時系列上の矛盾…「十勝太海岸段丘遺跡報告書」に記される蝦夷の人々の姿

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842

さて、「十勝太海岸段丘遺跡」の発掘調査報告書について、もう少し書いてみたい。
この報告書は前項で書いた様に、種々内容について記載されている。
本文中にも、古書で「十勝」がどう描かれているか?等、地域史書として細かく調査,記述している。
その中に、同時の蝦夷の人々についての記述があり気になった事があるので、引用してみよう。


「古文書等に見えるもっとも古い地名「トカチ」は、1635(寛永12)年の『松前旧事記』に見える「戸賀知・運別、産金の業を興す」の記事である。この「戸賀知」は現在の大樹町相保島付近または紋別川上流付近、「運別」は現在の日高管内様似町付近をさすものと考えられており、現在も採金跡が残されていると言われている。」

十勝川河口の地である「トカチ」が文献上に登場するのは1643(寛永20)年のことである。それは、金銀島探険のため日本近海を航行中、八丈島付近で遭難し、蝦夷沖に漂着したオランダ東印度会社のカストリクム号司令官マールテン・ゲリッセン・ド・フリースの『日本旅行記』や船員の証言によってである(児玉、1971・北構、1983)。この旅行記は、17世紀中庸の東蝦夷地の様相を伝えるものとしてよく知られているが、トカチプト関係分を要約すると次のようになる。」

「前略~ここでの土地最初の舟が本船を訪れたが、その中には二人の男と一男児が乗っていた。彼らは身体にたくさんの銀を帯びていて、我々に銀が豊富にあるという山々をさし示した。舟には大鹿の皮2枚と若干の干鮭があり、身には麻の粗衣とその上に毛皮衣をまとっており、二人は耳に孔をあけて紐を下げ、一人は金と銅が混った耳輪を下げていた。また弓と矢を持ち、腰には銀作りの柄の刀子と銀装の腰刀を下げていた。彼らは金と銀のことをよく知っていた。また、自分たちの矢がよくできていることを自慢していたが、そのうちの若干のものには毒が塗られてあった。彼らの小舟は前端と後端が扁平になっており、楷は幅狭いものであった。彼らはカストリクムの甲板に来るといろんなことを言っていたが、その中で「タンバコ」という言葉だけがわかった。そして司令官に大鹿の皮1枚と塩をしていない干鮭をくれた。この民族は身体はズングリしており、皮膚は褐色であり、黒い粗剛な髭があり、全身には毛がたくさん生えて黒くなっていた。また頭の前半は剃っており、後半は頭髪は長く垂れ下がっていた。フリースはこの地方のことについて尋ねたが、蝦夷人は西微北を指してそこに彼らが住むといい、これをタカプチーTacaptie(トカチ)と呼び、また急峻な岬をグローンGroen(エリモ)、河の注ぎ湾をグウチャルGoutsiaer(クッシャロ)、さらにまた北東の方向にシラルカCyrarca(シラヌカ)およびグウチオテGoutsiote(クシロ?)というところがあるなどと答えた。」

「また、同船の乗組員の供述記録には、「エゾ島には、次に挙げるような人口の多い集落がある。マツメイ、シラルカ、トカプチー、クチュリ、グローエンアッケリス、ウビツポロビツ、ソボッサリ、クローエンウチョイラ、エサン、シロカニ、しかし、これらの集落あるいは町は、クチュリの住民によれば、次のように呼ばれている。マトメイ、コンプソ、パスクル、ハーペ、トカプチー、アブネイ、サンペツ、ウビツ、クローエン、シラルカ、サロ、クチュリ、アッケイス。」とある。これらの記事中、「タカプチー」または「トカプチー」とあるのが、十勝川河口集落のトカチ(プト)であり、「アブネイ」とあるのが現在の「厚内」である。」


「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日 より引用…


地名の部分は、方言があるのか?聞いた人の聞こえ方の問題か?不明だが、微妙に違う様な節がある。

それは置いておいて…
実は、同じ様に外国人で蝦夷の人々に遭遇し、記述を残している人物が居るのを、以前教えて戴いた。
イエズス会のアンジェリス神父である。
1621年との事。

https://twitter.com/gurinhiguma/status/1272345677398302720?s=19

・強健で身長は高い
・男女ともに日本人よりも色白
・時々長い髭をもっている
・容貌は醜くなく、体躯はよく均整がとれる
・男女共耳に穴をあけ耳環をしている
・酒に強く、飯に海獣の脂を掛ける etc.

肌の色艶や体躯…
フリースの記した風貌と、アンジェリスの記した風貌が微妙に違う。この間約20年。

ただ、フリースが記した風貌なら、林子平が記録したものや…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/193257
蝦夷人種痘の図」に描かれた蝦夷の人々と似てはいる。

さて、他の特徴では、
頭の髪を纏めるマタンプシがない…
麻の服の上に、毛皮…
この二点は、近世アイノと不一致か?

耳飾りを付ける…
エムシと思われる刀…
蝦夷太刀だけみれば、この1号墓の埋葬者のグループに近いと思うが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205

似ているが少しずつ皆違う。
ふと、考える。
この段階で色々な人々の集合体で、文化面で共通部分が多いのか?…と。
まぁそれはそれでも我々としては困らない。
元々我々は…
蝦夷=アイノではない、蝦夷にアイノは含まれる」と考えているので、全く驚きはしない。
変な話、秀吉の「バテレン追放令」で逃げて来た南蛮人だって混ざり得る可能性すらあると考えている。

一応、この古書は、降灰の前になる。
勿論、アンジェリスの記載も降灰前。

そして前項の通り、文化的には「送り場跡」等北方の影響色が強くなるが、物質的経済的には本州の影響色が強くなる。

さて、真実は如何に?
まだ、決め手は無い。


参考文献:
「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日