https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/23/204800
更に続編。
平成16年度に開始した発掘調査は、平成19年度迄、上図の19年度予定地を拡大し、太線で囲われた部分まで行われた様だ。
では、改めて基本層序…
0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…
特にアイノ文化期では、18年度迄の調査では平地式住居の年代が二期に分かれる傾向を見付けた為、その時間差の把握に力を入れたとの事を
では遺構から。
・アイノ文化期(カッコ内はそれまでの調査との合計)…
平地式住居…3(10)、土壙墓…1(3)、集中区…4(24)等。
特筆すべきは、8号住居内の炉から剥片状の鉄滓や集中区から鉄錆付着の叩き石、10号住居近くの20集中区(焼土近く)から金鉗(やっとこ)や線状痕の有る石,台石と思われるものが出土し、鍛冶等金属加工に関係する物が検出される。この焼土から採取された炭化クルミのC14炭素年代は、1110~1220年(2σ)である。因みに10号住居内の炉から採取された種実のC14炭素年代が1165~1260年(2σ)で古い時代の方に属する。
そして、8号住居内の炉から採取された炭化クルミのC14炭素年代は、1460~1640年(2σ)で1号住居らとほぼ同じで新たな時代の方に属する。
4号土壙墓では人骨は出土していないが、副葬に刀子(腰付近?)と針,漆塗膜(頭の方向?)が出土している。堆積土はⅢbとⅢc。どうも先に発見された1号土壙墓とこれは木棺を使ったのでは?とも考えられるとの事。
覆土から推定すれば新しい方の時代のものか?
また、シカ中心の獣骨集中区は「送り場」を推定、樽前b火山灰に近いⅢa直下のⅢbであり17世紀初頭を想定している。
さて、おわかり戴けたであろうか?
平地式住居の層を持って「アイノ文化期」の遺物として表現してはいるが、C14炭素年代から割り出すと…
①古い方に属する建物や焼土
→平安末~鎌倉期の遺物
②新しい方に属する建物や焼土
→室町~戦国,江戸初期位の遺物
と、分かれる傾向を持ち、データ上は200~300年程度のギャップが出ている。
この「上幌内モイ遺跡」のみ且つ採取炭化物での測定データで考えたら…と註釈は必要だが。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117
「新編天塩町史」からの報告…
「幕末まで竪穴住居は使われていた事を考慮すれば、平地式住居化がアイノ文化の指標となるのか?」…と言う疑問。
この「上幌内モイ遺跡」ではその逆バージョンが発生する。
「平安末期に何らかの施設としての平地式住居が登場するのであれば、竪穴住居との併用が考えられる」のではないか?という推定だ。
まずはおいといて…
・擦文期…
18~19年度の調査では
集中区…20(57)、土壙墓…1、溝状遺構…1を検出。
特筆すべきは、まず土壙墓(3号墓)。
比較的程度よく人骨が残る模様。
一部主体部が落ち込みしており、木棺の使用が考えられる模様。
副葬は、擦文土器片(1個体へ復元不能)、卵型の黒曜石転礫、小刀、帯金具、鎌、環状装飾品。
覆土中にも擦文土器×2。
主体内の擦文土器は、口縁に粘度塊、肩付近に馬蹄形圧痕が並び、内面に炭化物付着で煮炊きに使われた可能性あり。
ただ、筆者的に一つ疑問がある。
右上の図の右側、墓の掘り込みはⅢ層bの途中若しくは上からになるのだろう。
擦文期はⅢ層bの下部になるが、これを擦文期の土壙墓として判断して良いのか?…これが疑問。
Ⅲ層の包含層がⅣ層上面まで達した際に主体部の落ち込みを確認したとある。
確かに同図の左側はⅣ層。
元々Ⅲ層は薄い。どうなのだろう?
先に…
最も重要と考えるのは、集中区44だろう。
ここは「鉄器生産関連遺物集中区」とされ、被熱した粘度塊、壊れた羽口塊(細片で飛散)、鏨(タガネ)、板状の鉄片、鉄滓らが出土する。
左上の鏨は、上部に叩いた使用痕あり。
鉄滓は殆どが磁石に付かずマグネタイト化していないのか?。物により椀状にそっており、坩堝や土器に入れられ熱せられたのか?。
さて、羽口に近い位置の炭化材でのC14炭素年代は950~1030年(2σ)。白頭山-苫小牧火山灰より上面と考えられるので、妥当なのだろう。
ただ、少々残念なのが、この42集中区は倒木により多少かき混ぜられた痕跡はある様だ。倒木痕跡が残り、鏨を含む鉄片がⅢ層bの上位~下位まで分散する(羽口は中位)。
但し、炭化物のC14炭素年代の測定らでは、一点を除きほぼ矛盾なく綺麗にⅢ層bの各年代を捉えている。
厚さ5センチの土層をそれぞれトレースしている訳で、それだけ慎重且つ正確に発掘していたのだろう。敬意を持つ。
ざっとではあるが、古代~中世での状況を簡単にピックアップしてみた。
薄いⅢ層bではあるが、アイノ文化期と擦文文化期として表記される。
が、上記C14炭素年代を見て戴ければ、あれ?と思う事もあるだろう。
それぞれ、分けて分類してはいるが、炭素年代で分ければ…
・上…1400年代後半~1600年代前半
・中…1000年代中版~1200年代中盤
・下…900年代前半~1000年代前半
そして、アイノ文化期の古い方とされるのが、中。
さて、これを概ね東北の動きと重ねてみると…?
・上…室町~江戸初期、丁度南部氏の侵攻と十三湊陥落→ゴールドラッシュの時期
・中…安倍,清原氏→奥州藤原→鎌倉期
・下…秋田城→防御性集落の時代
となる。
その中で上記製鉄関連や前項の円形周溝遺構は、中~下。
やはり、その中間は抜けている。
むしろこういうべきか…
竪穴→平地式住居化が始まるのは、安倍,清原氏、むしろ奥州藤原氏の影響で始まった可能性がある…か。
それも製鉄関連遺構を伴う為、東北からの奥州藤原氏関連の移住に関係する可能性がある…と。
先に記載した「擦文の土壙墓」が、Ⅲ層bの上位から掘り込まれていたとしたら、副葬らの装飾品は、1400年代以降のものとなりうる為、明確なアイノ文化化開始以前から平地式住居化が始まっていた可能性が出てしまう…と、言うことになる。
実は、円形周溝遺構については触れられていない。
纏めとしての記述がないのもあるのだが。
まぁ、一つの遺跡の発掘結果で全てか決まる訳でもない。
ここは、近辺の遺跡の発掘調査報告書を続けて読み、近隣の状況を考えてみよう。
Ⅲ層bは薄い。
これを見る限りでは、平地式住居のみで「アイノ文化期」とするのはC14炭素年代との整合性や東北の動きと合わせ鑑みれば、少々危険ではないのだろうか?
それは素人目だからなのか?
が、
・C14炭素年代(地磁気のデータはこれをトレース出来ている)
・白頭山-苫小牧火山灰
・Ta-b
これらからしか明確な編年指標が得られていないのも事実ではある。
参考文献:
「厚真町 上幌内モイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査概要報告書-」 厚真町教育委員会 平成17.3.18
「厚真町 上幌内モイ遺跡(2) -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書2-」 厚真町教育委員会 平成19.3.27
「厚真町 上幌内モイ遺跡(3) -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書3-」 厚真町教育委員会 平成21.2.28