時系列上の矛盾&北海道には文字がある、続報5…「サクシュコトニ川遺跡」出土の「刻書土器」が繋ぐ、古代北海道と秋田城の関係

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/18/110054
「サクシュコトニ川遺跡」発掘調査報告書の続報。
実は、「サクシュコトニ遺跡」を有名にした遺物の一つは土師器、個体No.「杯17」。
この土師器は9片に分かれて出土、主な部分は「炭化物マウンド」と言う竈の灰や不要品を集めたゴミ捨て場の様な場所と考えられている。
東北の土師器の編年指標から、概ね9世紀の物と推定しているが、この一つは曰く付き。
「刻書土器」である。
以下、○の部分に入るのは「横線が三本の『夫』と言う文字?」として読んで頂ければ。

勿論、関連項は下記、「北海道には文字がある」である。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054


「サクシュコトニ遺跡から「○」と刻字された土師器片が発見された当時、北大埋蔵文化財調査室では、同字体で記された遺物が、他の遺跡から出土していないかどうか、東北地方出土の墨書土器などについて克明な調査がなされた。しかし、他に類似した例が発見されず、本遺跡出土の刻字土器片は、孤立した資料として、その後の同類の資料の出現が望まれていたのである。ところが、最近になって二つの同類の文字資料が知られるにいたった。」
「その(1)は、平城京跡のSD2700と呼称されている推定第2次内裏東外郭回廊の東22メートルの位置において検出された玉石積の大規模な南北溝の遺跡から出土した墨書土器である。」
「その(2)は、秋田城跡の南約12キロメートルの位置にある湯ノ沢F遺跡から出土した刻字土器である。」

「SD2700遺跡は、その埋土が6層に分かれていたという。その最下層である第Ⅵ層からは、天平元年(729)、同2年(730)の年紀をもつ木簡が出土し、最上層である第Ⅰ層からは、延暦元年(782)、同2年の年紀を記す木簡が検出されている。」
「これらの記事は、いずれも正月拝賀の儀に、「蝦夷」も参列したことにかかわるものである。」
「これらの記事によれば、「渡島蝦夷」は、出羽の国衙に「来朝貢献」し、その「貢納物」には、雑皮があり、また「来朝」のさいには、「賜饗」のことがあったことがわかる。」

「前略~出羽の国司は、「来朝貢献」した「渡島蝦夷」にたいしても、職員令大国条の「饗給」の規定にもとづいて、饗宴を催し、祿物を給したのであった。そして、おそらく「○」と刻字されているサクシュコトニ川遺跡出土の土師器は、そうした饗宴の場で用いられたものが、「渡島蝦夷」の手によって、「本郷」、すなわち北海道に持ち帰られたのであろう~後略」

「サクシュコトニ川遺跡 北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原初的農耕集落」北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61年3月20日 より引用…


「北海道には文字がある」…
言い続けておりますが、墨書土器や刻書土器は出土しているのです。
ただこの後、この○が「夷」なのか?「奉」なのか?「文字ではない」のか?等、種々論文が出され、この「杯17」に刻まれたものがなんであるか?は確定に至った話は聞いていない。

但し、これが土師器であり、秋田城の饗給で出され、北海道へ渡った物である…この点については大概異論は無いだろう。
何せ文字数の兼ね合いで割愛したが、本文中では日本後紀や三代実録の記録を引用し、現物と古書との整合性を確認し、年代と合致すると論じている。
つまり、これも、北海道と秋田城との繋がりを示す物証の一つとは言えるだろう。

記事の中には、渡島衆の長「103人」が「3000人」率いて秋田城に詣で、国司,権介らにより「労饗」…想像よりもド派手な大宴会である。
実際、秋田城には、出羽国あちこちから米を集めた木簡や漆紙文書が出土しており、日本後紀等古書が裏付けされているのだから。

また、平城京の拝賀儀式も興味深い。
蝦夷衆は都に出向き正月参賀に参加していたとは。
これらを鑑みれば、あれこれあっても、仲良くやってたんじゃないのか?と思わせる。

さて…
この時代まだ「アイノ文化」は、欠片も無い。
むしろ、東北の遺跡の出土遺物や遺構に近く、生活らも似ていたのではないか?と、少しずつ擦紋期の概念を変えた貴重な遺跡でもあるのだ。
その辺はまた続報にて…


北海道と東北は古代から繋がっている。
これが途切れた事は無い。