本当に「アイノ文化のもの」と断言出来るのか?…発掘者本人が記す「シベチャリ・チャシ」の発掘印象

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/26/170401
ここに繋げていこう。
アイノの天下を作ると豪語し蜂起したと巷で言われる「アイノのヒーロー」シャクシャイン
まぁ我々的には、その経緯や地質学視点から見えるのは非道なジェノサイダーとも見える。
その居城とされるのが、静内にある「シベチャリ・チャシ」。
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巷の話では何度か発掘され、そこには本州で作られた物しか検出されず、アイノ文化の痕跡は無い…である。
が、疑り深い筆者は、発掘調査報告書を入手し確認してみたいと思っていた。
だが、検索したりしてみたがなかなかヒットしなかった。
が、たまたま入手した本に、何故発掘したか?等簡単に経緯と結果が書いていた。
初回発掘は「藤本英夫博士と静内高校文化人類学研究部」だそうで。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/13/082543
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/18/105718
では、それらを引用していこう。

「この乱(筆者註:寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱))について、高倉新一郎教授(北大)は『アイヌ政策史』のなかで、次のように指摘している。「シベチャリの乱の範囲が内地人とある程度まで密接な関係を持つ地方であり、そのいまだ及ばざる奥地は返って超然とし、あるいは松前氏と和を結んだ事実は、この乱が内地人商業資本の侵入、支配、ならびにその害毒に対する反抗であったことを裏書きするものであろう」。それでは、高倉氏がいわれる「商業資本の」エゾ地へと「侵入」、そしてアイヌに与えた害毒はどのようなものであったろうか。エゾ地をさまよった日本人の記録になよらないてま、それを探る方法はないものだろうかと、私はその一番いい方法を考えてみた。そして、私はシベチャリの乱のヒーローであるシャクシャインがたてこもったとされている「シベチャリのチャシ」の発掘調査をしてみることにした。」

「シベチャリのチャシといわれている城は、静内川の川口近くに、三つ並んで一組をなしている。いずれも一〇〇メートル前後の急峻な崖の上にある。川口よりのほうから、私たちは地元の人たちがいま呼んでいる地名にちなんで、①入舟チャシ、②不動坂チャシ、③シンブツチャシと名づけているが、シンブツチャシには、シベチャリの乱に関する伝説はない。チャシの調査は、一九六三年(昭和三十八年)七月の末、炎天の太陽の下で行われた。夏休みを利用して静内高校文化人類学研究部の生徒たちは、一週間にわたって、一〇〇メートルの急な崖の道を往復した。」

「不動坂のチャシの先端部近くには一〇〇メートル近くの幅広い溝がある。もとは、これよりさらに外側に、二本の溝があったのだが、その二本はいまは畠になっていてわからない。その端だけが、崖ぎわに跡をのこしている。一〇メートルの内溝に区切られた先端は平らなテーブル状になっている。内溝を直角に切るように、幅二メートル、長さ四〇メートルのトレンチ(発掘区)で調査が進められた。表面の牧草から約二〇センチの黒土を取りのぞくと、一〇センチくらいの厚さの火山灰層がある。この火山灰は、一六六七年(寛文七年)に噴火した樽前岳のものであり、樽前層b火山灰(T.b層)と呼ばれている。遺物は、この火山灰の上・下から豊富に発見された。とくに、トレンチの中ほどにには、二メートル四方くらいの倉庫かと思われる跡が見つかった。この倉庫は火山灰を切って、約五〇センチほど掘り下げて竪穴状をなしている。だから、これは火山灰降下よりあとにつくられたものである。竪穴状掘り込みの外側には、向かい合って六本の柱穴があるが、この柱穴は真っ直ぐに立てられているからここに建てられた家に、 屋根があるとすれば、切妻造りであったろうと思われる。」

「この倉庫の中から見つかったおもなものは、鉄器、漆器、木器、陶器、布類である。」

「まず鉄器。直径四五センチくらいの大きな鉄鍋の中から、鉄の斧が二つ錆びついて発見された。鉄ナベは、有珠の善光寺前の古いアイヌぼちゃっで発見されたものと同じタイプのもので、柄をつける耳の穴は一つであった。斧はいまのものと変わりない。この鍋の下には、アイヌが鮭をとるときに使うマレックという釣り針のようなカギが一つ。これは、長い木の竿の先につけて、川を上ってくる鮭を引っかけるもので、やや小さいものは鱒をとるときにも使われる。」
「次に漆器類であるが、これは二メートル四方の一面に、足の踏み場がないほどに散らばっていた。お椀、お盆、皿などそのうちの一枚の皿のそこには、十三の数字が書かれてあった。津軽との交易を考えて十三湊の印ではないかというような意見が、調査に参加した人たちからだされたが、あとから調べると、ほかに一という数字のものが出てきたので、そうではないようである。」
「瀬戸ものの湯呑み茶碗もあった。」
「また、直径三〇センチくらいの樽のふた、それから絹と綿の布地が折り重なって見つかった。」

「そのどれもが、日本製品であって、一つとしてアイヌの手によるものがなかった。木製品のなにかに、いわゆるアイヌ紋様でも彫り込まれていないかと注意したけれども、見つけることができたかった。もし、北海道という地理的条件を、頭から取り去れば、本州のどこかの江戸時代の遺跡としても不思議のない遺物の組み合わせである。アイヌの伝承-シベチャリの乱の年代ともよく符号するこの遺跡の遺物。江戸表や、松前城下で避難騒ぎまで起こさせた戦争の、アイヌ側の大将、シャクシャインの本城とは思えない遺物のたたずまい。戦争の匂いのするものは一つもないのである。」

「調査面積がせまいので、今後の調査によりどのような遺物が見つかるかわからないが、有珠アイヌに副葬されていた鍋や漆器といい、またシベチャリのチャシの遺物といい、ともかく一六六七年の樽前岳噴火の前後、つまり江戸初期ごろのアイヌの生活の一面を、私たちは知ることができたのである。有珠と静内といえば、地理的にみて松前領や本州とは近い場所にあり、日本人商人が一番よく活動したところである。アイヌの天下をつくるのだと豪語しながらも、その彼らの生活は、有珠、静内の遺物にみられるように、おびただしい日本製品-彼ら本来の道具より便利な-にたよらざるをえない矛盾がある。私は、そこにアイヌの宿命のようなものを感じたのである。」

アイヌの墓」 藤本英夫 日本経済新聞社 昭和39.9.10 より引用…

やっとみつけた、発掘本人のコメント。
「シベチャリチャシにアイヌの物は無し」…よく聞く話だったが、発掘者の感想がこれ。
全く寛文九年蝦夷乱に関係しそうな物やアイノ文化を象徴しそうな物は何もなかったと感想を述べている。
その後の発掘の状況らは、調査報告書らがヒットしないので現在把握出来ていないが、2014年にレーザー探査で空堀と思われるものを確認したと言う論文はネット検索で読む事は出来た。
勿論、非破壊調査なので、遺物の出土はない。


さて、問おう…
有珠、静内に暮らす人々、シベチャリチャシを構築したのは、本当にアイノ文化を持った人々だったのか?
違うのでないか?
何故この事に疑問を持たないのか?
そちらが疑問。
そんな視点を持てば、最低限、次のような疑問は出るだろう。

①そもそも、シベチャリはアイノ文化を持つ人々が作った物なのか?否か?
②本当にアイノ文化を持つ人々構築していたなら、これは本当にシャクシャインのものか?否か?
③否ならば、シベチャリ・チャシを構築したのは誰か?
④③なら更に、この時代この周辺に居たのは誰か?何の目的で構築したのか?

こんなところか。
少なくとも、いずれにして遺物内容からすれば、
アイノ文化以外の人々がここに居た…
又は、この時点で既に共生…
この二つを考える必要があると思うが。
何しろ、関連項にあるように、渡島半島~有珠周辺には、とても後の古書と合致しないような、立派な畠の畝の検出を見る。
まさか、土器同様に「忘れてしまった」等と言う程に期間が空いた訳でもあるまい。

我々が報告してきたチャシ関係、
ユオイ,ポロモイ・チャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201533
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
チャランケ・チャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801
瀬田内チャシ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/02/070949
これらでも、中世まで遡れる物はなく、それどころか明確にアイノ文化を示す物は無い上に、近いものがあるのは幕末~明治に極近いであろう時代のものばかり。
メンバーやSNS上の話でも、口伝のみで物証を伴う話には至ってはいない。
疑問を持って当然なのだ。

さて…
チャシの構築者は誰?
ここに居たのは誰?
少なくとも、古書上で登場する人々は「蝦夷衆」以外にもいた。
金堀衆、鷹侍、そしてキリシタン
彼らなら石垣すら構築し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
こんな話もあるのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/22/101835
何故、こちらのアイノ伝承は無視するのか?…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849

シャクシャインは本当は何者なのか?
それも含め、いずれにしてもまだ史実は闇の中。
それは変わらない。
ただ、技術論まで加味すれば、こちらの方が蓋然性が高くなると思うのは我々だけだろうか?





参考文献:

アイヌの墓」 藤本英夫 日本経済新聞社 昭和39.9.10