この時点での公式見解④…新北海道史の「シャクシャイン像」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153

さて、コシャマインは謎、ならかの英雄伝説を持つ「シャクシャイン」が道史では如何に描かれているか?
ここでは「寛文九年の蝦夷乱」と表現されている。

「和人の蝦夷地における経済活動が盛んとなるにつれ、漸時蝦夷に対する圧迫が強化され、両者の間に利害の衝突をみるにいたったのは当然である。」
「寛文九年の蝦夷乱は、和人の交易上の不正、蝦夷の自由移動ならびに交易に対する制限、和人出稼ぎ人の扇動、松前藩蝦夷地に対する放任主義などの原因が重なって起きた大乱であったが、そもそもは東蝦夷地における染退蝦夷と波恵蝦夷との闘争が始まりであった。」
「染退の脇乙名シャクシャインは、力衆にまさり、衆夷を威服していたが、波恵の乙名オニビシまた器量これに劣らず、両者拮抗していた。この年シャクシャインとオニビシとが会って酒宴を開いた際、シャクシャインは酔いに任せてオニビシの部下を一人殺害した。」

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

この先長いので要約…
①オニビシはシャクシャインに謝罪要求、応じず。
松前藩は拡大と経済優先で両者に和解勧告、両者聞き入れず。
③闘争は6年、次第にオニビシに加勢が増し、1953に総乙名カモクタインを討ち、シャクシャイン逃亡。
松前藩はオニビシを諭し和解勧告、両者和解に応じ成立。
シャクシャインが染退の惣乙名になり、徐々に勢力回復。再びオニビシと衝突し、染退蝦夷が再度オニビシ部下殺害、オニビシ謝罪要求に応じず先鋭化。
⑥砂金採取の和人が染退に居たが、危険回避の為松前許可の上、文四郎と言う者が調停に入る。が、そこを訪れたオニビシをシャクシャイン一党が襲撃、オニビシは文四郎を庇い、戸外へ出て奮戦するも討死。
⑦波恵のチクナシや新冠のハロウは敵討ちへ。染退へ商船が到着の酒宴に乗じ染退襲撃。
⑧オニビシの姉(沙流のウトマサの妻)も参戦。厚別川岸に砦を築城、チクナシらと合流。一度は波恵,浦川連合を撃退するも、二度目の襲撃で姉が討死、一党は散々に。
⑨チクナシ,ハロウは加勢する松前藩直訴するもNG、沙流のウトマサも同様の申し入れもNGで、松前藩両者へ仲裁へ。一時両者共に受入も、ウトマサが松前で病死した為に波恵勢力拡大、謀叛企てる。
ここで越後の庄太夫(シャクシャインの娘と通ず),庄内の作右衛門,尾張の市左衛門,最上の助之丞がシャクシャインに付く。ウトマサ病死を松前の毒殺と吹聴し、波恵の分裂を狙う。
シャクシャイン、部下二人を東西蝦夷地の乙名を回らせ、同様の吹聴で蜂起協力を求め、応じぬ場合は蜂起前に攻撃と脅す。
⑪各地で和人襲撃略奪開始。更に商船攻撃、東11,西8隻。但し、宗谷,石狩,釧路以東は応じず。殺害された和人は東120(士族3人)、西153(士族2鷹匠3)、計273人。内198人は道外人。
松前の討伐隊編成、出陣。
反乱軍室蘭迄進軍、国縫で衝突。松前が撃退の上長万部まで進軍。反乱軍は兵糧不足と死傷で退却。
⑬更に松前増兵、計628名三陣で進軍、途中の蝦夷を降伏させつつピボクに至り、シャクシャインへ降伏勧告。息子の勧めで部下と共に出頭、降伏。
⑭命乞いに応じる形で、シャクシャインより償品提示。和議成立の酒宴の場で取囲み、シャクシャインら十四名を討つ。後に、染退へ進軍し、砦を陥落させ火を放つ。
反乱軍の74名は死傷生捕。
シャクシャインに与した市左衛門他二名は斬り捨て、庄太夫は生捕の上ピボクで火刑。
松前軍の死者1,負傷3。

箇条書きにこんな感じ。
松前視点になるのは、記録が松前だからになる。
冒頭の解説が蝦夷目線であり、引用で贔屓目になるが…
a.蝦夷衆内の覇権争い
b.松前藩の不干渉
c.調子に乗ったシャクシャインが企てた謀叛…
これ以外に書き様がない。
勿論、歴史は一視点だけで見てはいけない。
前後に物品の交換レートの問題等あったとしても、時は正に寛永から延宝、天和の飢饉の真っ最中。餓死者続出の中、無い袖は振れない。
これで不干渉の松前藩もどうかと思うが、オニビシら波恵が、記載された範疇では松前藩の調停に応じる方向であり、蝦夷の習慣を守っているので、筆者個人的には英雄のイメージなぞ全く感じない。

まぁ、個人的意見はさておき、こんな感じで「新北海道史」上では描かれている…そう捉えて欲しい。
松前藩に対し、染退蝦夷惣乙名が起こした謀叛と言う事。
これが当時の北海道庁歴史観…と言う事です。

これを踏まえ、研究や種々法案が進んだと。
この他にも幾つか蝦夷が起こした乱は載ってます。
その辺踏まえ、どう考えるか?
そう言う事になる。
何故なら、地域史のベースになるからだ。

やはり道史一読を勧めます。


参考文献:

「新北海道史 第二巻 通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日