時系列上の矛盾&生きていた証、続報22…札幌「サクシュコトニ川遺跡」に見える「製鉄失敗」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/115246
「時系列上の矛盾」として、発掘調査報告書の記事を引用しているが、何の目論見もなくやっている訳ではない。
記事の中には、あまりクローズアップされていない内容や、隠れている部分もある。
フィールドワークを旨とする我々グループではあるが、ポンポン行ける訳でもない。
北海道も東北も広い。カバーする為には、詳細が必要だと言う事。

「サクシュコトニ川遺跡」をご存知だろうか?
北大構内,近辺には、擦紋期を中心とした遺跡群がある。その中心的存在。
何せ、ここの発掘から、擦紋期の概念が変わってきたのは事実。
その発掘調査報告書を入手出来たが、その中でも、あまり語られていない記事をまず第一に紹介したい。
ズバリ「製鉄」に関する内容。
まずは、こちらが関連するので見て戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/11/184237
引用は、内容を理解し易い様に、筆者が順番を入れ換えるのでご容赦戴きたい。


「鉄滓は、固形のものと粉末状のものが合計10点、遺構内外から出土した。」

「この物質は~中略~縦8cm、最大幅約5cm、厚さ1.5-2cm程度の大きさである。表面は赤褐色で凸凹があり、至るところに気泡の凝固したあとが見られる。」

「マイクロトームを用いて図のように切断したところ、黒色の光沢をもつ面が得られた。しかし金属の存在を示す独特の光沢は認められなかった。」

「顕微鏡による観察からは、つぎのようなことが推定される。
①この物質は、鉄の精練の際に生じたスラグであって、鉄器ではない。
②溶けかけたスラグが認められることから、この物質が生成した時の温度は1200度あるいはそれ以下と推定される。
マグネタイトは、空気中ではこのような低い温度では生成しないことから、一応還元的な雰囲気で処理したときに生じたものと思われる。
④しかし、マグネタイトよりもさらに酸素原子数の少ないウスタイトや金属鉄は認められられないので、還元的雰囲気は完全とはいえず、密閉性の悪い、比較的簡単な炉の中で生成したものであることが推定される。」

「(筆者註:焼土24内の遺物)固形の鉄滓(遺物番号2735,2737,2802,3006)4点と粉末状の鉄滓が出土した。焼土からの出土例は他にない。」


「サクシュコトニ川遺跡 北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原始的農耕集落」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61年3月20日 より引用…

鉄滓(スラグ)とは、製鉄や鍛治作業を行った時の取り出した鉄の「滓(カス)」の部分。
その量や形態,組成で、製鉄のどの工程か?原材料に何を使ったか?どんな精度か?おおよそ解る。
焼土24の遺物にある様に、多様な鉄滓が出土していた訳だ。

この検証段階では顕微鏡により、鉄滓と思われるものの観察をしている。この組織観察は、1号住居跡(住居跡は五棟検出)から出土した鉄滓。
他にふいご羽口が二点も出土しており、鉄精練にtryした形跡と考えられる。

ただ、組織観察結果から見る限りでは、温度不足や密閉度が悪く還元的雰囲気が完全に作れない理由で、精練に失敗したのだろう。
(製鉄は、原材料から不純物を取り去り、更に純酸化鉄から酸素を取り去り、鉄を精練する)
勿論、恐らくこの後エックス線や化学分析もしたとは思われるが、結果的にはこの遺跡も含めて、製鉄には成功した形跡は今のところ無く、本州から買っていたが事実。
多分、ほんの少しの何か、何かが足りなかった為に失敗に至ったと考えられる。

ただ、このブログ、特に「生きていた証」シリーズで連呼しているが、こういう技術や職工の世界こそ、天と地程の誤魔化し様の無い差を表していく。
故に、歴史的真実を追い求めるなら、避けて通れないプロセスだと考える。
何故なら、自在に製鉄や鍛治が出来なければ、完全な鉄器文化を持つとは言えないからだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/09/054921
東北では、製鉄(精練)も鍛治も郷単位で可能なので、鉄器そのものが残るハズも無い。
カスタムメイドでどんどん再生されていく。
そう、鉄器文化は、作る事とメンテナンスする事と使う事が一体setだと言える。
技術伝播は、それほど難しい。
現代でも、先端技術を持つか持たぬかで、国家経済にまで影響しているのはご存知だろう。
他の産業、例えば…
農業なら、鍬先や斧,鎌へ。
漁業なら、釣り針や鈎針(マレブ)や真切り包丁へ。
その効率や産業形態へ多大な影響を及ぼす。

机上「だけ」で勉強する方には理解出来ないだろう。
穴を掘れば水が湧くだろう…
熱すれば還元するだろう…
種をばら蒔けば芽を出すだろう…
生きた技術や産業の世界は、そんな甘い話ではない。
現代それらが普通にあるのは、先人が報告書にあるような失敗や苦労をしてきた上に成り立つのだから。
「工場見学」と言う名のフィールドワークをしてみれば良い。
そんな簡単なら、学者も技術者も要りません。

さて、擦紋期の遺跡には、ふいご羽口は出土している…つまり、蝦夷衆は最低でも鍛治を行ったと言える。
東北では、平安の遺跡ではあちこち製鉄遺構が残されており、それを押さえていたのは、近隣を治める土豪達と考えられている。
それらが豪族の元に束ねられ、国司や後の守護大名と関係を持ち、郷から国へ纏め上げられていた。
勿論、北海道でも同様だろう。
近世アイノでも、乙名の元に束ねられられていた。
が、まるっきり古代~中世遺跡で出土する、技術を持ち周辺を纏め上げた土豪の形跡が全く消えている。
むしろ、疑問なのはそれだ。

中世でも良い。
数少ない戦国の状況でも北海道は、大殿である安東舜季,愛季の元で、
渡島半島…蠣崎氏
西蝦夷地…ハシタイン一党
蝦夷地…チコモタイン一党
トロイカ体制で統治されていた様に見えないだろうか?
こんな体制が確立されていたなら、西,東蝦夷衆の元には、技術を持った土豪が居ても当然なのだ。
少なくとも、擦紋遺跡から推察すれば、そんな流れになるは当然。
が、近世の姿、1700年以降から見えるのは、そんな流れはまるで感じられずバラバラ。
本来なら、乙名の系譜から追って行けば解って来るだろうが、そんな作業すら見た事も無い。
おかしいのだ。
シャクシャインの乱だけで済む様な単純な話では無い。

製鉄技術の伝播だけでも、現在語られる北海道史は大きく矛盾している。
文化伝承がまるっきり切れるのだ。

解って戴けただろうか?
文化伝承はそれほどに深い。