北海道と津軽藩の関係は?…「高岡の森・津軽藩歴史館」特別展「津軽藩と蝦夷地」にある津軽藩の蝦夷地出動実績らを学ぶ

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653
前項はこちら。
筆者は青森の藤崎町,弘前市へフィールドワークしてきた。
最大の目的は、安東氏発祥の地「藤崎城跡」を見ておきたかった事だが、「高岡の森・津軽藩歴史館」において「津軽藩蝦夷地」と言う特別展があるとの事だったので含め回った訳だ。
せっかくなので、この特別展をクローズアップして学んでみよう。
関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623

結論から言うと、例えば寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)らでは津軽藩史書津軽一統志」らの引用が主になっている。
だが、津軽藩には、それら史書の元となる一次資料「津軽藩庁日記」らが残されており、この特別展ではそれらが展示されている。
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では項目別に見てみよう。
訳文や解説文を引用してみよう。

①寛文九年蝦夷乱(シャクシャインの乱)
・「弘前藩庁日記(国日記)」
津軽アイヌの果たすべき役割として、津軽松前間でヒト・モノを運ぶ「かき送り役」(海上輸送業務)がありました。本資料ではシャクシャインの戦いにおいて「かき送り役」を務めた今別アイヌに対し、褒美が与えられたことが分かります。」
・「平山日記」
弘前藩領湊村(現五所川原市)の平山家に伝わった記録で、元亀元年(1570)から享和三年(1803)までの記録があります。弘前藩の軍勢はシャクシャインらが殺害された後、11月7日に松前を離れ、同月18日に帰着しました。」
・「津軽一統志」
シャクシャインの戦い発生に当たって、幕府からの命令を受けた弘前藩蝦夷地に出兵しようとしましたが、自力での鎮圧を試みた松前藩から拒否されました。結局、大野(現北海道北斗市)まで手勢を送るにとどまり、弘前藩は実際の戦闘には参加しませんでした。」
・「犾蜂起ニ付集書」
弘前藩士の安右衛門賀忠が寛文10年に松前へ派遣された際、松前蝦夷地の情報をまとめたものです。弘前は、シャクシャインの戦いの原因を探る目的で積極的な情報収集を行いましたが、これに対して松前藩は「松前ヲ責メ取」気持ちかと、不快感を示しました」

特別展「津軽藩蝦夷地」パネルより引用…

後に書かれた別の史書では家老始め700余名の出兵だった様で。
特に上記にある様に、犾(狄)村の人々にも海上輸送業務らが与えられており、熊胆や毛皮を献上した展示もあった。
学芸員さんの話では、それらの他にも日常物々交換らで地元民同士の交流を示す様な記録もあり、普通に協力して暮らす姿は残っている様だ。
最早江戸初期の争乱で津軽藩は幕府指令により実働しているのは、これらの一次資料により証明されている。
当然、松前や幕府にも記録があり、事件そのものが合致するのだろう。
津軽藩は藩成立段階で、北海道で何事か発生した時に南部藩と共に幕府指令により初動する事が取り決められていたかと思う。
幕府が蝦夷地を全くのフリーとしていたなどは無い。


②北方警備関係
・「津軽藩庁日記(国日記)」
「前略~特に文化4年のシャリ(現北海道斜里郡斜里町)では約100名のうち約7割が厳しい寒さと栄養失調により病死するという大きな被害が出ました。」
・「弘前藩庁日記(国日記)」
「文化10年9月28日に発生した「民次郎一揆」は弘前藩最大の一揆とされます。蝦夷地警備による幕府役人への人馬供給、蝦夷地への農民の動員などで負担が増大し、困窮した農民は年貢免除などを訴えました。」
・「交代御用諸事申継帳」
「本資料には、ソウヤ勤番の後任者に対する申し送り事項が記されています。ソウヤ勤番中に死去した者への供養だけでなく、ほかの勤番地で亡くなった弘前藩士の供養も念頭に置き、御膳や線香・灯籠などを供えるようにと書かれています。」
・「松前表ニ而病死跡調」
「前略~第一次幕領期の蝦夷地警備死者はおおむね三代後までが調査対象となっています。」

特別展「津軽藩蝦夷地」パネルより引用…

第一次北方警備に関連する事を引用してみた。
上記の通り、寛文九年蝦夷乱に続く出兵となった訳だが、前項らにもある様に悲惨な状況での実働となった様だ。
更に、領内は飢饉の最中。
領民にも負担がのし掛かり、一揆まで発生していた。
当然、この民次郎は処刑される。
藩士・領民共に命掛けの任務となった訳だ。
ましてこれら任務は津軽藩の持ち出しで行われ、対価は幕府から十万石加増と官位アップ。
現代の価値観なら、命の重さとは比較にならんとかとなるのだろうが、ここは当時の価値観で判断せねばならない。
が、幕府からの借金棒引きらは行われても良かった様な気もする。
オール津軽藩で、命掛けで対応していたと言う事だ。

上記は所蔵原本と合わせ説明文として展示されている。
また、簡単な「解説文」も掲示されているので、非常に解りやすい。
勿論、国後・目梨や日常の関連も展示があり、上記は一部でしかない。
さて、どうだろう?
幕府は蝦夷地をどう見ていたか解るのではないか?
自国として扱い、国防意識がちゃんとあったと言う事だ。
実際、警備らは樺太南部や千島にも及ぶ。
そんな考えが無ければ、諸藩からの不満で火が着いた段階で戦国乱世に逆戻りしそうな事までやるか?
「否」。
津軽藩始め東北諸藩も、何事も起きぬ様にスタンバイしていたのは既に報告済み。
自国領土だと理解していたと言う事。
理解していなければ、死のリスクを追えと藩士に指示出来るか?


ついでに…
折角だから、聞いてみた。
こんなスタンスの話はフェイスtoフェイスでやる。
何故、古文書上記載が「犾(狄)なのに「アイヌ」表記になる部分があるのか?をダイレクトにたずねた。

基本的に…
①文書の訳は原文に忠実にやる事になっている。
②県教育委員会らからは、特段の指示は出ていない。
③補助解説文中で変換する場合は(資料館と言うより)担当者の裁量で行っている話
(訳文中ではやらない)
との事。
そん中で…
①獣へんが侮蔑を含む意味合いあり
津軽史書内で大浦(津軽)為信公が覇権とる為南部だけではなく「犾」とも戦った記載ある
③後、彼らがアイヌと名乗る…
以上から、そんな変換をやる場合があるとの説明だった。
因みに②…
安東方残存兵力or火山噴火難民の可能性を指摘したら、学芸員さんはニッコリ笑ってうなづいて話すの止めた。
又、日常の交流は上記に書いた通りで、それなりに仲良くやっていた認識はお持ちだった。

ここで、奥州市の「北海道系住民のムラは無い」パネルの説明してみた。
そんな人が一部言語系に居るの知ってるか?たずねたら、驚愕し呆れながら「その頃アイノはいない」と一言。
つまり、津軽藩の古書に登場する時期での変換に限定してる事になる。
至極当たり前。
一応注意喚起。

実際SNS上では、上記東北諸藩の動きを無視し、北海道は別領土の様な話話流れている。
東北人として言わせて戴ければ…
まず、上記の様に命を掛けて北海道を守った人々の事を学び、慰霊してから言え…と言いたい。
ロシアの蛮行は関連項にある通り。

学ぶのが先だ。
とてもためになった。
図録は発行しないとの事。
是非足を運ぶ事をお薦めする。
そこに、あまり語られない「北海道~東北の関連史」がある。




参考文献:

「高岡の森・津軽藩歴史館」特別展「津軽藩蝦夷地」パネル