「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

さて、これを前項とする。

 

ここ最近の論文,文献読みで、筆者の大好物が複数引っ掛かる遺跡があった。

一つ目の引っ掛かりは「螺旋状垂飾」。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/18/061134

「和鏡特別ミッションの続報…「国見廃寺」と俘囚長安倍氏、そして道具に対する解釈は?」…

「・常呂町ライトコロ川口遺跡 13 ~ 14世紀  11点 墓(廃絶した擦文竪穴住居址内に造成。ガラス玉約70点)」

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 より引用…

そして二つ目の引っ掛かりは前項より…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

「現時点では、十四世紀中葉~十六世紀中葉以前とされる鉄鍋のさらに個別的な年代は得られていないので、ライトコロ川口十一号上層遺構における内耳土鍋、同鉄鍋、そして機能強化を窺わせる結頭の存在から十五世紀前集前後にはアイヌ文化が道東部においても確立していたと考える。」

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」 小野裕子アイヌ文化の成立と変容』 法政大学国際日本研究所 2007.3.31 より引用…

「螺旋状垂飾」に「内耳土鍋と内耳鉄鍋の共伴」があるという「ライトコロ川口遺跡」だ。

更に臭うのは、

・擦文の竪穴住居に更に掘り込んだ墓…

・十一号「上層」遺構の「上層」って何?

である。

なら、また入手して確認せねばなるまい。

と言う訳で、これも原版へ遡り報告しよう。

 

発掘したのは東京大学のチーム。

1970年代初頭の常呂周辺の発掘調査の延長上で偶然見つかったもので、初期調査段階では標高2m程度と低い為に遺跡はまず無いものと考えられていた様で。

立地はライトコロ川がサロマ湖へ注ぐ河口の西側。

では、基本層序を。

Ⅰ…表土…10~15cm

Ⅱ…粘土層…10~20cm

Ⅲ…粘土と砂が互層で繰り返す→これが位置により複雑のようで、詳細は各遺構毎になっている。

このⅢ層の粘土,砂の互層は、近隣の他の遺跡でも検出しており、風による堆積の砂層と水による堆積の土層が堆積を繰り返していたとしている。

たまたま1975年調査時に台風6号により石狩川水系が大洪水を起こした様だが、そのおり降雨した調査区内の近隣に土層露頭がある竪穴で1cm程度の粘土層が形成された事があった模様で、完全に水没しなくとも砂層と粘土層の互層が出来上がる様が見れた様だ。

標高2m程度と言う事は降雨のみならず海水でも起きうるのだろう。

こんな特殊性を持った地域の様だが、

擦文期の竪穴住居跡が13基、時期不明(擦文土器と考えられる土器片有りだが明確に判断出来る形で残らず)の竪穴跡が1基検出されている。

竪穴住居は概ね三軒程度で時間差がある様で、全ての竪穴が同時代に同時に存在した訳ではない様だ。

発掘参加した藤本強氏による藤本編年では、共伴した擦文土器は擦文後期〜後期後葉だとの事。

ここで、上記「臭う」引っ掛かりの意味が解った。

住居に掘り込んだ墓、上層遺構、とは「竪穴住居廃絶→土層堆積→その後に再利用」と言う意味で、竪穴住居の使用者と墓を掘った人や上層遺構(送り場と推定)を作った人との関連性を示す物証は無いようだ。

では、個別に各遺構を見てみよう。

 

では、小野氏が指摘した「上層遺構」を持つ「11号竪穴」から。

発掘前段階で竪穴による凹みは目視で解った様だ。

覆土の基本層序は

Ⅰ…表土

Ⅱ…砂層(最大厚60cm以上)

Ⅲ…粘土層

Ⅳ…黒色砂質土層→竪穴底面

となるが、上図の土層断面の様に、Ⅱ層には褐色土や粘土層が複雑に重なっており、それらは水を被る度に形成されたと推定している様だ。

ここで「Ⅲ…粘土層」の下部に魚骨,獣骨,炭化物,骨角製品を含む灰黒色砂層がある。

これが送り場を想定した「上層遺構」と言われる部分。

竪穴凹地を利用して北東側から最大6.8×4.4mの範囲で"送られた"と記述され、竪穴凹地のほぼ中央に100×85cmの円形に近い焼土がある。

検出した動物遺存体はこの通り。

さてでは、本命…共伴した内耳鉄鍋と内耳土鍋を見てみよう。

赤マークが「内耳鉄鍋」片…

紫マークが「内耳土鍋No.1」片…

緑マークが「内耳土鍋No.2」片…

残念ながら、完形は無し。

見慣れた「燕尾型回頭銛頭」を含めた骨角器製品、鈎状鉄製品ら同様、この「上層遺構」で検出される。

ハッキリ共伴と記述されるが、鉄鍋は口縁部の破片のみで、内耳の痕跡等は無い…少々期待ハズレである。

と、内耳土鍋であるが、引用してみよう。

 

「内耳土器(Fig.31-1-2. PL. XVII-2.3)

Fig. 31-1は推定復元したもので、サンプル用ビットのチ・ル・オの周辺から出土している。口径16.8cm、高さ8.5cmと推定され、器壁は1cmほどである。内耳は欠失しているが、内耳付設部の貼付粘土の状態から横耳式の内耳土器と考えられる。外面は、粘土帯を指頭で押圧しており、器面の凹凸が著しい。また笹の葉を思わせる植物質の短い圧痕が処々にみられる。ヘラの使用は明確ではないが、わずかに擦痕かま横走する。他に表面に層状の剝落がみられるが、器面強化のために薄い粘土板を貼付した部位の剝落と考えられる。成形は内面の方がよりていねいである。胎土には多量に砂礫を含んでおり焼成は極めて悪い。暗灰色である。 口縁部外面にスス状の物質が黒く付着している。

Fig. 31-2は、魚骨層より上層の出土であるので、本遺構に伴うかどうか不明である。胎土に少量の砂を含み前者より良好である。灰黄色の胎土であるが、焼き上がりは全体的に灰黒色である。ひじょうに細かな絹雲母(あるいは石英)を少し含んでおり、関東地方の中近世のほうろく を想わせる焼きである。内耳は縦耳式である。」

 

さて、ガチで気になる点を羅列する。

①覆土…

何気にスルー気味に書いていたが、先の断面図を確認戴けたであろうか?

覆土中に「白色火山灰」が検出される。

だが何故か、この火山灰には全く触れていない。

この火山灰は何?

明らかにⅡ層…砂層途中にあり「上層遺構」より上、つまり遺構下限が推定出来るハズなのだが。

何故触れぬのか…不思議である。

②内耳鉄鍋…

どうも全くの破片で、内耳鉄鍋であるとハッキリしないと思うのだが。

何故これが重要なのか?

小野氏の指摘では、この内耳鉄鍋?と内耳土鍋の共伴が「擦文土器→内耳土鍋→内耳鉄鍋」と変遷した可能性を上げる事になるからだ。

仮にこれが内耳鉄鍋ではなかったなら、この推定は成り立たなくなる。

③No.1内耳土鍋…

正直、この復元に驚いた。

理由は簡単。

筆者が見た事がある実物,図らで中世で「横耳式」の内耳土鍋を見た事が無いからだ。

類似の物は何処にあるのだろうか?

確認せねばなるまい。

因みに青森の「高屋敷遺跡」らで出土している内耳式土師器は見た事がある物は「縦耳」で、内耳土鍋出現前から「縦耳」が主流だったと思うのだが。

④No.2内耳土鍋…

これはズバリ肌質の記述にある「関東のほうろくに近い」である。

即連想したのがこれ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139

「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…

千島方面での内耳土鍋は、南東北の旧伊達領のものと類似する説だ。

その辺があるので、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…中世伊達氏も並行して探ったりしているのだが。

ただ、「湊は何処か?」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/03/09/204601

「枝幸の湊は何時からか?…「枝幸町史」との整合と「湊,津」の特定の為の備忘録」…

湧別らオホーツク海沿岸部がシベリアやオホーツク方面とのクロスロードと考えられるので、驚く事もないのだが。

仮に千島と南東北〜北関東が交渉を持っていたとすれば、延長上でこの周辺へ到達するのは有り得る事。

蝦夷の「メナシ衆」…

不思議ではない。

小括では宇田川洋氏が纏める。

銛先の編年で前田潮分類でF型→江戸初期以降、大塚和義分類でタイプF14~17世紀と幅を持つ。

またやはり横耳式には注目しており、7号竪穴の「埋土出土」で

完形に近い復元をしており、11号竪穴の事例は地肌の類似性を含めてこれの横展開した模様。

やはり、横耳式と縦耳式の関係については今後の検討要としている。

小野氏の論文にはこの横耳と縦耳の関係は記事が無かったかと思う。

簡単に溝が埋まる…こうはならなさそうだが。

 

次に行く。

箕島氏が挙げていた「螺旋状垂飾」が検出されたのは12号竪穴に掘り込まれた「12号竪穴内墓壙」。

こちらも発掘前で凹が目視出来た様だ。

残念ながら、こちらには「白色火山灰」は無い模様。

竪穴自体は紡錘車やほぼ完形の擦文土器が「床面」より出土し、純然とした擦文文化期の竪穴住居である。

墓壙は、基本層序中のⅢ層の途中から掘り込まれ、竪穴住居の廃絶→暗褐色砂質土層堆積→黒色砂質土層と堆積していく変遷過程での事の様だ。

竪穴と墓壙の方向がある程度一致しているので、まだ竪穴の凹が明確な時期だろうと予想している。

引用しよう。

 

「この土壌のプランは、粘土層上面で確認した面で、長さ約1.8m, 幅0.6mで深さ約35cmの隅丸長方形である。長軸は北東一南西の方向で、12号竪穴の各壁と平行している。土壌迄は中央部に向かってやや傾斜しており、また、南西壁寄りの部分は狭くなっている (Fig. 38, Pl. XX)。」

「 遺物はガラス小玉(Fig. 39-1~26, Pl. XXI-2),コイル状鉄製品(Fig. 39-27~38, PL )、鍔(Fig. 39-39, Pl. XX-3)、短刀(Fig. 39-40, Pl. XXI-1)である。ガラス小玉の出土位置にはかなりの拡がりがあるが、他の遺物は Fig. 38, Pl. XXにもみられるように壙底に密着もしくはそれに近い状態でまとまって出土した。

ガラス小玉は70個前後の出土をみているが、大部分は割れており、粉々に風化しているものも 多かった。大形の白いガラス玉1個を除いて、全て青色系統のガラス玉である。風化の度合いは色合いによって異っており、完形で採集できた13個は、殆んど全てが濃青色の玉だった。ガラス玉の分析にはこの濃青色のガラス玉は含まれていない。白色ガラス玉には、茶色の線模様がつけられている (Fig. 39-26)。大きさは、青色ガラス玉が、直径1.2cm前後、高さが1cm前後で、孔径3mm前後である。白色ガラス玉は直径1.8cm とやや大きい。出土範囲は土壌の南西半分、特にコイル状の鉄製品や短刀が出土した地点に集中している。出土レベルもほぼ同一であった。」

以上である。

小括で前田明代氏は形状と副葬?から墓壙と判断した様だが、骨ら明確にそれを示す物は検出されてはいない模様。

ここで、墓壙?が竪穴が埋没する以前に掘られたと推定している事から、「擦文期の後期の墓は知られておらず、江戸時代以前まで確実に遡れるアイノ墓も知られていない」が、これがそれを埋める材料の一つになるのでは?…としているが、「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」では13〜14世紀となっているので、その後の科学分析らも含めてそう判断されているのだろう。

さて、この墓の被葬者は?

新田栄治氏の論説は下記に引用する。

「墓壙内出土の遺物には玉、垂飾様鉄線螺旋状小球(以下、「垂飾」と略)、鍔、短刀がある。

玉については分析結果にあるように、カリウムを多く含み、銅による発色を示すガラス玉がほとんどであり、きわめて稀な例といわれる。年代、製作地とも決定するには資料不足であり、良好な手がかりとはなりえない。

垂飾は11個と鈕残欠が1個ある。鈕残欠はおそらく、現在鈕を欠失している垂飾のうちのどれかにつくものであろう。垂飾球体部はいずれも保存状態がよく、墓壙内で消滅したものがあるとは考えられないし、また発掘にさいして失ったこともないからである。したがって垂飾の総数に11個であろう。これらはいずれも鉄線をコイル状に巻いて作ったもので、球体は中空である。 作法は下端部を起点として1本の鉄線を右方向に5~7回巻きあげて中空の球体を作り、最後に環状の鈕を作るのである。このことは鈕の部分の鉄線末端部が球体部の上に覆いかぶさっているもの (Fig. 39-30) があることから推定できる。中空の部分には何も入っておらず、鈴のようなそれ自体が発音器であるものとは異なる。金属線を螺旋状に巻く手法はアイヌの耳飾にみられるが、銀、真鍮などで、先に玉がつけてあり、形態的にも機能的にも本例とは全く異なるものであ って、両者の関係を云々できる状態ではない。モヨロ貝塚出土の鈴は構造が全く違うものであり、現在のところ、ライトコロ川口遺跡の周辺において、この種の垂飾はその存在を聞かない。

短刀と鍔については、短刀の鎺元部の大きさよりも鍔の穴のほうが大きく、また短刀柄木質部 の残存部分からみて鍔を装着するようになっておらず、両者は別個のものであり、鍔はこの短刀の装具ではない。短刀は平造、角棟で、ふくらはやや枯れるという短刀にみられるごく普通の特徴をもつ。作りは粗雑で鍛えも粗末である。茎上辺が関より下方に垂れ下っているが、茎が下方に曲った刀子はオホーツク文化に特徴的なものであり、沿海州にみられる靺鞨・女真系の遺物との類似がいわれている(菊池1976)。しかし、靺鞨・女真系、オホーツク文化の曲手刀子の茎形態と、この短刀のそれとは若干の違いがみられ、刀身部の形態も異なり、むしろ日本内地系の短刀に近いようである。刀身の平造は平安時代中期以後は、短刀・脇指にもっとも多くみられるといわれ(佐藤 1966), また、手抜緒で刀身を止めるかわりに目針孔により目釘を用いるようにな るのが平安末期ころであること(佐藤 1966) を考えると、この短刀の上限が推定できよう。

これらの遺物は副葬時どのような原形であったであろうか。出土状況から想定復原してみよう。短刀と剣とは別々のものであり、短刀柄部の上に鍔が置かれた。また柄木質部の保存度はかなり良好であり、関部はほぼ完全に残っているのに対して、刀身には全く木質部らしいものは存在しない。このことを考えると、短刀は抜身の状態で納めたようである。また垂飾は短刀の上に各々がほぼ並んだ状態で、しかもほぼ同じレヴェルにある。これらのことから、垂飾は何かにつけて連ねられたのであり、それが短刀の傍、あるいは短刀の上部に置かれたのであろう。こう考える とき,11個の垂飾を1個ずつ結び下げた帯状のものが目に浮ぶ。腰帯、腰枕ふうのものである。これには鍔もつり下げられていたかもしれない。玉については、短刀・鍔・垂飾付近の群、墓壙南西小口側にある群、墓壙中央に散在するものの大略三群に分れている。玉の散在する状態については遺骸崩壊による移動、土壌の凍結・融解に伴なう移動等、種々の要因を考慮しなければな らないが、短刀・鍔・垂飾とほぼ同じレヴェルにあり、大きな混乱はないものと考えられる。三群はいずれも首飾状の玉装飾が散乱した結果と思えるが、文様のある大形の玉 (Fig. 39-26)を中央にして小玉を連ねた、アイヌの首飾のようなものであったろう。それとともに注意されるの は、垂飾鈕の穴の中に、穴を鈕穴と同一方向に向けて、あたかも連ねたかのような状態で小玉が垂飾と銹着しているものがあることである (Fig. 39-35,38)。これは、腰帯にも玉が装飾とし てつけられていたことを示すものかもしれない。

以上の復原から、玉首飾は墓壙南西側にあることになり、長方形墓壙ともあわせて、頭位は南西、伸展葬と推定できる。

オホーツク海を眼前にして、このように埋葬された人物はどのような人であったか。副葬された垂飾と鍔とをつり下げた腰帯、腰枕が手がかりとなる。

すでに記したように鉄線を螺旋状に巻いた球体の垂飾は類例がみられないため、垂飾自体では比較できない。しかし、帯につり下げた復原形では、これらは互いにぶつかって音を発するものである。鈴や小鐘とは異なるが、金属の発音を重視すればいくつかの関係があると思えるものが、樺太アムール川下流域に分布している。すなわち、金属の垂飾のついた帯である。いずれも民族資料であるが、以下にいくつかの例をあげよう。

樺太  オロッコ、ギリヤーク、カラフト・アイヌにみられる。jappaヤッパ、あるいは janpan ヤンパンという革の腰枕で両端に紐がついている。この腰枕に刀の鍔、金属の輪、鉄片などの種々の金属をつり下げ、両端についた紐を体の前で結ぶ。一種の腰鈴である(鳥居 1924a<全集7 :331>,高橋 1929: 149,山本 1949:43,米村1974:17など)。

アムール川流域,その他   金代にシャーマンが腰に5、6枚の鏡を革帯に下げ、原始的鈴をつけていたという(鳥居 1928<全集9:388-389>)。ゴリドに腰枕ふうの革帯とその両端に紐をつけた腰帯と, この枕部に小鐘,鏡などをたくさんつけたものがある(鳥居 1924a<全集7: 331>,圀下1929:78)。またネグダのシャーマンが金属製の腰鈴や鏡などを腰につける(鳥居 1924 b<全集8:168>)。

これらの例はいずれもシャーマンの服装の主要な部分を構成する付属品であり、帯状のものに金属製の垂飾をつり下げて、揺り動かすことによって発音させるという点において一致している。

シベリア内陸一方、シベリア内陸部ではシャーマンの服装はいずれも上衣、外套に皮革の房状の垂れ下りや、金属製の円盤、鈴、形象物などの多数の金属品を全体につけており 形象物などの多数の金属品を全体につけており(有賀1926,圀下 1929, エアリーデ 1974, フィンダイゼン 1977, Sieroszewski 1902: 320-321, Jochelson 1933, Klementz 1910: 16-17),前記の樺太アムール川流域にみられるものとは全く異なった 類型を示している。ただし、東シベリア、アバカン川流域に居住するハカス族のシャーマンの外 套の例では、背面肩下に一列にコヌス、鈴などをつり下げ、合せて細長い紐状のものを房状に垂下したものもあり (Прокофьеба 1971:69), 金属の垂飾だけからはいちがいにいえない点もある。しかし、大局的には内陸部シャーマンの服装は大量の金属製品を衣服につけるのが通例であり、また衣服だけでなく帽子等にも特別のものがあり、沿海州,樺太方面の例とは明らかに区別される。またライトコロ川口遺跡の地理的位置からいっても、シベリア内陸部との直接的関係を想定するのは困難であろう。

前者を腰帯型、後者を外套型とすれば、ライトコロ川口遺跡の垂飾は腰帯型の垂飾ではなかったかという感が強いのである。樺太方面とのつながりを示すものであろう。民族資料による推定のため不確実性はまぬがれがたいが、北海道内部よりも、樺太方面との関連を考慮すべきである。

ライトコロ川口遺跡の墓壙の副葬品が上記のようなものであるならば、自ずと被葬者の性格も 想定できよう。

シャーマン的な人物が頭を南西に向けて伸展葬で葬られ、頭部右側に抜身の短刀を切先を頭側に向け、刃を内側にして置き、その上、あるいはその傍に腰帯を置いたのであろう。それは12号竪穴と墓壙とが各辺の方向を同じくすること、竪穴埋土において墓壙掘方を確認できなかったことから、12号竪穴廃棄後まもなくのことであった。そして、同時に平安時代末期をさかのぼらない時期でもあったのである。」

以上。

この辺が、螺旋状垂飾が北方、と言うより「樺太との繋がりを示唆」させている論のベースだろう。

坪井正五郎博士の指導を受けた、鳥居龍蔵博士のコレクション、これから昨今言われる「環日本海文化圏」的な話になっていくか。

ただ、鳥居博士は「日朝同祖論」者の様だが…

置いといて…

新田栄治氏の論だと、この「12号竪穴住居内墓壙」は遺構の傾向と共伴の短刀の作りより、

構築上限…平安末迄は遡らない時期…

で、その後。

被葬者は螺旋状垂飾とガラス玉から想定する復元(腰帯)より、

樺太方面との繋がりを持つ人物…

となる。

これら論考の中には、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

ここで紹介した「渡辺モデル1972」を作った渡辺仁氏が竪穴住居の使い方らで考察を寄稿している。

敢えてここでは割愛するが、同項紹介前に既にこちらを観ていたが、聞き取り対象が誰であるか…ら迄記述しており、細かいフィールドワークを行う研究者であった事が解る。

新田栄治氏も樺太に言及しているが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518

「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/16/184916

幕別町「白人古潭」はどの様にして出来たのか?&竪穴住居は文化指標になるのか?…「幕別町史」に学ぶ」…

ムックリの文化借用らは知られた話であるし、オホーツク文化の源流は「靺鞨系」と言うのも言及されているし、我々も「随時移動はあり、顕著なのは江戸期」と考えるし、アンジェリス&カルバリオ神父は「yezoはテンショとメナシの人々」と書いているし、江戸中期以降の北見方面からの移動伝承は「幕別町史」や活動家第一世代が調べたところ。

特に驚く事ではない。

まして本書発行と同時代の活動家は、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146

「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」…

「最近の若い学者は北からの移動説を唱える」と憤っているので、まぁ裏も取れるので、そんな論調が強まっていたのも事実だろう。

国内由来でも樺太由来でもその源流が解れば良いだけて、我々的にはどちらでも良い。

 

如何であろうか?

「ライトコロ川口遺跡」での実績の中の、11号竪穴と12号竪穴に特化して書いてきた。

この後に、各研究が進められたと想像するが、実際の発掘から解る事はこの様に「割と曖昧」だったりする。

興味深い遺物はあれど、構築,廃絶時期や遺物同士の関係性は「曖昧」。

で、割とこの「ライトコロ川口遺跡」や

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/11/08/130357

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−4、あとがき…ならその「北海道の中世墓」事例を見てみよう」…

「オネンベツ川西側台地遺跡」らは、重要な位置を占めるが如く各論文で引用される。

ただ、「螺旋状垂飾」にして「(本道での)内耳土鍋」にして、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

数ある北海道の中世墓の中では「十数基」しか検出されていないのもまた事実であろう。

もっと全体像…「山や森」の検討も必要なのではないだろうか?

本音は「思っていたより「曖昧」だ」と言う感じである。

とは言え、上記の様な気になる点は、更に掘り進めるキッカケには良い。

色々「原版に遡り」学んでいこうではないか。

 

参考文献:

「9 ~ 11・12 世紀における北方世界の交流」 蓑島栄紀 『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 5 号』 2019. 3 

「擦文文化の終末年代をどう考えるか」 小野裕子アイヌ文化の成立と変容』 法政大学国際日本研究所 2007.3.31 

「ライトコロ川口遺跡」 東京大学文学部  昭和55.3.25