これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」

さて、こちらを前項として…

直前で書いた様に、論文,著書を読んで引っ掛かりや疑問,違和感を感じたら、原版迄遡る…これは我々のモットー。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

こんな感じだ。

なら前項で感じた違和感でも、同様に実践しようではないか。

違和感を感じた部分を再度引用してみよう。

「「シンポジウム アイヌ』の歴史認識の、もう一 つの重大な問題性は、同様の論理を、過去の文化集団だけでなく、近現代のアイヌ文化にもあてはめようとすることである。そこでは、近現代に大きな変容を被ったアイヌ文化・民族は、もはや「真正のアイヌ文化」とはみなされなくなってしまう。

「シンポジウム アイヌ」と同年に発表され、今日も大きな影響力を有する渡辺の学説にも、 同様の課題を指摘できる。渡辺は、「アイヌ文化」とは「民族学的に周知のアイヌの文化」「民族誌的現在に於けるアイヌの文化」であるとして、 「アイヌ民族アイヌ民族たらじめてある中心的文化要素は何か」「それがなければアイヌとはいへなくなるような基本的文化要素は何か」と問う。そして、「アイヌ文化の中核(真髄)」を、 「クマ祭文化複合体」と規定する。

和人研究者が「典型的なアイヌ文化」「アイヌ 文化の本質」を抽出し、定義しようとする行為に対しては、佐々木昌雄による厳しい批判がある。 佐々木は、「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」とまず考えているのだということである」とし、「〈アイヌ〉だけを厳密に規定しようとして我が身(シャモ)がスポッと抜けおちているような発想」として、「日本史」 と「アイヌ史」とのあいだの不均衡、非対称性を鋭く指摘した。

上記の議論は、現実に生きる人々、現に存在する集団を、他者が「定義」しようとすることの権力性をあらわにしている。

1989年採択のILO169号条約第一条2項は、先住民族の集団性に関する基本的な判断基準として、自己認識(self-identification)を重視する。また、2007年の国連宣言に結実する、コーボ報告書(1983)の論理や、先住民作業部会(WGIP)の議論も、「定義は本来、先住民族自身に委ねられるべきもので、自らを先住民族と決定する権利が先住民族に認められなければならない」ことを強調する。今日、先住民族において、その「定義」や、集団のメンバーシップの決定は、当事者による自己決定権の重要な一部としてとらえられるようになっている。考古学や歴史学も、こうした現代社会の動向に向き合い、対話していくことが求められる。」

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀 『季刊考古学別冊42 北海道考古学の最前線』 2023.6.25 より引用…

 

違和感を感じたのは…

①文化成立解明の論文が、何故か民族論にすり替わる点…

②「ここにいわれているのは。〈アイヌ〉 の〈アイヌ〉たる所以、〈アイヌ〉の特徴を「絵葉書でみるアイヌというもの、一般にアイヌ的といっている顔や身体つき」…と言う揶揄…

③我々が先に読んでいる、活動家第一世代の主張との異差…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509

「この時点での公式見解-39…アイヌ協会リーダー「吉田菊太郎」翁が言いたかった事」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430

「協会創生期からのリーダー達の本音…彼等は「観光アイノ」をどう評価していたのか?」…

古いアイノと新しいアイノ、更には観光アイノを分けて考えて欲しい…これが第一世代の主張。

④学術的探求に、政治的判断を持ち込んでいないか?         etc…

我々がド素人で何が問題か?理解出来ないだけなので、こんな違和感を持つのか?…こう顧みてみるなら、当然その問題視された「渡辺仁 1972」を確認すりゃ良いだけの事。

この論文は、何度か当ブログにも引用している『考古学雑誌』に掲載されている。

公立図書館でも(全巻とはいかないが)、普通に所蔵されているので、読もうと思えば普通に読める。

さて、まずは背景。

本論文が出されたのは1972年だが…当時の世相の一部を改めて貼っておく。

野幌森林公園開園が1968年、北海道開拓記念館開館,百年記念塔一般公開が1971年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/28/210128

「開道百年記念行事と道立野幌自然公園とは?…報道視線からその目的らを見てみる」…

道庁爆破事件が1976年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116

北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」…

この主張も1976年。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

丁度、この開道百年記念行事の一環で式典らが実施された直後に発表された論文だ。

又、1970年初から赤軍派中核派ら過激派の活動が活発化して、浅間山荘事件が1972年、東アジア反日武装戦線による爆破事件が1974年から、そして直接の関与はないとされるが精神的主柱とされた太田龍氏の「アイヌ革命論」が1973年である。

何故、ここをクローズアップせねばならなくなるのか?

箕島氏が民族論を出す以上、この当時の世相や「アイヌ革命論」は抜く訳にはいかなくなる。

政治的判断は世相に左右される。

佐々木昌雄氏の反論も、こんな世相の中で行われたのは事実。

我々的には、触れずにしらばっくれる訳にはいくまい。

切り離すなら切り離す…

接続するなら全て接続…

当然の事だ。

では、冒頭から引用してみよう。

アイヌ文化の起原の問題が広く民族・歴史、考古諸学の分野にまたがる問題であることはここに改めて論ずるまでもな からう。しかし従来の研究の実際面をふりかへつてみると、それらの各分野の研究がそれ自身の分野だけに限られる傾向 が強く、相互の接点を追求し、或は進んで他分野まで統合するやうな研究は乏しかった。概して言へば、それら諸分野の 研究は通常は互にすれ違ふか、または断絶を余儀なくされてきた。例へば考古学の側では先史時代からの石器土器等を指 標にして時代の新しい方へと起原を追ひさがってくる。民族学の側ではアイヌの社会組織とか言語等の特徴を指標にし て、民族史的復原法によつて、起原を追ひあげてゆく。このやうな状態だから初めから両アプローチには共通の言語らし いものが存在しなかつたといつてもよい。とにかく従来のすれ違ひや断絶を克服するためには、先づ初めに、過去現代を通じて相互に而も実際に追跡可能な指標を探し求めなければならない。要するにアイヌ文化といふものを、民族、歴史、 考古諸学共通の視点乃至立場で、いかなる面からどのやうにとらへるかといふことである。そこでこの論文では、アイヌ文化の起原或は成立を追求する方法として次の如き新しい試みを行なった。その要点は、(一)アイヌ文化を個々別々の文化要素としてではなく、まとまった一群の代表的文化要素群としてとらへ、また追跡すること、(二)アイヌ文化を物質的側面から、或は物質面とのつながりに於てとらへること、である。」

アイヌ文化の成立  −民族・歴史・考古諸学の合流点−」  渡辺仁  『考古学雑誌第58巻3号』  より引用…

「シンポジウム アイヌ」もそうなのだが、百年記念行事らで北海道に対し視線が集まる時期であり、そんな理由で論文が出されたりシンポジウム開催らが行われた事は想像に易しい。

引用文にあるように、それまで研究は考古なら考古、民俗なら民俗とバラバラに検討され、考古は時代を下り民俗は時代を遡る…こんな風に接点が希薄だったと渡辺氏は述べる。

視点がそれぞれなのだから、それぞれの点なり線なりを結びつける「定義」が必要になる。

そこで渡辺氏は、

「アイノ文化の中心的文化要素は何か?」

「それが無ければアイノ文化と言えなくなる文化要素は何か?」

「アイノ文化の屋台骨又は大黒柱たる要素は何か?」

これを検討した様だ。

勿論、文化要素は単一ではない。

それでまずは、それぞれ本州文化と異差がありそうな個別のアイテムや要素を抽出して並べ配列、その中心にあるのが何か?を導きだそうとした。

抽出されたのは、

クマ祭…

神窓(住居の宗教的構造)…

クマ猟…

マッポとスルク(狩猟具)…

毛皮交易…

イコロ(宝物→資産)…

イナウとマキリ…

シネ・イクトバ集団(家紋で括られる集団)…

サケ漁とコタン…

マレック(漁具)…

ここで渡辺氏が辿り着いた「中核的,真髄的要素」が、「熊送り」をベースとする「クマ祭文化複合体」。

突き詰める過程はこんな感じである。

・熊送りには、獲った熊or育てた子熊のどちらを送るかで文化圏が分かれる。

アイノ文化は後者…

・住居の神窓は神聖視されるが、この住居構造は「飼育型クマ祭」文化圏より広い…

・子熊を得る為の熊猟の狩猟具の発展度…

・熊猟の発展度を即する要素は毛皮交易…

・毛皮の対価で得られる資産要素…

・同様に得る鉄器と、それで加工される宗教具…

・その宗教具に描かれた家紋的刻線とクマ祭や熊猟を共同作業する集団要素…

・集団要素を維持する為の食料要素としての鮭漁と定住性、そして猟具…

これらからはそれまでの渡辺氏の研究や論文でそれぞれの要素が指摘されていて、それらから集大成的に導き出された文化構造の三元図がこれになる。

・社会的側面…「定住性集落形成」

・流通,経済的側面…「金属器の普及」

・宗教的側面…「飼育型クマ祭の確立」

で、この三要素がそれぞれの変遷過程を経て、揃った段階が「クマ祭文化が成立」し、それを民俗,歴史,考古の各分野から追い求めれば良いと提言している論文なのだ。

特に渡辺氏が言及しているのが、「形成段階は考古学的証拠による追求が可能」としている部分や、土器終焉を指標とした時代区分「アイノ文化時代」とこれの区別は明確に認識すべきだと結語で述べる。

如何だろうか?

実はSNS上でもこの渡辺仁氏の考え方について話をさせて戴いた事がある。

このモデルだと、アイノ文化完成は「飼育型クマ祭」開始後。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

最新刊でも熊送りのルーツをオホーツク文化に見るのは問題点があり、文献上で「飼育型クマ祭」が登場するのは18世紀、さらにそれは現存する伝世品のガラス玉の調査年代と概ね一致。

当初、我々が文化完成に必要な要素としてきたのが「北前船就航」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/175633

「「江戸のフィールドワーカーが北海道で見た物」あとがき…やはり「北前船辺り迄」」…

また、文化拡大の変化点として挙げているのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

商場知行→場所請負への変遷による「雇用創出」。

この辺も、大体タイミングとして一致してくる。

我々の考え,見方を渡辺モデル1972に当て嵌めても、結果はほぼ同様になるだろう。

 

ここで、関根氏の渡辺氏に対する評価はこちら。

「駒井の後に東京大学文学部考古学研究室の教授を務めた渡辺仁は生態人類学を専門とする。渡辺は生態人類学が構築したモデルを考古学的事象に適用することで、縄文社会が階層化社会であることを証明しようと試みた(渡辺仁一九九○「縄文式階層化社会」六興出版)。すなわちアイヌをはじめとする北太平洋沿岸の定住型狩猟採集民の社会階層化、工芸・技術の高度化および特殊化を調査し、階層化した狩猟採取社会に共通する構造モデルをつくり、それに照らしあわせて縄文社会を階層化した社会と 結論づけたのである。

渡辺自身も北海道でのフィールド調査を手がけているが 、彼の関心は目の前のアイヌ民族ではなく、北太平洋の狩猟採集民全般やその先の縄文人に向けられていたといってよいだろう。渡辺にとってア イヌ社会は縄文社会をうつす鏡であって、民族調査で得られたデータはアイヌを研究するためではなく縄文を理解するための「手段」として使われた。それは、琉球が古代日本をうつす鏡と考えられ、 日本文化研究の「手段」として言語学民俗学による琉球研究がおこなわれたのと同じ構図と言ってよいだろう。」

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…

SNS上の話でも、渡辺氏の最終目標は縄文での社会構造の解明で、アイノ文化形成,成立は、その過程の一つの研究だった様で、縄文の社会構造に関してはあまり精度よくモデル化出来てはいない様な事を教えて戴いた。

当然と言えば当然で、関根氏の指摘にもある様に、渡辺氏は北海道へのフィールドワークで聞き取りをして民俗要素のベースを研究していった。

熊送りらが行われた時代からそんに離れた時代ではないし、文献補完も可能。

だが、縄文時代となると聞き取り調査は不能な上ほぼ考古学からの想像,仮説に基づく事になるし、現実発掘調査はバブルに向かう1980年代に活発化、そこから地道な研究が進められ今日に至る。

渡辺氏の手元のデータで抽出出来る事は限られていたであろうから差異が出てくるのも当たり前の事だった事になる。

縄文とアイノ文化でのモデル精度の違いはこの辺から来るんだろう。

 

さて、如何であろうか?

敢えて、渡辺氏の他の論文を引用する必要はなさそうだ。

民俗要素抽出にフィールドワークによる聞き取り調査が使われた事は関根氏が指摘している。

他の論文には、誰からどんな話を聞いたか?らも記述がある。

そして、この「渡辺モデル1972」に考古成果を当て嵌めると、社会,経済,宗教を3視点から文化形成過程が導き出せる訳だ。

渡辺氏は上記の通り、何時からどの様に…こんな考古成果を当て嵌める行為は全く行ってはいない。

モデル化しただけ。

故に政治的判断によるヘイトのレッテル貼りも不可能。

ここで、冒頭の社会背景を思い出して戴きたい。

百年記念行事でクローズアップされた事で各研究が進み、定義研究の話迄至る。

ボチボチ各研究視点の成果統合の兆しは出ていた訳だ。

ここで、関根氏も触れている「社会活動の活発化」…と言うより、過激派の活発化でそれらは尻窄みになっていく。

当然、過激派寄りの意見も出てきて、「政治的判断による論へ論点すり替えざるをえなくなった」…この辺迄は想像に易しい。

この成功のせいか、現在でも反論できなくなると論点すり替えは巷でよく見る。

江戸期に文化完成となると、従来から言われる「先住性」とやらに問題も出る。

箕島氏指摘の「自認」の話も…

いやいや、その辺は全く次元の違う話である。

筆者の様に「エミシの末裔」を自認しても、別に文化形成過程を学ぶ者も居るし、アイノ文化の源流には筆者の先祖たる「エミシ部分の影響」がある。

血統的には「ご近所さんの血を引く」人は居る訳で。

それに加賀家文書一連で述べた通り、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/18/210005

「江戸期の支配体制の一端…「加賀家文書」に記される役アイノ推挙の記録」…

既に幕府や東北諸藩から労働力の担い手として「戸籍登録」され、場所請負人へ貸出された人材。

且つ本州以西同様の「宗門改」対象者。

この段階で同じ国民としてのベースが出来ている。

極右主義者の「侵略者」なんて話は馬鹿げた話…まぁロシアの意図により移住していない限りだが。

ちゃんとプロセスは経ている。

ましてや明治からの移住なら、何の問題も無かろう。

「夷狄」らの表現は既に幕末で行ってはいない。

土着した人「土人」と表現が改められているのでは?

そう考えれば、一連の撫育や保護法は、一種の貧困対策として行われたと解るのでは?

「旧土人保護法」の条文を見れば辻褄は合う。

故に、吉田菊太郎翁始めとした活動家第一世代はあんな主張をしていた…大体辻褄はあうし、1970年代の状況と重ねても矛盾は出ない。

大体、「多民族が設定した定義が〜」なぞ、通じないと思うが。

概ねの文化論は欧米式研究から生まれた物。

ついでに言えば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/07/161111

「何故、古書記載の「アイノ」ではなく、「アイヌ」なのか…名付け親「ジョン・バチェラー遺稿」を読んでみる」…

外国人であるジョン・バチェラーが私的に作った呼称を有り難く使っているのは何故なのだ?

本ブログでは古書記録に基づき「アイノ」としている。

ダブル・スタンダードにはしない。

毎度言っている話…「研究によるアップデート」は必要。

 

参考文献:

アイヌ史の時代区分」 簑島栄紀 『季刊考古学別冊42 北海道考古学の最前線』 2023.6.25 

アイヌ文化の成立  −民族・歴史・考古諸学の合流点−」  渡辺仁  『考古学雑誌第58巻3号』  

「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15