時系列上の矛盾…平取町「亜別遺跡」出土の「銅椀」と仏教の関連と言う視点

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/16/200026
これを前項としてみよう。
アイノ文化の聖地として平取町が上げられる事があるが、少々意地悪な視点から敢えて見てみよう。
「亜別遺跡」である。
沙流川に注ぐ亜別川右岸の低位段丘に孤立する独立段丘に立地、アベツチャシ跡が背後に有る様だ。
何故にこの発掘調査報告書を?
以前、SNS上で「佐波理の銅椀」と言うのを聞いたから。
銅系の合金…
青銅…銅(Cu)+錫(Sh)
真鍮…銅(Cu)+亜鉛(Zn)
佐波理…銅(Cu)+錫(Sh)+銀(Ag)や鉛(Pb)らを少量
特に佐波理は朝鮮半島系からと言われ、食器らに使われたと言う。
北海道でも幾つか検出されていると言う。
それで興味を持った訳だ。

では、基本層序から。
Ⅰ層…黒色シルト、10cm程度、表土
Ⅱ層…Ta-b火山灰、20cm程度で丘陵で薄く
Ⅲ層…黒褐色、10cm程度で、上面がアイノ文化、中間に擦文,下層に続縄文遺物。
Ⅳ層…褐色系シルトでa、bに分かれる。計30cm程度。縄文遺物。
Ⅴ層…黄褐色粘土。

では、気になる部分を引用してみよう。

「青銅製椀(図Ⅳ-18-27・28、図版27) 調査区境界のF-7区より一括出土した擦文土器(図Ⅳ-1)と共伴した。破片数は118点。全重量は10.8gに及ぶ。本来は1個体と思われ、口縁部から丸底の底部まで出土しているが胴体部以下は明瞭に区別がつかない。口縁部は図示した2点のみ出土している。27・28とも口唇部は内側に織り込まれ最大厚はそれぞれ0.1cm、0.08cmを測るが、底部にかけて次第に薄く整形されている。整形はロクロ引きによる。同様の遺物は、平成6年度に調査した平取町カンカン2遺跡(森岡 1996)でも出土している。」

「図Ⅳ-11-2-3、図Ⅳ-11-251、252は、一度強く外反して内湾気味に開く口縁部と口頸部の幅広い複段紋様が特徴で、宇田川編年(宇田川 1980)で言えば擦文中期の後半に相当するかと考えられる。」

アイヌ文化期以前の金属製品と特定てきるものは、図Ⅳ-18-27・28の青銅製椀がある。全て遺構外外であるものの、1個体出土した擦文土器一括と同地点、同レベルからの検出であった。平取町内ではカンカン2遺跡の周溝盛土遺構(X-1)出土遺物に類例があり、同遺構の伴出土器との比較から、同時期もしくは近接する時期の所産と推定される。」

「亜別遺跡-一般国道237号平取町平取バイパス改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 平取町教育委員会 2000年3月 より引用…

以上の通り。
何らかの遺構に伴い出土した訳では無いが、同一地点,同レベルで擦文中期後半の擦文土器と一緒にこの青銅製椀は出土した訳だ。
この土器編年経過が正しければ、平安時代の物となる。

気になるのは、轆轤曳き…
と言うのも、ググったレベルではこの位の時期の記述では、割と鋳物(溶かして型に流し込み作る)で、あまり轆轤で削る?曲げる?等で製作したイメージが無かった為。
どうやってお椀の材料を固定したのか?
どうやって削った?曲げたのか?
厚さは約1㎜なのだから。
この辺は、我々の毎度ではあるが、後で「加工技術史」を追ってみたいと考える。


さて、下記もちょっと確認戴ければ。
同様に金属製品である。

「331-1は仏具である銅製の六器で、本来は椀と皿からなるが椀のみ出土した。底部は残っておらず、意図的に打ち欠かれた可能性がある。装飾は口縁部に沈線が三条めぐるのみで簡素である。」

「洲崎遺跡-県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12年3月 より引用…

これで厚さは概ね1.5㎜。
六器とは…
密教系仏具で、香炉を中心に左右それぞれ3つ毎並べ、仏像へ供物を供える為の器の事だそうで。
元々銅椀の用途は仏具で、それを公家らが食器として広まったようだが、銅で作るのだから、普通の人は手に入らぬ高級品。
そりゃそうなのだ。
古い時代の朝鮮半島系だとしても、百済新羅らは仏教系。
大陸でも唐も渤海も仏教国家。
勿論、朝廷も仏教擁護…国際状況を鑑みれば、仏具と疑って然るべし。
だが、仏教系に関する記述は何もない。
何故だ?
勿論、筆者も仏具と断定はムリだが、普通に疑う…仏教との関連を。
擦文文化期には、有珠善光寺の寺伝や厚真の経壷ら、それらしい物はあるのだから。
仮に、これら「北海道における佐波理ら銅椀」が六器なのであれば、擦文文化を持つ人々は仏教を知っていた事になる。
出土状況も洲崎遺跡の様に底部を抜くなり廃絶儀礼を行った結果であれば、バラバラになって出土したのも頷ける。

仮に食器だとしても、東北には当時百済王氏が秋田城に派遣された事があるのは、木簡らで確認される。
更に続縄文期相当で「日本で初めて砂金を採った」のは百済王慶福。
その末裔が北海道に渡ったとしたら?、その目的は砂金探索と言うオマケ付きも想定し得る訳だ。
我々的にはどちらでも、真実のみ有れば良しなのだ。


さて、どうだろう?
擦文文化期に仏教が伝来していれば、都合が悪いのであろうか?
それらしい痕跡はあるのだが。
ブログを読んで戴いた方々も少しずつイメージが変わって来たかと思う。
少なくとも擦文文化人とは、こんな人々なのだ。
行き来が続いていた限り、仏教を知る擦文文化人は、仏教を知らないアイノ文化人の担い手には成り得なくなってくる訳だ。


我々の目的の一つは「既成概念の破壊」である。
思い込みの決め付けが目を曇らせる。
多視点での検討が必要。
我々はたまたま北海道~東北の繋がりから見ているだけの事。
北海道の博物館や資料館でも、仏教が何時から?そんな視点で見てみる所も出て来ても良い様なものだが。
それを聞かぬのが不思議でならない。



参考文献:

「亜別遺跡-一般国道237号平取町平取バイパス改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 平取町教育委員会 2000年3月

「洲崎遺跡-県営ほ場整備事業(浜井川地区)に係る埋蔵文化財発掘調査報告書-」 秋田県埋蔵文化財センター 平成12年3月