきた(浪川 一九九二・二〇〇八)。また、「本州アイヌ」の物質文化を考古学的に研究した関根達人氏の一連の仕事も、「本州アイヌ」の生業や習俗を明らかにした上で特筆すべきである(関根 二〇〇四・二〇〇八・ニ〇〇九)。」
「聖寿寺館跡出土の本州アイヌ文化関連遺物が示すもの」 布施和洋 『ふる里なんぶ 第四号』 南部町歴史研究会 平成22.7.23 より引用…
筑波大の浪川氏と弘前大の関根氏がリードしている様で。
引用にある様に、スタートラインは弘前藩庁日記,盛岡藩家老席日記,アイヌの村が描かれた絵図、つまり近世は江戸期の「狄村」とされた人々からの様だ。
と、言えばこれか。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
良い時にフィールドワーク出来ていた模様。
主に、北海道と津軽の行き来や労役に従事したり漁師を生業とした人々についてや、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)への展示していた。
この辺から、その人々を考古学的に遡って研究されている様だ。
また、居住痕跡として、
「(1)正保二年(一六四五)「陸奥国津軽郡之絵図」~中略~「狄村」:津軽半年に二ヵ所 夏泊半島に三ヵ所~後略
(2)元禄八年(一六九五)「下風呂村道丁絵図」に「狄屋敷」
(3)年不詳「三馬屋町家御絵図」に「かぶたかいぬ」「猫右衛門」の名前
※三厩周辺のアイヌ民族の居住地:宇田~龍飛に至る十五か村に四十一軒
→コタンは形成せず、村落の中に(村落周縁部)点在 ~後略」
「本州アイヌの生活と文化 ~津軽アイヌ都下北アイヌ~」 滝本壽史 『ふる里なんぶ 第九号』 南部町歴史研究会 平成27.7.11 より引用…
と言うように、古地図上では、別村→村落内周縁部に居住したとある。
これら古文書研究の先陣は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
この辺だろうか?
金田一京助博士が同様に「狄村の人々」を捉えている。
②定義…
「中世段階のアイヌ文化集団は現在のように一つの民族集団ではなく、地域毎に異なる複数の集団で構成されていたと考えられる。その一つとして本州島に居住するアイヌ集団を本州アイヌと呼称する場合が多いことから、本稿では東北北部に居住するアイヌ集団を本州アイヌと呼称する。」
「聖寿寺館跡出土の本州アイヌ文化関連遺物が示すもの」 布施和洋 『ふる里なんぶ 第四号』 南部町歴史研究会 平成22.7.23 より引用…
註釈に記載されてはいるのだが、どうやらこれが定義の様だ。
ただ、非常に気になる点…
中世時点で地域ごとにバラバラな集団である事を認めつつ、何故一つの集団化した後の呼称を使用するのか?
幾つかの市町村史には、纏まる前の段階は「プレアイノ」の呼称を提唱していたが。
とはいえ、本道での中世はあくまでも現状はこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
空白期間をどう解釈するのだろう?
又、ethnic groupやnationのどのランクを想定しているのか?
まぁこの辺は置いといて…
では、本命を。
当然ながら、研究をリードする方々の論文を読むのが常套手段。
が、引用文献がなかなか古書店らに並んでおらずやっと一冊入手出来たのでまずは入口として。
では、引用していこう。
「北海道島では、地域によって時期差はあるものの、一三世紀末から一四世紀頃にはアイヌ文化が成立したと考えられている。北海道島に住むアイヌと、津軽海峡を挟んで対峙する中世・近世の北奥社会が接点を持っていたことに疑念を挟む余地はないが、両者の関係は、従来、主として和人側に残された史料や、漆器や陶磁器といった北海道の遺跡から出土する本州産の遺物に基づき、説明、解釈されてきた。
北海道島のアイヌ社会に和人の手になるモノが存在するなら、反対に本州島にも北海道アイヌの物質文化に共通するモノが残されていてもよさそうなものである。しかし北海道島から本州島へ運ばれたものが、海産物や毛皮などの有機物からなる原材料を主としていたためか、下北半島や津軽北部にアットゥシ、アイヌ紋様を有する脚絆、マキリ、タマサイなどが僅かに残っている程度で、本州島には北海道島のアイヌの物質文化に特有と呼べるモノはほとんど伝世していない(1)。僅かき残るアットゥシなどにしても、明治時代に下北や津軽から北海道の漁場に出稼ぎに行った人たちが土産品として持ち帰ったものが相当含まれている可能性があり、必ずしも本州アイヌと関連づけられない。
そこで、本州アイヌの実態を明らかにするためにも、本州島の中世・近世遺跡から出土するモノのなかに、北海道アイヌの物質文化と共通する遺物がどの程度含まれているのか検討する必要が生じるのである。」
「本州アイヌの考古学適用痕跡」 関根達人 『北東アジアのなかのアイヌ世界』 榎森進/小口雅史/澤登寛聡 2008.11月 より引用…
これが「ふる里なんぶ」で布施氏が参考とした「関根2008」。
北海道でのアイノ文化系の遺物は、出土数は多いが年代決定の為の編年指標となる遺物が少なく、編年経過の研究が遅れているとしている。
そこで、本州で出土した物からフィードバックをかけられないか?…これが元々の主旨の様だ。
関根氏によれば、東北でも考古学やアイノ語地名,形質人類学らで古い時代には「アイノが東北地方の先住民か?」という論点でアプローチされていたと言う。
更に「ふる里なんぶ」にあるように古書記録上の「狄村の人々」らの存在に関心が寄せられ、上記主旨で本州側に住んでいた人々へ考古学から迫ると言うのが目的との事の様だ。
ここで北海道アイノの物質文化に由来するとしてピックアップされた遺跡とアイテムは、
1.浜尻屋貝塚…骨角器
2.太平貝塚…骨角器
3.脇野沢本村…蝦夷拵
4.宇鉄…蝦夷拵
5.十三湊…蝦夷拵,ガラス玉
6.浪岡城…骨角器,ガラス玉
7.根城…ガラス玉
8.聖寿寺館跡…骨角器
となる。
1の浜尻屋貝塚については、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/10/210623
一度取り上げているので参考として。
一応…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842
関根氏はこの刻印のある陶器は、アイノ文化的アイテムとはこの段階ではカウントしていない模様。
また、中世三戸南部氏の城館と陶磁器らの流通経路に迫った「室町・戦国期前半における三戸南部氏の城館遺構と流通経路」(布施 2020)でも、陶磁器を物流経路の指標としつつも、刻印ある陶器には全く触れてはいない事を付け加えておく。
また、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
この項で訪問時「???」された骨角器については、先に「浪岡町史」で確認をした。
中柄は三点で、骨角器は二点、木製が一点を堀跡から検出していた。
上記にあるガラス玉は、北館の竪穴建物と堀跡から数点検出と記載ある。
因みにこの北館は、浪岡(北畠)氏の家臣団や職人の居住区ではないかと予想されている。
元へ。
では、各アイテム毎に。
①骨角器…
骨角器は、浪岡城跡の中柄や、
浜尻屋貝塚らの銛頭らとなる。
鹿角、海獣骨、鯨骨、木製となる。
②ガラス玉…
ガラス玉は、考古遺物としては北海道が主で、東北では青森と平泉に古代末〜中世の物が出土しているが、それ以外の場所に同時代の物は検出していないとの事。
国内生産は奈良の飛鳥池工房後はや正倉院に伝わる「造物所作物帖」ら飛鳥,奈良期はある程度把握されてる様だが、中世は謎…
あれ?確か、浪岡城らでも関連示唆される朝倉氏の「一乗谷朝倉氏遺跡」にもガラス工房はあると思ったが…
ここでは、関根氏は北海道経由北方からと考えている模様。
ただ、我々はこんな事を捉えているが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/24/202610
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/27/184710
戦国〜近世なら、北陸経由で南方からも手に入れられただろう。
インドネシアでの生産開始状況にもよるが、そちらからなら大量に入手も可能かも知れない。→ここは宿題。
③蝦夷拵…
刀剣に興味無い方の為に解説を引用しよう。
「蝦夷拵とは、アイヌ好みの作風を有する柄・鍔・差や・小柄・笄などの刀剣外装を指し、本州で一四世紀から一六世紀頃作られた精巧なものと、江戸時代になって蝦夷地向けに作られた粗末なもの、本州で作られた刀装具をアイヌの人たちが自ら組み合わせたものがある。
その製作年代や生産地には諸説あって、意見の統一を見ていない。蝦夷拵の刀には、太刀と腰刀があるが、いずれも外装に重きを置いており、刀身がある場合でも大部分が鈍刀で、実戦に用いる事を想定していない。」
「本州アイヌの考古学適用痕跡」 関根達人 『北東アジアのなかのアイヌ世界』 榎森進/小口雅史/澤登寛聡 2008.11月 より引用…
この蝦夷拵を実際に観察して解説した文が面白い。
「今とて新に作り蝦夷に遺すは松前及秋田渟代等の麤鍛冶(筆者註:粗鍛冶)が作りたる鈍鍛ひなり蝦夷其鈍きこと詳に知れども夷の風武器を重寶とし之を持たざる者は一家の主と成るること能はざるにより之を求む。」
関根氏指摘の江戸期以降の粗末な物…これが「北海道の生き字引」が指摘する松前や秋田,能代の粗鍛冶が打った「ナマクラ刀」か。
それでもそれを持たないと一家の主と見なされないから手に入れた…と。
中世の武具は、今迄も取り上げた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/134005
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/13/213724
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/04/102950
むしろ北海道で出土する武具は、中世以前のものとされる物の方が希少性の高いのかも知れない。
関根氏の指摘する「精巧なもの」は、その辺も含むのだろう。
古代の「金銅兵庫鎖」など、かなり異常なレベルの様だが。
まずはここまで。
詳細はここでは割愛する。
何しろ、古代でこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/28/205257
中世でも、聖寿寺館跡,根城跡,九戸城跡からは金銀銅を熱した「ルツボ」は出土している。
仮に伝承的に言われた「蝦夷後藤」があろうと、居住地の武将が技術を持つのでわざわざ北海道から取り寄せる必要もないので。
さて、本書では、上記の様な考古遺物や「氏郷記」「奥羽永慶軍記」らも含めて江戸期の狄村住民から中世に遡り、夷狄らと表現された人々が存在したであろうと指摘する。
参考に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/210518
本書では、この部分は触れられていない。
九戸城の奥に居たのは何者なのか?
ではここで、我々が気になる事を。
刻印の陶器は上記の様に伏せたとして、骨角器特に回頭式銛頭やガラス玉ら貴重な遺物があるのは事実。
それらが出土した時代に、夷狄と記された人々が青森に居たであろう事は我々も同意である。
問題はその時代と対岸北海道の状況だ。
本州側のこれら特徴ある遺物は、
・編年経過が辿り易い貝塚…
・同様の城館…
に集中しており、ある程度確実な年代特定が出来ている様だ。
ピックアップされたところでは…
1.浜尻屋貝塚…14~15世紀
2.太平貝塚…17世紀後半
5.十三湊…15世紀中頃廃絶
6.浪岡城…16世紀廃絶
8.聖寿寺館跡…15~16世紀廃絶
ガラス玉の向田(35)遺跡を除けば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
ほぼ14〜16世紀に限定される。
なら、北海道の状況は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
関根氏や他で言われるアイノ文化成立期「13~14世紀ではないか?」…だが、むしろこの時期から北海道では「忽然と擦文遺跡が消える」のだ。
問うなら、現状「中世北海道と青森で、人々の居住が並立し得るのか?」。
・並立し得るのなら、同じ様な文化集団が双方に居たとなる。
・並立し得ないのなら、北海道→本州の移動痕跡となる。
この2つを想定すべきではないか?。
また、浜尻屋貝塚は安東氏との関係が示唆される。
南部氏の糠部進出に伴い、南部氏方の城館からそれらが出土し出す…この辺も興味深いところ。
こんな風に、遺跡の時代背景は考慮すべきだとは思うのだが。
我々は常々言っているが、
「全ての論を否定せず、全ての論を肯定せず、ただありのまま現物を並べる」…これがベース。
故に、反論しているつもりも無いし、まだこの点学び始めたばかりで、疑問点の抽出をしてるに過ぎない。
上記宿題に合わせて、少し遺物の抽出らもやって行こうと思っている。
この論と北海道側の論とを組み合わせると、面白そうだと思うからだ。
まぁ、少しずつ少しずつ…
参考文献:
「聖寿寺館跡出土の本州アイヌ文化関連遺物が示すもの」 布施和洋 『ふる里なんぶ 第四号』 南部町歴史研究会 平成22.7.23
「本州アイヌの生活と文化 ~津軽アイヌ都下北アイヌ~」 滝本壽史 『ふる里なんぶ 第九号』 南部町歴史研究会 平成27.7.11
「本州アイヌの考古学適用痕跡」 関根達人 『北東アジアのなかのアイヌ世界』 榎森進/小口雅史/澤登寛聡 2008.11月
「室町・戦国期前半における三戸南部氏の城館遺構と流通経路」布施和洋 『青森県考古学 第28号』 青森県考古学会 2020.3.31
「浪岡町史 第二巻」 浪岡町史編纂委員会 平成16.3.15