首桶の衝撃…アイヌの漆器の謎

メンバーの一人が、ある疑問にたどり着く。
資料館を見ていての疑問…「何故アイヌはこんなに漆器を?」
あちこちの資料館に展示される漆器の数々…
それも輪島や津軽の物がメイン。
妙に目を引いたのは、おびただしい数の「行器」。
元々は平安期より、食べ物を入れ運ぶ為の箱らしく、寺社への寄進の供物を入れたりもした様だ。
アイヌ文化を持つ人々は「シントコ」と言って、祭祀で酒(どぶろく)を入れたり家の格を示すとして珍重したとか。

が、そこは我々はアマチュア軍団…
議論は、「この行器とは何者か?」から開始される。「解らない」ところからスタートなのだ。
故に、「それは違う」等と否定なぞしない。
持ち寄った事実を積み重ねる事が信条。中で間違い有らば勝手に修正されていく。
むしろ新たな疑問が沸々と沸いてくる。
「何故家紋がつけられている?」
「何故古そうな物が無かった?」
「何故同じ物を大量に持つ必要ある?」
これが、
「江戸期で武家の家紋はマズイやろ?」
武家から下賜か?」「殿様の物にしては蒔絵の豪華さが無いぞ…」的に膨らむ。
ブレーンストーミングさながらに問題が積み上がる。
疑問が収まらなければ、SNSで情報収集依頼したりもあり…納得する迄掘り込む。

引っ掛かりが消えない一人が、某漆器屋に取材を敢行…
背景の断片を伺って来た。
武家での行器の使用法の一つは合戦時の「首桶」である。
②「首桶」である以上、家紋が入って当然。
(大将の首が恩賜の証拠になる為)
武家が解体された明治維新時、需要は激減する。
④ダブついた「行器」だが、さすがに知っている人は気持ち悪がり買わないので、売り捌く先はそれなりになり、売り捌く時期も古物商含めて、明治,大正が多かったと思う…
こんな感じ。

だとすれば、漆器屋が二束三文で売り捌いたり、当時貧困していく武家から古物商経由で流出したりするのは有り得る。
比較的新しい物が多い事も含めて。
また、何故か海外流出している利用にもなる。納得…

勿論、これらを「アイヌ文化におけるシントコの位置付け」的な学術論文とするなら、当時の物流量を再度漆器屋,古物商で調べたり、文化論を掘り込む作業をしていけば可能となるだろう。
が、さすがにそこまではやっていないしやってられない。
それだけ調べたらOKなぞと言う甘い話ではないからだ。
何せ数千年のタイムトラベルをやっている様な物…そんな暇ある訳は無し。

昨今、ディベート的な風潮は強い。
論破するしないなぞと言っている。
が、我々はそもそもスタンスがブレーンストーミング
考えてもみて欲しい…
そもそも定説も通説も出来ていない所で、答えなぞ出る訳も無いし、証明出来る物証は何も無い。
ディベートするだけ本来時間のムダなのだ。


結局、これもペンディングである。
何故なら、「アイヌ文化を持つ人々は、行器を本当に「首桶」と知らなかったのか?」…
こんな疑問にたどり着く。
古い出土品もなく、文化形成に置ける意味合いを証明する物証は現状何も無い。
遺跡の出土でも有らば、そこからまた議論再開すれば良い。
そもそも、この「首桶」がいつ頃から珍重されたのか?が、決定的に「解らない」のだ。
それを、時代毎においかければ、文化がどうやって出来ていったのかを追いかけられるだろう。
だが、何故か「どうやってこの文化に至ったのか?」を口にする方は少ない。
出来上がった文化のみを見て、それがどうやって出来たのか疑問に思う事すら無いのではないか?

ネタなら幾らでもある。
江戸期辺りで書かれた風俗の絵画の中で、全く描かれていないのに、現代伝わっているとされる物がある…

「それ…何だ?」

そんな疑問すら持たないなら、紐解けるハズも無し。