この時点での公式見解-27…松前藩はアイノを弾圧したのか?、むしろ新北海道史が指摘しているのは「構造的欠陥」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
前項はこちら、ロシアの南進について。
が、今回紹介するのは、その前がどうであるのか?だ。

関連項はこちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/08/054450
巷で信じられている事で、この「新北海道史」の記述と解離している事は結構ある。
例えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
コシャマインの乱は鍛冶屋とアイノの口論から起こったのか?」、巷では真顔で議論されているが、これはむしろ「コシャマインの乱は本当に有ったかどうか解らない」であったりだ。

再三我々が指摘する様に、歴史は各種の研究が進むにつれアップデートすべき。
では、これも巷で言われる事だが、改めるべきと考える部分を二点「新北海道史」から抽出してみよう。
テーマは…
松前藩による支配体制はどうだったのか?
②本当に松前藩はアイノを迫害したのか?
以上である。
これらに対する答えは、ちゃんと新北海道史に記載されている。


松前藩による支配体制はどうだったのか?

「前略~天文十九年蠣崎季広が行ったものと変わるところなく、各部落の酋趙を乙名と呼んでその部落の統制を任せ、そのうえに、地方に勢力があり、松前に好意を持つ者を「御味方蝦夷」と唱え、部下をたばねさせ、ウイマムなどでとくに待遇し、これを通じて統治を計ったのである。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和42.4.30より引用…

天文十九年とは、西暦なら1550年にあたる。
松前藩成立以前より、地方統制は各地の乙名を通じて行っていた。
さて1550年とは?
そう…
東公(安東舜季の事)嶋渡りにより、「夷狄商船往還法度」が蠣崎(後の松前)氏と蝦夷衆の惣乙名チコモタイン、ハシタインとで結ばれた年だ。
当時の中央史での社会情勢は?
長尾景虎(後の上杉謙信)が越後国主になり…
武田晴信(後の武田信玄)が小笠原を攻め、その勢いで村上を攻めたが、逆に大敗をきし…
毛利元就が二男,三男を吉川,小早川を継がせる事に成功…
戦国の国盗り物語が正に開始されていた頃にあたる。
この時、蠣崎季広は安東舜季の代官に過ぎず、チコモタイン,ハシタインと同等だったのは「夷狄商船往還法度」の中身を素直に読めば解る。
蠣崎季広にすれば(新羅之記録上は懐の広さをアピールするが)かなり屈辱的な内容だ。それを納得した(させられた)訳なので、解釈は諸説あるが実際はこう解釈するのが極合理的だと思う。
この時代は、安東舜季の威光の元、基本的には乙名や小使ら役蝦夷を任命し、それら役蝦夷による自治形態を行っていた。
この横並びの関係を覆すのが
・第一に秀吉の朱印状、家康による黒印状による領地安堵…
・第二に寛文九年蝦夷乱後に乙名に出させた誓書…
これで松前氏と蝦夷衆との上下関係が完成…と、言う訳で、松前藩成立で乙名による自治が敷かれた訳ではなく、それ以前からそうなのだ。
この事実上の支配状況を整える為に約百年掛かっただけで、実際の支配体制はそれ以前からずーっと、中世に確立された形態を維持していたとも言える。

では結論…
上司(舜季,秀吉,家康)の威光の元、乙名中心の自治支配体制は安東時代から継続されており、松前藩が設定した訳ではない。
松前藩蝦夷衆の上下関係を最終決定したのは、寛文九年蝦夷(シャクシャイン)乱後。


②本当に松前藩はアイノを迫害したのか?

家康の黒印状により松前藩が成立。
この時点で、蝦夷衆をその配下に置くために松前が圧力を掛けた…割と信じられており、巷の議論になっているのを見ている。
だが、それははっきり「違う」と新北海道史は指摘しているのだ。

松前藩の政策を批難するものは、松前藩蝦夷の同化を喜ばず、日本語の使用を禁止し、文字を習う事を喜ばず、農業を許さず、草鞋、簑笠などを用いることを禁じ、もしこれを犯すものがあるときは通辞がこれをとがめて償いを取った事実を指摘している。しかし、これは一般にしんじられているような松前藩の法度ではなかった。松前の禁令として伝えられる多くの禁圧は、大部分請負人が自己の利益のために設けたものであって、松前藩の罪はこれを黙認したところにあったに過ぎない。ゆえに松前藩が当時蝦夷に対して直接圧迫政策に出たという議論は誤りであって~後略」

「新北海道史第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.31 より引用…

新北海道において、松前藩が行った基本政策は「無為に治める」を貫いたとあちこちで指摘している。
その上で、後に場所請負が始まってから、その請負人が経営の為に勝手に作った「私法」を黙認したに過ぎないと書いている。
平たく言えば松前藩にとってはぶっちゃけどうでも良く、必要なのは藩運営の為に、請負人に租税させる事だと。
言ってみれば「放置プレー」。
実は、この記載の後には請負人らの横暴やらが羅列され、文章構成上では、その後に蝦夷反乱の項が記載されている。
つまり、蝦夷衆の反乱は「請負人の横暴」が原因と言わんばかりの配置だ。

ただ、時系列的に考えて欲しい。
仮に「請負人の横暴」が原因ならば上記通り、場所請負人による「私法」が設定され、横暴が可能な背景が設定されなければいけない。
だが、場所請負が始まるのはずっと後の江戸中期。その前には、福山への直接ウイマムの時代、知行主による直接場所開設らの時期が存在しており、辻褄があっていないのだ。
つまり、寛政元年蝦夷(国後,目梨)乱なら成立しえるが、寛文九年蝦夷乱ではこの原因は成立しない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/08/054450
改めて、この2つの乱にはタイムラグがある。全く同じ原因だとは言えないと指摘しているがそのまんま。
それぞれの原因は別だと考えるのが妥当。
我々的には、ここらは新北海道史による「印象操作」と言わざるをえないが、ここは新北海道史による見解を…

では結論…
松前藩蝦夷衆を圧迫したのは「誤り」である。
むしろ圧迫したのは「場所請負人」や所謂「和人」である。


さて、ここで新たなテーマが涌き出てくる。

③請負人達は極悪非道なのか?
である。

我々は再三「北海道と東北は古代から繋がっている」と指摘している。
これでは如何にも我らが先祖が蝦夷衆を搾取しているかの如く。
いやいや、実は新北海道史にはそれらに対する答えも書いてある。
それも「請負人の横暴の羅列」の項の前に「不正の原因」としてこれを記している。

「場所請負人は営利を目的とする商人にすぎず、ことに多くの危険を冒し、不完全な船と航海術で、北海の荒海を乗り切り、異人種と折衝して利益をあげようとするのだから、多分に投機的性質を帯び、勢い、できるだけ多くの利益をいっきょに獲得しようとしたのはとうぜんである。ことに、当時の支配者を相手の契約であるから、運上金のほかに種々の御用金、借上金が課され、相手の心次第でいつでも契約を破棄されるおそれがあり、一度破棄されたならば、たとえ訴訟をして勝っても、財政の逼迫した支配者に対してはその損害を賠償させることができず、投じた資本ばかりか財産の全部を失ってしまう危険さえあった。飛騨屋久兵衛、阿部屋伝兵衛などはその適例である。ゆえにこれらの損害もまた蝦夷交易の上に転嫁された。」

「新北海道史第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.31より引用…

新北海道史上、商人の肩を持つ内容は数少ない。
近江商人の功績」…
「不正の原因」…
この程度ではないであろうか?
さて、商人にはこの他蝦夷の介抱と言う義務が課せられていた。
面倒を見るべしが必要だった訳だ。
なので、請負人は漁具の貸出や技術指導したりしている。
当然、介抱以前に上がりを増やす事も考慮してだろう。
結果、蝦夷衆は請負人に使われる使用人化していく。
同時に本州出稼ぎだけでなく、役蝦夷蝦夷衆を集めさせ、江戸や畿内ら大消費地の需要を満たす為の場所拡大を行って行った。
当然、場所の拡大は、松前藩の財政を担う。
ただでさえ、主食たる米の確保や前背景での知行主の場所直営らでそれら商人に負債を持つ松前藩
租税による運営費用や借入金返済の為に私的掟を黙認せざるをえなくなったと記載されている。

では結論…
商人の本望は「商業利益」を上げる事。
商人の横暴とされる内容の大元には、場所拡大による税収拡大と借入金返済と言う至上命題があり、それを背景に松前藩が請負人らの要望を飲まざるをえなくなった背景がある。単なる極悪非道とは言えない。


以上、①~③をピックアップした。
新北海道史上でのそれぞれのテーマを抽出すると解説はこうなる。
さてそれらをどう見るか?
先述の様に新北海道史の記載は、蝦夷衆の反乱の原因として「商人の横暴」がクローズアップ「される様な配列」に纏められている。
だが、詳細を読み込んで行けば、それぞれの事象に対して「何故そこに至るか?」もそれなりに解説されているのが特徴。
つまり、あちこちに飛びながら記載されてる内容を、自ら年代別に時系列に並び変えねば理解なぞ出来ぬ様に仕込まれている。
このブログが「切り貼りされる事」を想定し、バラバラのパズルピース化したのとある意味同様だ。

さて、我々の見解…
①なんだかんだ商人の極悪非道を書いているがそれにも理由があるし、商人の本望は商業利益を上げる事
②基本的に松前藩は「無為に治める」と「中世からの統制体制の維持」を行っただけで基本は放置。藩の本望は「藩の運営」を継続する事
蝦夷衆はほぼ自治を任された状態だが、各時代の各長の思惑は当然一致するハズも無い。民の本望は「平和な生産,消費活動」を行う事。
松前藩も商人も蝦夷衆も、慈善事業な訳はない。

商人は藩の許可を受け、本望を達成しようとした。
蝦夷衆は自分達で裁定出来ぬ事は藩に裁定させようとして(鬼菱とカモクタインの争乱ら)仲裁申請している。
松前藩は無為に治める…の上、元々は上司の威光を利用して統制を強めていった経緯があった。
松前藩がやったのは蝦夷衆に圧迫したではなくむしろその逆で自治の丸投げ。
商人にも場所運営の丸投げ。
つまり、統制を掛ける者が居ない一種の無法状態が出来ていた事になる。
その時々の力関係で、上下関係が微妙に変化し、トラブルが発生していった…と言う「構造的欠陥」が元々あったと言う事だ。
迫害されたと巷で思い込まれている蝦夷衆も、商人がもたらした漁具や漁法で豊かになる素地が生まれ、免税された。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
蝦夷衆に藩取り決めの年貢なぞ無い。
支払いは全て商人側。

歴史に聖邪無し。
一方の主張だけ見ると見誤るって事だろう。
これらは、あちこち分散しつつも、ちゃんと新北海道史に書いてある。
ちゃんと一冊読み込めば(筆者も出来てはいないが)理解可能な様にあちこちに分散され記載がある。
そこに至る背景を知らずにあれこれ言うのは愚か。
解らんと言う事は、これを全く勉強していないから…以上。


究極の議論とも言える「裁判」とて、「法律」と言う基礎ベースに対して、真っ先にやる事は「論点の設定」だ。
SNS上の議論を見ていれば、全くこれらがやられていない。
故に「定義が~」なぞと言う話になる。
何の文献について?
どんな論点で?
決めて議論すれば良いだけ。
やっていないが故に、筆者は参加しない。
そんな暇があるなら、自ら学んで発信するのが先。

間違っても、現代の我々の判断基準で且つ感情論で話すべきではない。
特に、背景を学ばずして論ずるなど、恥ずべき行為。
新北海道史「だけ」でもこの位の背景抽出は可能。
学べば良いだけだ。
上記内容に擬義ある方は、北海道教育委員会へどうぞ。
書いてあるんだから、その記載内容の責任は「発行者」が負う。
当然なのだ。



参考文献:

「新北海道史第二巻通説一」 北海道 昭和45.4.31