この際、「内耳土鍋」を見に行こう!…「旧伊達氏領」の内耳土鍋ってどんなもん?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/11/195106

「「土鍋,鉄鍋共伴」に「螺旋状垂飾」迄…「ライトコロ川口遺跡」ってどんなとこ?」…

さて、内耳土鍋ニ種共伴の話を報告した。

今迄もこの南東北の内耳土鍋については、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710

伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…

旧伊達氏領周辺と千島から15世紀位に出現するものが一致しそうとの話から、中世伊達氏を当たったりしている。

なら、ここで一発、福島北部の伊達市〜山形南部の置賜地域に内耳土鍋を見に行こうではないか!と、また小遠征を敢行した。

まずは結論。

これが、旧伊達氏領で検出された「内耳土鍋」である。

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」の特別展で展示していた。

で、こちらがそれより先行して訪問した「伊達市保原歴史文化資料館」で確認した内耳土鍋の破片。

因みに、これが奥州藤原氏の居館「柳之御所」の内耳鉄鍋。

よく似ていると思ったりする。

では、詳細を報告しよう。

 

まずは、福島側の伊達市保原歴史文化資料館へ向かった…と、アッサリかいたが、筆者の住む秋田〜伊達市保原迄は片道300㌔を突破する。

最早、距離感はバグを起こしている様なもんなのだが、日帰りである。

が、こうやって学びに行く事が出来る事に感謝せねばと思う。

今回は純然と「内耳土鍋を見に行こう」と言う目的があるので、一通り見てから学芸員さんに目的を伝えた上でレクチャーを戴いた。

・出土は「保原城跡」の発掘による。

・材質は「瓦質土器」。

・「瓦質」系の製作は伊達氏領から蒲生レオン氏郷領となった頃には終焉し、陶器らへと変遷する。

・完形での出土は無く、破片のみ。

・千島での出土の件は聞いた事が無かったとの事。

・考古学は「類例の学問」で、遺跡という「点」から類例を探し広げていく学問だが、あまり北海道に類例を求める事はあまりなかった(北海道の発掘調査報告書は2〜3冊程度読んだ事がある)との事。

阿武隈川流域の発掘をすると暴れ川だった事が解るとの事。以前河原だった周辺は砂層が堆積し、ほぼ無異物となる様だ。その箇所は現在も住居はあまりなくほぼ農地利用だそうだ。住居は段丘上の高台で、重機で掘っても直ぐ解るとの事。

以上、教示戴いた事をざっと要約。

運良く発掘調査報告書を入手出来たが、第5次発掘で「6号井戸跡(SE06)」から写真の一個、遺構外から一個、計二個の出土となる。

考古をご専門とされているとの事で、「材質は瓦質」「完形無し」、即答戴いた。

掘った本人のコメントが一番参考になる。

ここで質問した。

展示は写真の通り縦耳方向になる。

横耳の出土事例はあるか?…即答。

「無し」であった。

曰く、横耳だと応力的に保たず、直ぐとれてしまうのでは?と。

筆者も同じ推定。

前項の通り、「ライトコロ川口遺跡」での事例は、

・縦耳→関東系の瓦質に近い…

・横耳→土師質で作りは粗い…

と、全く違う質感なのだ。

ここ伊達市では前者の事例はあるが、後者の事例は無い。

仮に千島や道東に、旧伊達氏領や関東,関西の物が流入したとしても主には前者になるだろう。

なら、後者は?

実のところ、北東北では瓦質土器はあまり馴染みがない。

これ、当然で、元々が「鉄鍋+木器(漆器)文化圏」。

かわらけと言っても土師質酸化焼成の赤色土器が主流で、むしろ国内外の陶磁器が出土する。

移動しながら思案してたが、中世墓の確認で見かけたのが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

瓦質は関西メインだが、手捏ね土師質で椀らが副葬されていた。

これら横耳の粗い作りの鍋は、副葬専用に作られた謂わば「儀鍋」ではないだろうか?

故に、持ち上げて耳がとれるなぞ器にする必要もないし、実用ではないので手捏ねで済む模倣では?

そんな事を考えつつ、次へ回った。

 

以前訪問した中で、確か展示していたな…と思った「高畠町郷土資料館」である。

ここは一度、「中世に竈があるか?」のテーマで「山形で石の産地と言えば「高畠」」と聞いて訪れた事があり、筆者の事を「あ?以前「竈」で…」と記憶してくれていた。

有り難い事である。

高畠町は関連項にあるように、1380年の伊達宗遠置賜攻略後に拠点を置いた地で、この辺から宮城南部の亘理らへ触手を伸ばす。

早速、内耳土鍋を展示していた事が無いか?確認したところ、「無い」と…

記憶違いであった。

で、今回の趣旨や竈,石垣らとの関連を簡単に説明したところ、ほど近い「山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」に現在展示している事を電話確認戴けて、あの写真に至った。

ご教示いただけた事は、

・福島同様に、内耳土鍋は伊達氏の領有期間に限られ、上杉氏の時代には消える。

・山形側でも城跡らからの出土が中心で、後の拠点米沢城に関連した城館からまとまって出土したりする。

・京の将軍家らへ砂金をばら撒く件、置賜にも砂金産出は有り「金」の字が付いた地名も残る。但し、実態は判明しておらず、大量産出は少し懐疑的の様だった。

・砂金の最大産地、月山麓立谷沢川寒河江川方面は一時上山地域を押さえた事はあるが、寒河江→最上氏、立谷沢→武藤氏が押さえていたのではないかとの事で、派手に砂金をばら撒くのは厳しいか。

・北方との関連について、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/21/072428

伊達政宗公の野望のルーツは何処か?…典型的ランドパワー「伊達氏」と海の繋がりの初見は「野辺地」」…

野辺地領有の件は、対応戴けた方々はあまり聞いた事が無かった様だった。

・耳の方向は、知る限りは縦耳の模様。

が、概要であった。

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」に資料があったので、中世関連の資料を紹介戴き入手したが「山形県の近世城郭と出土品」  によると、

米沢へ拠点を拠点を写した際に使われた「舘山城」の付随施設「舘山東館」「舘山北館」(写真の黄丸)、

特に「舘山北舘」で集中して検出している様で、ここは武家屋敷と思われる施設。

本城は「丘先式」からの進化型にも見えないだろうか?

他方、「米沢城二の丸」でも検出、記録上は「米沢城二の丸」は上杉景勝の普請とされるが、発掘で伊達氏時代と思われる掘立柱建物跡や溝跡が見つかっているとの事。

さて、ここまでで解った事だが…

・材質は「瓦質」で現状は「縦耳のみ」の検出。

・内耳土鍋は「伊達氏時代」にかなり限定され製作,使用されており、且つ出土が城館が中心な為に、関連が証明されれば即伊達氏との繋がる可能性があるだろう。

以上となる。

さすがに、

・千島の内耳土鍋との関連性の示唆…

・砂金らのばら撒き時期との一致と、北方四島周辺や白糠らの産金の件…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/17/202544

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる②「十勝,千島編」」…

・「野辺地」と言う北海道との接点を持っていた可能性…

これら状況証拠だけで、繋がった…なぞと言う事は出来ないが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/105131

「生きてきた証、続報38…慶長遣欧使節団船「サン・ファン・バウティスタ号」に竈はあるか?」…

何故、伊達政宗サン・ファン・バウティスタ号を建造したのか?ら迄、数代の動きを重ねると何となくシックリくる気はするのだが…「太平洋ルートを使った交易」をずーっと狙っていたと。

実は気になる薄い点まだある。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/24/120855

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる」…

ここでサラリと触れていたのだが…

「面崖式」の事例で、わざわざ最大級のユクエピラチャシではなく、方形の「タブ山チャシ」を青森の事例と比較したのに違和感を覚えた方はいるかと。

あの方形堀の中世城館が集中するのは、青森側では七戸町周辺になる、野辺地近くの…。

で、先の「石垣探し」で、置賜地域には他の地域に無い特徴を持った中世城館が図示されていて、引っ掛かりを持っていたのだが、「中世やまがたの城館跡−そこに城館がある理由−」の図を借りると、

これ、「置賜の中世居館」として識別されている様だ。

これらの分布はまだ未確認。

これからになるが…

方形のチャシが目立つのは「道東」。

置賜…野辺地(七戸〜十和田方面)…道東(メナシ衆の地)…

まさかね…

いずれ、北海道区分での南東北以南の確認はやってみるつもりではある。

我々が伊達氏にロックオンしたのはここから。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/11/183522

片倉小十郎と北海道の関係…伊達正宗と松前慶広の約束と諏訪大社の影」…

メンバーが北海道で言われた「北海道入植した伊達家は、幕末まで北海道と一切の関係が無かった」…この一言から。

江戸期のキリシタン系の話がメインで、政宗の時代が中心だった。

が、こうなってくると…

まだまだ入口。

でも、妄想レベルではあるがこちらの史観の方が面白くないか?

「独眼竜の野望」は、数代前から紡がれた各地との「海の交易」への憧れからスタートし、独眼竜の時代にヨーロッパ迄至る…何とも壮大ではないか。

折角楽しむならこの位のスケールで楽しもうではないか。

ただ、本当に繋がった場合、「幕末迄北海道と関わりは無かった」…これが嘘になるが。

 

参考文献:

「保原城跡発掘調査報告書Ⅴ」 保原町教育委員会  平成14.3.22

山形県の近世城郭と出土品」  山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館  令和3.9.11

「中世やまがたの城館跡−そこに城館がある理由−」 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館  平成24.10.2