北海道には文字がある続報4…ホットスポット余市の「識字率の物証」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651

前項に引き続き、余市町「大川遺跡」の発掘調査概報から、文字に関連する部分を見てみよう。

「今年度検出された竪穴住居跡は合計37軒(2頁)で、総て擦文期(図5)のものである。」

「竪穴住居跡の出土遺物として特筆すべきは、鉄製品と刻書・墨書土器である。」

「一方、刻書・墨書土器は、今年度4点出土し、これまでのところ計10となった。図47-1・7・10のみが竪穴伴出土器のようであり、他は覆土遺物等である。図47に全点を示した。概ね9世紀~10世紀のものとみられる。」
(筆者註:1…刻書の「夷?」、7…墨書の「七」、10…刻書の「大刀」、その他は墨書の「大」,「奉?又は夷?」,「七」)

「1993年度の美々8遺跡における調査によって、9世紀前後の「元」とみられる墨書土師器の坏が1点出土(註5)した。既に、美々8遺跡からは、1992年に内外黒色土器(註6)の壺も出土しており、両資料ともかかわって、大川遺跡との関連が一層現実味をおびて来たようである。」

「これら刻書・墨書土器の示す意味は、単に出羽国から文字の印された容器が持ち込まれて来たというのではなく、この北海道には既に、少ないとはいえ識字率の存在したことの物的証拠である、といっても過言ではない。年代は、それぞれ若干前後するが、1989年度出土の銙帯金具や1989・90年度出土の大量の炭化米他の資料も、それを裏づける証左といえよう。」

「1993年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業にともなう埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅴ-」 余市町教育委員会 1994年3月 「Ⅲ結び a小括」 より引用…

この様に、「大川遺跡」の刻書・墨書土器においては、「文字がある」処か「低いながらの識字率の物証」として、捉えている。

実際、この「大川遺跡」は、縄文~アイノ文化期までの複合遺跡。
筆者は、全ての報告書を確認出来ていないので、全貌は「解らない」が、時代背景を跨いで出土している物もあるらしく(遺物に対し質問入れたが、時代特定不明の報告有りと聞いている)、新古時代で混ざったりしている部分が多いのだろう。
が、刻書・墨書土器の幾つかは、竪穴住居跡の出土遺物…

ここで考察してみよう。
北海道の「先史時代」(新北海道史による)たる擦文期では、低いながら識字率があり、古代~近世でそれを失う…
ここの時点で既に異常なのだ。
後の時代と整合すれば…

①文字が無くなる程の文化大転換が起こる
②そもそも擦文人は「後のアイノ」と全く関係が無い
蝦夷は「後のアイノ」を含み、「後のアイノ」以外が文字を駆使出来た…

こんな推定になってくるのでは?
前述の通り、「大川遺跡」は時代が跨いでおり、何か文化の大転換有らば残るハズ。
が、それは見当たらないようなので、①は除外される。
更に、「文化は高い所から低い所へ移行する」法則に準えば、①が除外される以上「文字」を失う自体、論理破綻しているとしか考えられなくなる。
百歩譲り、仮に文化大転換を起こす何かが起こっていたとしても、地政学上「港」を簡単に放棄するとは有り得ず、奪還等で更に戦乱等の痕跡を必要としてくる。

なら、導き出される答えは?
擦文期前後に於いては②か③しか有り得ない事になる。
つまり、後のアイノ文化を持つ人々とは違う、「文字文化」を持つ人々、又は「文字文化」を持つ者に率いられる人々…それが「擦文文化人」と言う事だ。
近世アイノ文化人に至っては、長らすら「文字文化」を持っていなかった…ずっと東北、いや都とすらコンタクトを持っていたにも関わらずだ。
ミッシングリンクだの、オホーツク文化人を混ぜ混んでみようが誤魔化せない。
「文字文化」や「北海道~東北の関連史」の視点で考察すれば、これが現状考えられる現実だ。
この小括については、この年度概報でも、あとがきでは何ら触れてはいない。
何故、この様なセンセーショナルな話題を取り上げないのか?不思議でならない。

こんな断片だけ見ても、十分意味深い場所。
更に「茂入山の石垣」…
余市町は東のホットスポットなのだ。
ただ、古代~中世の解析が現状進んでいる様にも見えないが。北海道の歴史を紐解ける場所であるにも関わらず…



参考文献:
「1993年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業にともなう埋蔵文化財発掘調査の概要Ⅴ-」 余市町教育委員会 1994年3月 「Ⅲ結び a小括」