江戸のフィールドワーカーが北海道で見た物…博物館は二度目が面白い

これも、犬も歩けば何とやら…
筆者は酒田~鶴岡にもフィールドワークに行っている。

当初は、秋田城の動きを補足する意味で「城輪柵跡」や酒田市立資料館や致道館博物館へ。
その後、調べて行く内に、やはり江戸期の北海道との関係を見るには、北前船の事に注目が必要となった。
一度目訪れた時は先の通りで、目に入っていなかったのも、間抜けな話…
実は一度目訪れた時に北前船の特別展をやっていたのだ。
江戸の諸大名の関係を見るには、元々海運を牛耳る近江商人らとの関係らが必要となる。
その独占に、河村瑞賢が設定した西廻り航路に酒田等の商人達が参入する事で、風穴をぶち開けて行き、酒田の豪商らが生まれていく。
一度目の訪問では、それらがまるで抜けていた。
更に、酒田創成には伝説がある。
奥州藤原氏藤原秀衡の妹(又は妻)が、鎌倉方の奥州攻撃の時に貴下36人の武将と平泉脱出、秋田,庄内経由で酒田の地に逃れ、それが後の酒田36人衆の元となったとか。
二度目の訪問でしっかり、酒田と奥州藤原氏との伝承上の繋がりを把握。
この辺も反省である。

反省は続く…
二度目の訪問で既に北前船の特別展は終了していた…思い切り情けない。
そこで、特別展の資料を入手した。
そこで更に深い反省をする事になる。
菅江真澄に劣らない、江戸期のフィールドワーカーについての記事があるではないか…
林子平」もまた、北海道に渡った事のある一人である。
酒田市立資料館企画展「酒田湊と北前船-土地.もの.人の縁-」の冊子で、林子平が「三国通覧図説」を取り上げ酒田との関連説明していた。展示されたパネルは薄い記憶が。
三国通覧図説では図解含めて、アイヌ…いや忠実に「蝦夷」と敢えて書く、「蝦夷」の姿を描いている。
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下級の「蝦夷」は獣皮を着ている。
頭に被っているものは、本州の雪帽子が主で自作もする。
中下級の者は脇差を帯刀、タシロと言うマキリで、本州から渡る。
出刃包丁の類で、殆ど酒田で打たれている。
当時、ニシンを加工するにもタシロ(マキリ)を使い、全て酒田の鍛治が打ち、大量に蝦夷地へ運ばれた…と記載がある。

「三国通覧図説」は天明五年(1785)年の物。これ以前に林子平が北海道で会話をした「蝦夷」の庶民は、毛皮を着て、酒田からのタシロを使い、こちらから送られた雪帽子(自作も有り)を被っていた。
そう、雪帽子…藁で作った物は無かった為。
国立国会図書館所蔵の頁からパネルを作っていた。
林子平が絵に残した「蝦夷」は、アットゥシを着ていない…冬だからなのか?

更に酒田市商工会さんのHP覗いたら、1760年位で60軒近い鍛治屋が有った模様。
「三国通覧図説」を裏付ける。
山形の鍛治と言えば、日本刀なら月山派(鎌倉~室町に隆盛)があったので、仮にその流れを受け継げば、質は確か。
少なくとも、林子平が出会った「蝦夷」の人々は、ほぼ酒田のマキリを使っていた…
驚きの関係であった。

上記の様に、博物館,資料館を見るなら二度目が面白い。
増えた知識分、見え方や得られる情報量が格段に上がる。
その時の特別展も含め、機会あらば足しげく通う事をお薦めする。
たまたま、致道館でも業物、「信濃藤四郎」と、その拵え(初公開)も見れたし。

深い反省と共に、この情報をくれた江戸のフィールドワーカー…林子平に感謝。