近世アイノ文化完成への「仮説」…成立プロセスへの推論-1

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110
前項はこちら。
今までも、北海道史において、外部からの人の流入があったであろう事、それがどんな時代なのかは指摘していた。
ボチボチ近世の資料も見えてきたので、一度我々にどんな風に見えているのか纏めて仮説してみよう。

関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/11/054103
宗教具と言う視点より、アイノ文化は複数文化の融合である…これは概ね異論はないであろう。
但し、その源流は、従来考えられる北方系文化ではなく、擦文文化の考古学研究から本州系文化ではないのか?…と我々には見えると言う事。
文字がない設定である北海道史においては、特にアイノ文化についての詳細はその時点での「伝来の物品」と「聞き取り調査」の結果になる。
ここで問題になるのは、再三書いている様に、それが「何処まで遡れるのか?」が全く立証出来ない事。
北方からの文化流入が何時のものか?が解らない。これをオホーツク文化や「諏訪大明神画詞」に起源を求めても、中世遺跡が無ければ繋がっていかない。
更に、極端に言えば、聞き取り調査を昭和に行えば明治も江戸も鎌倉も昔と成り得るので、それらは別の手段で遡れる事を証明せねばならない。
ここも恐らく異論はないであろう。
あるなら確定しているが、史書も論文も「擦文文化期の終了&アイノ文化期の開始」時点を明確に示す事が出来てはおらず研究段階なのだ。
つまり、現状は「遡れてたとして」と言う「前提条件」の上で、通史が語られている訳だ。
ここを忘れてはならない。

擦文文化期が終了後、遺跡が極端に減る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
余市町大川遺跡や勝山館,志海苔館ら極限られた所しか中世と確証出来そうな遺跡は無いのが実状。
勿論、この時代にも十三湊陥落により、安東氏らと共流入する北東北の人々はいる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/01/115401
但し、元々北海道に土着した人々に比べ人数は少ない。
武家層や僧侶層が増えたとしても、民の文化は解離しており、従来の文化に対してエッセンスを加える程度だろう。
その後、明確且つはっきりと遺跡が出現するのは江戸初期。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/26/203315
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108
奇しくも、Ta-bら駒ヶ岳,有珠山,樽前山の火山灰降灰によりタイムカプセルの如く封印されたが故に残された遺跡。
江戸初期から何処の時代まで遡れるか?運用開始が何時かは明確ではないのだが、それぞれ、降灰よりあまり遡る事は出来ないであろうと言うのが共通見解である。

よって中世は一先ず置いて、この辺、織豊期~江戸初期位迄を起点に時代を下ってみよう。
全体の流れはこんな感じである。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/20/185453
さてこの時に、北海道全体に人が住んでいたのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
実はあまり明確ではない。
中世代の災害痕跡、遺跡の少なさやアンジェリス&カルバリオ神父の報告にある、「船で数日かけて、樺太方面や目梨方面からやってくる」と言う始末なのだ。
渡島半島以外の道内では人口密度が低い事は予想可能。
なので、擦文文化期からの末裔が居たと「仮定」しておく。

この場合、擦文文化を継承してるとすれば、かなり本州に近い生活をしているだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
何せ、北前船より近い時代は、海の藩境はガバガバで、フラり北東北から向かっても金を稼げた時代。
言葉が通じている。
更にここには、前項の通り、大量の金堀衆や全国からのキリシタン流入している。
先に江戸初期の状況として添付した白老アヨロ遺跡の和船や有珠4遺跡の畑跡らは、北東北と交流していた蝦夷衆でも、金堀衆でも説明が付く。
一気に人口密度が上がり、遺跡として検出可能となったと考えれば良いのだ。
勿論、これらの人々は鉄器を入手する事もそれを維持管理する事も可能であるし、畑作を行ったとしても擦文文化期に農耕痕跡は存在するので全く問題がない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/22/192105
この通り。
我々がこの擦文文化期からの蝦夷衆を鑑みれば、農耕は続けていたであろうと考える部分。本州に近い生活をしたであろうと考える元である。

勿論、宗教的にも本州の神道や仏教、山岳信仰に近いものであろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/15/141716
では、何故古い寺社が残されないのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/06/203305
流入した金堀衆&キリシタンは、従来の擦文文化期からの末裔より同等以上の多数派を占めたであろう。
大籠モデルで推定すれば、破壊されたり、教会に作り直されたのは想像に易しい。
そしてそれらは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255
ちゃんと文化痕跡として残されている。

が、寛文九年蝦夷乱により、従来の自治システムは徐々に崩壊していく。
更に火山噴火らにより、ダメージを受ける。
時同じくし、丁度ロシアの南下が重なってくる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
先述の通り、火山噴火らのダメージで空白が出来ている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
そこへ樺太,千島からの人々の流入
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/20/071952
それはこんな所にも記載されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
秋田県史には、ロシアから逃れる処か、ロシアに送り込まれたであろう人々まで記録されている。

同時に松前藩や幕府の東進も進んでいく。
この時期の場所拡大に伴い、蝦夷衆を連れてきたのは、当の蝦夷衆。
この時代の蝦夷衆の容姿は林子平が書き残す。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/04/224207
見事な階層社会。
従来からの擦文文化期の末裔や金堀衆&キリシタンは災害ダメージ。
本州からの出稼ぎは季節労働
新興勢力は樺太,千島からの流入者になる。
蝦夷衆の長らは擦文文化期らの末裔や、新規流入者の長であったであろう。
だが、幕末に向けて、それら長らと末端にいる労働者層の勢力が逆転する。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
「新シヤモ」の台頭。
林子平の描いた容姿では、労働者層が自前で編んだ「アツシ」を着ている。
幕末らの絵図でもそうなる。
我々は早くからこう述べていた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/175633
幕末らに見られる、近世アイノ文化には北前船の存在が不可欠なのだ。
そして、北方から流入する文化も必須。
更に、労働者層の容姿には、この要素が欠かせない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/121516
北海道有史以来継承されている「紡績=糸を紡ぐ」文化が、近世アイノのみ持っていない。
そして、それらは言語でも言える事。
教育ら以前に、場所請負らで本州からの人々と接触が増えれば、当然言語が混ざってくる。
だが、近世アイノは独特の言語と言われる。
但し、それが明治でどうだったか?
子供らもお互い接触する様になり、1~2世代でバイリンガル化していっているのは報告されている。
外部では、本州の言葉、家庭ではアイノ文化の言語と言う様に。
故に、場所請負らに近い仕事を営んだ「新シヤモ」らはとっくにバイリンガル化し、あっという間に同化したであろうと推定可能。
勿論、同化政策に賛同している訳なので、住居その他の文化痕跡は本州の人々に近付いていたであろう事も推定可能。

以前、北海道出身の方とこんな話を筆者はした事があるが、さすがに「新シヤモによる勢力逆転」は頭に無かった模様。

さて、どうだろうか?
仮説…
「近世アイノ文化の完成は江戸中期以降且つ従来から居た本州に近い生活をしていた人々に、ロシアから逃れ樺太,千島から流入した人々の文化エッセンスが混じり完成された」

この仮説なら、擦文文化期以降,近世アイノに存在する文化断絶…ミッシングリンクが存在せず解消されている。
従来の様に、ミッシングリンクがある仮説の方が不自然だとは思わないのであろうか?
我々グループは検討開始からさもない期間で、そう考えていた。
複数人数のブレーンストーミング手法で持ち寄った資料を検討したので、自ずと「本当か?」「物証は?」と自己批判の連発を繰り返したもので、ミッシングリンクを受け入れている現状自体に疑問を持ったのだが。

故に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/30/043133
蝦夷=アイノではない」
蝦夷にアイノは含まれる」
と言ってきた。

そして…
北海道と東北は古代から繋がっている。
それが途切れた事はない。

我々は一貫している。