この時点での、公式見解43…「江別古墳群」らを初めとする「擦文文化」が研究者にどう捉えられているのか?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
先日、筆者は道民の方から資料を送付戴いた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/05/165357
たまたま末期古墳群の項を書き終えた頃に「江別市郷土資料館」へ行ったとのお話を戴き、そこでしか入手出来ない関連パンフレットらがあるとの事だったので、ブログらに活かして欲しいとの事。
早速、使わせて戴く事としよう。
この場を借りてお礼をしたい。
ありがとうございます。

本項のテーマはズバリ。
「江別古墳群」を初めとする「江別文化」が、地元らの研究者にどう捉えられているのか?だ。

これまでも、江別古墳群については取り上げてきて、SNS上で江別古墳群の現地へ行った方が妙に失望する感じがあったのだが、パンフレットを観てGoogle Earthの画像と並べて理解出来た。


https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
最初の発掘者、後藤寿一博士にちなみ「後藤遺跡」や「北海道式古墳」と言われた江別古墳群や周囲の遺跡は、開発で殆ど破壊されている。

では、まずその「江別古墳群」が、どう捉えられているのか?を引用と絡めて記載しよう。

・系譜…
「本州の東北北部には、丹後平・原(青森県)、岩野山・柏原(秋田県)、浮島・猫谷地(岩手県)など、「末期古墳」と呼ばれる多くの古墳群が存在しています。〜中略〜「群集墳」とも呼ばれ、出土する土師器の分布の様相などから大和朝廷(律令国家)の東北経営勢力の北上と密接な関係が考えられています。
東北北部の末期古墳は、主体部の構造の違いなどから大きく三つに大別されますが、小規模な墳丘を有し、周囲に溝を巡らせた構造は、江別古墳群や恵庭の茂漁古墳群と同じです。また、遺物についても同様の土師器や須恵器、蕨手刀などの鉄器が出土しています。このように、古墳の形態や副葬品のうえで共通した特徴を持っている江別と恵庭の古墳群は、東北北部の末期古墳群の系統を引くものと考えられています。」

・古墳群に眠る人々は?…
「江別古墳群をはじめとした北海道の古墳群は、東北北部の末期古墳を源流とするみかたは大方一致しています。一方、その被葬者については諸説あります。
大きく分けると、本州の東北地方(陸奥・出羽)からの移住者とその子孫とする説と、石狩低地帯に成長した律令国家と交流を持つ在地集団とする説の二つになります。
被葬者を移住者とする説は、さらに、東北の蝦夷(筆者註:「えみし」のルビ)の系統か、あるいは征夷に参加した倭人という説に分かれます。」
「江別古墳群に関わる人々は、その主の由来は別にしても、大和政権の東北経営政策を背景とした北方情勢の変化の中で、続縄文文化から擦文文化へ移行を実現した共同体を構成する集団、またはその首長的階層と推定されます。」

「江別古墳群 −石狩平野を望む北の古墳−」
江別市教育委員会 平成10.2.1 より引用…

かなりズバリと記載している。
引用部の被葬者が移住者説の中には、「兵士集団とそれを支える農民集団」とする説、在地者説では渡島蝦夷の中の朝貢で官位や刀剣を得て支配者層となったらがある。
更には、それらから日本書紀の、
斉明天皇四年の条
安倍臣、船師一百八十艘を率て、蝦夷を伐つ。(出羽の恩荷らの位階授与)
斉明天皇五年の条
安倍臣を遣わして、船師一百八十艘を率て、蝦夷國を討つ。(後方羊蹄への政所設置指示)
斉明天皇六年の条
安倍臣を遣わして、船師ニ百艘を率て、粛慎國を伐たしむ。(渡島蝦夷からの粛慎討伐願いと仕官願い)
を記載する。

律令国家と北日本の年表を載せた上。
つか…
この遺物見りゃ至極当たり前の結論だろう。
勿論、鈴谷式土器ら北方からの物資も検出はする。
が、それは北方と本州を結ぶ交易接続点だから当然なのだ。
添付した発掘当時の後藤寿一・河野広道・後藤守一博士の主張では、鉄器に注目しこれらが大陸由来か本州由来かを特定出来れば、どちらの影響を帯びるか?は断定出来るとしていた。
現在、XRFら科学分析の発達で、これらはほぼ産地特定され、本州から持ち込まれたと断定される。
これが擦文文化。

江釣子古墳群らからの流れ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
江別,恵庭に至り…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/08/204335
土師器の影響で擦文土器が生まれ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
宗教や祭祀が伝播し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
だが、製鉄は成功に至らず…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/21/194450
官位らの権威により、古墳を作る意義が消え…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/05/165357
対岸の北東北と連動して…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/21/194535
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
出羽国府、秋田城と行き来し…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/20/200523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/14/154855
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453
何故か?北海道では先史時代人とされる…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/101118
これが「擦文文化人」と言う人々を指す。
これが「擦文文化」と言う。
これが「公式見解」だ。
で、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
この擦文文化と後の近世アイノ文化との繋がりが希薄且つ中世遺産が殆ど検出されないので…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
その繋がりの根拠は「諏訪大明神画詞」しかないと言ってるのが公式見解。
だって、繋がりが見つかってないし。
むしろ、それを繋げる為に研究を進めている…これが実態だろう。
概ねここまで連々並べれば、江別古墳群や江別文化とされる江別の変遷の意義が解るだろうと思う。

擦文文化は、北東北どころか大和朝廷が北上しなけりゃ成立しないのだ。
で、北海道の考古学研究者や教育者はこれらを熟知している。
そんなもん「当然」。
新北海道史に一連記載がある。
全部知った上で、現状の歴史教育をしたり、見解を出しているって事。
もう、一年半前には、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
我々は書いてある。

で、これだけではない。
グループ内では話はしているが、筆者はブログ上、擦文期より前の続縄文,オホーツク期の事を取り上げてはきていない。
何故か?
白頭山−苫小牧火山灰層や十和田火山灰は900年代初〜中葉。
丁度、擦文文化期途中に検出されるので、編年指標となっている。
これは日高〜十勝位までで、道東や網走方面での検出が薄いので、接続し難い。
それ以前の火山灰による編年指標が明確ではないので、意図して取り上げていないだけ。

では、追加で滅多にやらない続縄文期の本州と繋がりの意義も少し出しておこう。
「江別の遺跡をめぐる」より、続縄文時代の土器をどう捉えられているのか?

恵山式土器
東北地方の弥生土器の影響を受けて、道南地方で成立した土器で、恵山貝塚(函館市)から発見された土器を標識とする。」

前期…アヨロ1類
中期…アヨロ2類
後期…アヨロ3類

「江別太式土器
恵山式と江別式の中間的な特徴を示す土器で、恵山式の特徴だった器形のメリハリがさらになくなり、お寺の鐘をひっくり返したような器形になる。」

「江別式土器
江別式土器(後北式土器)は、河野広道氏によって坊主山遺跡出土の土器を標識に、古い順からA式・B式・C1式・C2式・D式に分類される。」

「北大式土器
北海道大学構内で発見された土器によって設定された土器。器形は、江別式と次の擦文土器との中間的な特徴を持つ。」

「擦文土器
北海道における土器文化の最後を飾る土器。本州で作られた土師器の影響を強く受け、器形は土師器そっくり。仕上げに木のヘラなどで器面をこする技法が使われ、「擦ったあと」が見られるので擦文土器と呼ばれる。」

「土師器
本州で作られた土器。ロクロが使われ始め、底には糸で切り離した渦巻状のあとが見られる。文様は見られないが、表面を磨いて仕上げ、わずかに光沢を放つものもある。また内側にススをつけて磨き、水のしみ込みをおさえる工夫がなされたものもある。」

「須恵器
本州で作られた焼き締めの器(せっ器)。窯で焼かれるので、土器より硬質で灰色なのが特徴。須恵器の窯は北海道内では発見されていない。最北の窯は青森県五所川原市にあり、北海道で発見される須恵器のほとんどは五所川原産と考えられる。大麻3遺跡では、現在の大阪堺市で日本で最初に作られた頃のものと考えられる破片が発見されている。」

以上「」内は、「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3 より引用…

これが北海道での主な土器識別と土器変容。
そう言えば、古い考古学雑誌らで河野博士らは続縄文の土器を「薄手式土器」とか表現していたが、その初期「恵山式土器」をして、「弥生土器の影響」で薄い土器が作られる様になったと判断している様だ。
興味深いのは「大麻3遺跡」の堺で作られた最古級の須恵器。
5世紀の古墳期のものが、最早江別に伝わっていると言う。
まぁ…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
白老「アヨロ遺跡」の井戸様遺構も、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/02/163712
余市「大川遺跡」の弥生式土器弥生文化との接触痕跡も、何の違和感は無いと言う事だ。
弥生文化が無いのではない。
弥生文化の影響や接触の果てに、恵山文化他が生まれた事を示唆していると言う事。
更に、先にたまたまSNS上で話題にしていたのだが…
恵山文化の「元江別1遺跡」の副葬だか、琥珀玉(大陸由来と考えている模様)と共に「碧玉管玉」も一緒に副葬される墳墓があるが…

「前略〜色は濃緑色をしています。玉の作りは精巧で、水準の高い制作技術をもった人々によって作られたことがうかがえます。これら管玉に使われた碧玉は、佐渡猿八産といわれており、本州からもたらされたことを示す出土品のひとつです。」

恵山文化の道具 −重要文化財北海道元江別1遺跡土壙墓出土品−」 江別市教育委員会 平成12.3.1 より引用…

これについては、同様のものが余市「大川遺跡」「入船遺跡」でも検出され、

「結論
今回分析を行った入船遺跡の遺構外出土の管玉1個の蛍光X線・ESRの両分析による総合判定では佐渡猿八三碧玉と同定され、余市町では佐渡産碧玉は、大川遺跡の管玉10・17・18・20・21に使用されていることは明らかになっていて、これで余市町では佐渡猿八産原石を使用した管玉は合計6個発見されたことになる。したがって、佐渡との交流がより確かであったと推定しても産地分析の結果と矛盾しない。」

「1995年度余市入船遺跡発掘調査概報 −余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅶ−」 余市町教育委員会 1996.3 より引用…

と…
続縄文期の遺物でも堺や佐渡との行き来の痕跡も特定され、続縄文土器が弥生期や古墳期の本州の影響を受けて成立したとしても、全く矛盾はしないと指摘している。
まぁその段階では弥生文化の特徴「大規模水田」が寒い気候故に、栽培技術まで伝播せず、土器らの特徴のみ影響を受けた…でも説明出来るのではないか?
と言う訳で、各教育委員会発行の文書の断片だけでも、この位は学べる。
そりゃそうだ。
縄文期で既に道南〜北東北では「円筒土器文化圏」を形成し、その最終バージョンが「亀ヶ岡文化」。
先時代からの流れを考えたら、別にどうと言う事もないだろう。
既に縄文の先祖達にとって津軽海峡は「デカい塩っぱい川」に過ぎなかったのだから。
ざっと、以上である。
書いてある。
どこをとっても、本州の影響は帯びているし、交流痕跡もある。
北海道の文化が全く独立して変遷していたなんて事実は無さそうだ。
大陸文化と言っても、むしろ上記日本書紀斉明天皇六年の条では、粛慎が攻撃して来ると阿倍比羅夫に助けを求めている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154
W/Wの人口の動き,文化変遷と重ね合わせても、あまり矛盾はないだろう。
なら、阿倍比羅夫の北進は迫りくる粛慎に対する最強の援軍とも言えるのではないか?。
考古学と文献史学が割と合致しそうだが。
つまり、考古学やろうが文献史学をやろうが、北海道の研究者はこの程度知っている。
必ずぶち当たるから。


これら「擦文文化の意義」は概ね、専門書を読まずとも、博物館,資料館巡りと、そこで出している出版物、各道市町村史「だけ」でも十二分に学ぶ事は可能。
わざわざ、小難しく書いてある論文集や市販書籍でなくても理解可能な範疇。
だから我々は言ってきた。
「博物館,資料館へ行こう、親子で学んでみよう」…と。





参考文献:

「江別古墳群 −石狩平野を望む北の古墳−」
江別市教育委員会 平成10.2.1

「江別ガイドブックシリーズⅴ 江別の遺跡をめぐる」 江別市教育委員会 2010.3

恵山文化の道具 −重要文化財北海道元江別1遺跡土壙墓出土品−」 江別市教育委員会 平成12.3.1

「1995年度余市入船遺跡発掘調査概報 −余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅶ−」 余市町教育委員会 1996.3