「砦状構造物」を同じ尺度で区分したらどうなるか?…敢えて北海道式区分に北東北を当て嵌め数値化したらどうなるか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/21/204519

余市の石積みの源流候補としての備忘録-8…中世城館資料の北海道版「北海道のチャシ」に石垣はあるか?、そして…」…

直接の前項はこちら。

そして、関連項はこちら。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101

「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…

全国の中世墓の動向。

以前から考えてはいたが、石積探しと中世墓資料確認で非常に手間が嵩むのが解っていたので躊躇もしていられなくなったので、着手してみた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/205357

「北海道弾丸ツアー第三段、「静内篇」…どうせ見るなら本命級「シベチャリチャシ」!だが、本当に砦なのか?」…

チャシである。

今迄も、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/12/02/204631

羽黒山蝦夷館」とは?…立地らに対する考察の備忘録」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/02/203302

「土木,建築視点でも、似たものならここにもある…「伊勢堂垈遺跡」にある古代~中世の空堀跡、そして…」…

東北には蝦夷館と言われた似たものはあると書いてきた。

だが、ピンと来ない方はそれを見て「本州にもチャシがある」などとのたまわるのだが、時系列的には東北の防御性環壕集落が先。

ならこの際そんな「幻想」はぶち壊した方が良いだろう。

敢えて北海道式のチャシ区分に当て嵌めて北東北の中世城館を区分して数値化をしてみようではないか。

石積みや中世城館では、文化が北上する様が見えた。

チャシも中世城館も「砦状構造物」と一括にして区分していき、同様に文化の北上の様が描き出されたら文句もあるまい。

数値化をするには「定義」が必要。

必ず主観は入るが、物差しが無ければ主観で中身がブレるからだ。

①資料は各県教育委員会発行の中世城館資料と「北海道のチャシ」を使用。

但し、「北海道のチャシ」には道南の中世城館は記事が無いので「日本城郭大系第一巻  北海道・沖縄」から引っ張る。

ここで穩内館ら発掘で防御性環壕集落と判断されたものや五稜郭,戸切地陣屋ら近代城郭は除外。

当然ながら、中世以前の「紫波城」ら古代城柵も除外。

古い資料と思われるかも知れないが、各都道府県で定期的に中世城館の状況確認は行われているが、劇的にこれら城館登録数が増える事は無いので、概要を見るには十分だろう。

②下記定義で分ける。

盛岡城の様な「防塁としての石垣,水堀」を持つ物は近世城郭とする。

・尾根筋に複郭や3〜4の連郭を持つ物、畝状竪堀群や複雑な構造を持つ物、平地で水堀を巡らす屋敷跡らを中世城館とする。

まずはここまでで中世城館と蝦夷館,チャシを区分…

・比較的に構造が簡単な物は、

これを参考に、「丘先式」「面崖式」「丘頂式,孤島式」に振り分けた。

尚、北海道は「北海道のチャシ」で河野広道博士の「丘頂式,孤島式」を分別しているが、現状纏めている様なので纏めた。

北東北は図示された物で判断した。

実際の登録数は上記より今回のカウントより多いが、形が解らないなら分類不能。それでも各県数百確認出来るので、概要を確認する「抜き取り数」には十分だろう。

迷った場合は両方にカウントする。これは北海道の資料上やられているので準じた。

③各道県毎に振り分けても何がなんだか解らなくなるのは、既に石積みや中世墓で経験済。よって、

・北海道

道南

西蝦夷地+胆振,日高…口蝦夷領域

宗谷〜オホーツク,十勝以東…テンショ,メナシ衆(奥蝦夷)領域

・青森

津軽

南部

・秋田

沿岸

内陸北

内陸南

・岩手

戸の地域

岩手〜北上周辺

閉伊

磐井ら旧伊達領ら

でそれぞれ確認していく。

こんな風にした。

基本的には独断と偏見だが、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

自分で「定義」と言いつつ、ルールを決めず分類なぞ許されるハズもない。

と、言う訳で結果はこうなる。

では、中身を検討してみよう。

①中世城館率…

・北海道は道南でしか中世城館と登録されてはいないので0になる。

道南の40%は小計の数値から鑑みるとむしろチャシ登録された物が少ないとも見える。

・青森はそれぞれ30%程度。

・秋田は内陸北では青森同等だが、南を含める沿岸や内陸南では50〜60%迄跳ね上がる。

・岩手は南に下れば下る程に中世城館率が跳ね上がる。

地図で示すと、

赤…8割以上

紫…5割以上

青…2割以上

緑…2割未満…

とすればこうなる。

見事なもんで。

ここまで明確に出るとは思わなかったが、見事に傾向が出ている。

ここで注意が必要と考える事だが、こと青森での中世城館率が高い町村には共通点がある。それは数的に浪岡周辺や三八地域の様に、鎌倉御家人南北朝武将らが入ったと解る地域にそれは偏る事だ。

平賀町(現平川市)「新館城」。

坂上田村麻呂は眉唾臭いが、郭や堀跡はあるが「平城」だと言う。

城と言うよりはむしろ政治を司る屋敷跡っぽいイメージではないか?

郭はあれど比高差1〜2m…こんなケースもあり、全体の中世城館率を底上げしている。

それらから離れると単郭らの簡単な構造の物が増える…と言う事は、在地の人々が構築したとも考えられるだろう。

こんなのを見ると興味深い。

同じ秋田の鳥海町(現由利本荘市)だが、

上の「花見館」なら先丘式だろうが、「根井中後山館」までになると郭が増え、竪堀迄出現してくる。

近隣地区でもこんな、単郭→複郭化→規模拡大→複雑化…の様なプロセスはざっとではあるが見えそうだ。

こんな構造物は、

・必要となる要因の有無

・構築者が安定的に運用可能か?

・構築費用の捻出の可否

・構築する為の人員確保

・構築技術伝播の為の情報有無

これらで可否が決まるであろうから、それら背景を持つ者が必要に応じてそんなプロセスを経たとも言えるのではないだろうか。

現に戦国大名化した安東氏は「檜山城」に

「脇本城」…

政権安定してからは、山城さえ止めて最大交易拠点の「湊城」を改修。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/12/19/224356

「北海道と南部方面,中央政権との交流、そして安東氏vs南部氏の抗争しなければならぬ理由?…「尾駮の牧」研究から検証する為の備忘録」…

戦う必然、築城,改修費用と人員確保を可能とする財力、これらがあったからこそこんな馬鹿デカい構造物を築けたと言う事だろう。

松前大館」にしても元々記録では安東氏一族の下国定季の居城。

南部氏にしても「三戸城」。

財力や権力を持つから可能な事。

 

②北海道式区分での比較…

北海道で「その他」に区分された3基を除き、

・丘先式

舌状台地や伸びた尾根筋の先端に郭を置き、堀で切り離す。

・面崖式

川筋の段丘らの断崖上部に堀,土塁等で隔絶部分を築く。

・独立丘陵一つ、又は丘陵尾根筋の頂点部分を堀,土塁等で隔絶する。

こう定義して上記カウントしている。

これはどう地形を利用するか?がまま出てくるだろう。

低地帯に独立丘陵が無ければ「丘頂式,孤島式」はムリ。

つまり、それなりの平地が無ければ成立しない。

対して「面崖式」は、河原や海を望める様な台地が無いと成立しない。

より広い平地が必要となるのは「丘頂式,孤島式」→「丘先式」→「面崖式」ではないだろうか?。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/23/192410

「防御性環濠集落の行き着く先−1…出羽清原氏の居館「大鳥井山柵」とは?」…

丘陵をそのまま一つ使う、清原氏の「大鳥井山柵」はある意味「丘頂式,孤島式」の行き過ぎたパターン若しくはルーツであろうし、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/11/24/204137

「防御性環濠集落の行き着く先−2…陸奥安倍氏の居館「鳥海柵」とは?」…

安倍氏の「鳥海柵」は北上川河川敷を望む丘陵の崖を他の城柵と連携し監視出来るので、ある意味「面崖式」の行き過ぎたパターン又はルーツと言えるかも知れない。

なら「丘頂式,孤島式」の比率を地図で示すと、

赤…8割以上

紫…5割以上

青…2割以上

緑…2割未満…

とすればこうなる。

岩手の閉伊地区は少々意外だが、秋田の内陸南部はそれこそ「大鳥井山柵」のある地故に納得である。

ここで…青森の旧南部地域だが、青マーキングしているが21%と、他の東北の地域より低い。

で、これを北海道と比べて欲しい。

津軽平野を持つ割に、

・旧津軽と道南はほぼ同じ構成…

・旧南部と西蝦夷地+胆振,日高はほぼ同じ構成…

になっている。

これ、本当に地形だけのせいであろうか?

確かに津軽平野では中世城館化は進んでおり、単郭の物は西浜や外ヶ浜ら丘陵に多いのは確かではある。

ただ、今まで確認してきた、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/09/28/195142

「北海道中世史を東北から見るたたき台として、東北編のあとがき…津軽側と南部側の差異を再確認」…

墓制の確認や、

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947

「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」…

人の移動やアクセス先を鑑みる、

そして、上記の様な中世城館率のグラデーションを見ると、単に地形だけの差とも思えなくなってくる。

何故なら、「何故そこに砦状構造物を築くのか?」と言う発想点に関わるからだ。

この「発想点」こそ、文化そのものだろう。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/14/064047

「末期古墳,蕨手刀,須恵器が示すもの…その物流ルートと人的,文化的移動ルート」…

それより前時代のこんな話と重ね合わせると、

人的交流…旧南部、つまり糠部側…

交易的交易…津軽側…

こんな推定がなされている訳で。

と、北海道のテンショ,メナシ地域での特徴は他の地域と少々違い、「丘先式と面崖式の比率がほぼ同等」と言う事。

つまり川筋や海に面する場所に構築する事に特化しているとも考えられよう。

特異と言えば特徴的でもある。

単に地形だけで決められた訳ではなく、構築コンセプト…発想点の差もあり得るだろうと思われる。

 

③畝状竪堀群…

実は、この「確認作業」を始めた段階で、面白い事例がSNS上に上がっていた。

中〜近世城館遺跡の第一人者、中井均教授のポストである。

https://twitter.com/shirojiichan/status/1778407547709567429?t=FW77IvUBvAJkm4W9AarQBQ&s=19

北海道のオコタヌンベツチャシに畝状竪堀群を確認したと。

実は先に石積み探しで秋田にこれがあるのは知っていた。

折角見つけるたポストなので、これも当たってみようと。

この「畝状竪堀群」とはこんなもの。

これは秋田の羽後町「館山館」。

このマーキングの部分がそれで、登る方向を規制する事が出来る。

で、図示されたものを確認する限り、

秋田沿岸…12

秋田内陸(北)…0

秋田内陸(南)…17

で、沿岸も北は能代二ツ井に4箇所あるのみと限定され、後は中央に3箇所、由利本荘市で5箇所、圧倒的に南に偏る。

では青森と岩手は?

見た限りでは無い。

つまりこの畝状竪堀群は、単純に奥大道ら陸路沿いに北上,伝播した訳では無いと言う事になる。

では、このオコタヌンベツチャシに畝状竪堀群を伝播したのは誰か?

ここは試掘されており、資料を入手した。

位置は白糠郡音別町(現釧路市)。

「出土遺物は、骨角器・石器・金属器などが出土しているが土器文化の痕跡は全 くみられない。チャシコツ丘頂の平坦面の土壤層は、表土、火山灰層,黑色土,黑褐色土,褐色土となっており褐色土が基底層をなしている。

褐色土層に至るまでの土層は極めて薄く中央部では20cm内外である。

遺物の出土状況について注目されるのは、骨角器が炉址周辺から集中して出ていることで、骨角器の中には焼けて黒く炭化しているものが多い。」

白糠郡音別町オコタヌンベツチャシコツの遺物」 富永慶一  『北海道考古学 第7輯』 北海道考古学会  昭和46.3.31 より引用…

焼けて尖らせた骨角器、砥石や算盤の玉型ら石器、金属器は刀(タシロ?)と船釘とある。

出土土層や位置は記載なく、チャシ運用年代と合致するか?は不明の様だ。

黒色土層の上には火山灰層…

これで被覆されているなら、それ以前に廃絶されているのだろうが、この火山灰は何?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/20/193208

「時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?」…

一連紹介しているユクエピラチャシでは1300年代のMe-aらで被覆され、その機能を止めている。

同様なら、

・構築はそれ以前…

・後発者が追加で畝状竪堀群を施した…

と言う事になるか。

何せ遺物に石器を伴うので、オリジナルが新しい時代の物とは考え難いのではないだろうか?

それ以後の発掘報告は見つけていない。

そういえば…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920

「「1643年」の北海道〜千島〜樺太の姿…改めて「フリース船隊航海記録」を読んでみる④「厚岸編・まとめ」」…

フリース船隊航海記録に登場する「白糠」は、砂金場として紹介されるが…

関連はどうであろうか?

 

さて、如何であろうか?

この位傾向が見えれば、北海道独自のものではないと解って戴けるであろうし、構築年代を鑑みれば大鳥井山柵や鳥海柵がある以上東北からの技術伝播であろうし、わざわざ北方起源を唱える必要も無いし、畝状竪堀群を考慮すれば北東北以外の技術伝播者も居るし、それらは中世墓や石積みの件と相対論,特異点上でも合致してくるであろう。

何も特異点と捉える必然は無いだろうし、東北の蝦夷館を見て「アイノ文化のチャシだ〜」などと言うのが如何にナンセンスなのか解って戴けるのではないだろうか?

悪いが「夢の見過ぎ」ではないか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/06/215742

「これが文化否定に繋がるのか?…問題視された「渡辺仁 1972」を読んでみる」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/04/05/194919

「最古のアイノ絵は本当に「紙本著色聖徳太子絵伝」なのか?…著者本人の記述で検証してみよう」…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/29/101133

「何時から擦文文化→アイノ文化となったか?…いや、むしろ「そもそもアイノ文化って何?」じゃないの?」…

'70s以降の研究状況が妙な方向に向かっていたのが気になるのは我々グループだけではあるまい。

蝦夷→アイノ」の直訳をするならちゃんと東北との関連を見て、北方由来か?本州由来か?検討すべきだと思うのだが。

我々はそれをやっているに過ぎない。

 

参考文献:

「よみかえる北の中・近世−掘り出されたアイヌ文化−」 (財)アイヌ文化振興・研究推進機構  2001.6.2

「北海道のチャシ」  北海道文化財保護協会  昭和58.3月

「日本城郭大系第一巻  北海道・沖縄」 新人物往来社  昭和55.5.15

青森県の中世城館」 青森県教育委員会  昭和58.3.31

秋田県の中世城館」 秋田県文化財保護協会  昭和58.8月

岩手県中世城館跡 分布調査報告書」 岩手県文化財保護協会  昭和61.3月

白糠郡音別町オコタヌンベツチャシコツの遺物」 富永慶一  『北海道考古学 第7輯』 北海道考古学会  昭和46.3.31