この時点での公式見解26-b…蝦夷乱と社会情勢にロシア南下を重ねると、如何に緊迫したか解る ※追記-b

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/20/185453
さて、ボチボチこのブログ本来の使い方をしてみようと思う。
我々グループのスタートラインは、アイヌ推進法に疑問を持った所から。
当然、この法制には賛成派と反対派がおり、事実抽出していく過程で利用される事が有り得る事は想定済み。
賛成,反対それぞれに都合良い悪いは出てくるので、切り貼りされぬ様に初めからバラバラのパズルにしてある。
故に時系列に並べ直す作業をしないと辻褄が合わなくなる。
我々の目的は正しい通史を学び発信する事なので、なるべく中立である事を心掛けていた。
最近、年表を乗せる様にしたのは、ボチボチ我々にどんな風に通史が見えているのかを解って戴ければと思っていたから。
故に、個別に学んだピースを年表に落とし込んでみても良いだろうと思う。

今回のテーマは「ロシア南下」である。
前にも書いたが、新北海道史は項目別にバラバラになっており、正確に時系列に並んでいる訳ではない。
つまり、本ブログと似た様な作りになっている。
これを理解するには、再度並べ直す作業が必要。
故に、「第二巻通説一」でロシアについて記載されている事を抽出し、先の蝦夷乱と社会情勢についての年表に落とし込みしてみたい。

年表内の西暦の前の「・」が我が国の情勢、「○」がロシアの情勢。
蝦夷衆の情勢が絡むので、江戸初期から並べてみる。


○1581年
ロシア、800余名のコサック、ウラル山脈越え。

・1603年
松前藩役宅が宗谷におかれ、礼文,利尻,樺太を司どる ※1

○1604年
ロシア、トムスクに基地建設。※1

・1611年
慶長三陸地震に伴う津波検出

1616年
福島,知内町で砂金採掘開始

・1618,1619年
アンジェリス&カルバリオ神父が渡道、布教 ※1
○同1618年(又は1619)
ロシア、エニセイスクに基地を設置。

・1619年
元和の飢饉

・1624年
厚岸場所開設

・1625年
この辺りより「近江商人」渡道開始

・1628年
大千軒岳開山

・1631年
島小牧開山、赤神銀鉛山開山

○1631~1632年
ロシア、ヤクーツクに基地設置し土人より獣皮徴収。

・1633年
沙流ケノマイ,シブチャリ開山

・1635年
様似(運別),国縫,夕張開山
松前重臣(砂糖,蠣崎ら)、宗谷珊内より樺太ウッシャムに渡り検分行う ※1

・1636年
松前重臣(甲道)、樺太タイラカに至る ※1

・1639年
幕府、鎖国令発布 ※1
○同1639年
ロシア、オホーツク沿岸到達 ※1

・1640年
駒ヶ岳Ko-d降灰、8mの津波伴う
(様似の東金山落盤?)
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

・1642年
寛永の飢饉

○1643年
ロシア、三年かけボヤルコフが黒竜江→韃靼湾へ探検。

・1648年
シブチャリのカモクタイン(シャクシャイン)とハエの鬼菱が抗争開始
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523

○1650年
ロシアのハバーロフが黒竜江へ進出、満州と衝突、以後繰り返す。

・1653年
鬼菱がカモクタインを討つ

・1655年
鬼菱とシャクシャイン、福山で和睦

・1662年
鬼菱とシャクシャイン再び抗争開始

・1663年
有珠山us-b降灰

・1667年
樽前山Ta-b降灰

・1668年
鬼菱がシャクシャインに討たれ、争乱拡大

・1669年
寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)勃発
同年、シャクシャイン一党和睦、酒宴の席で処刑。
また、シャクシャインに与した庄太夫を火刑に処す
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/26/170401
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

・1670年
ハウカセら西蝦夷の乙名らが不穏として余市にへ進軍、服従の誓詞を取る

・1671年
改めて東蝦夷地へ進軍、白老で服従の誓詞を取り、同年中で全乙名より誓詞を取る

・1672年
北前船(西廻航路)を川村瑞賢が開発
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/17/175633

・1675年
延宝の飢饉1

・1678年
江差の檜山が開山

・1680年
延宝の飢饉2

・1682年
天和の飢饉

・1684年
宗谷場所開設

○1688年
ロシア、ネルチンスク条約締結により満州との国境設定、南下不能となる。

・1691~1695年
元禄の飢饉

・1694年
駒ヶ岳Ko-C2降灰

○1697年
ロシア、1640年代に設置したアナドイル基地より南進、カムチャッカ征服。後に遠征繰返しシベリア全土を経営下に。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443

・1698年
松前藩士(佐藤)、単身東蝦夷地を探ると言う ※1

・1700年
松前藩、幕府へ「蝦夷全島地図」「郷帳」二冊を提出、千島を領地として記載、樺太も記載 ※1

・1701年
霧多布場所開設

○1711年
ロシア、占守島遠征で土人と戦い征服。

○1713年
ロシア、幌筵島迄征服、温根古丹島探検、占守島含む三島で日本製品押収し、土人より千島の名称と南で日本に接する事を聞く。

・1715年
新井白石、「西洋紀聞」著す ※1

・1716年
新井白石、「蝦夷志」著す(樺太記載) ※1
○同1716年
ロシア皇帝(ピョートル)、オホーツク,カムチャッカ航路開く命。 ※1

1717年
この頃、藩士知行地で場所請負制開始

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる

・1723年
福山で「問屋」成立

・1725年
奥島島神威岳噴火、乙部層降灰(説あり)。

・1730年
大阪堂島米会所設立

・1731年
択捉,国後の土人松前藩主に謁見,献貢 ※1

・1732年
享保の飢饉
○同1732年
ロシア、アメリカ岸へ到達。 ※1

○1734年
ロシア最初の日本についての書、「日本紀事」出版 ※1

・1737年
霧多布の蝦夷が騒ぎ、交易船を中止

○1738~39年
ベーリング貴下のスパンベルグが千島に沿い南下、得撫島探索後、陸前,安房,伊豆へ至る。

・1739年
樽前山ta-a降灰
福山で「小宿」設立
(この頃から知行地知行主の書状が現れる)

・1740年
長崎俵物(干海鼠,干鮑等)取扱開始

・1741年
松前大島Os-a降灰

・1743年
(松前資広公の頃、藩主領も場所請負制へ)

○1747年
ロシア司祭、占守島に教会建設。

・1748年
函館で「問屋,小宿」設立

・1749年
北見方面からアイノ集団が幕別に移動、白人村が形成される。
(「蝦夷考古館」前パネル(幕別町教育委員会設置))による ※2

・1753年
宝歴の飢饉(1)

・1754年
後場所開設

・1757年
宝歴の飢饉(2)

・1758年
納沙布蝦夷が、2~3000人で宗谷蝦夷を襲撃。死者60余人,負傷者200余人。翌年松前派兵し和解させる

○1767年
ロシア、択捉島探索。
ロシア人、ラショア島にて蝦夷人に暴行 ※1

・1770年
十勝蝦夷沙流蝦夷で紛争勃発、松前派兵し和解させる
○同1770年
ロシア人、ウルップ,択捉両島で鉄砲で酋長射殺。 ※1

○1771年
ロシア、得撫島でラッコ猟開始したが、土人への態度苛酷を極め周辺島夷が反抗し、一時撤退。
(マルンカ島ではロシア人20数名殺害) ※1

○1773年
ロシア、得撫島の反抗に和睦成立し、ラッコ猟再開と土人交易開始。
ロシア、択捉島に学校建設。
同時に教化強化し、毛皮を租税させる。

・1775年
国後のツキノエが、酒に任せ交易船貨物を横領。翌年から十年間交易船を停止
○同1775年
ロシアで露米商会設立。

○1778年
ロシア、国後蝦夷酋長ツキノエを道案内にノッカマプへ到着、銃で威嚇しつつ運上屋で松前藩新井田,工藤とに引見。

○1779年
ロシア人48名が厚岸酋長ツクシコイに越冬申し入れしながら渡道。松前藩より藩士出向き、交易拒絶。後らウルップ島へ戻り越冬。尚、この件は幕府に伏せられ、1786年の幕府巡見使訪道で発覚。 ※1

1780年
松前藩で福山秘府著す ※1
○同1780年
津波でロシア船、ウルップ島で難破。ロシア人溺死。 ※1

・1781年
本田利明、蝦夷地開拓を訴えカムチャッカ進出と都市建設を論ずる ※1
・1781~1783年
工藤平助、「赤蝦夷風説考」を著す ※1

・1782年
天明の飢饉(1)

・1784年
幕府(老中田沼)、蝦夷地開拓(調査)開始
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/144412
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/08/124743

・1785年
林子平、「三國通覧図説」を著す ※1

・1786年
近藤重蔵,最上徳内ら、千島探検
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/22/224121

1787年
天明の飢饉(2)

・1789年
寛政元年蝦夷乱(国後・目梨争乱)
松前派兵、国後のツキノエ,厚岸のイトコイの争乱賊らへの降伏勧告で鎮圧、8名処刑。結果、捕らえられた争乱賊が脱走暴れだし、松前により討ち取られ鎮圧
イトコイら周囲の乙名が誓詞提出

・1790年
樺太,斜里場所開設

・1791年
ラクスマン根室到着。

・1793年
ラクスマン、函館入港会談。

・1795年
藩主道広公が家臣の防備増強,殖産提案に「兵も金も人も足りない」と返答。ロシア南下を幕府に隠し黙認の方針示す
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/08/054450

・1797年
津軽藩約300名、函館警備に派兵
(南部は交代で派兵)

1798年
近藤重蔵,最上徳内国後島,択捉島に建標
(択捉が「大日本恵登呂府」の標柱)

・1799年
邪宗門,外国人に従う者厳罰の高札初見
幕府、津軽,南部両藩へ500人規模の警備兵派兵を指示(幕府直轄時の対応)
津軽→砂原,択捉(振別)
南部→根室,国後,択捉、それぞれ番所設置
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653

1800年
伊能忠敬蝦夷地測量開始
幕府、大小砲,弓,槍らを函館,択捉,国後らに配置(が、弾薬ら不足)

1802年
函館奉行設置、東蝦夷地直轄開始
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552

・1804年
幕府、津軽,南部両藩に永久警備を通達
○同1804年
大使レザノフ、長崎入港。
長崎奉行は通商国禁を回答

・1806年
幕府、海岸を持つ諸藩にロシア艦来訪時には諭し帰らせ、絶対上陸させぬ様に通達
○同1806年
ロシア艦一隻、樺太上陸。
久春古丹らを襲い発砲の上、蝦夷,越冬番人らを拉致。

・1807年
函館奉行、警備は宗谷で打ち切り、樺太蝦夷撫育にとどめる指令、色丹島蝦夷根室花咲へ移し空島とし、択捉島蝦夷移動不可能なので拠点振別として全島維持の方針を出す
○同1807年
ロシア艦一隻、択捉島上陸。
内保の番所を襲い、番人らを拉致、食料略奪し放火。
翌日紗那急襲にて警備兵とで銃撃戦、露艦二隻が威嚇砲撃で警備方撤退。
後、樺太で状況確認、礼文島沖で福山の商人船と遭遇、発砲の上放火。
後、礼文島上陸し、停泊中の松前や官船から大砲や積荷略奪。家屋放火。

・1807年
函館奉行、東北諸藩へ出兵指示
南部,津軽,久保田,庄内4藩、各3~6百名派兵

・1808年
間宮林蔵樺太探検

・1811年
ゴロヴニン事件発生

「新北海道史第二巻 通説一」 北海道 昭和45.4.31より抜粋…

以上、ゴロヴニン事件発生迄である。
これを見てみると、宗谷場所開設後辺りでロシアの東進は始まっており、後の征服速度が如何に早いか解ると思う。
前項でも指摘した様に、寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)と寛政元年蝦夷乱(国後・目梨の乱)には、誓詞を取ったり時期が大きく離れる事から直接関連は無いと考える。
むしろ、寛政元年蝦夷乱は、事前のツキノエの横領による「10年交易中止措置」とロシア南下の時期が重なっており、ツキノエに日露を天秤に掛けると言う格好の
口実を与えてしまっているのが解るだろう。
つまり、寛政元年蝦夷乱には、ロシア南下の影響を大きく受けているかと思われる。
生活物資や食料が滞る訳だ。
事実、蝦夷終結と同時に憮育の名目で交易船を出している。
ツキノエにすれば、交易停止から三年でロシアが来ている。渡りに船と言える。
この辺の考察は新北海道史では記載は無い。


更に…

蝦夷地には寛政二年、各場所に藩士を勤番させるまでは、場所に派遣される交易船に、交易取締として藩士が上乗し、交易がすむと引き揚げたが、交易の始めと終わりに、蝦夷を集めて饗宴を開き、その節掟書を読み聞かせ、役夷人には特別の待遇を与えた。これをオムシャという。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日 より引用…

前項にある様に、松前藩は1790年迄、知行地の場所にすら藩士を置く事をしていない。
場所の支配人や役土人に任せきりで、「無為に治める」を体現していた。
上記の通り、蝦夷衆同士の争いは数々ある訳で、管理や情報収集のマズさは指摘せざるをえない。


さて、ロシア…
実際何事もなく南下していた訳ではない。
上記はゴロヴニン事件迄の項目で抽出しているので、もっと後の項目で登場した場合は随時追加していが、例えば…
1770年…苛酷を極め周辺島夷が反抗…
1773年…教育と教化、毛皮を租税…
1806年…樺太上陸と発砲による拉致…
1807年.択捉島礼文島での、砲撃,発砲,拉致,略奪,放火…
これらはよくアイノに対する明治政府による迫害と言う話でされる事よりむしろ熾烈。
ましてや1806,1807年の樺太礼文島では銅板によるメッセージが残され、「通商するなら末代迄懇意、しなければ今回同様にする」と威嚇しているのだ(同書p493より)。
さて、読んでいる皆さんなら日露どちらを取る?
巷の論理で言えば千島の人々は、教育,教化で文化破壊され、税を収奪され、銃撃らで脅され拉致された。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
非課税なのは記事がある。

さて、これらを見る限り、千島への到達はほぼ同時。
事態が如何に逼迫していたか?は解って戴けたであろう。
仮に田沼意次による開拓調査が無ければ、士族による管理が遅れた分、甚大な被害が出たり北海道に上陸を許し、事と場合によっては道内での戦乱紛いも無いとは言い切れない。
戦線の延長と言う戦術上の問題もあるが、大砲らの戦力差は拡大に開いていたのは事実。その場合、北海道は……?
まぁ歴史に「if」は無い。
国防を疎かにすればどうなるのか?
江戸後期の北海道がその様を見せてくれているのでは無いのか?
我々、後世の者がすべきは歴史から教訓を取り出し、二度と起こらぬ様にする事。

現代によく似ていると思うのは、我々グループだけであろうか?

年表は随時延長,更新していく。


※1 追記-a
Tokyoumare02シ・シャモちゃん様からの資料提示により年表追記(「北方の空白」)。
①1767~1771年のロシア人による射殺事件は当時のロシア人の考え方を物語る。
②1770年段階で、松前藩は千島や樺太(一部)は「松前藩領」だと幕府報告している事は特記に値すると考える。
③1779年のロシア厚岸上陸の件、松前藩が幕府に伏せたのは注目すべき点。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/08/054450
これらは当時の松前藩方針と符号する。

Tokyoumare02シ・シャモちゃん様、ありがとうございます。


※2 追記−b

F34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様からの情報…
吉田菊太郎翁が作った「蝦夷文化考古館」前のパネル(幕別町教育委員会設置)にある「幕別町白人村」の伝承として、1749(寛延2)年にアイノが北見方面から移動して住み着いたとの事である。
最早ロシア南下が始まり、占守島に教会が出来た直後辺りである事が興味深い。

F34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様、ありがとうございます。








参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月三十日

「 北方の空白 -北方圏における日本・ロシアの交渉史-」 吉田 武三 北方文化研究会 昭和42.8.10