おさらい&やっと見つけた県外初事例「松山岩竈」…生きてきた証、続報14

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/10/093753
前項でもう13項。
このシリーズ少しおさらいしてみる。
元々きっかけは…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/24/041443
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/02/192531
単純に言えば、どうやって北海道において、古代~中世暮らしていたかを調べる元として、東北はどうか?調べていた。

飲み水は東北の遺跡で井戸が出現しており、北海道ではどうか?探っていけばミッションクリア。

炊飯をどうしたか?は、竪穴→掘立変遷する中世で東北の遺跡から「竈」の跡が全く見つかっていなかった。
実は、遺跡外で江戸以降と考えられる「七厘」「置き竈」にする物が余市の「大川遺跡」で出土しており、秋田の状況を探っている訳だ。
土の「竈」はカマド状遺構としての出土はあり、技術としては竪穴時代から継承されていたのは解る。
で、「へっつい」と呼ばれる石の「竈」を見つけたので、技術的にどこまで遡りうるのか?の観点で、石工の動きを追いかけたりしている訳だ。
井戸や竈は、それそのものが朝廷からもたらされた文化。
これが、東北にあれば北海道にもある可能性が出る…と言うより、余市の例がある。
現状は…
①江戸期までなら、大館,横手(金沢),大仙(南外)の凝灰岩又は石灰質砂岩での記録や現物が残る
北秋田(森吉浦田)では珪藻土を使った七厘が古くから作られていた
③1300年前後には、男鹿近辺から石工集団が入った可能性が高く、板碑が残されるが、北陸方面からと考えられている
④同時期の広島の草戸千軒や福井の一乗谷らでは、石の竈は出土している
⑤「へっつい」と言う単語が、畿内の方言で残る
津軽,南部,庄内の資料館らで聞き取りする限り、石の竈も「へっつい」と言う単語も知らないと回答される

と言う訳で、日本海の交易の延長で、畿内や北陸から直接石工により伝播したのではないか?と言う推論が成り立つ。


と言う訳で、隣県の枠を拡大し、宮城ならどうか?と確認してみた訳だ。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1312979793420251136?s=19
詳細はこちら。
実は、涌谷や三本木では、聞いた事が無いとの返事…
やはり秋田固有なのか?と思いきや、大崎市の「松山ふるさと歴史館」に昭和30年代の松山の写真として「岩竈」なる物が展示されていた。
と言う訳で、学芸員さんに直撃すると…
「松山町史」に記載あり、丁度現存品確認と昔作っていた職人へ聞き取りの準備の為に準備で調べていたとの事。
なんとタイムリー。と言う事で、資料を戴いた。

「明治三年塩釜の岩切源太なる者が三居沢に来て「かまど」を製作した。青木喜代司がこれに師事して技術を習得し製作販売したのが松山竈のはじめである。」
終戦後同業者競って燃料節約と家庭用燃料器の改良に創意工夫につとめ循環式や余熱式等の優秀品を製作し、松山竈として名声を博し、県の奨励品ともなったが今は作られていない。」
「特徴、材料は凝灰岩、耐火・火防・火力永続に適し、燃料は籾殻・亜炭・薪・豆殻・枯葉等凡ゆるものが利用出来るので、農家は勿論一般家庭用に最適であった。」

「松山町史」 松山町史編纂委員会 昭和五五年七月三〇日 より引用…
9軒位あった模様。
学芸員さんの話では、需要期は作れば飛ぶ様に売れたが、松山竈以外で宮城で作っているのを知らないとの事。
それがどこまで遡り得るのかは、解らない様だが、塩釜から明治に伝播したのは記録されていた模様。
現状はそんなに古い物ではない様だが、まずは一件実績を見つけた。
現状は秋田の方が古く、秋田では先の通り、石工の線が高くなり、陸奥国経由ではなさそうである。

一歩一歩、東北の実態を…
それを北海道~東北の関連史へフィードバックさせるべく、「竈」探しの旅は続く。
が、このフィードバックに成功したら、そこはアイノの居住区ではなく、東北に連なる人々の居住区なのは間違い無くなる。
何しろ、食文化や一般生活に密着した文化は誤魔化し様がない。
ダイレクトに畿内と結び付く文化なのだ。

北海道の「チセ」には、井戸も竈も無い。
それは事実なのである。