ゴールドラッシュとキリシタン_9…「アンジェリス神夫の深浦での動向と松前殿の暴言」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246

以前、安東氏の追跡で深浦を訪れた。
それ以前にかの伝説のバテレン「アンジェリス神夫」が深浦を訪れていたのは知っていた。
深浦歴史民俗資料館で、関連をたずねたら青森県史の一部を資料として頂けた。
H.チースリク訳の「北方探険記」になるが、彼の動向を少し紹介しよう。

「パードレ結城ディエゴは昨年その人々を見舞った事がある。このパードレが津軽へ入らなかったとの沙汰が当時広がったが、それは嘘である。」

「〈津軽への〉入国は大して難しくはなかったし、出国もまたそれにも増して簡単であった。それはすべて明らかに我が主の御計いであった。そのわけは、〈津軽への〉関はどれも〈通過〉が難いので、普通の日本人でさえ、その地の出入国がとても容易ではないからである。」

「前略~深津船が逆風のために深浦と言う津軽の港へ着いてから、二十二日もその港に停滞し、その二十二日間に船に乗っていた人々〈八十人を越え、そのうちには行人の坊主が二人いた〉が、風が逆ににふいているとわかると、船客から募金をし、それで船の幸の為に祈祷をすることに決めた。」
「私は、もし船の中で飲酒する金を要求するのならば、かつて船衆の皆にしたようにそれをやってもよいが、祈祷をする為にというのならば、銭一枚ではやってはならない。そんなわけで、このことについてこれ以上は何も話す必要はない、と彼らに答えよ、簡単に彼に答えた。」

「前略~何故この逆風が吹いているのか、中略~それはあの上の商人〈私を指して〉が仲間たちを連れてこの船に乗っているからにほかならない。~中略~彼らはキリシタンだ、と言った。」
「それだから深浦に私を残してゆくことにしたらどうか、~中略~と、行人が一同に勧めた。」
「彼らの一部は行人に同意した。しかし他の人たちは、私がその船の主要な船客であり、その他の者が身分が低く思慮の浅い者だから船の船頭がこれに納得しないだろう、と言って、これについて話してはいけない、と言った。~中略~ついにその企みを断念した。」

青森県史 資料編近世1」青森県 平成13年3月31日 より引用…

ここでは、日本人バテレン「ディエゴ結城」に言及、彼が津軽を訪れた事があるとしている。
又、関所はかなり簡単に通り抜けている模様。つか、協力者か。
彼が蝦夷地へ向かう目的は、
蝦夷の人々への布教が容易か確認…
松前キリシタンへの告解が暫く出来ていない…
カルバリオ神夫の勧め…
と書いている。
風待ち港「深浦」の面目躍如だが、さすがに22日とは…
故に、風呼びの祈祷にかまけた金集めの旅の坊主に絡まれた訳だが、キリシタンと名指しされても動じる事もなく、船頭(又は船主)の主客である事を他の乗客が知っている位、話が通じている。
更に、商人に変装していた模様。
ここで解るのは、
①かなり強力な協力者が居る。
②80人も乗れる船が就航しており自由に行き来可能(関所を通れれば)。
③誰もキリシタン(又はバテレン)だと訴えたりしていない。
客船の存在は、あまり知られてはいないかも知れない。
割と、ランドパワー派の研究者は、こんな船の存在を知らないし、あまり触れない。
因みに、北前船はこの時代は就航していないし、人を乗せてはいけないとされている。
変装こそしているが、全くコソコソ隠れて移動している感じが無いのだ。

実はこの船には、他にも怪しい?乗客の存在を、アンジェリス神夫は書いている。

「前略~私たちはその船に乗って蝦夷へ向かった。松前殿の甥にあたる一人の士も同船していた。この士は、私が行人相手に起こした公事のことを知っていたので、私がキリシタンの者であり、また日本人らしあ容貌でないと悟って、パードレだろうかと推測した。」
松前へ着いたとき、船がいつも投錨する普通の港でなく別の港であった」
「彼は、松前殿にも、その地の乙名にも、私について抱いている推量を語った。すると乙名は、そこに住む何人かのキリシタンを呼び寄せ、殿はこれに大いに馳走させた。そして彼らの心中を試すために彼らに言った。お前たちがパードレと呼んでいるお前たちの旦那様が蝦夷の別の港にもう着いたから、間もなく松前へ見えるだろう。お前たちはどんなにか嬉しいだろう、と」
「私は一人のキリシタンを通してそれを知らせ(筆者註:アンジェリスが港に着いた事)、そして喜びの情を表にあらわさないように、またいい気になって話をしないように、と伝えたばかりであった。~中略~大きな喜びで私を待っていると言ってしまった。」
「私がパードレであることを確かめてから、乙名は松前殿へそれを報告した。その後、殿は、その馳走をしたキリシタンたちに対し、パードレが松前へ来るから、お前達が気持ちよいと思う所へ泊まってもらい、馳走をしてあげよ、と言った。そして彼自身はそのために町の検断に指示して、パードレの松前へ見えることは大事もない。なぜなら天下が彼らを日本から追放したけれども、松前は日本ではない、と付け加えた。それしてパードレが日本のヲゾクを見つけようとしている〈それもまた、彼の甥が彼に告げたからである〉ことも、パードレがそうするのは当然だから、いっそうゆっくりするように、言った」

青森県史 資料編近世1」青森県 平成13年3月31日 より引用…

この時は元和四年(1618)。
松前殿…つまり藩主は、二代公広公になるか…
彼の甥が同乗し、事の顛末を見た上で公広公に報告している。
そして、キリシタン達に、それを教える事で、本当にバテレンが来たのか探りを入れ、受入体制まで指示している。
キリシタン達を咎める事もまるでなく、ご馳走までして確認していた。
最もヤバい?のは、関所へ通す様に指示した上で、幕命に反した上で「松前は日本ではない」とまで、周りに伝えてると言う事。
笑うしかない。
この引用文の後、公広公は、仮にアンジェリスが謁見したいなら受けるし、それはアンジェリスの意志で構わないとしている。

この資料編の部分は、『新編弘前市史』資料編2近世1所収である。

これも、アンジェリス神夫からの視点のみ。
松前公広公が何を考え、本当はどう考えていたのか?は、松前視点からの検証が必要になる。
ただ、面白い事がある。
公広公がアンジェリス神夫を捕縛する為に、芝居染みた話を周りにした訳ではない。
何故なら…

「元和四年(一六一八)六月、藩主松前公広はイエズス会ジェロニモ.デ.アンジェリス神夫が去るとすぐ「キリシタン取締令」を出した。だが余り徹底したものてはなく他国者の金堀りたちには適用されなかった。」

「東北のキリシタン殉教地をゆく」 高木一雄 聖母の騎士社 2006年9月1日 より引用…

アンジェリス神夫捕縛を明らかに避けている上に、カルバリオ神夫は1622年二度目の訪道。どうも、1673年頃迄は交易船出入りは容易だったらしい。
が、所謂千軒岳大弾圧含む処刑もまた、公広公の命による。

どうだろう?
実際、北海道に於けるキリシタンの状況は、筆者が「暗黙の了解」でもあるのか?疑いたくなる位に、語られる事が少ない。
人口インパクトと言い…謎のベールの中である。