時系列上の矛盾…「十勝太海岸段丘遺跡」にある浦幌アイノの痕跡と火山灰の壁

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108

「時系列の矛盾」を続けていこう。
今回は、浦幌町にある「十勝太海岸段丘遺跡」の発掘調査報告書。
実は、取り寄せたには理由がある。
浦幌と言えば…
https://news.yahoo.co.jp/articles/0a2a3c580a983d115422c19dd3b70b3e68238dd3

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200920/amp/k10012627971000.html?__twitter_impression=true
こんなニュースが昨今流れていた。
昨今、白老の「某施設」の活動に呼応して、活発に活動されている様なので、なら浦幌の昔の姿はどうなのか?興味が湧いたと言う、筆者の個人的興味による。
実はこの報告書は、本編だけではなく、写真や付篇も合わせると450頁におよぶ大作で、それだけ、歴史に対する意識も高い証左で、頭が下がる。
なので、引用より先にダイジェストでざっくり説明しよう。

①位置と経緯…
浦幌十勝川河口付近の河岸段丘にある。
元々、十勝川本流の河口であり、河口北岸にはチャシ跡や遺跡が並んでいる。
概ね擦文文化期の竪穴住居らが多く、数十~数百基に及ぶ。
「浦幌太河岸段丘遺跡」はその最も東側に位置し、河口部分に当たる。
国道336号線の延長に伴い、遺跡の発掘らを行ったと言う事の様だ。

②基本層序…
Ⅰ層…表土。
Ⅱ層…火山灰。これは1667~1739年迄の三度の噴火の痕跡で、基本混ざり、位置によりそれぞれ分かれる。
Ⅲ層…腐植土。
Ⅳ層…ソフトローム(Ⅲ層の影響あり)。
Ⅴ層…ソフトローム(褐色系)。
Ⅵ層…ハードローム
Ⅶ層…シルティクレイ。
Ⅷ層…灰白色粘土層
やはり、白老同様、Ta-b火山灰層ら火山灰の影響を受ける。

③遺跡の概要…
では引用…
「3ヶ年間にわたる調査で、住居跡6、土抗27、焼土23、礫群7、集石8柱あなた方列5、柱穴(遺構に伴うものを除く)358、物送り場跡1、塹壕7、フレイク集中1、海砂堆積1の各遺構を検出し、発掘した。」
国道336号敷設によって発掘対象地区となった範囲は、おおむね延長で500m、幅員方向で幅広い個所で50mに及ぶが、必ずしも擦文集落たる遺跡の中心部を調査したものではなく、むしろ集落の脇部分を調査したと考えられるものである。」
「発掘区内の地層は長年にわたる耕作や乳牛の放牧地、地域のごみ捨て場となっていた部分もあり、表土や腐植土が失われていて、本来の様相を示していない場跡も認められたが、中央部の沢部両脇を除いてはおおむね調査に耐えられるだけの状況を保持していたと言える。」

「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日 より引用…

竈や地炉を持つ竪穴住居6基を初めとして、それに伴う擦文土器,紡績車らが出土遺物の中心で、住居跡は、主にⅢ~Ⅳ層。
包含層からは、縄文土器、擦文土器らの他に内耳鉄鍋,刀子,渡来銭,釘らから、現代のコーラ,ビール瓶からボルトや学ランのボタンら昭和の物まで揃う。
縄文~昭和迄の歴史の縮図…。
塹壕は、旧陸軍が北海道防衛の為に築かれた物で交通壕の様だ。実は、従来「十勝太海岸段丘チャシ」とされる物も含んでいたが、これはこの塹壕跡の一部の様で、報告書では、これはチャシではなかったとしている。

覆土の状況やそれぞれの遺構,遺物に対する考察、付篇らかなり細かく記載されている。
当然、他の報告書同様、アイノ文化への関連性を中心に他の遺跡との関連性を見出だす手法ではあるが。だが、細かく調べている。
THE報告書である。


さて、塹壕らも気にはなるが、我々は「北海道~東方の関連史」の視点。
それらは割愛し、シリーズ化した「時系列上の矛盾」について述べよう。
さて、「物送り場跡」…これ何?
と言う訳で読み進めたが、どうやら、アイノ文化の一端である「食べた動物の骨を捨てた宗教的痕跡」と言うべきか。
早い話、これが積もり積もると「貝塚」として検出される模様。
ここでは、カレイやヒラメの骨を中心に、鮭やウグイらに混じり、クジラ,海獣、貝、鳥迄揃う。
竪穴住居に付随した焼土跡からは、昨今紹介している雑穀らが出土。
クジラは考察に於いて、シャチに追われ砂浜に打ち上げられた「寄鯨」を捕ったのが一般的で、古書にもそれは記載される様だ。

では、引用してみよう。
「概況:第4号住居跡の埋まり切らない凹みの北東斜面から検出。第4号住居跡は、近年の二次堆積により埋覆されていたが、二次堆積と本来の表土の上面を除去した段階で検出した。初めはカレイ骨を主体に若干のクジラ骨、エゾバイが鉄鎌、骨鏃とともに出土しているに過ぎなかったが、掘り進むに従って焼けた獣骨が出土、最下層からは80数個のエゾバイが殻口を下にして伏せた形で出土し、そこにはシカ角、中柄、シロガイが含まれていた。」
「層序:図36(71p)に示したように、物送り場は最上層に薄いカーボン層を含む本来の表土(Ia)とその下層の火山灰を点在させる10YR2/2の黒褐色腐植土中に含まれている。その層の竪穴中央付近では、上層から樽前a火山灰(Ta-a)、駒ヶ岳c2火山灰(Ko-c2)、樽前b火山灰(Ta-b)火山灰が整然と堆積しており、物送り場の最下層は樽前a火山灰よりも上層に位置している。」


「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日 より引用…

確かに図でも確認したが、この「物送り場跡」は、竪穴住居の覆土の途中で「火山灰層より上層」で止まっている。
で、この遺跡の年代を特定可能な擦文住居跡らでは、アイノ文化に通じる様な遺物は…「無い」。
ガラス玉らはあるが、包含層の内、これにはコーラ瓶らも含まれており、擦文住居跡らとの関連性は謳えないと言う訳だ。
無いのです、擦文文化とアイノ文化を繋げる物が。

確実に言えるのは、アイノ文化を示すであろう可能性がある遺構は「火山灰層の上」にあり、火山灰が降り積もった跡である…これだけ。これは確実。
だが、擦文遺跡までは土層、何より火山灰層を隔ててる。
二つの文化が直結すると断言なんか…ムリ。
アイノ文化人が火山灰層よりも前から此処にいた確証は無いのです。
「降灰後に戻った」とも言えるし、「全く別文化の人々が入り込んだ」とも言える。
決め手は無いのです。

ちゃんと擦文を中心に、アイノ文化の痕跡も残る貴重な遺跡。
純粋に凄い複合遺跡です。
大事にしないと。
ただ…
その「アイノ文化の痕跡」は、火山灰層の上部迄しか遡る事が出来ない「だけ」の事で、ちゃんと江戸中期迄遡れます。
なんの問題も無いのです。
何せ、土地を取り上げたのは「明治政府」なので。
これが江戸幕府松前藩を、その対象にしていない事が「ミソ」と言う訳だ。


我々グループは「アイヌ推進法」に疑問を持ち、集まった経緯がある。
さて、これで「文化が繋がってない」と指摘した場合にどうなるのか?
ない事を証明するのは「悪魔の証明」。
この場合、「ある事を証明」しなければならなくなる。
つまり、「擦文文化とアイノ文化が繋がっている」と主張した側が証明責任を追う訳だ。
簡単なんです。
「繋がっている物証を持ってこい」…一言で終了なのです。
我々は一年以上前から使っている…「物証を持ってこい」…と。
これが無ければ、「先住民族」なるものを立証不能なのだ。

現状はない。
ないから、各学者や教育委員会が探しているのが実態でしょう。

博物館や資料館で使ってみて下さい。
「物証はあるのか?」…と。


参考文献:
「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日