この時点での、公式見解-44…「余市町史」に見る寛文九年蝦夷乱での余市の動向と「八郎右衛門」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/203950
さて、北海道の弾丸ツアー、石垣確認が季節柄ムリと解った段階で、余市町の史跡巡りはした。
たまたま「フゴッペ洞窟」でたまたま「余市町史」が売っていたので幾つか即購入。
筆者の場合、まず市町村史書らをざっと読み、疑問に思った事を掘り下げるのが定石。
では、その中から今迄も取り上げてきたテーマを少々広げてみよう。
関連項は当然こちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/26/170401
今回は、「寛文九年蝦夷乱」での余市の乙名達はどう動いたか?である。

まずは前提…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/20/185453
江戸中期辺りから始まったと言われる「場所請負制」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
その片鱗を「加賀家文書」で学んでみた。
では、その前は?
「商場知行制」。
解りやすい事例はこれかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/17092
厚岸の商場へ訪れた「オリ」。
商場の知行権を得た藩士が、部下,商人,船乗りらを設定された商場(場所)へ赴き、取引をして、その利益を得るというもの。
船の数等は松前藩で設定されていた模様。
安東氏が大殿をやっていた時期と松前藩成立後の最大の違いはここらしい。

「それまでアイヌは、自分たちの船に公益品を積んで、松前はもちろん、津軽や南部まで自由に交易に出かけていました。〜中略〜商場知行制が布かれてからは、アイヌは自分たちの地に縛りつけられ、自由な交易の権利を失ったのです。」

余市町史 通説編2 近世1」 余市町史編さん室 平成28.2.20 より引用…

松前藩が秀吉や家康から交付された朱印状,黒印状には、確かに独占交易権を許可されたとある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
中世港湾遺跡を持つと考えられる余市は、樺太余市〜東北と考えられる商圏の中継湊となるであろうから、規模縮小は否めない。

で、大いなる疑問…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
松前は良いとして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
南部も良いとして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
津軽も良いとして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833
國は甚大にして都より三百レグワあり、彼等の中にゲワ(出羽)、の國の大なる町アキタ(秋田)、と稱する日本の地に來り、交易をなす者多し…は、何処へ?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
こんな風に、象潟からフラリと稼ぎに行き、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
何より、大殿は何度か出撃しているが。
そう。
古代の秋田城にして、中世の十三湊安東氏,桧山(下国)安東氏,湊(上国)安東氏らは、新しく発行された地方史書には殆ど記載無い。
秋田は番外…
余市町市では、この「商場知行制」が生活様式の変化を生んだとしてるが、添付した通り、取引した文物はそんなに変化シているのか?
食料,着物,鉄器類…あまり変わってはいないが。


と、言う訳で、本題に移る。
寛文九年蝦夷乱での余市の動向。
結論から言うと、
・商船襲撃を行い、多数の死傷者を出している。
・染退の惣乙名、シャクシャインの蜂起には不参加。
となる。
なかなか微妙な立ち位置だが…
では余市町史が語るそれを要約。


西蝦夷地の被害
・襲撃された船→11艘(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)
・死者→143名(津軽一統志)
それぞれ古書により数が違い、要精査。
東西共に士族はあまり居らず、ほぼ百姓。


蜂起の理由とその動向
余市側から津軽藩の牧只右衛門に対して(津軽一統志)、
シャクシャインから商船襲撃の依頼が来た
シャクシャインからは、下国の(東の)大将二~三人が松前に毒殺された事を聞き、上国でも同様になるとの話だった
・これらで襲撃したのは間違い無し
・元々ニ斗入りの米俵が七~八升しか入っていなくなり、更に約束の上俵物(アワビ)が不足していたところ翌年より数量を増やされて出来なくば子供を質に取られる
・二代松前公広の代では慈悲深かったが、商場が蠣崎(蔵人)廣林になってから強引な政策に変わり、これでは飢える
シャクシャインからの呼びかけに対しては「我々同心不仕候処に、右の通松前より狄共渇命に及申候罷候得は、一食も続不申故、狄とも相談にて商船ふみつふし申候」…
つまり平たく言えば「お前らとは同じ考えではない。あくまでも松前の政策で狄共に飢える為、狄と相談の上襲撃した」という感じか。
津軽の牧只右衛門へ対しては「従前の様に松前始め、津軽や南部へ行ける様にしてもらえないか?」と要望の上、従前同様なれば商船襲撃などやらないと訴えたと記載されるという。
かの、石狩の惣乙名、ハウカセの松前に対するタンカ(松前なぞ弾いて高岡へ行くというもの)は、ここでは余市側が牧へ話ししたとある。
実際、余市は知行主蠣崎(蔵人)廣林からの押し買いを受けても、当初は敢えて敵対はしていなかった様で、藩に近い「御味方蝦夷」だったと余市町史では解釈している。
また、西蝦夷地が不穏として松前藩が進軍し、話し合いの場を設けた際の話として、利尻や宗谷の大将も、(ツクナイの品を差し出し)講和するはやむを得ず、決裂して商船が来ないのでは生活が成り立たないとまで訴えている。
因みに利尻,宗谷は襲撃不参加。
この段階で、米や衣類、鉄器らは山丹交易らを中心とする利尻,宗谷では全くもって本州依存だった事を伺わせる。
結果的には添付関連項の様に「誓詞提出」まで行い講和へ。
西は西の事情で動いており、シャクシャインに同調,従属して襲撃した訳ではないとしている。
実際、タンカを切ったハウカセを交易の支障になると諌めたのは余市の惣乙名だとか。


その時点での余市は?
津軽一統志にある余市周辺の状況は、
商場は
・ひくに
・古平
余市
・忍路
・しくつし
で、それぞれに大将が居た様だが、余市だけは四人もの大将が記録され、規模が大きかったと推測される。
・サノカヘイン
・ケウラケ
カエラレチ
・八郎右衛門(惣乙名)
八郎右衛門の詳細は記載なく不明。
少なからず、松前藩や本州との繋がりが深い人物ではないかと余市町のHPでは記載ある。
とはいえ、津軽一統志上、本州同様の名前の表記は八郎右衛門に限った事ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
牧只右衛門の従者も津軽狄村の「万五郎」だったり、東へ向かったのが「四郎三郎」。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/21/194111
松前独立直後の元大殿である秋田(安東)実季にアシカ皮を送った「安養寺久左衛門」なる人物の例もある。
これは「算用状」なので、史料としての確度は高いのではないか?
昨今としては驚きはしない。

まぁ津軽一統志は津軽藩士の目線。
当然、出撃の対価として交易権を得たいではあろうので、そこは史料精査の上では考慮の必要はあるだろう。
概ねこんな感じである。


では、気になる点を…


津軽一統志では、西を上国、東を下国と表現している様だ。
上記、金田一博士の記述では、西蝦夷地では日ノ本将軍配下として歓待された様な記述がある。
この日ノ本将軍こそ、安東氏の事。
ここで…
上国…湊(上国)安東氏→秋田湊
下国…桧山(下国)安東氏→十三湊,桧山湊
それぞれを示すと各姓と一致してくる。
元々室町期位での統治者はこんな風に担当していたか?とも想像可能だろう。
総括していたであろう十三湊時代や東公島渡りを行い桧山と湊を統合した安東舜季と愛季,実季らは両方への実力行使が可能だったであろうが。
ここで疑問なのが、何故北海道に上国氏を名乗る者が登場しないのか?
いずれにしても、現在北海道の史書上、安東氏が消されているのは確か。
この傾向は何故?
宿題である。


上記を再度。
「我々同心不仕候処に、右の通松前より狄共渇命に及申候罷候得は、一食も続不申故、狄とも相談にて商船ふみつふし申候」…

余市の大将は、
・狄共渇命に及
・狄とも相談にて
こう語っていると言っている。
この表現なら、「自分と「狄」は別である」事にならないか?だ。
これだとまるで(狄ではない)自分が狄を率いている様な表現になっている。
グループで話す様になり、当初から想定していたが、階層社会のキツさも加味すると、惣乙名や大将級が元々安東氏配下の武将の末裔で、それらが樺太,千島らの人々を使役層として集め配下として使っていたのではないか?だ。


仮説,推論,妄想はここまで。
古文記載らへの見識も広げ、ゆっくり学んでいこうではないか。
が、これなら中世の武具が各地でみつかるのも矛盾が無くなってくるのだが。
余市ホットスポットである。
これは間違いがない。





参考文献:

余市町史 通説編2 近世1」 余市町史編さん室 平成28.2.20