仮説が成り立つなら、石工を追える…生きてきた証、続報12

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/25/104404

前項を受け、何気に思い立つ。
思い立ったら吉日…山形は遊佐町で「竈はあるか?」を敢行してみたら?
と、言う訳で「遊佐歴史民俗学習館」を訪問してみた。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1300217224456622080?s=19

詳細はこちらで。
勿論、説明員さん独りの聞き取りで全て立証出来る訳ではないが、
七厘はあった…
土の「竈」はあった…
石の「竈」は見た事、聞いた事が無い…
との事。
実際、「浦田七厘」の件では、七厘は石の「竈」たる「へっつい」の延長線上ではあるが、そう言えば他県で見た記憶が無いのである。
ここで、石工の痕跡、男鹿石の五輪塔が十三湊と鶴岡に残されている事を鑑みれば、話の辻褄があい、スッキリするのである。

畿内の石工集団は需要と共に、石材調査しなから北上…
ここは、既に仮説化されている。
定着と共に、収入安定化の為に、生活用具も作り出す。ここは前項まで。

ここで、遊佐町に「へっつい」文化が無いとすれば、「へっつい」は石工の定着のバロメーターと成りうると言う事。
「へっつい」と言う単語と文化が有れば定着、無ければスルーし北上した、と言う事。

これも、石工とへっついを繋げる根拠として、それぞれを裏付けする材料となるのではないか?と考える事も出来よう。

たまたま、稀少性高い石材が確保出来るか出来ないか?ではあるが、それが文化を生むか生まないかのボーダーラインになっていく。
思い立つままの訪問ではあったが、確認出来て良かったと思う。

何気にヒントが入手出来た。
実は、「竈探し」を超越して、石工の歴史迄紐解いているのかも知れない。