必要なのは圧倒的火力で、比熱痕ではなく「ガラス化」…製鉄遺構を比較してみる

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古代~中世での北海道史において、東北に比べて足りないものは?
筆者的には「窯跡」と答える。
①製鉄する為の「窯跡」
②須恵器を焼成する「窯跡」
これらが無い。
筆者は東北で中世の「竈」を探しているのは「生きていた証シリーズ」で報告しているが、技術力の差と考えれば、これに例えるのが解りやすいかも知れない。
竈…
カマクラ型の燃焼室を設け、熱を外部に逃がさぬ構造にして、燃焼室上部に熱を集中させる
囲炉裏,地炉…
燃焼室は設けず、火炎そのもので熱する
筆者も専門家ではないので、酷く大雑把に書くとこんな感じか。
で、これを技術力と見るとその差は大きくなる。
竈同様に燃焼室を設ける→須恵器窯
囲炉裏同様に燃焼室は設けない→土師器,擦文土器
これまた大雑把過ぎるが対応させるとこうなる。でも、その焼成温度差は圧倒的。

関連項は上記になる。
やっと奥尻島青苗遺跡の製鉄遺構とさせる写真を見る事が出来たので、少々比較してみようと思う。
多少の時期のズレはあるだろうが、どれも平安(擦文文化)期である事は変わりがない。
見比べて見ると、恐らくその差は解るだろう。
まずは青苗遺構の製鉄遺構。
「SG7・8区製錬遺構の平面の状態である。写真中の方位は右側が北、手前の東南方向に走る細長い土堤は長さ約3.5m、幅50cm、高さ20~25cmで、砂質土に擦文土器の小片を意図的に混入して構築したもののようである。土堤の盛土の中にはいくつかの径15~20cmほどの砂岩塊が埋もれており、すべてに強い火力を受けた焼痕があってヒビ割れが入っている。この盛土の西側は窪みになり全般が浅く焼けている。」
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奥尻島青苗遺跡 図版編」 佐藤忠雄/函館土木現業所/奥尻島教育委員会 1979年3月15日 より引用…

どうやら大地の傾斜に直角に掘って平面を取り、低い方に土器片や礫を混ぜた盛土をした様だ。
近辺からは鞴(ふいご)の羽口が出土しており、空気を入れたのかも知れない。
比熱痕と羽口,鉄滓出土から製鉄(製錬)遺構としたのかも知れない。

では、次は同様に鉄滓出土の札幌市のサクシュコトニ遺跡。
ここは関連項にある様に、鉄滓の顕微鏡写真から製鉄には失敗している。
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遺跡の平面図だが、ここには土坑や竪穴住居、焼土跡は幾つも検出しているが、肝心の製鉄遺構と考えられる物は検出されていない。
近辺の竪穴住居らからも鞴の羽口は出土しているが、明確にその鉄滓を作り出した場所の特定は出来なかった。当然、土坑若しくは焼土跡で焼成した可能性も無くは無い。

では、平安期の東北ではどのような製鉄遺構なのか?
関連項にある秋田の「扇田谷地遺跡」の製鉄遺構がこれ。
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東北の平安期の「製鉄遺構」と言えば、実はこんな形をしている。
「縦型炉」と言われる様で、当然秋田だけではなく、津軽の「高舘遺跡」等でもこんな地下に燃焼室があるような形をしており、これは秋田城らも同様。
形以上に違う事がある。
実は、これら遺構の炉壁は土中のケイ素の成分が熔けて「ガラス化」しているのだ。
陶磁器で言う「自然釉薬」の様なもの。
1200~1400℃位まで上がっているか?

正直に言えば、秋田~津軽から技術が伝播していたなら、この「縦型炉」であろうと考えていたので、「青苗遺跡」でもこのような遺構があると考えていた。
が、実際に写真で確認する限りに於いては土手と盛土のみで天井すらなく、「窯」とは呼べない遺構の様だ。
更には「比熱痕」あれども「ガラス化」迄は至っていない。つまり温度が上がってはいない事になる。

製鉄(製錬)には、必要な要素がある。
熱量だけではなく、還元雰囲気を作る事。
自然界ては、鉄は単独そのもので殆ど存在しない。概ね化合物「酸化鉄」の形で存在する。
純粋な「鉄」を作り出すには酸化鉄の「酸素」を抜く必要がある。
そこでぶっちゃけ「酸化鉄を一酸化炭素中毒」にして酸素を抜いてしまう訳だ。
(専門家の方々、ざっくりな説明ですいません)
「扇田谷地遺跡」では、火力を上げる為に「炭焼」をした遺構も検出される。
閉鎖された燃焼室、炭焼、圧倒的な熱量…
これが最低条件。
「青苗遺跡」,「サクシュコトニ遺跡」には、これが無い。
つまり、実験的にtryはしても、歩留まり(良品率)が著しく低く、量産化はムリだったと考えられる。


どうだろう?
製鉄遺構とは呼ばれているが、その実はこれだったか。
道理で専門家が「北海道で製鉄は出来ていない」と言う訳だ。
筆者の素人目でも、これなら明らかに失敗するであろうと解る。
「製鉄(製錬)遺構」と言う言葉「だけ」に踊らされる事なく、実際の「一次資料」迄確認してみれば、一目瞭然。
これで納得出来た。

「北海道で古代に製鉄(製錬)は量産化出来ていない」

新たな遺跡での遺構検出を期待しつつ、こう云わざる終えない。


参考文献:

奥尻島青苗遺跡 図版編」 佐藤忠雄/函館土木現業所/奥尻島教育委員会 1979年3月15日
奥尻島青苗遺跡」佐藤忠雄/奥尻町教育委員会 1981年3月

「サクシュコトニ川遺跡 北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61年3月20日

「扇田谷地遺跡-一般国道7号琴丘能代道路建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書Ⅳ」 秋田県埋蔵文化財センター 平安11年3月