時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々が逃げる前の姿の一端

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/16/185453

「時系列上の矛盾」白老版その2である。
前項のテーマが「君は生き延びる事が出来るか?」であれば、今回は「じゃあその前は?」である。

実は、全然関係ない目論見で発注していた古書が届いた為、サラリと読んでみたが、有珠系統の降灰直前の「白老」の一端が見える部分があったので、少し紹介。


「前略~現在は耕作地となっている~中略~段丘の畑地および海岸に面する斜面からは従来土器片や石製品が発見されていた。しかし地表面には竪穴らしい窪みも貝殻の散布もない。」

「本遺跡の層位関係~中略~(1)腐蝕土層-(表層)-一〇糎、(2)砂粒状の軽石層-六糎、(3)腐蝕土層-四五糎、(4)指頭大の軽石層-一五糎、(5)腐蝕土層-四六糎(上半二五糎、下半二一糎)、(6)褐色砂層-六糎、(7)腐蝕土を混ずる暗褐色砂層-一五糎、(8)褐色砂層-一三〇糎、(9)岩盤、となつている。」
「地層(1)より(4)までは全く遺物が包含されず、(5)の上半部に於いて須恵器および擦文式土器と少数の恵山式土器が包含されており、(5)の下半部と(6)および(7)の上部にわたり恵山式土器のみが包含されている。」

「また(5)の上部、即ち(4)の直下に和舟の破片が発見された。数本の舟釘と、舟釘から生じた酸化鉄によつて、汚染をうけた結果残された木質部の数片とである。」

「この和舟の破片は明らかに土器包含層中に横たわつており、(4)の軽石層によつて覆われていた。したがつて少なくとも火山灰有珠C統より古く、本道における和舟の最古の資料と考えられる(第四図・第五図)。」

「北方文化研究報告 第十七輯 昭和三十七年三月発行 別冊 アヨロ遺跡」 名取武光/峰山厳/石川修次 より引用

はい…
ここは「虎杖浜アヨロ遺跡」。
白老町虎杖浜にある。
この発掘は昭和28年11月1日より3日間行われたの事で、虎杖浜遺跡の発掘は、ここから始まったと言う訳。

要約すると、降灰前までの状況は土器から推定されているのが…
続縄文→擦文と緩やかに変遷されていた様に見受けられる。
ここでは鉄器の出土は無かった…唯一和舟の船釘を除いて。
さすがに昭和28年の報告なので、科学分析もないし、この段階で遺構も見つかってはいないので、報告書自体は至極簡潔。
ほぼ、土器に対する説明で、土器傾向で編年経過を追おうとした旨が伝わってくる。

で、降灰とその前の地層に横たわる様に「和舟」が横たわっており、これが降灰の直前だろうと言う事になる。


アイノの舟は構造船とか聞いた事はあった。
だが…
どうやって釘を作る?
どうやって加工道具を作る?
どうやって板を切り出す?
どうやって水漏れぬ様に組み立てる?
仮に大陸の影響だと説明しても、これ「和釘」だから「和舟」と指摘してるのだろう。
加工道具と加工技術の「歴史」を舐めないで頂きたい。

何よりの問題は、ここが他の地ならばいざ知らず、「白老」である事なのだ。
この出土状況だけで導きだされるのは、降灰前までここに住んでいたのは、擦文文化人の末裔で、「和舟」の使用からそれは東北の文化に近い文化を持っていたであろう事。
船大工がこの地に居たかは「解らない」が、良くて東北系文化とアイノ文化の共生、悪くは東北系文化の単独…
そう言えば、以前ニュースらで見た「復活させたアイノの船」は…丸木からの削り出し船船。
なら、「白老」は別文化であったと言う仮説「も」成り立ってくる訳だ。


筆者は深くアイノ文化を調べてはいない。
発掘調査報告書を読んでいるだけ。
故に、現在の「仮説」のフィルターは、全く掛かっていない。先入観「〇」
ただ、公的調査の紹介をしているだけ。

これは一つの事実である。


参考文献:
「北方文化研究報告 第十七輯 昭和三十七年三月発行 別冊 アヨロ遺跡」 名取武光/峰山厳/石川修次