江戸期の「へっつい」出土遺物に遭遇…生きていた証、続報16

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
更に続報である。

先日、「大館郷土博物館」を訪問した。
詳細はこちら。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1316320587451523072?s=19

目的は、「浦田七厘」が売られていたと言う、「比内扇田の市」が営まれていた年代特定と、「大館へっつい」が何時からあるのかの確認。
「比内扇田の市」は現状確認頂いている。

で、「へっつい」であるが…
もうダイレクトに手持ちの「秋田県史民俗工芸編」を見せて、記述の「四百年は遡る」の根拠となる資料無いか?質問。
これも伝承が途絶え、資料が少ないそうだ。

その場で見つけて頂けた研究紀楊「火内」第10号は入手したが、これも内容的には職人さんへの聞き取り調査の内容。
学芸員さんも考古学をやられていて、「中世に竈が消える」一件は熟知されていた。
せっかく来たのに、これでは…
で、たまたま、発掘担当されている方が席に戻り、近世で「へっつい」が出土しているとの事…
突然の展開ではあるが、見せて戴けた。
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対応戴けた方々にこの場を借りて改めて感謝したい。
ありがとうございます。

発掘箇所は、大館城二ノ丸の武家屋敷。
古地図と場所が整合されており、武家屋敷内の池と考えられる遺構から出土した物。
更にこの池からはこれだけではなく、火跡が残る火器破片が複数出土している。
この池は、内径を杭で囲まれ、他に注目遺物として、複数の桃の種も出土との事。
但し、ここが曰く付き。
周囲の土からは、花粉の検出が全く無く、「実(一個だけ果肉付き)」を沈めていた様で、お祓い?浄め?の為に沈めたのではないかと考えているそうだ。

なら、それら火器も廃絶儀礼か?。
竈神は荒神。一度暴れたら、一面火の海…
敷地内では鍛治跡を示唆される遺構もあり、火避けの呪い的内容は同意するところ。
と、言うか…
「竈」の痕跡が無くなる理由の1つは、この様に破片を水中に沈め、竈神を五行の「火」を「水」で鎮める為なのでは?
なら、遺構の中には絶対に残らない。
近くの池や川に流されたであろう。

これら火器の遺構背景を考えると、少なくとも大館城下町が作られ、戊辰戦争で城が焼かれる迄…つまり江戸期の何処かには絶対に当てはまる。

そして火器では「貝風呂(キャフロ)」も更に出土との事。
「貝風呂」とは…
貝焼き(かやき…ホタテ貝殻を鍋代用した独り鍋)用の卓上コンロ,七厘の事。
この「貝風呂」、他県に比べ秋田の出土数は異常に多いらしく、食文化として浸透していて需要もあったと言う事だ。
何せ、1人に1つづつ必要。専用の「貝風呂」を持つ=大人として認められたと言う事。
こんな文化背景…
なら、移動式竈が先に存在せねば、こんな贅沢な発想は生まれないと思うのだが。
広義の食器や調理器具文化は、ダイレクトに食文化へ繋がる。
民俗として重要…何故なら「貝風呂」無しでは、貝焼き文化は生まれない。
甘く見てはいけない。

中世の広島の草戸千軒遺跡や福井の一乗谷遺跡では移動式竈が出土…
「関東津軽船」は鎌倉期から運航し、最低「尾道」迄達していたと言う。
畿内の石工集団との関連性を考える根拠は、ここにもある。
石工集団なら「へっつい」や素焼きの「竈」を見ている可能性があるからだ。


実は前項でも書いた通り、「へっつい」需要層はまだある。
彼らもまた、「へっつい」を使っていたハズだ。それは…?
現在、確認中…乞う、ご期待。