「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?、あとがき…個別事例を見てみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/23/210550

「「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?」…

そういえば…

個別事例で、構造にそんな差が無い事を説明していなかったので、敢えてあとがき。

解り易いものが多いので、青森の事例を並べてみよう。

①丘先式…

七戸町荒熊内館」…

これは舌状台地の南端を郭にして、大小二条の空堀で断ち切る典型的な丘先式だろう。

で、七戸には、これが中世城館化していく様も見える事例がある。

七戸町「大池館」…

七戸川左岸の舌状台地先端を空堀で断ち切り郭を作る…ここまでは同じだが、途中に堀切を作り郭を複数化と方形に整形している。

北側では竪穴住居?と思われる凹地がある様なので三郭では終わらぬ可能性もあるし、土師器の出土が見られると言う事からすれば「元々防御性環壕集落の一部→先端に郭を設ける→聖地と多郭化で中世城館化」…こんなプロセスも想起させるのでは?

もっとも、それを立証するには発掘が必要になるのだろうが。

一応…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

「北海道弾丸ツアー第三段、「静内篇」…どうせ見るなら本命級「シベチャリチャシ」!だが、本当に砦なのか?」…

北海道の丘先式の事例としてシベチャリチャシを貼っておく。

シベチャリチャシも運用時の姿は、現在確認されるよりもっと多郭だった可能性は示唆されている。

 

②面崖式…

横浜町「寺屋敷」…

檜木川の河岸上をコの字方の空堀で断ち切る。

南側は崩落の可能性もあり、西側も畑地で喪失の模様。

同様に、七戸町「槻の木館」…

これは丘陵先端付近で、萩ノ沢川の河岸を空堀で断ち切り、ニ郭としている様だ。

ん?

面崖式は「ユクエピラチャシ」の様に、半円状だ!と思ってる方…

いやいや、方形は一杯ありますよ。

これ、標津町「タブ山チャシ」。

それに青森に半円状のものがないハズもない。尾上町(現平川市)「平田森館」…

引座川河岸段丘上だそうで。

段丘側面を堀切するなら、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

「防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?」…

天然地形利用と動員数をかけられれば、こんなところに行き着くであろうし、敢えて事例は挙げないが丘先式,孤島式は、

式,孤島式」→「丘先式」→「面崖式」ではないだろうか?。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

「防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?」…

こんな風になるのは想像し易い。

③中世城館…

これは、考え方の問題だと思うが…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/30/142801

「時系列上の矛盾…島牧村「チャランケ・チャシ」から見える「チャシは単独運用ではない」と言う考え方」…

以前から、チャシは単独運用されたものではないのでは?と言っていた。

ちょっとその点に触れてみたい。

七戸町「下見町館」…

これも丘先式で、先端二方に空堀、付け根にも空堀を入れて最低三郭の多郭化をしているケース。

中央の主郭と考えられる部分には方形土塁があるが、これは後代追加された?と考えられている模様。

これと似たような形状のものは北海道にもある。

平取町の「ユオイ・ポロモイチャシ・二風谷遺跡」。

二風谷川河岸の舌状台地先端、赤丸がそれぞれユオイチャシとポロモイチャシ。

青丸部分が擦文系遺物が多く竪穴住居跡がある二風谷遺跡。

上側の半丸が二風谷小学校遺跡。

これ、二風谷遺跡部分を主郭と捉えれば、二つの副郭を設けた中世城館とも捉えられないか?…と、言う考え方だ。

付け根側には小学校遺跡らが連なる訳で、仮に紫丸の高台に何らかの施設が施されていたと仮定すれば一体の施設で山城として運用されていた…?だ。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

「時系列上の矛盾④…二風谷遺跡の包含層遺物、そしてまとめ」…

一度「ユオイ・ポロモイチャシ・二風谷遺跡」は取り上げているが、どうも単発の別の物と言うイメージで発掘されていた様だが、造営時にはセットで造営されて、後発で改修されたり、違う用途で用いられたりしたら、見え方は全く違うものになると思うのだが。

仮にそうだとすれば先に書いた通り、「防御性環壕集落→先端付近に郭→多郭→中世城館化→近世に再利用」と言うプロセスの中に当てはまる事になりそうだが。

この場合一体施設と考えれば、全体の規模はもっと大きなものになるし、先端付近の郭には「館神神社」が…等と言う発想も出てくるのでは?

 

④勝山館同様のものは?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/07/112501

「北海道弾丸ツアー第四段、「中世城館編」…現物を見た率直な疑問、「勝山館は中世城館ではないのでは?」」…

さて、ある意味これが本命の一つでもある。

北海道〜北東北三県のチャシや中世城館を「砦状構造物」と捉え括り、中世城館と北海道式区分で分ける…これには目的があった。

・チャシ区分を使い、中世城館の単郭らを区分する事は可能だった。

・上記の様に、チャシを単体とせず、近辺一体と考え中世城館ではないか?とする事もまた可能性はある。

現実には「北海道のチャシ」では、縄張り図が極一部しか載ってはいないが、何式か区分はされているので類似傾向は解る事になる。

さてでは、勝山館の現物を見た時に同行者と二人で意見が一致した違和感、「勝山館って本当に中世城館なのか?」…これに近似する類例はあるか?…これだ。

結論から書く。

「無い」。

こんな、尾根の下の谷に空堀を施し、段々に建物を建てるケースは各道県数百件の事例の中には無かった。

こんなケースならある。

秋田の西仙北町(現大仙市)「黒沢館」…

丘頂式,孤島式からの中世城館か。

南西斜面には4〜5mで9段に段々を施している。

ただ、これは帯郭というものだろうし、山頂部には平滑され、堀切や土塁が施された主郭を持つ。

勝山館には館主の館も無いし、尾根より高い夷王山山頂に主郭があった訳でもないし、勝山館と夷王山山頂の間には墳墓群…配置も違和感。

城館ではなく、町家遺跡なのでは?

なら、「蠣崎氏」は安東氏一門での身分決定迄の間に「何処にいたのか?」

 

以上、二項に分かれた事になってしまった。

素人目なので専門家がやれば違う結果になる事もあるだろうし、こんな考え方もある…程度の事だ。

以前の研究で取り上げられてそうな事なので、いずれ先行論文にも行き当たるかとは思うが。

ただ…

ほぼ同じ文化,技術を持った人々が…
ほぼ同じ必要性や基準で…
似たような場所を選び、同様の構造物を築いた…

これで十分説明がつく事は解って戴けたと思う。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/24/204435

「最新研究の動向を確認してみよう…「つながるアイヌ考古学」を読んでみる」…

最新版では、「チャシは祭祀場」と言う捉え方になってきている様だ。

中世城館でも「館神,一族の氏神」を祀る郭を持った場所はありますし、神社や塚を造営したケースは幾らでもある。

そんな共通点もある。

我々にとっては、「その時代、そこに居た人々が造営した構造物」以外の何物でもない。

違うものだ…なぞと言う「色眼鏡」を掛けて見る事はしない。

なら特別視して、全く違うものと考える必要は無いのでは?

筆者にとって「その時代、そこに住んでいた人々」は、「先祖の商売相手や友人達」に過ぎないのだから。

 

参考文献:

「北海道のチャシ」 北海道文化財保護協会 昭和58.3月

青森県の中世城館」 青森県教育委員会 昭和58.3.31

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61.3.26